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神社から近い白石川に十一月の今日も白鳥が来ているという。もう夕方近かったので挨拶もそこそこに車で飛び出す。
国道を突っ切って直ぐ右折すると河原沿いの道になり、川の水上をならんで飛んでいく白い鳥が見えた。白鳥だ。数多い鴨に混じり白とやや灰色(幼鳥)の首長の白鳥がざっと四十羽ほども川面にいた。長い首の動作がいかにも女っぽい。 やや暗いかなと思いながら夢中でファインダーでのぞくと意外とその白さが浮かび上がるのがわかった。夕方だからかえって印象的な風景になる。
しかし白鳥はどうしてこうも人の心をとらえて来たのだろうか。 渡り鳥だからじゃない?と妻が云った。
白石川では毎年十一月頃ロシア方面から飛来してきて三月頃まで滞在している。それからまたシベリアに帰っていくのだ。 なるほどその美しい姿態はわずか数ヶ月しか見られないのだ。それで数多くの白鳥伝説が生まれ、伝えられているのだ。
ヤマトタケルが何故白鳥になって飛んでいってしまったのか。滋賀の余呉湖の白鳥が天の羽衣を脱いで人にとついだ後、何故また飛んでいなくなってしまったのか。その天の羽衣の盗人は物部氏の先祖だという。
ここ刈田嶺神社の話ではまたヤマトタケルがここに滞在した時、この地方の豪族の娘とねんごろになり、そのまま都にかえってしまった。そのあと生まれた男の子はすくすくと強く育ちまた賢いので周囲はこの子がそのまま大きくなったらまた我々を統率するような男になるのではと心配した。
そこでひそかにその子をさらって川に流してしまった。(今その川の名を児捨川という)その子は白鳥になり母親の家の方に飛んでいったという。 ヤマトタケルは親子二代に渡って白鳥になったという話になる。美しい生き物も長続きしない。美しいままで姿を消す。
刈田嶺神社はこの白石地方の白鳥崇拝の伝説を受け継ぐ神社であり「白鳥大明神」とも呼ばれる。拝殿の絵馬二十数枚のうち一番多いのが白鳥の絵馬である。本殿の後ろの石碑には江戸時代に石に彫られた珍しい白鳥の浮き彫りが五体も飾られている。
この石彫りはこの近辺の各地に散らばって有った江戸時代からの物をこの周辺の部落の氏子さんたちが協議して昭和十六年にここに集めたものらしい。
白鳥は神の使い手という信仰はこの地方に特に根強い。
明治戊辰の役で官軍が賊軍を追ってこの地域まで来た時、官軍の兵士が遊び半分で白鳥の群れに銃を向けて撃った者がいた。地元の人達が激怒しその兵士を逆に追ったため、官軍が敵対ととらえ、この地域の殿様が責任を取らせられて切腹するはめになった。
また明治に入っても福島から来た猟師たちが白鳥を撃って住民に目撃され、あわや殺されそうな目にあったという。
谷川健一氏の「白鳥伝説」によると、古代のかなり早い時期から金属精錬の技術を持った物部氏が先住民の蝦夷と組んで鉱物の豊かな東北地方に入り込んできた。東北各地の物部系神社がそれを証明している。 特に蘇我氏との抗争に敗れてからは移住が激しかったろう。物部氏の系図は蝦夷とからみがあり、神武天皇の大和入りを妨害したナガスネヒコは主君であったニギハヤイノミコトに殺されて敗北したが、その兄のアビ(安日)は津軽に流された。
東北の豪族の安部、阿部氏も安東氏も、秋田藩主秋田氏もアビを先祖とする蝦夷の一族だった。アビ(安日)には妹もいたがニギハヤイに嫁ぎ、その子のウマシマジが物部の始祖になった。つまり物部にとって蝦夷のアビもナガスネヒコも始祖の叔父という関係なのだ。
アイヌ語を話していた蝦夷がどのようにして和人となるか、この物部氏が介在しているかもしれない。
神社百選一覧はこちらから
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋
神社から近い白石川に十一月の今日も白鳥が来ているという。もう夕方近かったので挨拶もそこそこに車で飛び出す。
国道を突っ切って直ぐ右折すると河原沿いの道になり、川の水上をならんで飛んでいく白い鳥が見えた。白鳥だ。数多い鴨に混じり白とやや灰色(幼鳥)の首長の白鳥がざっと四十羽ほども川面にいた。長い首の動作がいかにも女っぽい。
やや暗いかなと思いながら夢中でファインダーでのぞくと意外とその白さが浮かび上がるのがわかった。夕方だからかえって印象的な風景になる。
しかし白鳥はどうしてこうも人の心をとらえて来たのだろうか。
渡り鳥だからじゃない?と妻が云った。
白石川では毎年十一月頃ロシア方面から飛来してきて三月頃まで滞在している。それからまたシベリアに帰っていくのだ。
なるほどその美しい姿態はわずか数ヶ月しか見られないのだ。それで数多くの白鳥伝説が生まれ、伝えられているのだ。
ヤマトタケルが何故白鳥になって飛んでいってしまったのか。滋賀の余呉湖の白鳥が天の羽衣を脱いで人にとついだ後、何故また飛んでいなくなってしまったのか。その天の羽衣の盗人は物部氏の先祖だという。
ここ刈田嶺神社の話ではまたヤマトタケルがここに滞在した時、この地方の豪族の娘とねんごろになり、そのまま都にかえってしまった。そのあと生まれた男の子はすくすくと強く育ちまた賢いので周囲はこの子がそのまま大きくなったらまた我々を統率するような男になるのではと心配した。
そこでひそかにその子をさらって川に流してしまった。(今その川の名を児捨川という)その子は白鳥になり母親の家の方に飛んでいったという。
ヤマトタケルは親子二代に渡って白鳥になったという話になる。美しい生き物も長続きしない。美しいままで姿を消す。
刈田嶺神社はこの白石地方の白鳥崇拝の伝説を受け継ぐ神社であり「白鳥大明神」とも呼ばれる。拝殿の絵馬二十数枚のうち一番多いのが白鳥の絵馬である。本殿の後ろの石碑には江戸時代に石に彫られた珍しい白鳥の浮き彫りが五体も飾られている。
この石彫りはこの近辺の各地に散らばって有った江戸時代からの物をこの周辺の部落の氏子さんたちが協議して昭和十六年にここに集めたものらしい。
白鳥は神の使い手という信仰はこの地方に特に根強い。
明治戊辰の役で官軍が賊軍を追ってこの地域まで来た時、官軍の兵士が遊び半分で白鳥の群れに銃を向けて撃った者がいた。地元の人達が激怒しその兵士を逆に追ったため、官軍が敵対ととらえ、この地域の殿様が責任を取らせられて切腹するはめになった。
また明治に入っても福島から来た猟師たちが白鳥を撃って住民に目撃され、あわや殺されそうな目にあったという。
谷川健一氏の「白鳥伝説」によると、古代のかなり早い時期から金属精錬の技術を持った物部氏が先住民の蝦夷と組んで鉱物の豊かな東北地方に入り込んできた。東北各地の物部系神社がそれを証明している。
特に蘇我氏との抗争に敗れてからは移住が激しかったろう。物部氏の系図は蝦夷とからみがあり、神武天皇の大和入りを妨害したナガスネヒコは主君であったニギハヤイノミコトに殺されて敗北したが、その兄のアビ(安日)は津軽に流された。
東北の豪族の安部、阿部氏も安東氏も、秋田藩主秋田氏もアビを先祖とする蝦夷の一族だった。アビ(安日)には妹もいたがニギハヤイに嫁ぎ、その子のウマシマジが物部の始祖になった。つまり物部にとって蝦夷のアビもナガスネヒコも始祖の叔父という関係なのだ。
アイヌ語を話していた蝦夷がどのようにして和人となるか、この物部氏が介在しているかもしれない。
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進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋