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善知鳥神社
青森駅から歩いて十分。よほどの繁華街のはずなのに忘れられたような趣でこの古社は建っている。目抜き通りからはうまく外れている。境内を歩き回って気になったのはやはり周りの池。
2024.04.09
岩座
【神社百選】岩木山神社
岩木山は1,625m。津軽富士といわれる秀麗な山で山頂が山の字型に三つに分かれ、神社の鳥居の上にそびえている。津軽の人でお山に登った事の無い人はおるまい。成人の条件のように言われ、旧暦八月一日のお山参詣は津軽の人にとって欠かせない年中行事である。村ごとにチームを組んで普段から囃子を練習し、それぞれの村の中の河原に小屋を建て川で禊ぎをしたり一週間はお籠りをしてつみ穢れを清めた。そして村から歩いて行列し、神社の近くまで来て道行の演奏をしながら神社に入る。祈祷を受けてから広場でいくつもの輪を作ってまた演奏する。一つのグループでも両面太鼓だけで十台、鉦が十台、笛が三、四人とおおがかりだ。そしていつのまにかその周りに踊りの輪が加わる。
2023.07.24
岩座
【神社百選】出羽三山神社
御祭神月山神社ツクヨミノミコト湯殿山神社オオヤマズミノミコトスクナヒコナノミコトオオナムチノミコト出羽神社 イデハノカミ・ウガノミタマノミコト創建33代推古天皇の御世(593年)、父祟峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、身の危険を感じた蜂子皇子は一族郎党と共に丹波の由良の湊から船出して北上、東北に航海し、山形由良の湊で八人の乙女に手招かれて上陸。三本足の大烏に案内されて羽黒山の阿古谷へたどりつく。そこで皇子は修行を積み、稲作を教え羽黒山、月山、湯殿山の順に開山し、羽黒派修験道を開いた。蜂子皇子は醜悪な顔をしていたと伝えられ、江戸初期に描かれた肖像画でも口が耳まで裂け、目玉のむきだした表情になっている。
2023.06.16
岩座
【神社百選】早池峰神社
これは現宮司山陰幸三氏の記した「早池峯神社社記」によるものだが、藤原鎌足の後裔実房の子山陰兵部は麓の大迫郷に戻ると、この話を里人らに話し里の真ん中に社を作り真中大明神と崇めた。そして残雪も消えると遠野の藤蔵と共に山頂に社を建立し、瀬織津姫を勧進して東根嶽大明神と崇め奉った。これが早池峯神社の奥宮の創建となった。修験道との習合は直接には正安二年(一三〇〇)に越後から来た円性阿闇梨と言う僧が諸国行脚の途上この山に登り、天下にまれなる霊地と見て、かつて岳川の上流の川原にあった坊を岳の部落に再建し、十一面観音を勧進して早池峯大権現として崇敬した。境内に真言宗妙泉寺を置き、明治になるまで修験道を中心にした神仏習合の信仰が行われた。集落の家々もほとんどが修験僧の宿坊を兼ねた。セオリツヒメというのはイザナギノミコトの黄泉の国からの帰り、ミソギをしたときに現れた姫でアマテラスオオカミと同時代である。記紀では薄い記述しかないがヲシテ文書では詳しく、男神アマテルの十二人の妃の中の正妻でホノコとも呼ばれ、嫉妬に狂う他の妻たちの策略を最後は許したという優しい女性として現れる。天の岩戸事件のころの女神だという。
2023.04.01
岩座
【神社百選】氷上神社
蝦夷と言われた先住民はアイヌ語を使っていた。いつしか稲作を学び租庸調を納めた民は和語を話して和人となり、嫌がる人は追われてこれまでと同様、北へ北へと逃げた。氷上山は陸前高田の町の背後にそびえて漁師たちの座標になる山。ふもとの神社の本殿前からは水と砂金が出る。砂金の出たところに建てたのか。金は鉄と共に蝦夷地の特産だった。氷上山の西のふもとの玉山からは金が大量に出て平泉の建築におおいに貢献した。氷上神社はアイヌの神々を祀っている日本で唯一の神社である。ヒカミ神社はヒタカミがなまった言葉と言う説がある。ヒタカミ(日高見)とは縄文時代から東日本に存在した豊かな国でヲシテ文献(注2)などでは既定の事実として、その名を伝えているが、蝦夷との関係などが明確ではない。北上の地名もヒタカミの変化だと言う。大船渡の尾崎神社もリクコタ神社と言われ、そこの御神宝にはアイヌの木製の「削りかけ」、イナウが木箱に大事に保管されている。また唐桑半島の突端にある御崎神社は別名日高見神社であった。現在は御崎神社に変っている。
2023.03.06
岩座
【神社百選】室根神社
まつろわぬ民、蝦夷の住民に対処するため、多賀城の鎮守府将軍が紀州の熊野本宮から御祭神を勧進した。朝廷も応援して数百人の供奉者が付き添い、東海、伊豆、関東、九十九里牡鹿半島と五ヶ月も掛けて渡ってきた。気仙沼舞根に仮宮、瀬織津姫神社が設けられ、ついで蝦夷の酋長がヤマトタケルに埋められたという鬼首山に本宮社殿が建てられた。そして牟婁峯山(室根山)と名前が変えられた。室根山は高さ八百九十五mあり、気仙沼の海上からも一望出来るので、陸前高田の氷上山、大船渡奥の五葉山と並んで、海上からの目標になった山である。八合目に古さびた室根神社があり本宮と新宮が並び、頂上附近にはつつじの山と各種の電波塔が立っている。
2023.02.14
岩座
【神社百選】鹽竈神社
塩竈市は仙台藩の海への出入り口として水産業で栄えた。今でもマグロの陸揚げは日本一を誇っているし、かまぼこ製造などが盛んな街である。鹽竈神社はこの港の要として陸奥国一ノ宮として有名である。車で二十分足らずで海沿いに松島も近く、近世の屏風図などでも松島と並べている図が多い。釜と簡便に書くとナベカマのカマになって火に直接あてがう煮物入れだが、神社のカマはかまどの意味であって火をおこす設備なのだ。「竈」と言う。難しい字で市役所のホームページで書き方を教えているほどだ。
2022.11.15
岩座
【神社百選】刈田嶺神社
神社から近い白石川に十一月の今日も白鳥が来ているという。もう夕方近かったので挨拶もそこそこに車で飛び出す。国道を突っ切って直ぐ右折すると河原沿いの道になり、川の水上をならんで飛んでいく白い鳥が見えた。白鳥だ。数多い鴨に混じり白とやや灰色(幼鳥)の首長の白鳥がざっと四十羽ほども川面にいた。長い首の動作がいかにも女っぽい。やや暗いかなと思いながら夢中でファインダーでのぞくと意外とその白さが浮かび上がるのがわかった。夕方だからかえって印象的な風景になる。しかし白鳥はどうしてこうも人の心をとらえて来たのだろうか。渡り鳥だからじゃない?と妻が云った。
2022.09.01
岩座
【神社百選】貫前神社
フツヌシノカミは物部氏の氏神であり、タケミカヅチノカミとともに出雲にあらわれたアマテラスオオミカミの使者である。戦闘にたけた物部氏はここでは物部の磯部と名乗り、地元の蓬が丘綾女谷に氏神をおまつりした。ヒメオオカミはここ綾女の庄の水神と養蚕と機織りの女神といわれている。上毛野国(現在の群馬県)の一宮とされているが、かつては赤城山の赤城神社が一宮であった。
2022.08.26
岩座
【神社百選】金華山小金山神社
金華山島は牡鹿半島から離れて東側にある。半島先端の、最寄の鮎川港の前には見えない。港の後ろの御番所公園に登るとすぐ真下に現れる。聖武天皇が東大寺の大仏を建立しようとしていた時、奥州から吉報が入った。陸奥の山から金が出たというのである。陸奥の守として派遣されていた百済の王(コニキシ)敬福が砂金を九百両分も天皇に献上した。天皇はおおいに喜び年号を天平勝宝と変えたぐらいだ。大伴家持も歌をうたってこのことを祝った。
2022.08.08
岩座
【神社百選】伊佐須美神社
明治三十年(一八九七)に再建されていた旧社殿はこうして平成二十年に焼け落ちた。普段火の気の無いところに出火しており、この火事は早くから放火説も出ていた。同じ十月の三日にも不審火が出ていたのである。警察の必死の捜索にも及ばず今のところ犯人は捕まっていない。しかし会津盆地の多くの人々の氏神であり精神的な支柱になっていた歴史のある神社だから早い再建が望まれている。
2022.07.09
岩座
【神社百選】石都々古和気神社
イワツツコワケ神社という。境内には勾玉岩、鏡岩、亀石、天狗岩、船形岩、ヒモロギ石などの名のついた巨岩がばらばらに並んでいる。神社の国道に面した正面の門は両側の建物に挟まれて息苦しい。社務所はちょっと離れて同じ国道沿いにある。路地に旗指物が並んでいるのが目印。神社の正面の門の側に立派な石の獅子二頭が目立つ。ちょっと面白い動態をしている。入り口の右側に由緒書があり、それによると神社の北側に中世の城跡があり、源氏の石川有光という武士が築城したと伝えられている。永承六年(一〇五一)陸奥の俘囚(捕虜)の長、安倍頼時が反乱した前九年の役が起きた。源頼義、義家にしたがって源有光も父と共に参戦し、勝利ののち功によって、この土地を得て山城を作り、姓を石川と変え隣には源氏の氏神、石清水八幡から勧進して八幡社を建てた。したがって、近在の人はこの神社を単に八幡さんと呼ぶ人も多い。
2022.05.31
【神社百選】箱根神宮
箱根神社の本殿向かって右の位置に九頭龍神社の新宮がある。平成十一年(二〇〇〇)に湖畔から分祀したもの。旧社は湖の奥「九頭龍の森」の敷地内にあった。新宮の建立で便利になったせいか、縁結びに良いと参拝客が大幅に増えた。
天平宝字元年(七五七年)神仏習合の神宮寺を各地に建てていた萬巻上人は連日連夜の読経をして毒龍と対決した。
「上人が発する霊波は、まともに毒龍の脳波を直撃し、必死の祈りは、楔のように打ち込まれた。萬巻上人の読経が功を奏したのか、怒涛逆巻き、天地も覆さんばかりの暴龍が、ものすごい勢いで天空に舞い上がり、上人を目掛けたけれども、もんどりうってひっくり返った。のた打ち回ってもがき苦しみ、なおも暴れたけれども、やがて心も根も尽き果
2022.04.25
岩座
【神社百選】雷電神社
本殿の三面の壁はまるで絵画館だ。今を去る江戸時代天保六年〈一八三五〉に造営された本殿は当時の流行を反映し豪華な壁画が描かれ彫られた。十代左甚五郎こと石原常八の作品と言われ、参拝人はそのきらびやかな彫刻をめぐって歩くことになる。ひとつひとつの絵を確かめながらお参りすると童話の世界を一巡したような気になる。昭和五十九年に県の重要文化財に指定され、三年かけて色彩の再塗装などの大掛かりな改築工事が行われた。
2022.03.21
岩座
【神社百選】明治神宮
明治天皇が明治四十五年七月三十日に崩御されたあと国民の多くは深い喪失感に襲われた。
年配の人達は自分たちの青春もまた失ったように感じた。
乃木将軍のように殉死する人も現れたくらいだ。
また皇太后も大正三年には後を追うように崩御され、国民の間にはお二人をしのんで神社を造ろうという気運が急速に高まった。
国会の決議の後、神宮奉祀調査会が準備機関として立ち上げられた。
2022.01.31
岩座
【神社百選】篠原八幡神社
篠原八幡神社は新横浜駅南の岡の頂上にある。以前は田んぼと畑にかこまれて林も多く、うっそうとした森にはふくろうやうさぎ、きじ、狸、カブトムシが隠れ住み、夜には怖いほどの静寂(せいじゃく)がおおっていた。ふもとのほうには小さい谷があり清水があちこちで湧きホタルのいる小川があった。小川には大根やネギを洗う「タネ」という水場がどの農家にもこしらえてあった。
昭和三十年代から開発が進み、川崎の日本鋼管などの重工業から空気汚染が及んできてまず森の中の古い大きな松、杉、などがいっぺんに枯れ始めた。御神木(ごしんぼく)の赤ガシもじりじりと弱り始めた。昭和三十九年新幹線と新横浜駅が出来てから丘の上まで新興住宅がひしめき登りあい始め、戦後わずか千五百所帯の農家だった氏子が、今はもう隙間無く開発され、サラリーマンばかり四万所帯になる。このうち祭りの寄付金などを協力してくれる実質の氏子は一万八千所帯しかない。
鎮守(ちんじゅ)の森もじわじわと周辺から削られて不動産投機の対象にさえなった。平成十七年まで森の一部だった社の北面が開削されて木々も伐採された。地主は氏子だったはずだが、亡くなったらしくその息子は森で遊んだ事も無かったのだろうか、固定資産税対策に一気に宅地を造成して販売する計画を立てたらしい。この時点で神社に通知なり相談なりがあれば買取も可能だったらしいが、所有者はそのような手続きもせず勝手に造成を強行し、先祖が共同で大事にしてきた神社の森と土地を、現代の所有権が自分に有ると言うだけの理由で惜しげもなくブルトーザーで破壊しそこに十二軒の一戸建てを作って販売し利益を得たのである。ここで私有権という観念で、昔の神社の森の役割と先祖の受けた恩恵を無視して宅地造成されることに非常に矛盾を感ずる。神社と言う、かって共同で維持してきた財産に対してはもっと保護されるべきではないだろうか。鎮守の森が神社の所有になっていないなどの法の無整備も問題である。
今やまわりはコンクリートの道路とブロック塀のみだが、鳥居を出るとすぐ右手にはななめに富士山が仰がれ、その鳥居も朝日を真っ直ぐ受けるので美しい。今はやっと拝殿と参道とその周りの森を残すだけ。しかし本殿の裏には赤ガシの雌雄二本の古木が御神木として注連縄(しめなわ)を張られて鎮座(ちんざ)している。今は公害のため栄養剤など
を与えて養生していると言う。鳥居の側にもケヤキの御神木がある。
それでもなおも地元の新興住宅街の人々からは一息つける空間として親しまれている。正月の元日は大晦日の零時から参拝客の行列が絶えることがない。境内の舞台では里神楽が、現在は東京芸大の学生チームによって演じられている。「おたきあげ」と言われる焚き火には参拝客たちが旧年のお札やお守りなどを持参し燃やしていく。煙に手を当てながら火にあぶられて新年の気分を味わうのである。境内にはお清めのお神酒も売っているし新年の破魔矢(はまや)やお札などのお守りもあり、参道の外まで行列が出来て昔変わらぬ正月風景である。実は神社にとってはこの日が年間収入のほとんどだそうである。水谷宮司によれば日本の神社のうち神社だけで経済的にやっていけるところは二割しかないと言う。
夏祭りの寄付金等は必要最小限だそうだ。夏祭りは八月の下旬の土日に行われ舞台を使って地元の自治会がカラオケやかくし芸等演芸大会をやる。あとは年末の休日に有志の民俗舞踊チームが合同で自発的に「魂鎮(たましずめ)」と称して境内で公演している。
そして冬至前後の休日には地元のボランティア団体が「日の出を見る会」を開催しおかゆやおしるこを提供している。
2021.12.28
岩座
【神社百選】氷川女体神社
大きな湖沼が関東にはいくつも残っていた。その代表が見沼で、今の川口から浦和、与野、大宮、上尾方面まで広がっていた。芦ノ湖の二倍以上の面積といわれる。龍が住んでいたという伝説もあり、氷川女体(ひかわにょたい)神社では毎年夏に見沼を横断して龍神祭(磐船祭<いわぶねさい>)を行ない、年々開拓によって小さくなっていく湖とその龍神との鎮魂(ちんこん)をしていた。五、六年前までは七月十四日に「祇園磐船祭」として、儀式をやっていたが、今は商工会議所の「龍神祭り」と合同し「祇園磐船龍神祭」(通称龍神祭)として五月四日に行なっている。
そもそも見沼には湖岸に三つの神社が一直線上に並んでいて湖の龍神を祀まつっていた。すなわち北から大宮氷川神社(スサノオノミコト)そして中間に中川氷川神社(御祭神はスサノオノミコトの子供のオオナムチノミコト)南の丘上には氷川女体神社(スサノオノミコトの妃のクシナダヒメノミコトを祀る)がそうである。
大宮の氷川神社の大小の池や舟遊び池と名づけられた池もかっての見沼の一部である。
氷川女体神社は湖に接した高台の上にあり見沼を展望できる位置にあった。
しかし八代将軍吉宗は見沼の大規模な埋め立てで、増大した江戸の人口を養う新田を一気に増やそうとする。計画通りに進めば龍神祭りを実行する水面さえ無くなろうとした。そうして氷川女体神社と工事代官旗本勘定方(はたもとかんじょうかた)井沢弥惣兵衛との必死の画策が始まった。前宮司の吉田しげのり氏が残した「見沼物語」(さいたま出版)にはこの代官が見沼の神様を祀っている神社に来て当時の宮司と語り合い、また宿泊までして、親しくこの見沼信仰を理解しようとした様子が伝承されている。
ある雨の夜、すすめられるままに代官は女体神社に宿り不思議な夢を見た。それは神武天皇の頃、第四皇女のククリヒメが湖の側で、毎日の日課のおこもりをしていると湖面で波立ち、ささーっといくつかのうねりが湖岸に押し寄せ龍形の蛇体(じゃたい)が湖上を渡って行くのが見えた。神の訪れであった。それからまもなく姫が神の御子を宿されたと噂になり、やがて姫は双子の女の子をお生みになった。先に生まれた方を妹とし、「多伎姫(たきひめ)」と名づけ、姉を「伊津姫(いつひめ)」と呼んだ。だがまだ若いうち、母は病を得て亡くなった。
娘達に残した最後の言葉は「夫と言うべき神はそれはそれは顔立ちの良い男らしい立派な方でした。私の可愛い子供よ。これから先は決して祭りを途絶えさせてはなりませんよ。見沼が永遠に続く限り、水はいっぱいにあふれ、ますます栄えていくでしょう。」というものでした。
2021.12.20
岩座
【神社百選】安房神社
この神水(しんすい)窟の入り口には四枚のシデ、つまり白い紙のイナズマがあり、洞窟の真ん中に一枚大きなヘイソク、いわば向かい合ったイナズマが立つ。奥には高さ一m の石壁が立ち。上が開いていて、さらに奥へ十五m 以上も続く溜(たま)り池が有る。そこの入り口には二枚のヘイソク。
ここから得られる神水は神社では毎年一月十四日の夕べから行われる置炭(おきすみ)・粥占神事(かゆうらしんじ)の時に使われる。すなわち正月に用いられた門松の松で火を起こして、神水でといだ粥(かゆ)を炊き、薪(まき)が燃え尽きる頃、おきを十二本(これを十二ヶ月とみなす)取り出して、それぞれの燃え具合によって一年の天候や作物ごとの収穫を占う。
この鍋にすのこ状に編んだ十二本の葦筒(あしづつ)を入れて一晩置き、十五日の朝、一本ずつ小刀で割って粥の入り具合や、つやにより、その年の農作物の豊凶を占うというのが「粥占神事(かゆうらしんじ)」で、十二個の置炭の焼け具合によって各月の天候を占うのが「置炭神事(おきすみしんじ)」。この占いは全国でも新潟の彌彦(やひこ)神社とここしか残っていないと言われている。
伝説によると神武(じんむ)天皇の命で天富命(アメノトミノミコト)は肥沃(ひよく)な土地を求めて、はじめ阿波(あわ)国(徳島)に上陸、そこに麻やカジ(紙の原料)を植えて開拓に力をいれ、さらに肥沃な土地を求めて阿波の忌部(いんべ)氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端の布良(めら)浜にいたり、男神山、女神山に先祖のアメノフトダマノミコト、アメノヒリトメノミコトをお祭りした。そして養老元年に近くの現在地に遷座(せんざ)された。
取材に行った日はちょうど参道の桜が満開で境内の植物相が奥行き深く感じられた。現在の安房神社の森はマキ、マテバシイ、クスノキ、イチョウ、ヒノキなどの古木が点在しどっしりした風格の有る神社になっている。本殿の側の銀杏のご神木は二股に分かれそこからチチノミ(乳房状の実)がぶら下がり注連縄(しめなわ)を張って祀(まつ)っている。根元も盛り上がり方が見事だ。また下の宮の正面前にはやはり注連縄を張った御神木のマキノキが有る。
2021.12.12
岩座
【神社百選】赤城神社
赤城(あかぎ)山は関東平野の北にそびえる壁である。平野の農業を左右する自然を支配する神として長く信仰の対象であった。神社も沢山あったが、中でも頂上(黒檜<くろび>山千八百二十八m)側の大沼・小沼は水源地でもあり、湖畔の大洞(だいどう)赤城神社、南麓の二宮(にのみや)赤城神社、そして中腹の三夜沢(みよさわ)の赤城神社はいずれも赤城信仰の中心社との誇りを持っていた。
大洞(だいどう)赤城神社は大沼のかつての島、小鳥が島に昭和四十五年に対岸から引越した。旧社の正面にあった地蔵岳がスキー場となったため、境内地に土砂が流れ込むようになり、総合的な判断で対岸に遷座(せんざ)した。はじめは島だったが農業用水の取水のため湖の水量が減り島が地続きになってしまった。荒廃(こうはい)した社殿も江戸時代に三回も落雷で本殿が焼けているので遷座の時にはコンクリートで改築された。
二宮(にのみや)赤城神社は大洞から南に下りてきて、その最も南にある前橋市二之宮町にあり、十一代垂仁(すいにん)天皇(紀元前二十九―後七十年)に創建されたと伝説がある。赤城山の沼を水源とする荒砥(あらと)川と粕川(かすかわ)に囲まれ、大室(おおむろ)の二子(ふたご)古墳など多くの古墳が近くに有り、豪族上毛野氏(カミツケノシ)の本拠地とされているところである。財政的には麓(ふもと)の方が豊かだったろうから赤城信仰も財源的には麓に助けられていた可能性がある。
三夜沢(みよさわ)の赤城神社は十代崇神(すじん)天皇の王子豊城入彦(とよきいりひこ)が蝦夷(えぞ)平定に派遣されて来て居たのを祀(まつ)る。あいかたのオオナムチノミコトは国つ神の代表である。正面鳥居の下にちょうど富士山が見えるようになっている。そして本殿の後方、少し離れた位置から見ると三百m高い位置に丸い尾根(おね)が見える。神社が海抜五七十mのところなので、八百七十m位の位置。そこの山稜の樹林の中には「櫃石(ひついし)」と呼ばれる磐座(いわくら)があり、年に一回四月三日に登拝祈祷(とうはいきとう)を欠かさないと言う。直径二・五mの黒っぽく丸みを帯びた磐座でかつては様々な祭祀(さいし)道具が見られたという。これが原始の赤城の祭祀遺跡であったと思われる。
2021.11.30
岩座
【神社百選】玉前神社
今では有名になった「上総裸(かずさはだか)祭り」の夜、浜から帰ってきた神輿(みこし)が安堵(あんど)して最後に三回巡る本殿回りの大事な小道。この道を「はだしの道」として、十年前当時の堀川宮司が靴ばかりを履いているお客に、境内の重要な地面をもっとじかに感じて欲しいと設置した。
玉前(たまさき)神社の御祭神タマヨリヒメノミコトは姉のトヨタマヒメノミコトとヤマサチヒコの子、ウガヤフキアエズノミコトの養育を任せられ、その子が成人するとその嫁さんになるという数奇な生き方をした。神武天皇はその二人の間に生まれたと言うから近親結婚の代表みたいなものである。
そして玉前神社の行事でもっとも重要な十二社祭りは「上総裸(かずさはだか)祭り」と言われこの神社の出自を教えてくれる。すなわちこの祭りに登場する十二社とは六つの神社から出される十二の御輿の事だが、すべて神武天皇にかかわる祖父、祖母、実母や実父、兄弟を祀っている。神武一族の神々と言ってよい。
おそらく神武東征のおりかその後、東北進出のさきがけとして、神武ゆかりの集団がこの上総地方に植民し、一年一度集結して氏素性(うじすじょう)を確認しあったものだろう。
九月十三日の十二社祭りはその関係神社六社が大集合して、大宮と若宮の二台ずつ御輿を海岸に出して砂浜を走る。上半身裸の若い男達は漁業の盛んだった戦前はふんどし姿だった。最近は胸から下を白で固め、ショートパンツの女性も加わって、御幣を背中に乗せた神馬(かみのうま)をはじめ七頭も参加してこの疾走に加わっている。
2021.09.27
【神社百選】一言主神社
そして奥に鎮まる本殿は「明神流れ作り」といい、壮麗(そうれい)な主屋根が長く左右に伸びた大屋根のうえに載り、今にも羽ばたくような勢いがある。境内の樹木の群れの古風なたたずまいもきっぱりしている。堂々たる古木が本殿の手前にもうしろにも大きな枝を伸ばす。ケヤキ、クス、ムク、スギが主役でいずれも数百年以上の樹齢のこずえの高い木ばかりだ。曲がりくねったスタジイの老木は焼けた中が空洞になっているが緑の若木を天に差し向けている。
陰暦十一月十三日、今の社殿のあるあたりに妖しい光が現れて、数夜のうちに雪の中に時ならぬ竹の子が生まれ、三つまたに分かれた珍しい竹に成長した。あまりに不思議なので村人が御祓(おはら)いをし、湯立ての神事をしてお伺いしたところ、一言主之神(ひとことぬしのかみ)が現れ、大和国葛城山(かつらぎやま)の東に居る神なり。この三又(みまた)の竹をもって永く契(ちぎ)りとせよといい、その地を神域として祀(まつ)るよう託宣(たくせん)が降りた。
2021.09.14
【神社百選】筑波山神社
関東地方の住民にとって筑波(つくば)山は東の地平線を飾る山。西の富士山と向かい合って親しまれている。おまけに高くは無いが乳房形の双峰で目を引きつける。この対照的な二つの山は伝説の種にもなっている。
常陸風土記によれば、昔々ミオヤノカミが関東を巡行なさったとき富士山の麓(ふもと)で日が暮れかかり、一夜の宿を乞われたところ富士の神は「今宵は新にいなめまつり嘗祭(収穫祭)でお泊めできません」と断られた。そこでミオヤノカミは怒って「お前が住む山は一年中寒く人々が飲食物を供えることも無いだろう」と罵った。
次に筑波山に登りまた宿を乞われた。筑波の神は「新嘗祭をやっていますが他ならぬミオヤノカミのお頼みです。お泊まりください」といって御馳走を出して歓待した。ミオヤノカミは喜んで「人々はこの山に集い祝い、飲食物は豊かであるだろう。千年も万年も永遠に遊楽が続くことだろう」とことほがれた。
そのとおりこの山は人々の集まり楽しむ山になった。歌垣は若い男女が集まって歌を掛け合い、春の到来を愛で、同時に農作物の豊作を祈って予祝する行事であった。万葉集の中に見られる、今は日本では見られなくなった往時のカガイの後をたどってみる。まず現在のカガイ跡地と言われる、「ブジョが原」は今「筑波ふれあいの里」と呼ばれ、中心に高橋虫麻呂の歌碑が立っている。
2021.08.30
【神社百選】酒列磯前神社
●御祭神
オオナムチノミコト
スクナヒコノミコト
●創 建
斉衡(さいこう)3年12月(西暦856年)
〒311ー1202 茨城県ひたちなか市磯崎町
白亜紀の大地の造作(ぞうさく)に畏怖した祖先が祀(まつ)った、椿山山上の境内には森の中に円墳の古墳が多数築かれ、神社の外にも南の海辺に沿って古墳群が続く。古墳は仏教の浸透と共に無くなっていき、地域の祖霊の神社に人々は集った。
スクナヒコノミコトは醸造(じょうぞう)の神様でもあるので逆と言う字を酒に改められた。
そしてこの二柱の神とも薬や医療のことに詳しく民を教えたので、薬師大菩薩(やくしだいぼさつ)の名前ももらっていた。明治の神仏分離の時代まで薬師菩薩としても知られていたのである。
スクナヒコノミコトは難病に苦しむ多くの人々を助け、医術、薬剤、酒醸造の神様としても尊崇を受け、地元では「エビス様」として大漁と海上安全の神であり、また「薬師様、乳母神様」として病気平癒・子授け安産の神とあがめられている。
2021.08.09
【神社百選】大洗磯前神社
その彩色の不思議な石を御神体として出来たのが大洗磯前(おおあらいいそさき)神社と酒列磯前(さかつらいそさき)神社といわれる。両社の間には約十キロの太平洋の海岸線がある。岬は人界と異界を結ぶところとしてヒンズー教の聖地でもよく祀(まつ)られている。この神磯(かみいそ)の異変は朝廷に伝えられると当時の東北地方のたびたびの地震と飢饉、それに伴う蝦夷(えぞ)の動揺と治安の悪化、そして全国で流行っていた天然痘の恐怖から、神社の建立はすんなり認められた。そして「大洗磯前薬師菩薩明神(おおあらいいそさきやくしぼさつみょうじん)」の称号を与えられた。神仏集合の江戸時代までそれで通っていた。明治になって仏教色の強い名前は消されてしまった。オオナムチノミコトは別名大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、単に大黒様とも言われ慈悲(じひ)深く、スクナヒコノミコトが恵比寿と呼ばれたように、共に医薬の祖神(そしん)として信仰された。
2021.06.21
岩座
【神社百選】鹿島神宮
タケミカズチノカミはフツヌシノカミと共にアマテラスオオカミの命によって出雲(いずも)にいたり、オオクニヌシノミコトを服従させた。その後東国に向かい、部下のタケハズチは東北地方の蝦夷(えぞ)と戦い、アマノカガセオを打ち破り、東日本開拓の突破口を開いた。
そして神武(じんむ)天皇により東国の要として鹿島神宮の祭神として鎮(しず)まった。同じくフツヌシノカミは利根川南方の香取神宮に祭られた。鹿島神宮には東国の防人(さきもり)たちが鹿島の神を祈って、朝廷から派遣されてはるか九州の海岸まで行軍したという。
これを「鹿嶋立ち」と言い、神社の入り口にはその防人の唄が石に刻まれている。
2021.05.21
岩座
【神社百選】高麗神社
高麗(こま)神社の拝殿前の鳥居の扁額(へんがく)は変わっている。高麗の両字のあいだに小さく「句」の字が書き足してある。明治三十三年、朝鮮の趙重応(チョウ・ジュウオウ)という両班(ヤンバン=役人)が来日した時、この高麗神社に参拝され扁額を書くよう依頼された。
2021.04.29
岩座
【神社百選】秩父神社
秩父神社境内の森は「ハハソ(柞)の森」と呼ばれている。ハハソとは「チチの実の父の命(みこと)、ハハソ葉(ば)の母の命(みこと)」と万葉集に歌われていて、クヌギ、コナラなど落葉広葉樹林のこと。母巣と漢字を当てたりして万物の母胎(ぼたい)である神社の森の生命力を表した言葉ともいえる。秩父神社のハハソの森はケヤキ、カシ、ブナ、ナラ、イチョウなどをふくみ、かって二万坪もあったが明治新政府の予算確保のため全国の神社仏閣の土地が収用された時に大幅に削減された。今は七千坪しか残っていない。
2021.04.27
岩座
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