2024.04.09

善知鳥神社

神社dada
●御祭神
タキリヒメノミコト
タギツヒメノミコト
イツキシマヒメノミコト
●創 建
不詳

拝殿と鳥居拝殿と鳥居

青森駅から歩いて十分。よほどの繁華街のはずなのに忘れられたような趣でこの古社は建っている。目抜き通りからはうまく外れている。

境内を歩き回って気になったのはやはり周りの池。
池にしては大きめで澄んだところもある。これが昔は日本海航路の船も保護したという巨大な入り江の名残りだった。

境内に残る池境内に残る池

藩主が開拓のために入り江に沿って人工の河川「堤川」を作り、山からの流れをせき止め、入り江に入らぬようにし、直接陸奥湾に流れるようにした。それから入り江を徐々に埋め立てていった。寛永元年(一六二四)青森港の開港時には堤川効果で入り江「やすかた」は既に池程度に縮小している。

その港は当時蝦夷地と呼ばれた北海道への出発点でもあり、渡航を考える人は善知鳥神社に詣でて航海の安全を祈り、また祈祷を頼んだ。

江戸時代の民俗学者といわれ民間治療に詳しく、絵も巧みで和歌もたしなんだ菅江真澄は天明五年と八年にこの善知鳥神社に詣でている。
日本民俗学の父、柳田国男が先駆者として崇拝したという人だ。

しかしその時、神社も周囲の町も一面の焼け野原だった。
天明の大飢饉の混乱で放火のせいか火事が起きた。神職を訪ねて長年の課題である「蝦夷地」への出航の吉凶を聞くと、三年後にしなさいと言われた。
北海道の松前から集団で食料を求めて逃げてきた難民の群れも目撃し、自分たちの食料の不安もあるし素直に従う事にした。

長野、新潟、山形、秋田と旅してきた彼はこの後岩手、宮城と残した東北地方を見聞して回る。そして三年後蝦夷地へむかう。

今の渡島半島を中心に凡そ四年かけてアイヌ民族の集落を訪ねて回り、その習俗を絵にし言語も勉強している。
それから下北半島に帰ってまたつぶさに歩いてまわり、津軽に戻って藩主から薬草などの採集を命ぜられ数人を伴って藩内で採集して回っている。

その旅の仕方は和歌や俳句の同好の人々を集めては円居し名所旧跡を訪ね、絵筆を取り求めに応じて襖絵や掛け軸を作り、体調不良の人には薬草を煎じて治してやり、日誌に自分の観察した事を書き、また絵日記風に細かく描いて何冊もの地誌を仕上げた。

善知鳥の親子の図 棟方志功善知鳥の親子の図 棟方志功

そしてそれこそ嘗めるように人の住むところは何度でも往復して足労をいとわないやりかただった。出身地の三河から旅を始めたのが三十歳で体力にも恵まれていたが、日誌を見る限り、結構ひとなみに風邪をひいたり船に酔ったり苦労している。

しかし表立って職業も持たず、主に知人や友人宅を訪ね歩くにしても和歌や俳句の交換だけでよく何年も旅が続けられたものだ。

津軽藩の薬草の採集が終わったあとは秋田藩内に入り、ここで藩校の教授の紹介で藩主佐竹氏に正式に藩の地誌を作成するよう依頼された。
そして文政十二年に七十六歳で亡くなるまで秋田藩をくまなく歩き、沢山の民俗誌を今日に残した。秋田県立博物館にその貴重な目に見える資料が整理されている。

民芸画家棟方志功はこの神社の近くで生まれ、ここが幼少期の遊び場だったという。
青森ねぶただけでなく、神社の祭り灯篭も彼の絵心の基礎になっていたに違いない。
神社の由緒書の題字は彼の直筆で野放図な社名になっている。

うとうは中型の海鳥でくちばしが黄色。崖の上の砂地に穴を掘り一度に一つの卵しか育てない。

竜神水竜神水

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『詩でたどる日本神社百選』

進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋


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