掲載日:2022.11.15

【神社百選】鹽竈神社

神社dada
●御祭神
別宮 シオツチオヂノカミ(塩土老翁)
左宮 タケミカヅチノカミ(武甕槌神)
右宮 フツヌシノカミ(経津主神)
●創 建
不詳

塩竈(しおがま)市は仙台藩の海への出入り口として水産業で栄えた。今でもマグロの陸揚げは日本一を誇っているし、かまぼこ製造などが盛んな街である。

鹽竈神社はこの港の要として陸奥国一ノ宮として有名である。車で二十分足らずで海沿いに松島も近く、近世の屏風図などでも松島と並べている図が多い。

釜と簡便に書くとナベカマのカマになって火に直接あてがう煮物入れだが、神社のカマはかまどの意味であって火をおこす設備なのだ。「竈(かま)」と言う。難しい字で市役所のホームページで書き方を教えているほどだ。

【神社百選】鹽竈神社001

御釜神社という境内外の末社があり、毎年七月六日に「藻塩焼き神事」という神事が行なわれ、鹽竈神社の神職が奉仕し、藻を通して海水から塩を作る神事が行なわれる。
古式にのっとった製塩法が見られ、このとき直径一間くらいの大釜を使い、それに見合う大きな竈で煮立てる。昔はこのような煮立てで人々の食生活に欠かせない塩を得ていたのだ。

この製塩の技術を担っていたのが塩土の老翁(おじ)であった。おそらく道案内を通じて各地の情報にも詳しかったのだろう。
神話では神々に情報をもたらし、道案内までつとめていたらしい。神武天皇も東征にあたって、そういうつてから大和地方の噂を聞いていたのだろう。

【神社百選】鹽竈神社002

陸奥国一ノ宮、鹽竈神社の御祭神はまずシオツチオヂノカミであり別宮で祀られている。
この神は蝦夷の平定の際、鹿島神宮と香取神宮に祀られているタケミカヅチノカミとフツヌシノカミを案内し、この地方が落ち着いた後ここに留まって製塩を教えたという。

この神社は平安時代の初期に「一万束の祭祀料」を朝廷から受け取っていた。陸奥全体で六十万束を納められていた頃だから全体の六十分の一も受領していたということになる。

海からさほど離れぬ一森山という山に神社は鎮座している。表坂を登り、唐門をくぐると鹽竈神社別宮、左右宮がならんでいる。そして左右に分かれた二柱のお宮を拝し東側に向かうと、赤い鳥居の神社が顔を出す。志波彦(しわひこ)神社という神社である。

何故ここに鎮座するのか神職に聞くと明治天皇の話が出てきた。
志波彦神社は以前、仙台市の宮城野区の旧岩切村で冠川のほとりに有り、古くから朝廷の信奉のあったその古社が小さく狭い境内で祀られて、鹽竈神社の別宮に移すよう指示されたというもの。

その後、昭和十三年に現在地に新たに新社殿が造営された。国土開発農業守護の神であり、五月上旬の御田植祭(おたうえさい)や九月下旬の抜穂祭(ぬいほさい)、十一月の新嘗祭(=収穫祭)は志波彦神社を中心に行われる行事である。

【神社百選】鹽竈神社003

私の考えではこの志波彦というのはおそらく地元の豪族で、志波というのは当て字であろうから、岩手県の紫波城のあった紫波町、栗原市志波姫、斯波氏なども関わりがあるはずである。
醍醐天皇の五年(九二七)に編纂された、いわゆる延喜式の式内社に志波彦神社は入っているが鹽竈神社は入っていない。

【神社百選】鹽竈神社004

谷川健一氏によると承和七年(八四〇)蝦夷の俘囚(捕虜)キミコウカヌが物部斯波連(もののべしわむらじ)の姓を賜ったと「続日本後記」にある。おそらく志波氏というのは物部氏にとりこまれた従順な蝦夷(ニギ蝦夷のこと。荒蝦夷に対する言葉)であったに違いない。

東北は蝦夷の反乱の地でもあったが、大和朝廷の軍事的進出のみでなく、物部氏を先頭にした融和的な進出が反面地ならしをしつつ、東北の平定をすすめたらしい。※
※「白鳥伝説」谷川健一(集英社)

【神社百選】鹽竈神社005

武神を祀る鹽竈神社と、谷川氏のいう「ニギ蝦夷」の志波彦神社の二社はそのような東北開拓の二面性をあらわしている神社といえよう。

神社百選一覧はこちらから

『詩でたどる日本神社百選』

進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋


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