読み物
2021.12.12

【神社百選】安房神社

●御祭神

【上の宮】アメノフトダマノミコト、アメノヒリトメノミコト、その他、忌部氏五部神(クシアカルタマノミコト他)
【下の宮】アメノトミノミコト、アメノオシヒノミコト

●創 建
養老元年(西暦717年)
〒294ー0233 千葉県館山市大神宮


この神水(しんすい)窟の入り口には四枚のシデ、つまり白い紙のイナズマがあり、洞窟の真ん中に一枚大きなヘイソク、いわば向かい合ったイナズマが立つ。奥には高さ一m の石壁が立ち。上が開いていて、さらに奥へ十五m 以上も続く溜(たま)り池が有る。そこの入り口には二枚のヘイソク

ここから得られる神水は神社では毎年一月十四日の夕べから行われる置炭(おきすみ)・粥占神事(かゆうらしんじ)の時に使われる。すなわち正月に用いられた門松の松で火を起こして、神水でといだ粥(かゆ)を炊き、薪(まき)が燃え尽きる頃、おきを十二本(これを十二ヶ月とみなす)取り出して、それぞれの燃え具合によって一年の天候や作物ごとの収穫を占う。

この鍋にすのこ状に編んだ十二本の葦筒(あしづつ)を入れて一晩置き、十五日の朝、一本ずつ小刀で割って粥の入り具合や、つやにより、その年の農作物の豊凶を占うというのが「粥占神事(かゆうらしんじ)」で、十二個の置炭の焼け具合によって各月の天候を占うのが「置炭神事(おきすみしんじ)」。この占いは全国でも新潟の彌彦(やひこ)神社とここしか残っていないと言われている。

伝説によると神武(じんむ)天皇の命で天富命(アメノトミノミコト)は肥沃(ひよく)な土地を求めて、はじめ阿波(あわ)国(徳島)に上陸、そこに麻やカジ(紙の原料)を植えて開拓に力をいれ、さらに肥沃な土地を求めて阿波の忌部(いんべ)氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端の布良(めら)浜にいたり、男神山、女神山に先祖のアメノフトダマノミコト、アメノヒリトメノミコトをお祭りした。そして養老元年に近くの現在地に遷座(せんざ)された。

取材に行った日はちょうど参道の桜が満開で境内の植物相が奥行き深く感じられた。現在の安房神社の森はマキ、マテバシイ、クスノキ、イチョウ、ヒノキなどの古木が点在しどっしりした風格の有る神社になっている。本殿の側の銀杏のご神木は二股に分かれそこからチチノミ(乳房状の実)がぶら下がり注連縄(しめなわ)を張って祀(まつ)っている。根元も盛り上がり方が見事だ。また下の宮の正面前にはやはり注連縄を張った御神木のマキノキが有る。

山の裏側は千葉県立館山野鳥の森として整備され、トンビ、セキレイ、メジロ、エナガ、ヤマガラ、ノスリ、フクロウ、ウグイス、コゲラ、シジュウカラなど野鳥が集う森になっている。遊歩道がめぐらされているが「国見展望台」のすぐ後ろの盛り上がった丘がこの神奈備(かんなび)山あづち山の頂上(百二m )である。御神水の出所の山の頂上だが今は何も祭られていない。

正面を見て社務所の手前を左に回り、右手にみかん山を見ながら左へ進むと三本のクスの古木が立っており、その奥に忌部塚(いんべづか)という石塚が立っている。これは天富命につき従った忌部氏の一族の骨を一箇所に集めて改めて祀ったもので、安房神社洞窟遺跡(岩盤横の竪穴)で発掘された人骨を忌部氏のものとして、まとめて移動させた。ほかに出土したものは弥生式土器時代のものとされているが、近くさらに精密な調査が行われるという。忌部氏は斎部(いんべ)氏ともいうが、どちらも今日の日本ではほとんど聞かないのはなぜだろうか。氏族の名前にまで影響した権力争いといえば大化の改新とか、源平の争乱、南北朝の対立とか数々あるが、それらの争いの間に身内を守るために改名した人々が多かったということだろう。

進藤彦興著、    『詩でたどる日本神社百選』    から抜粋


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