掲載日:2022.08.26

【神社百選】貫前神社

神社dada
●御祭神
フツヌシノカミ
ヒメオオカミ
●創 建
安閑天皇元年(西暦531年)
〒370ー2452 群馬県富岡市一ノ宮

フツヌシノカミは物部氏の氏神であり、タケミカヅチノカミとともに出雲にあらわれたアマテラスオオミカミの使者である。戦闘にたけた物部氏はここでは物部の磯部と名乗り、地元の蓬が丘綾女谷に氏神をおまつりした。

ヒメオオカミはここ綾女の庄の水神と養蚕と機織りの女神といわれている。上毛野国(現在の群馬県)の一宮とされているが、かつては赤城山の赤城神社が一宮であった。

【神社百選】貫前神社001

古代のある時、神事で使う織物で赤城神社のほうでは絹織物の機織機のくだ(ひ)が足りず、「貫前神社のヒメカミは財の神だから絹くだは御用意があるだろうと思い、貸してくれるよう頼んだ。

ヒメカミはお望みならとくだを一つ赤城大明神にさし上げた。赤城大明神は大変喜び、あや織り一匹を織ったが、それに留まらず沢山の織物が出来上がり、糸がつきることが無かった。
赤城大明神はヒメカミと対面し、これほどの財を持つ姫君を他国へ移してはならないと、自身の一の宮の位を譲った」(大洞赤城神社「神道集」による)。

さらにその伝説によると(注)南インドの天竺国の大王の娘に大変な美人が居て、妃にと望む王達が多かったが大王も本人も気が進まず、ついに大王は殺され、娘は嫌気がして他国の日本に天の早船に乗って逃れ、ついには信濃と上野国の境の笹岡山(現在名、荒船山)に矛を立てた。
乗ってきた船をこの山の頂上に載せ、生まれた国の名残として水をたたえた。旱魃や火災の時に世を救おうとした。そしてお供に連れてきた三人のうちの一人が荒船明神になったとされている。
天竺に居た時、矛を抜き、脇にはさんで我が国に来たことから「抜鉾神社」が生まれた。
(注)神道集「上野国一ノ宮の事」

貫前神社は珍しく階段を下りて社殿にいたるいわゆる「くだり宮」で鵜戸神宮(宮崎)、草部吉見神社(熊本)とともに三大くだり宮と呼ばれる。荒船山や妙義山で信州と隔てられた鏑川の近くにある。

【神社百選】貫前神社002

まず石段を登ると赤く塗られた鳥居が迎えてくれる。次に総門という門があり、そこから長い石段の下に社殿の群、楼門、拝殿、本殿がならんで一望できる。

総門の横には一本の古いタブの樹があり、よく見ると猿の腰掛が根元に「蛙」のように顔をのぞかせている。太平洋戦争中に出現したので「無事帰る」と縁起をかつがれ、「蛙の木」と呼ばれるようになった。今では交通安全の祈りの対象になっている。

通常は見上げながら登っていってそれから社殿なのだから、ちょっと変な気がする。本殿はかすれた色だがかつての多彩な彩色の後がうかがえる。秩父神社や群馬県板倉の雷電神社の日本画彩色を思わせる。

しかしこちらは徳川三代将軍家光の寛永十二年の造営で総漆塗りの社殿であり、五代将軍綱吉がさらに修復した。本殿の正面破風には小窓が見える。これは「雷神小窓」と言って、正面南の方角にある千三百mの稲含山に黒雲がかかると落雷があるとして、その雷神を威嚇するという。

【神社百選】貫前神社004

しかし雷神小窓を彩っていた雷神の絵はほとんど不鮮明になっている。雷の多い群馬県では落雷の恐怖は他の地方に勝って身近なものであった。

境内は約二万六千坪、本殿裏の北斜面の森林には樹齢約千百年の杉の御神木があり、藤原秀郷(通称、俵藤太秀郷)が天慶二年(九四〇)平将門の反乱を鎮圧)が戦勝祈願のため、自分の年齢分の杉、すなわち三十六本の杉を植え、一本だけが今に残っている。
さらに枝幹が幾つも重なり合って成長した樹齢千年のスダジイもずんぐりと鎮座している。

【神社百選】貫前神社003

取材当時の三嶋宮司によると冬の神事には珍しい行事も含まれている。

一連の神事に先立って十一月二十二日から注連釣りの神事から準備が始まる。十二月一日には御酒つくり。甘酒を造り、杯子に入れて保存。十一日には御機織り神事があり、神に供えるアラタエ(荒衣)を作る。十二月八日鹿占神事、八角形の木製の火鉢におこした忌み火でキリの先端を熱し、鹿の肩甲骨にキリで穴を開け、甘楽郡の三十一ヶ村の名をキリ一本毎に唱え、そのキリの通り方で、火難の吉凶を占う。

都下の青梅市の御嶽神社では鹿の肩甲骨を火にくべて、その模様で豊凶を占うと聞いた。
海では亀だが山では鹿が昔から神聖な動物でこの鹿の骨の火の通り方から、日本人は古来、天の意思を聞いたのだ。十二日には御戸開き祭りがあり本殿の扉を開く。

神社百選一覧はこちらから

『詩でたどる日本神社百選』

進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋


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