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明治天皇が明治四十五年七月三十日に崩御されたあと国民の多くは深い喪失感に襲われた。 年配の人達は自分たちの青春もまた失ったように感じた。
乃木将軍のように殉死する人も現れたくらいだ。 また皇太后も大正三年には後を追うように崩御され、国民の間にはお二人をしのんで神社を造ろうという気運が急速に高まった
国会の決議の後、神宮奉祀調査会が準備機関として立ち上げられた。 全国からその立地の招請が集まり、数々の候補地の中から両陛下となじみの深かった代々木の地が選ばれ、京都の伏見の御陵とは別にお祀りする事になった。
元は風のふきさらしの練兵場(今の代々木公園)や体の弱かった昭憲皇太后のための庭園(御苑)の有ったところで、森を新たに作るのに適したとは云えない土地だったが、大正九年(一九二〇)に完成してから今年で九十年たち、今や世界に誇れる人工の立派な森が出来上がっている。
この森の誕生には多くの苦労があった。 当時の政府の高官大隈重信は伊勢や日光のような杉とひのきの森を希望し、「藪のような森は要らない」とまで直言して、委員会の学者たちと対立した。
学者たちはドイツに留学してきた東大教授本多静六氏、本郷高徳氏、上原敬二氏らが協力し、「永遠の杜」の実現を合言葉に、基本的に地元の東京の自然に合致した野生の樹木を重視し、百年、二百年と世代を経て変化、自然更新していく森の生成を予想した。
その上で七十ヘクタール(約二十一万坪)に及ぶ敷地を七区に分けて計画的に植樹していった。 樹木は神宮の森の実現を期待する全国の青年団などが主体となって、献木や勤労奉仕が行われ、約十万本に近い寄付が集まり、順調に造成が進んだ。
苗木から植えるというより成木した大きな樹が根元から掘られて持ち込まれ、原宿駅から引き込まれた引き込み線で敷地に運ばれ、牛などを使って植え込まれた。 神社である以上、出来上がったときには既に一定の森厳な雰囲気がなければいけない。従って第一期の森には生育の早い松が重視された。
従来からあった赤松もこの段階では重要な景観を作った。 でもおよそ五十年後の第二期では松以外の針葉樹、ヒノキやサワラが生育してくる。
さらに第三期には樫、椎、楠などの常緑広葉樹が大きくなる。 今は出来てから九十年たち、当初の計画より早く第四期のすがたになっている。
予想通りの推移であるが、やや早いペースだともいわれる。第二次大戦の東京空襲では社殿は焼けてしまったが森は無傷で生き残った。
この森では一切の落ち葉は道からは掃き集められても捨てられる事は決してない。 皆木の足元に返される。また参拝者も林内は立ち入り禁止になっている。
今や人口千二百万人の大東京の、皇居に次ぐ巨大な緑のオアシスである。 外国人の多くは手軽に至近距離でいける神社として、山手線などに乗って気軽に訪れて年間千万人を越える内外の人々がやってくる。
古代以来の自然崇拝の森が見られるのでなく、初めから原初の日本の森を再現しようとして意図的に作られた森なのである、境内にはいたるところに明治天皇の御製と昭憲皇太后の御歌が掲げられている。 お二人は共に和歌を愛し、明治天皇は約十万首、昭憲皇太后は約三万首を生涯に歌われた。
後ろにもその内の一首をあげたが、代々木の「里」となっていて代々木の「森」となっていないのが、大きな違いだ。 しかし森となっていても立派に通用する。原宿駅を後にして鳥居をくぐると、もうそこは別世界なのである。
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋
明治天皇が明治四十五年七月三十日に崩御されたあと国民の多くは深い喪失感に襲われた。
年配の人達は自分たちの青春もまた失ったように感じた。
乃木将軍のように殉死する人も現れたくらいだ。
また皇太后も大正三年には後を追うように崩御され、国民の間にはお二人をしのんで神社を造ろうという気運が急速に高まった
国会の決議の後、神宮奉祀調査会が準備機関として立ち上げられた。
全国からその立地の招請が集まり、数々の候補地の中から両陛下となじみの深かった代々木の地が選ばれ、京都の伏見の御陵とは別にお祀りする事になった。
元は風のふきさらしの練兵場(今の代々木公園)や体の弱かった昭憲皇太后のための庭園(御苑)の有ったところで、森を新たに作るのに適したとは云えない土地だったが、大正九年(一九二〇)に完成してから今年で九十年たち、今や世界に誇れる人工の立派な森が出来上がっている。
この森の誕生には多くの苦労があった。
当時の政府の高官大隈重信は伊勢や日光のような杉とひのきの森を希望し、「藪のような森は要らない」とまで直言して、委員会の学者たちと対立した。
学者たちはドイツに留学してきた東大教授本多静六氏、本郷高徳氏、上原敬二氏らが協力し、「永遠の杜」の実現を合言葉に、基本的に地元の東京の自然に合致した野生の樹木を重視し、百年、二百年と世代を経て変化、自然更新していく森の生成を予想した。
その上で七十ヘクタール(約二十一万坪)に及ぶ敷地を七区に分けて計画的に植樹していった。
樹木は神宮の森の実現を期待する全国の青年団などが主体となって、献木や勤労奉仕が行われ、約十万本に近い寄付が集まり、順調に造成が進んだ。
苗木から植えるというより成木した大きな樹が根元から掘られて持ち込まれ、原宿駅から引き込まれた引き込み線で敷地に運ばれ、牛などを使って植え込まれた。
神社である以上、出来上がったときには既に一定の森厳な雰囲気がなければいけない。従って第一期の森には生育の早い松が重視された。
従来からあった赤松もこの段階では重要な景観を作った。
でもおよそ五十年後の第二期では松以外の針葉樹、ヒノキやサワラが生育してくる。
さらに第三期には樫、椎、楠などの常緑広葉樹が大きくなる。
今は出来てから九十年たち、当初の計画より早く第四期のすがたになっている。
予想通りの推移であるが、やや早いペースだともいわれる。第二次大戦の東京空襲では社殿は焼けてしまったが森は無傷で生き残った。
この森では一切の落ち葉は道からは掃き集められても捨てられる事は決してない。
皆木の足元に返される。また参拝者も林内は立ち入り禁止になっている。
今や人口千二百万人の大東京の、皇居に次ぐ巨大な緑のオアシスである。
外国人の多くは手軽に至近距離でいける神社として、山手線などに乗って気軽に訪れて年間千万人を越える内外の人々がやってくる。
古代以来の自然崇拝の森が見られるのでなく、初めから原初の日本の森を再現しようとして意図的に作られた森なのである、境内にはいたるところに明治天皇の御製と昭憲皇太后の御歌が掲げられている。
お二人は共に和歌を愛し、明治天皇は約十万首、昭憲皇太后は約三万首を生涯に歌われた。
後ろにもその内の一首をあげたが、代々木の「里」となっていて代々木の「森」となっていないのが、大きな違いだ。
しかし森となっていても立派に通用する。原宿駅を後にして鳥居をくぐると、もうそこは別世界なのである。
進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋