人気のキーワード
★隙間時間にコラムを読むならアプリがオススメ★
明治三十年(一八九七)に再建されていた旧社殿はこうして平成二十年に焼け落ちた。
普段火の気の無いところに出火しており、この火事は早くから放火説も出ていた。同じ十月の三日にも不審火が出ていたのである。
警察の必死の捜索にも及ばず今のところ犯人は捕まっていない。 しかし会津盆地の多くの人々の氏神であり精神的な支柱になっていた歴史のある神社だから早い再建が望まれている。
明治維新のとき会津若松は藩をあげて新政府に逆らい戊辰戦争の主な戦場になった。 官軍に対する恨みはなかなか消えるものではなく、新政府はそれを充分承知して神経を使っていた。
会津の殿様松平氏の三男松平健雄は伊佐須美神社の新宮司に迎えられ、会津の精神的シンボルと位置づけられた。普通宮司は三年くらいの任期だがこの宮司は十年くらいもつとめた。 また四男松平恒雄は宮内大臣に迎えられ、その娘さんは秩父宮の奥さんに選ばれて秩父宮妃となって会津の人々を喜ばせた。
十代崇神天皇(西暦元年前後)は当時としての大和朝廷の勢力範囲を確定しようとした。すなわち東北の蝦夷対策として北陸方面に大彦命、またその息子建沼河別命を東海道方面に派遣した。 また丹波方面には丹波道主命を、山陽道に吉備津彦を送った。これらを四道将軍という。
大彦命は近年埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄刀の銘文に七代の大王の名前が書かれ、その先頭の始祖の名に上げられている実在の人物と見られる。 彼は新潟までは船に乗って行った可能性もあり、当時の要所であった翡翠の産地の糸魚川を通り、山伝いに会津盆地に入ったらしい。
御神楽岳はその途上で、ここで息子の建沼河別命と合流したという。そこで相津(会津)という地名がついたといわれている。
二人の将軍は大和朝廷の守護神として、はじめ御神楽岳に祖神のイザナギ、イザナミを祀り、次に盆地の近くの博士山に遷座し、さらに明神ヶ岳を経て、欽明天皇の十三年(五五二)現在地に遷座した。 そのとき大彦命と建沼河別命も合祀されたといわれる。
轡田宮司は七十二歳(取材当時)だが元気な方で再建後の構想を大きく語っておられた。 何しろ小さな構想じゃ駄目だと云い、大きく絵を描かなければと再建後の巨大な構想図を社頭に飾ってある。
一見すると出雲大社の最古のすがたの想像図に酷似している。 本殿の高さ三十二・ニm、拝殿の高さ二十mで長い木の階段が約三十mほども延々と結んでいる。柱の支えがむき出しなので清水の舞台のようでもある。
構造設計士によるとこのくらいの高さの方がしっかりした岩盤につながり、安全だというのである。三内丸山遺跡でも同じような原理で櫓が立っているらしい。
これが出来れば東北地方の中でも群を抜く名物神社になるのは間違いないだろうが、見通しはどうだろうか。
参拝者のうち年間約三十万人が一人三千円の寄付をしてくれれば九億円。経験上三千円と言うと、一万円を包む人も多いので平均して考えれば三年後には二十億円も不可能な数字ではない。工事費もそのような数字である。
本殿も拝殿も失われた神社の撮影は難航した。 燃える前の写真で代用するという事も断念した。ただ焼け残った境内に、天海僧正のお手植えのヒノキや、藤の樹があり、さらに薄墨桜という名物の桜があり花が始め白くやがて紅色を帯びてくる珍しい桜だ。
御神木として四月二十九日に「花祝祭」があるというので撮影に出かけたが、平成二十二年は異常に寒く、花はほとんど咲かなかった。 さらに五月五日に再度出かけてやっと撮影が出来た。再建後の構想図は有るのだが、いくらなんでもそれじゃ絵にならない。
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋
明治三十年(一八九七)に再建されていた旧社殿はこうして平成二十年に焼け落ちた。
普段火の気の無いところに出火しており、この火事は早くから放火説も出ていた。同じ十月の三日にも不審火が出ていたのである。
警察の必死の捜索にも及ばず今のところ犯人は捕まっていない。
しかし会津盆地の多くの人々の氏神であり精神的な支柱になっていた歴史のある神社だから早い再建が望まれている。
明治維新のとき会津若松は藩をあげて新政府に逆らい戊辰戦争の主な戦場になった。
官軍に対する恨みはなかなか消えるものではなく、新政府はそれを充分承知して神経を使っていた。
会津の殿様松平氏の三男松平健雄は伊佐須美神社の新宮司に迎えられ、会津の精神的シンボルと位置づけられた。普通宮司は三年くらいの任期だがこの宮司は十年くらいもつとめた。
また四男松平恒雄は宮内大臣に迎えられ、その娘さんは秩父宮の奥さんに選ばれて秩父宮妃となって会津の人々を喜ばせた。
十代崇神天皇(西暦元年前後)は当時としての大和朝廷の勢力範囲を確定しようとした。すなわち東北の蝦夷対策として北陸方面に大彦命、またその息子建沼河別命を東海道方面に派遣した。
また丹波方面には丹波道主命を、山陽道に吉備津彦を送った。これらを四道将軍という。
大彦命は近年埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄刀の銘文に七代の大王の名前が書かれ、その先頭の始祖の名に上げられている実在の人物と見られる。
彼は新潟までは船に乗って行った可能性もあり、当時の要所であった翡翠の産地の糸魚川を通り、山伝いに会津盆地に入ったらしい。
御神楽岳はその途上で、ここで息子の建沼河別命と合流したという。そこで相津(会津)という地名がついたといわれている。
二人の将軍は大和朝廷の守護神として、はじめ御神楽岳に祖神のイザナギ、イザナミを祀り、次に盆地の近くの博士山に遷座し、さらに明神ヶ岳を経て、欽明天皇の十三年(五五二)現在地に遷座した。
そのとき大彦命と建沼河別命も合祀されたといわれる。
轡田宮司は七十二歳(取材当時)だが元気な方で再建後の構想を大きく語っておられた。
何しろ小さな構想じゃ駄目だと云い、大きく絵を描かなければと再建後の巨大な構想図を社頭に飾ってある。
一見すると出雲大社の最古のすがたの想像図に酷似している。
本殿の高さ三十二・ニm、拝殿の高さ二十mで長い木の階段が約三十mほども延々と結んでいる。柱の支えがむき出しなので清水の舞台のようでもある。
構造設計士によるとこのくらいの高さの方がしっかりした岩盤につながり、安全だというのである。三内丸山遺跡でも同じような原理で櫓が立っているらしい。
これが出来れば東北地方の中でも群を抜く名物神社になるのは間違いないだろうが、見通しはどうだろうか。
参拝者のうち年間約三十万人が一人三千円の寄付をしてくれれば九億円。経験上三千円と言うと、一万円を包む人も多いので平均して考えれば三年後には二十億円も不可能な数字ではない。工事費もそのような数字である。
本殿も拝殿も失われた神社の撮影は難航した。
燃える前の写真で代用するという事も断念した。ただ焼け残った境内に、天海僧正のお手植えのヒノキや、藤の樹があり、さらに薄墨桜という名物の桜があり花が始め白くやがて紅色を帯びてくる珍しい桜だ。
御神木として四月二十九日に「花祝祭」があるというので撮影に出かけたが、平成二十二年は異常に寒く、花はほとんど咲かなかった。
さらに五月五日に再度出かけてやっと撮影が出来た。再建後の構想図は有るのだが、いくらなんでもそれじゃ絵にならない。
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋