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これは現宮司山陰幸三氏の記した「早池峯(はやちね)神社社記」によるものだが、藤原鎌足の後裔実房(こうえいさねふさ)の子 山陰兵部(やまかげびょうぶ)は麓の大迫郷に戻ると、この話を里人らに話し里の真ん中に社を作り真中大明神と崇めた。 そして残雪も消えると遠野の藤蔵と共に山頂に社を建立し、瀬織津姫(セオリツヒメ)を勧進して東根嶽(あずまねだけ)大明神と崇め奉った。これが早池峯神社の奥宮の創建となった。
修験道との習合は直接には正安二年(1300年)に越後から来た円性阿闇梨(えんしょうあじゃり)と言う僧が諸国行脚の途上この山に登り、天下にまれなる霊地と見て、かつて岳川の上流の川原にあった坊を岳の部落に再建し、十一面観音を勧進して早池峯大権現として崇敬した。 境内に真言宗妙泉寺を置き、明治になるまで修験道を中心にした神仏習合の信仰が行われた。集落の家々もほとんどが修験僧の宿坊を兼ねた。
セオリツヒメというのはイザナギノミコトの黄泉の国からの帰り、ミソギをしたときに現れた姫でアマテラスオオカミと同時代である。記紀では薄い記述しかないがヲシテ文書では詳しく、男神アマテルの十二人の妃の中の正妻でホノコとも呼ばれ、嫉妬に狂う他の妻たちの策略を最後は許したという優しい女性として現れる。
不思議な事に岩手県内ではこの女神を祀る神社は二十三社有るが、周囲の県ではほとんど見受けられない。青森、秋田、宮城に一社づつ、山形に二社あるのみである。
例大祭は毎年八月一日に行われ、その日と前日の七月三十一日の宵宮(よいみや)にユネスコの世界無形文化財に指定されたばかりの早地峯神楽が見られる。
神楽は神社の風格のある神楽殿で三時半から弟子神楽で始まり、そのあと本殿前で行われる夏越祭で中断、茅ノ輪くぐりを三回、男は白、女は赤の人型の紙を体の不具合な場所に当て、最後にかがり火で焼く。そのあとまた神楽殿に戻り、六時から地元の岳神楽、八時頃から兄弟神楽の大償神楽(おおつぐないかくどら)と続く。
山伏修験がどうして神楽と結びついたのか。山伏神楽の際立った特徴はその動きの激しさにある。その激しさは肉体を極限にまで追い詰める求道的な精神に引かれている。
仏教の密教系の教えには悟りを得るためには五感を総動員して達せねばならないと言う考えがあった。聴覚すなわち音楽、体覚すなわち運動と修行修練。そして東北の修験には北国の気候の厳しさと生活があった。 さらに歴史の過酷さも加わった。蝦夷一族と言われた朝廷の敵には古代以来の圧迫があった。
度重なる征夷の将軍の追討、坂上田村麻呂は蝦夷の酋長(しゅうちょう)アテルイを京都に登って、天皇に直訴するよう促して「俘囚(ふしゅう)※捕虜」として連行したが、天皇は異民族のいうことは信用できないと聞き入れず、斬首されて終わった。アテルイを指導者にして善戦した蝦夷一族は歯噛みして口惜しがった。
岳神楽の最後に演じられることが多いのが「諷誦(フウショウ)=俘囚」で地元の人々からもこの曲に入ると幕開きのところから歓声があがる。この踊りの鬼気迫る動きは被征服民の恨み、歯噛み、地団駄がこめられたような踊りである。
身震いしながら右足左足と円を描くように右周りに進む。何度見ても踊りにこめられた激情と歴史の示現に心が震える。
山の神も 夜半の神楽に こぞるらし まどや外の 闇の妖しき 釈迢空(折口信夫)
神社百選一覧はこちらから
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋
これは現宮司山陰幸三氏の記した「早池峯(はやちね)神社社記」によるものだが、藤原鎌足の後裔実房(こうえいさねふさ)の子 山陰兵部(やまかげびょうぶ)は麓の大迫郷に戻ると、この話を里人らに話し里の真ん中に社を作り真中大明神と崇めた。
そして残雪も消えると遠野の藤蔵と共に山頂に社を建立し、瀬織津姫(セオリツヒメ)を勧進して東根嶽(あずまねだけ)大明神と崇め奉った。これが早池峯神社の奥宮の創建となった。
修験道との習合は直接には正安二年(1300年)に越後から来た円性阿闇梨(えんしょうあじゃり)と言う僧が諸国行脚の途上この山に登り、天下にまれなる霊地と見て、かつて岳川の上流の川原にあった坊を岳の部落に再建し、十一面観音を勧進して早池峯大権現として崇敬した。
境内に真言宗妙泉寺を置き、明治になるまで修験道を中心にした神仏習合の信仰が行われた。集落の家々もほとんどが修験僧の宿坊を兼ねた。
セオリツヒメというのはイザナギノミコトの黄泉の国からの帰り、ミソギをしたときに現れた姫でアマテラスオオカミと同時代である。記紀では薄い記述しかないがヲシテ文書では詳しく、男神アマテルの十二人の妃の中の正妻でホノコとも呼ばれ、嫉妬に狂う他の妻たちの策略を最後は許したという優しい女性として現れる。
不思議な事に岩手県内ではこの女神を祀る神社は二十三社有るが、周囲の県ではほとんど見受けられない。青森、秋田、宮城に一社づつ、山形に二社あるのみである。
例大祭は毎年八月一日に行われ、その日と前日の七月三十一日の宵宮(よいみや)にユネスコの世界無形文化財に指定されたばかりの早地峯神楽が見られる。
神楽は神社の風格のある神楽殿で三時半から弟子神楽で始まり、そのあと本殿前で行われる夏越祭で中断、茅ノ輪くぐりを三回、男は白、女は赤の人型の紙を体の不具合な場所に当て、最後にかがり火で焼く。そのあとまた神楽殿に戻り、六時から地元の岳神楽、八時頃から兄弟神楽の大償神楽(おおつぐないかくどら)と続く。
山伏修験がどうして神楽と結びついたのか。山伏神楽の際立った特徴はその動きの激しさにある。その激しさは肉体を極限にまで追い詰める求道的な精神に引かれている。
仏教の密教系の教えには悟りを得るためには五感を総動員して達せねばならないと言う考えがあった。聴覚すなわち音楽、体覚すなわち運動と修行修練。そして東北の修験には北国の気候の厳しさと生活があった。
さらに歴史の過酷さも加わった。蝦夷一族と言われた朝廷の敵には古代以来の圧迫があった。
度重なる征夷の将軍の追討、坂上田村麻呂は蝦夷の酋長(しゅうちょう)アテルイを京都に登って、天皇に直訴するよう促して「俘囚(ふしゅう)※捕虜」として連行したが、天皇は異民族のいうことは信用できないと聞き入れず、斬首されて終わった。アテルイを指導者にして善戦した蝦夷一族は歯噛みして口惜しがった。
岳神楽の最後に演じられることが多いのが「諷誦(フウショウ)=俘囚」で地元の人々からもこの曲に入ると幕開きのところから歓声があがる。この踊りの鬼気迫る動きは被征服民の恨み、歯噛み、地団駄がこめられたような踊りである。
身震いしながら右足左足と円を描くように右周りに進む。何度見ても踊りにこめられた激情と歴史の示現に心が震える。
山の神も 夜半の神楽に こぞるらし
まどや外の 闇の妖しき
釈迢空(折口信夫)
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進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋