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本殿の三面の壁はまるで絵画館だ。 今を去る江戸時代天保六年〈一八三五〉に造営された本殿は当時の流行を反映し豪華な壁画が描かれ彫られた。十代左甚五郎こと石原常八の作品と言われ、参拝人はそのきらびやかな彫刻をめぐって歩くことになる。ひとつひとつの絵を確かめながらお参りすると童話の世界を一巡したような気になる。 昭和五十九年に県の重要文化財に指定され、三年かけて色彩の再塗装などの大掛かりな改築工事が行われた。
雷電神社の丘は南北に長く、西側に雷電沼という沼を抱えている。その沼は今板倉町役場によって板倉中央公園という公園になっている。 ここに聖徳太子が立ち寄ったという伝説があり、当時伊奈良沼と呼ばれて万葉集にも東歌が寄せられていた。
そして太子は沼の清らかな水辺で禊ぎをされた。すると水面に金色の光が輝き渡り、それが消えると、黒雲が垂れ降り、その中からお声が聞こえた。 「私は天神である。七難を消し去り、風水不順の災いを除こう」といわれた。 そこで聖徳太子は広い沼の中央の浮島に祠を建てて、この神を御祀りされた。
周囲の広大な伊奈良沼は昭和になって開拓が進み、その一部が雷電沼となって残った。かつては御手洗沼とも呼ばれ、参拝の前に身を清める場であった。
伝説はおかしい話もふくめて伝わっている。仏教の三宝を篤く敬った、聖徳太子が出会ったのはクニノミクマリノカミ(国之水分神)で、後でやってきた坂上田村麻呂が連れてきたのが雷神であったともいう。
いざ本殿を建立する時に、御祭神はどちらだともめた事もあったらしい。 しかし神はひとつだと話をまとめたが、時間がたつにつれ雷神の方が強くなっていったらしく、今となっては公式に主祭神は雷神となっている。
どちらにしても農業にはかかせない神である。ミクマリ(水分け)は水田耕作に欠かせない水の配分のことで、水源を持つ多くの神社がその仕分けを調節していた。
雷は雨をもたらしやはり不可欠のもので「稲妻」というくらいで、稲作には重要な役割を果たす。落雷を起こすと落ちたところは黄色く焼けるがまわりの稲は元気付く。落雷によって空気中の窒素が発生し栄養分になる。関東平野では水田に落雷するとその場所に注連縄を張り、神の降臨した場所として区別し不浄を避けたといわれる。
それで昔から稲、麦、麻、干瓢、果樹の豊作祈願に雷様に祈願した。雷雲は「ひょう」をもたらすのでひょう除けの祈願もあった。 雷電神社の信徒組織「雷電講」の県別分布は地元の群馬県より栃木県が最も多く八百十六、ついで埼玉県七百二、地元の群馬県は二百七十二、茨城県二百十六、千葉県五十七と続く。栃木県は干瓢や葉タバコ、大麻の作物のため、埼玉県は秩父山地の大麦・小麦のため、雨乞いとひょう除けにも祈願された。
もちろん落雷の恐怖もある。本殿に雷神と並んで祀られている菅原道真は平安時代に大宰府に左遷されたが政敵達はその後宮殿にあいついだ落雷で命を落とし怨霊のたたりと恐怖された。そこで作られた天満宮も雷除けで祈願された。
なお雷電神社の公開の社務所には玄関になまずの銅像が有り、これは地震よけに祈られ手で触ると効果があると言い伝えられている。
雷には何故か、子供が付き添う話があり、当社の神前の老木の杉の御神木の前にはその雷電童子の銅像が立っている。
坂上田村麻呂が蝦夷討伐に派遣された時、蝦夷の高丸を頭にいただく反乱軍は奥州五十四郡を乗っ取り、さらに駿府の関所まで進出していた。討伐軍が北上すると反乱軍はいち早く奥州に退却した。
坂上田村麻呂は神社に立ち寄って祈願し、もし戦勝出来たらば立派な社殿を造営しようと誓った。 蝦夷軍は奥州に入ってから真正面で戦い、侮りがたい勢力になり将軍は苦戦した。いまはこれまでという時になり、矢種のつきるまで弓を射たが、とうていかなわない。 そこへ不思議なことに一人の童子があらわれて矢を拾っては将軍に与え、拾っては与えた。それで勢いを盛り返し最後には高丸を将軍自ら射止めて戦いは勝利した。 不思議の童子は板倉の天つ神だったという。
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋
本殿の三面の壁はまるで絵画館だ。
今を去る江戸時代天保六年〈一八三五〉に造営された本殿は当時の流行を反映し豪華な壁画が描かれ彫られた。十代左甚五郎こと石原常八の作品と言われ、参拝人はそのきらびやかな彫刻をめぐって歩くことになる。ひとつひとつの絵を確かめながらお参りすると童話の世界を一巡したような気になる。
昭和五十九年に県の重要文化財に指定され、三年かけて色彩の再塗装などの大掛かりな改築工事が行われた。
雷電神社の丘は南北に長く、西側に雷電沼という沼を抱えている。その沼は今板倉町役場によって板倉中央公園という公園になっている。
ここに聖徳太子が立ち寄ったという伝説があり、当時伊奈良沼と呼ばれて万葉集にも東歌が寄せられていた。
そして太子は沼の清らかな水辺で禊ぎをされた。すると水面に金色の光が輝き渡り、それが消えると、黒雲が垂れ降り、その中からお声が聞こえた。
「私は天神である。七難を消し去り、風水不順の災いを除こう」といわれた。
そこで聖徳太子は広い沼の中央の浮島に祠を建てて、この神を御祀りされた。
周囲の広大な伊奈良沼は昭和になって開拓が進み、その一部が雷電沼となって残った。かつては御手洗沼とも呼ばれ、参拝の前に身を清める場であった。
伝説はおかしい話もふくめて伝わっている。仏教の三宝を篤く敬った、聖徳太子が出会ったのはクニノミクマリノカミ(国之水分神)で、後でやってきた坂上田村麻呂が連れてきたのが雷神であったともいう。
いざ本殿を建立する時に、御祭神はどちらだともめた事もあったらしい。
しかし神はひとつだと話をまとめたが、時間がたつにつれ雷神の方が強くなっていったらしく、今となっては公式に主祭神は雷神となっている。
どちらにしても農業にはかかせない神である。ミクマリ(水分け)は水田耕作に欠かせない水の配分のことで、水源を持つ多くの神社がその仕分けを調節していた。
雷は雨をもたらしやはり不可欠のもので「稲妻」というくらいで、稲作には重要な役割を果たす。落雷を起こすと落ちたところは黄色く焼けるがまわりの稲は元気付く。落雷によって空気中の窒素が発生し栄養分になる。関東平野では水田に落雷するとその場所に注連縄を張り、神の降臨した場所として区別し不浄を避けたといわれる。
それで昔から稲、麦、麻、干瓢、果樹の豊作祈願に雷様に祈願した。雷雲は「ひょう」をもたらすのでひょう除けの祈願もあった。
雷電神社の信徒組織「雷電講」の県別分布は地元の群馬県より栃木県が最も多く八百十六、ついで埼玉県七百二、地元の群馬県は二百七十二、茨城県二百十六、千葉県五十七と続く。栃木県は干瓢や葉タバコ、大麻の作物のため、埼玉県は秩父山地の大麦・小麦のため、雨乞いとひょう除けにも祈願された。
もちろん落雷の恐怖もある。本殿に雷神と並んで祀られている菅原道真は平安時代に大宰府に左遷されたが政敵達はその後宮殿にあいついだ落雷で命を落とし怨霊のたたりと恐怖された。そこで作られた天満宮も雷除けで祈願された。
なお雷電神社の公開の社務所には玄関になまずの銅像が有り、これは地震よけに祈られ手で触ると効果があると言い伝えられている。
雷には何故か、子供が付き添う話があり、当社の神前の老木の杉の御神木の前にはその雷電童子の銅像が立っている。
坂上田村麻呂が蝦夷討伐に派遣された時、蝦夷の高丸を頭にいただく反乱軍は奥州五十四郡を乗っ取り、さらに駿府の関所まで進出していた。討伐軍が北上すると反乱軍はいち早く奥州に退却した。
坂上田村麻呂は神社に立ち寄って祈願し、もし戦勝出来たらば立派な社殿を造営しようと誓った。
蝦夷軍は奥州に入ってから真正面で戦い、侮りがたい勢力になり将軍は苦戦した。いまはこれまでという時になり、矢種のつきるまで弓を射たが、とうていかなわない。
そこへ不思議なことに一人の童子があらわれて矢を拾っては将軍に与え、拾っては与えた。それで勢いを盛り返し最後には高丸を将軍自ら射止めて戦いは勝利した。
不思議の童子は板倉の天つ神だったという。
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋