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●御祭神 サルタヒコ・タケウチノスクネ 高麗王若光(こまおうじゃっこう)
●創 建 元正天皇2年(西暦712年) 〒350ー1243 埼玉県日高市新堀
高麗(こま)神社の拝殿前の鳥居の扁額(へんがく)は変わっている。高麗の両字のあいだに小さく「句」の字が書き足してある。明治三十三年、朝鮮の趙重応(チョウ・ジュウオウ)という両班(ヤンバン=役人)が来日した時、この高麗神社に参拝され扁額を書くよう依頼された。
その頃の儒教国家朝鮮の宮廷はロシアと日本とさらに旧宗主国清にはさまれ進退に苦しんでいた。ある時はロシアになびき、ある時は日本にかしぐという具合で国の舵(かじ)取りを見失おうとしていた。
趙氏は朝鮮の日本人へ与えるイメージが、元と共に西日本に攻め込んだ元寇(げんこう)時の高麗(こうらい)によって悪くなったと思い、古代高句麗(こうくり)が日本に与えた文化的寄与を思い起こさせようとしたのであろう。しかしこのあと日露戦争が起こり、その結果の一つとして十年後の明治四十三年には日韓併合が起こり朝鮮は独立を失ったのである。
この近代化の波に立ち遅れた朝鮮王朝の亡国の状況が、日本人の間に朝鮮人蔑視の風潮を生んだ。古代や近世における尊敬は一気に失われた。両国の間の残念な時期であった。
若光(じゃっこう)は亡命高句麗人の中でも『王(こきし)』の名を許された有能な渡来人で、霊亀(れいき)二年(西暦七一六年)」元明(げんめい)天皇の命を受け東国の駿河(するが)・甲斐(かい)・相模(さがみ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の七国にいた高麗人千七百九十九人を集め、高麗郡に移住し武蔵野の開拓と夷敵の防衛の任を任された。
その当時の人口は推定によれば日本全体でも五百万人からせいぜい六百万人といわれている。(注1)当時の関東地方はまだ縄文や弥生時代の雰囲気が根強く、原野がほとんどだったころだろうから全体の一割もいなかったろう。つまり多く見ても五十万人以下だろう。すると移住した約二千人は二百五十分の一に当たり、二百五十の村が関東地方にあったとして、その一つだったという事で決して少ない人数ではない。
しかもこの人たちは先進国高句麗の臣民(しんみん)である。高句麗は満州から北朝鮮までの広い領土を持ち、鉄器にすぐれ隋(ずい)・唐(とう)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)にも抵抗し続けて、朝鮮史上最も長く続いた王朝であった(BC三十七年から六百六十八年まで)。早くから仏教を受容して日本にも伝え、聖徳太子を教えた僧恵慈(えじ)や紙や顔料を伝えた僧曇徴(どんちょう)などもやってきていた。
高麗神社は関東にもう一つ有名なものが有る。大磯の高麗山の高来神社である。たかく神社と呼んでいるが高麗からきたことは間違いない。百六十八mの山の頂上には上宮という社があったが、今は無くなりトンビが空を舞っているだけである。
しかし若光(じゃっこう)王ははじめここに上陸しそれから天皇の命を受け、今の地に移住したと言われる。今でも隔年に一回七月の御船祭ではあわびを採って、調理し奉納する儀式がある。また四月の夜にはお御輿を頂上まで、狭くけわしい男坂をかついで勇壮に登る神事も残っている。漁師たちが歌い伝える祝い歌には若光王の上陸の光景を歌った物もある。(注2)
埼玉の高麗神社は高麗川の流れに近く、境内は後山(うしろやま)に沿った細長い敷地で奥のほうには高麗家住宅が藁葺(わらぶ)きの木造住宅で保存されて公開されている。慶長元年(一五九六)建立の古い民家で宮司の高麗家の人々が昭和二十九年まで住んでいたものを昭和四十六年に国指定重要文化財に指定され、昭和五十一年から解体調査、そして五十二年から一般公開されたもの。
真実の墓、高麗芝におおわれた円墳はそのたたずまいは小規模とはいえまさしく古代の王陵の雰囲気である。聖天院の石塔よりストレートに韓国文化を物語っている。これも高麗家住宅のように何時の日か公開されないものだろうかと高麗宮司に質問すると、「神社と離れた山上でセキュアリティに問題があるし、また塚の中に祭られた人の直接の子孫として公開は耐え難い」という事であった。
(注1)「人口で見る日本史」鬼頭 宏著 (注2)「高麗神社と高麗郷」(平成十四年高麗神社社務所)
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋
●御祭神
サルタヒコ・タケウチノスクネ
高麗王若光(こまおうじゃっこう)
●創 建
元正天皇2年(西暦712年)
〒350ー1243 埼玉県日高市新堀
高麗(こま)神社の拝殿前の鳥居の扁額(へんがく)は変わっている。高麗の両字のあいだに小さく「句」の字が書き足してある。明治三十三年、朝鮮の趙重応(チョウ・ジュウオウ)という両班(ヤンバン=役人)が来日した時、この高麗神社に参拝され扁額を書くよう依頼された。
その頃の儒教国家朝鮮の宮廷はロシアと日本とさらに旧宗主国清にはさまれ進退に苦しんでいた。ある時はロシアになびき、ある時は日本にかしぐという具合で国の舵(かじ)取りを見失おうとしていた。
趙氏は朝鮮の日本人へ与えるイメージが、元と共に西日本に攻め込んだ元寇(げんこう)時の高麗(こうらい)によって悪くなったと思い、古代高句麗(こうくり)が日本に与えた文化的寄与を思い起こさせようとしたのであろう。しかしこのあと日露戦争が起こり、その結果の一つとして十年後の明治四十三年には日韓併合が起こり朝鮮は独立を失ったのである。
この近代化の波に立ち遅れた朝鮮王朝の亡国の状況が、日本人の間に朝鮮人蔑視の風潮を生んだ。古代や近世における尊敬は一気に失われた。両国の間の残念な時期であった。
若光(じゃっこう)は亡命高句麗人の中でも『王(こきし)』の名を許された有能な渡来人で、霊亀(れいき)二年(西暦七一六年)」元明(げんめい)天皇の命を受け東国の駿河(するが)・甲斐(かい)・相模(さがみ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の七国にいた高麗人千七百九十九人を集め、高麗郡に移住し武蔵野の開拓と夷敵の防衛の任を任された。
その当時の人口は推定によれば日本全体でも五百万人からせいぜい六百万人といわれている。(注1)当時の関東地方はまだ縄文や弥生時代の雰囲気が根強く、原野がほとんどだったころだろうから全体の一割もいなかったろう。つまり多く見ても五十万人以下だろう。すると移住した約二千人は二百五十分の一に当たり、二百五十の村が関東地方にあったとして、その一つだったという事で決して少ない人数ではない。
しかもこの人たちは先進国高句麗の臣民(しんみん)である。高句麗は満州から北朝鮮までの広い領土を持ち、鉄器にすぐれ隋(ずい)・唐(とう)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)にも抵抗し続けて、朝鮮史上最も長く続いた王朝であった(BC三十七年から六百六十八年まで)。早くから仏教を受容して日本にも伝え、聖徳太子を教えた僧恵慈(えじ)や紙や顔料を伝えた僧曇徴(どんちょう)などもやってきていた。
高麗神社は関東にもう一つ有名なものが有る。大磯の高麗山の高来神社である。たかく神社と呼んでいるが高麗からきたことは間違いない。百六十八mの山の頂上には上宮という社があったが、今は無くなりトンビが空を舞っているだけである。
しかし若光(じゃっこう)王ははじめここに上陸しそれから天皇の命を受け、今の地に移住したと言われる。今でも隔年に一回七月の御船祭ではあわびを採って、調理し奉納する儀式がある。また四月の夜にはお御輿を頂上まで、狭くけわしい男坂をかついで勇壮に登る神事も残っている。漁師たちが歌い伝える祝い歌には若光王の上陸の光景を歌った物もある。(注2)
埼玉の高麗神社は高麗川の流れに近く、境内は後山(うしろやま)に沿った細長い敷地で奥のほうには高麗家住宅が藁葺(わらぶ)きの木造住宅で保存されて公開されている。慶長元年(一五九六)建立の古い民家で宮司の高麗家の人々が昭和二十九年まで住んでいたものを昭和四十六年に国指定重要文化財に指定され、昭和五十一年から解体調査、そして五十二年から一般公開されたもの。
真実の墓、高麗芝におおわれた円墳はそのたたずまいは小規模とはいえまさしく古代の王陵の雰囲気である。聖天院の石塔よりストレートに韓国文化を物語っている。これも高麗家住宅のように何時の日か公開されないものだろうかと高麗宮司に質問すると、「神社と離れた山上でセキュアリティに問題があるし、また塚の中に祭られた人の直接の子孫として公開は耐え難い」という事であった。
(注1)「人口で見る日本史」鬼頭 宏著
(注2)「高麗神社と高麗郷」(平成十四年高麗神社社務所)
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋