人気のキーワード
★隙間時間にコラムを読むならアプリがオススメ★
まつろわぬ民、蝦夷の住民に対処するため、多賀城の鎮守府将軍が紀州の熊野本宮から御祭神を勧進した。朝廷も応援して数百人の供奉者が付き添い、東海、伊豆、関東、九十九里牡鹿半島と五ヶ月も掛けて渡ってきた。気仙沼舞根に仮宮、瀬織津姫神社が設けられ、ついで蝦夷の酋長がヤマトタケルに埋められたという鬼首山に本宮社殿が建てられた。そして牟婁峯山(室根山)と名前が変えられた。
室根山は高さ895mあり、気仙沼の海上からも一望出来るので、陸前高田の氷上山、大船渡奥の五葉山と並んで、海上からの目標になった山である。八合目に古さびた室根神社があり本宮と新宮が並び、頂上附近にはつつじの山と各種の電波塔が立っている。
この山に氏子の気仙沼の漁師が「森は海の恋人」とうたって植樹運動を始めたのは平成元年の事だった。
漁師のリーダーは舞根の出身の畠山重篤さんで、室根神社の上陸地の漁師なので大祭のお潮汲み役もやった事がある。昭和四十年頃から豊富な水産物に恵まれた気仙沼湾の水に異変が起こり始めた。汚染がすすみ赤潮の発生で養殖の牡蠣が侵され、水揚げが激減しただけでなく、うなぎや鮭なども取れなくなってきた。
湾に流入する最も大きな川、大川の水に重大な変化が起こっていた。畠山さんたちは大学教授達の応援も得て必死に原因を究明し、とうとう川の上流で広葉樹が減り、落葉樹の落葉の蓄積から生まれるフルボ酸鉄という物質が海の植物性プランクトンを育てる栄養分の主人公であるのに減少している事を突き止めた。 その確保のためには川の上流の環境を変え、昔の自然に戻さなければならないと気がついた。
そのころ室根山では神社総代の話によると、昭和三十年頃から杉を植える運動が政府主導でブームとなり、ブナ林を切って杉を植えるという、今考えればもったいない事をしていた。 杉を育てると周りに他の木は育たない。おまけにしばらくして輸入材が急増し安価に売られ、手間賃や輸送代等で採算があわなくなり、杉林の間伐が放置されるようになった。暗い森には日が指さず、保水力が失われて、洪水もおきやすくなった。
沖合いに出ては目に入る室根山を見ているうち、この山は流域の人にとって聖なる山なのでここに植林すればシンボリックな効果もあると考えた。 そこで流域の人と力をあわせて、地元の歌人からはスローガンとなる名文句をプレゼントしてもらい、運動の植樹の機運は広がった。
そして氏子の漁師たちによる初めての植樹が室根神社の入り口近くの登山道路の側でブナ二十本を植えて行なわれた。それ以来毎年実行され、今では全国からも参加者が増え千人を越える盛況となっている。 会場も室根山だけでなく、大川の南側の水源地の山になり地元の室根村「ひこばえの森分収林組合」、気仙沼市「ははその森の会」、唐桑町「カキの森を慕う会」の連名によって「ひこばえの森」が開かれた。
この運動は畠山さんも言っているが三つの目的があり、山の広葉樹林化、海の浄化、そして最後に人の心の中に樹を植える事で、子供たちの参加に力点を置いている。そして参加した子供たちは気仙沼の牡蠣養殖場に招待し川の流れの最後で営まれている産業を見てもらう。 実際、植樹に参加した子供たちは「朝シャンなどシャンプーの使いすぎは良くないな」と思ったなど環境への意識が変化する。
大川の住民の自治会でも川の土手の掃除でもゴミの処理には今までよりも数倍気を使うようになったという。これこそ心の中の樹であろう。
神社百選一覧はこちらから
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋
まつろわぬ民、蝦夷の住民に対処するため、多賀城の鎮守府将軍が紀州の熊野本宮から御祭神を勧進した。朝廷も応援して数百人の供奉者が付き添い、東海、伊豆、関東、九十九里牡鹿半島と五ヶ月も掛けて渡ってきた。気仙沼舞根に仮宮、瀬織津姫神社が設けられ、ついで蝦夷の酋長がヤマトタケルに埋められたという鬼首山に本宮社殿が建てられた。そして牟婁峯山(室根山)と名前が変えられた。
室根山は高さ895mあり、気仙沼の海上からも一望出来るので、陸前高田の氷上山、大船渡奥の五葉山と並んで、海上からの目標になった山である。八合目に古さびた室根神社があり本宮と新宮が並び、頂上附近にはつつじの山と各種の電波塔が立っている。
この山に氏子の気仙沼の漁師が「森は海の恋人」とうたって植樹運動を始めたのは平成元年の事だった。
漁師のリーダーは舞根の出身の畠山重篤さんで、室根神社の上陸地の漁師なので大祭のお潮汲み役もやった事がある。昭和四十年頃から豊富な水産物に恵まれた気仙沼湾の水に異変が起こり始めた。汚染がすすみ赤潮の発生で養殖の牡蠣が侵され、水揚げが激減しただけでなく、うなぎや鮭なども取れなくなってきた。
湾に流入する最も大きな川、大川の水に重大な変化が起こっていた。畠山さんたちは大学教授達の応援も得て必死に原因を究明し、とうとう川の上流で広葉樹が減り、落葉樹の落葉の蓄積から生まれるフルボ酸鉄という物質が海の植物性プランクトンを育てる栄養分の主人公であるのに減少している事を突き止めた。
その確保のためには川の上流の環境を変え、昔の自然に戻さなければならないと気がついた。
そのころ室根山では神社総代の話によると、昭和三十年頃から杉を植える運動が政府主導でブームとなり、ブナ林を切って杉を植えるという、今考えればもったいない事をしていた。
杉を育てると周りに他の木は育たない。おまけにしばらくして輸入材が急増し安価に売られ、手間賃や輸送代等で採算があわなくなり、杉林の間伐が放置されるようになった。暗い森には日が指さず、保水力が失われて、洪水もおきやすくなった。
この養殖場も東北大震災で壊滅した。
沖合いに出ては目に入る室根山を見ているうち、この山は流域の人にとって聖なる山なのでここに植林すればシンボリックな効果もあると考えた。
そこで流域の人と力をあわせて、地元の歌人からはスローガンとなる名文句をプレゼントしてもらい、運動の植樹の機運は広がった。
そして氏子の漁師たちによる初めての植樹が室根神社の入り口近くの登山道路の側でブナ二十本を植えて行なわれた。それ以来毎年実行され、今では全国からも参加者が増え千人を越える盛況となっている。
会場も室根山だけでなく、大川の南側の水源地の山になり地元の室根村「ひこばえの森分収林組合」、気仙沼市「ははその森の会」、唐桑町「カキの森を慕う会」の連名によって「ひこばえの森」が開かれた。
この運動は畠山さんも言っているが三つの目的があり、山の広葉樹林化、海の浄化、そして最後に人の心の中に樹を植える事で、子供たちの参加に力点を置いている。そして参加した子供たちは気仙沼の牡蠣養殖場に招待し川の流れの最後で営まれている産業を見てもらう。
実際、植樹に参加した子供たちは「朝シャンなどシャンプーの使いすぎは良くないな」と思ったなど環境への意識が変化する。
大川の住民の自治会でも川の土手の掃除でもゴミの処理には今までよりも数倍気を使うようになったという。これこそ心の中の樹であろう。
神社百選一覧はこちらから
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋