【神社百選】酒列磯前神社

●御祭神
オオナムチノミコト

スクナヒコノミコト
●創 建

斉衡(さいこう)312月(西暦856年)
〒311ー1202 茨城県ひたちなか市磯崎町


白亜紀の大地の造作(ぞうさく)に畏怖した祖先が祀(まつ)った、椿山山上の境内には森の中に円墳の古墳が多数築かれ、神社の外にも南の海辺に沿って古墳群が続く。古墳は仏教の浸透と共に無くなっていき、地域の祖霊の神社に人々は集った。

スクナヒコノミコトは醸造(じょうぞう)の神様でもあるので逆と言う字を酒に改められた。
そしてこの二柱の神とも薬や医療のことに詳しく民を教えたので、薬師大菩薩(やくしだいぼさつ)の名前ももらっていた。明治の神仏分離の時代まで薬師菩薩としても知られていたのである。
スクナヒコノミコトは難病に苦しむ多くの人々を助け、医術、薬剤、酒醸造の神様としても尊崇を受け、地元では「エビス様」として大漁と海上安全の神であり、また「薬師様、乳母神様」として病気平癒・子授け安産の神とあがめられている。

かって、この神社には「磯出」とか「浜降り」とかいわれたお祭りが有った。毎年四月七日旧那珂(なか)郡の四十八村の神社がこぞって海岸と酒列磯前(さかつらいそさき)神社に神幸する祭りで、みこしを担ぐ時「やんさやんさ」と掛け声をかけるところから「やんさまち」とも言われていた。
しかし残念ながら昭和四年を最後として中絶してしまった。やんさまちで神輿(みこし)を出す時は海岸の護摩壇石(ごまだんいし)と酒列磯前神社に進行し、祝詞(しゅくし)や神楽(かぐら)を奏したりしたという。

またやんさまちでは約九キロの海岸を競い走る競馬も行われていた。記録に残っているものによると、護摩壇石での儀式が終わった後、合図ののろしが上げられそれを見て待機していた各村の代表六頭の馬が一斉に波打ち際を走り出す。騎士たちはそれぞれ赤、白、黄色の鉢巻をし、左手に鉾(ほこ)を持って駆け抜け、一の鉾は豊年満作、二の鉾は浜大漁、三の鉾は家内安全として祝福されたと言う。
源頼朝はこの祭りを知って神社に神馬三十頭を寄進したと社伝に残っており往時の華やかさがうかがわれる。神社の境内にはこのやんさまちを見物した、幕末の徳川斉昭の腰掛けた平たい石が残されている。

三百m有る参道の椿は大島椿と言われる背の高いヤブツバキで三百年の歴史があり、三月下旬頃には満開となる。その季節には椿の花びらで毎朝参道がカーペットのようになるが、神職のそうじの後には掃き清められてしまう。


もとの社殿はもっと海側に近いところに正面が南向きに建てられたものだったが、徳川光圀の遺言により神社は前面の椿山に引越し、門は西向きに変えられた。
これは「大日本史」を生んだ水戸藩が王道を志向し、西の水戸、さらには京都を向いて建てるよう願ったものといわれている。

徳川光圀はまた仏教色の強い「護摩壇石」の名を嫌い、古代的な「清浄石」と改めるよう指示したが、今もなお護摩壇石でないと地元の人にも通じにくいようだ。
この護摩壇石で二十一日間の祈祷を試みた空海はこの石を「日出づる国の阿字石(あじいし)」と名づけた。五輪塔の最下壇の石を思わせたせいである。

進藤彦興著、  『詩でたどる日本神社百選』  から抜粋


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