【神社百選】赤城神社

●御祭神
アカギノカミ(赤城神)

オオナムチノミコト(大己貴命)
トヨキイリヒコノミコト(豊城入彦命)

●創 建
崇神(すじん)天皇代
〒299ー4301 千葉県長生郡一宮町一宮


赤城(あかぎ)山は関東平野の北にそびえる壁である。平野の農業を左右する自然を支配する神として長く信仰の対象であった。神社も沢山あったが、中でも頂上(黒檜<くろび>山千八百二十八m)側の大沼・小沼は水源地でもあり、湖畔の大洞(だいどう)赤城神社、南麓の二宮(にのみや)赤城神社、そして中腹の三夜沢(みよさわ)の赤城神社はいずれも赤城信仰の中心社との誇りを持っていた。

大洞(だいどう)赤城神社は大沼のかつての島、小鳥が島に昭和四十五年に対岸から引越した。旧社の正面にあった地蔵岳がスキー場となったため、境内地に土砂が流れ込むようになり、総合的な判断で対岸に遷座(せんざ)した。はじめは島だったが農業用水の取水のため湖の水量が減り島が地続きになってしまった。荒廃(こうはい)した社殿も江戸時代に三回も落雷で本殿が焼けているので遷座の時にはコンクリートで改築された。

二宮(にのみや)赤城神社は大洞から南に下りてきて、その最も南にある前橋市二之宮町にあり、十一代垂仁(すいにん)天皇(紀元前二十九―後七十年)に創建されたと伝説がある。赤城山の沼を水源とする荒砥(あらと)川と粕川(かすかわ)に囲まれ、大室(おおむろ)の二子(ふたご)古墳など多くの古墳が近くに有り、豪族上毛野氏(カミツケノシ)の本拠地とされているところである。財政的には麓(ふもと)の方が豊かだったろうから赤城信仰も財源的には麓に助けられていた可能性がある。

三夜沢(みよさわ)の赤城神社は十代崇神(すじん)天皇の王子豊城入彦(とよきいりひこ)が蝦夷(えぞ)平定に派遣されて来て居たのを祀(まつ)る。あいかたのオオナムチノミコトは国つ神の代表である。正面鳥居の下にちょうど富士山が見えるようになっている。そして本殿の後方、少し離れた位置から見ると三百m高い位置に丸い尾根(おね)が見える。神社が海抜五七十mのところなので、八百七十m位の位置。そこの山稜の樹林の中には「櫃石(ひついし)」と呼ばれる磐座(いわくら)があり、年に一回四月三日に登拝祈祷(とうはいきとう)を欠かさないと言う。直径二・五mの黒っぽく丸みを帯びた磐座でかつては様々な祭祀(さいし)道具が見られたという。これが原始の赤城の祭祀遺跡であったと思われる。

この三夜沢の神社が往昔には格式の高い神社であった何よりの証拠は立派な松の参道である。これは話によると大前田村川東の彦兵衛という人が慶長十七年に太田の金山から苗木を取り寄せて植えた物だと言う。大前田というのは有名な国定忠治の大親分の出たところだから、もしかしたら当時の博打の大親分かと思ったが、それはわからないという。しかしこの松並木は見たことのないような立派なもので驚いたが、肝心の神社近くでとぎれてしまい、突然消えてしまうのである。平行して走っているバイパスだけがまっすぐ神社に向かい、松の参道は室町時代の風格の有る「惣門」で終わり、角を曲がってバイパスを歩かなければ神社にたどりつけないようになっている。その間約二百mだろうか。眞隅田宮司さんのお話によれば今は生活道路になってしまっているので参道にするのも問題があるという。

でもせめて現状のままではなく歩道部分をはっきり作り赤いガードレールを作るとか、いっそ惣門のあたりから空中の歩道橋ぺデストリアンデッキで鳥居前までつなげるとか方法がないだろうか。

赤松は近年松食い虫の被害が多く発生し、ここでも枯れ木になる松も少なくないがその都度若い苗木を植えているという。「参道松並木を守る会」というのも活動していて、この松原の素晴らしい遺産に気づいている人も少なくない。

進藤彦興著、  『詩でたどる日本神社百選』  から抜粋


  • Twitter
  • Facebook
  • LINE