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●御祭神 ヤゴコロオモイカネノカミ チチブヒコノミコト アメノミナカヌシノカミ チチブノミヤヤスヒトシンノウ ●創 建 崇神(すじん)天皇代(西暦3世紀) 〒368ー0041 埼玉県秩父市番場町 秩父神社境内の森は「ハハソ(柞)の森」と呼ばれている。ハハソとは「チチの実の父の命(みこと)、ハハソ葉(ば)の母の命(みこと)」と万葉集に歌われていて、クヌギ、コナラなど落葉広葉樹林のこと。母巣と漢字を当てたりして万物の母胎(ぼたい)である神社の森の生命力を表した言葉ともいえる。秩父神社のハハソの森はケヤキ、カシ、ブナ、ナラ、イチョウなどをふくみ、かって二万坪もあったが明治新政府の予算確保のため全国の神社仏閣の土地が収用された時に大幅に削減された。今は七千坪しか残っていない。
この神社のご神体は南向こうの山、男性的なにぎりこぶし状の武甲山(ぶこうさん)である。そこからの伏流水を使うというシンボルの「水幣(ミズヌサ)」を近くの今宮(いまみや)神社から得て春に御田植祭りをやり、収穫後の秋にはお旅所(たびしょ)への神輿(みこし)行列を作ってその龍神を武甲山に返すという筋書きの祭りがある。その秩父夜祭(よまつり)が今も盛大に行われ、平成十九年十二月三日には人口六万人の秩父市に三十万人のお客が押し寄せた。
御祭神のうちアメノミナカヌシは妙見菩薩(みょうげんぼさつ)と言われ、秩父神社は鎌倉期から江戸末期まで妙見宮(みょうけんぐう)と呼ばれて北辰(北極星とそのまわりを巡る北斗七星ら)を祭り、夜祭の日に男神である武甲山と女神である妙見菩薩がお旅所の亀石で逢引したという伝説もある。かつての妙見宮の周辺には七つの井戸が有り、武甲山に向かった方向には天が池という池があって、そこには夜な夜な龍が出たという。この龍は本殿の東側に伝左甚五郎の彫刻で、暴れないよう鎖を巻かれて飾られている。徳川家康が再建したという社殿は日光東照宮のように明るい。ここから六台の提灯に身を包んだきらびやかな屋台が音をきしませながら一駅向こうのお旅所まで行列して徹夜で戻ってくるのだ。
しかしこの秩父のシンボル、武甲山の現状は惨憺(さんたん)たる状態である。筆者は高校の秩父出身の同窓生が文化祭で一人、大太鼓を股に挟むようにして演奏した秩父屋台囃子(やたいばやし)に興奮して秩父夜祭に来たことがあった。昭和三十二年ごろだったと思うがそのころの武甲山は彼が自慢げに「日本武尊(やまとたけるのみこと)が甲を置いていったからついた名だ」といっていたように握りこぶしが雄々(おお)しく見えていた。
しかし今や禿(は)げ山に近くなっている。数社のセメント工場は日本の高度成長と共にほとんどが石灰石で出来ているというこの山をどんどん剥(は)ぎ取っていき、中腹以上はえぐられたようになり、頂上も三十二mほど低くなってしまった(今は高さ千三百四m)。武甲山資料館に詳細の資料が有る。もうこれ以上は石灰岩が無いのでさらにひどい景観にはならないといわれているが誰も保障は出来ない。今なお採掘は続けられている。御神体の山がこういう状態になり秩父神社も何らかの対応を迫られているようだ。
神道界の理論的リーダーの一人といわれる薗田(そのだ)宮司はその機関紙「柞(ははそ)の杜(もり)」創刊号で「古くから秩父大神の鎮まるお山であり、かつて日本の名山の一つとして秩父郡民の郷土愛のシンボルであった武甲山を、住民の生きるためとはいえ無残に掘り崩してしまったことは、いまさらながら私共郷土に生きるものにとって深い心の傷となってしまいました」と記している。そして今後は「秩父未来会議」を開いて削られるままに放っておくのでなく「修景していく」ことを積極的に提案していきたいと言われた。名言である。不可能とは思えない。セメント企業も環境問題を素知らぬ顔で、避けて通る事は出来ないし、造園デザイナーなどの協力も仰げば実現は可能と思う。しかしこの問題に関しては誰かが明確にノーといい続ける事が大事で、それこそ秩父のスピリットの代表である秩父神社が日本のローマ法王のように断固として発言すべきだと思う。秩父にとどまらず日本全国に起きている現象だから。
数年後例の友人に再会したおり、武甲山のことをたずねたら、採掘は際限なく続いているらしく「将来的には表面は旧来の形を復元して、内容は巨大な空洞を利用して核廃棄物のメガ貯蔵庫にする」などと気炎をあげていた。高校時代の大言壮語を思い出させる放言だった。科学技術の進歩は留まることを知らないから、それも不可能ではあるまい。しかし日韓トンネル(壱岐〔いき〕・対馬〔つしま〕経由)や中韓トンネル(山東半島経由)でさえ、予算が大幅に予想を上回り、今は手をつけられないという結論に達したばかりである。それに核廃棄物のつまった武甲山というのも素直に両手を合わせられるだろうか。
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋
●御祭神
ヤゴコロオモイカネノカミ
チチブヒコノミコト
アメノミナカヌシノカミ
チチブノミヤヤスヒトシンノウ
●創 建
崇神(すじん)天皇代(西暦3世紀)
〒368ー0041 埼玉県秩父市番場町
秩父神社境内の森は「ハハソ(柞)の森」と呼ばれている。ハハソとは「チチの実の父の命(みこと)、ハハソ葉(ば)の母の命(みこと)」と万葉集に歌われていて、クヌギ、コナラなど落葉広葉樹林のこと。母巣と漢字を当てたりして万物の母胎(ぼたい)である神社の森の生命力を表した言葉ともいえる。秩父神社のハハソの森はケヤキ、カシ、ブナ、ナラ、イチョウなどをふくみ、かって二万坪もあったが明治新政府の予算確保のため全国の神社仏閣の土地が収用された時に大幅に削減された。今は七千坪しか残っていない。
この神社のご神体は南向こうの山、男性的なにぎりこぶし状の武甲山(ぶこうさん)である。そこからの伏流水を使うというシンボルの「水幣(ミズヌサ)」を近くの今宮(いまみや)神社から得て春に御田植祭りをやり、収穫後の秋にはお旅所(たびしょ)への神輿(みこし)行列を作ってその龍神を武甲山に返すという筋書きの祭りがある。その秩父夜祭(よまつり)が今も盛大に行われ、平成十九年十二月三日には人口六万人の秩父市に三十万人のお客が押し寄せた。
御祭神のうちアメノミナカヌシは妙見菩薩(みょうげんぼさつ)と言われ、秩父神社は鎌倉期から江戸末期まで妙見宮(みょうけんぐう)と呼ばれて北辰(北極星とそのまわりを巡る北斗七星ら)を祭り、夜祭の日に男神である武甲山と女神である妙見菩薩がお旅所の亀石で逢引したという伝説もある。かつての妙見宮の周辺には七つの井戸が有り、武甲山に向かった方向には天が池という池があって、そこには夜な夜な龍が出たという。この龍は本殿の東側に伝左甚五郎の彫刻で、暴れないよう鎖を巻かれて飾られている。徳川家康が再建したという社殿は日光東照宮のように明るい。ここから六台の提灯に身を包んだきらびやかな屋台が音をきしませながら一駅向こうのお旅所まで行列して徹夜で戻ってくるのだ。
しかしこの秩父のシンボル、武甲山の現状は惨憺(さんたん)たる状態である。筆者は高校の秩父出身の同窓生が文化祭で一人、大太鼓を股に挟むようにして演奏した秩父屋台囃子(やたいばやし)に興奮して秩父夜祭に来たことがあった。昭和三十二年ごろだったと思うがそのころの武甲山は彼が自慢げに「日本武尊(やまとたけるのみこと)が甲を置いていったからついた名だ」といっていたように握りこぶしが雄々(おお)しく見えていた。
しかし今や禿(は)げ山に近くなっている。数社のセメント工場は日本の高度成長と共にほとんどが石灰石で出来ているというこの山をどんどん剥(は)ぎ取っていき、中腹以上はえぐられたようになり、頂上も三十二mほど低くなってしまった(今は高さ千三百四m)。武甲山資料館に詳細の資料が有る。もうこれ以上は石灰岩が無いのでさらにひどい景観にはならないといわれているが誰も保障は出来ない。今なお採掘は続けられている。御神体の山がこういう状態になり秩父神社も何らかの対応を迫られているようだ。
神道界の理論的リーダーの一人といわれる薗田(そのだ)宮司はその機関紙「柞(ははそ)の杜(もり)」創刊号で「古くから秩父大神の鎮まるお山であり、かつて日本の名山の一つとして秩父郡民の郷土愛のシンボルであった武甲山を、住民の生きるためとはいえ無残に掘り崩してしまったことは、いまさらながら私共郷土に生きるものにとって深い心の傷となってしまいました」と記している。そして今後は「秩父未来会議」を開いて削られるままに放っておくのでなく「修景していく」ことを積極的に提案していきたいと言われた。名言である。不可能とは思えない。セメント企業も環境問題を素知らぬ顔で、避けて通る事は出来ないし、造園デザイナーなどの協力も仰げば実現は可能と思う。しかしこの問題に関しては誰かが明確にノーといい続ける事が大事で、それこそ秩父のスピリットの代表である秩父神社が日本のローマ法王のように断固として発言すべきだと思う。秩父にとどまらず日本全国に起きている現象だから。
数年後例の友人に再会したおり、武甲山のことをたずねたら、採掘は際限なく続いているらしく「将来的には表面は旧来の形を復元して、内容は巨大な空洞を利用して核廃棄物のメガ貯蔵庫にする」などと気炎をあげていた。高校時代の大言壮語を思い出させる放言だった。科学技術の進歩は留まることを知らないから、それも不可能ではあるまい。しかし日韓トンネル(壱岐〔いき〕・対馬〔つしま〕経由)や中韓トンネル(山東半島経由)でさえ、予算が大幅に予想を上回り、今は手をつけられないという結論に達したばかりである。それに核廃棄物のつまった武甲山というのも素直に両手を合わせられるだろうか。
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋