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●御祭神 タケミカズチノカミ ●創建 神武天皇元年(紀元前660年?) 〒314-0031 茨城県鹿嶋市宮中
タケミカズチノカミはフツヌシノカミと共にアマテラスオオカミの命によって出雲(いずも)にいたり、オオクニヌシノミコトを服従させた。 その後東国に向かい、部下のタケハズチは東北地方の蝦夷(えぞ)と戦い、アマノカガセオを打ち破り、東日本開拓の突破口を開いた。
そして神武(じんむ)天皇により東国の要として鹿島神宮の祭神として鎮(しず)まった。同じくフツヌシノカミは利根川南方の香取神宮に祭られた。 鹿島神宮には東国の防人(さきもり)たちが鹿島の神を祈って、朝廷から派遣されてはるか九州の海岸まで行軍したという。 これを「鹿嶋立ち」と言い、神社の入り口にはその防人の唄が石に刻まれている。
鹿嶋の森は深い。広さは二十万坪と言われ、本殿奥の杉のご神木は周囲十一m、樹齢千三百年とされ、そのほかヒノキ、マツ、タブノキ、もみじ、桜、スダジイ、ヘラシダそのほか照葉樹林の北限としてフウラン(風蘭)等もあり、八百種を超える野生の植物の宝庫だ。
奥参道は特に神の森と言える荘厳(そうごん)な雰囲気である。ここには江戸末期まで野生の鹿も生息し、奈良時代には春日大社の建立に伴い、神鹿として送られ、やがて放し飼いの鹿として鹿島神宮の鹿をしのぐ生息数となった。
この神域も歴史の変遷(へんせん)の影響を受けて、配置図などは変化している。もとの本殿は現在の奥宮であり、関が原の戦役に祈願がかなった徳川家康の寄進によるものである。
大昔、人々は御手洗池(みたらしいけ)の方から参拝に上がり、奥宮で拝んで、要石(かなめいし)まで行って帰るのが普通であったようだ。
現在の本殿、拝殿は、徳川二代将軍秀忠の造営になる。古い御神木があるのでこの聖地は春日大社の出来た頃から存在したと思われる。
神武天皇以前はどういう聖地であったのかを問うと、やはり奥宮のさらに奥に有る要石(かなめいし)が本来の祭祀(さいし)所であったようだ。 柵に囲まれ二mくらいの一本の榊(さかき)の樹の下に三十cmほどの直径の丸い 石が顔を出している。高さは十cmほどだ。
しかしこの一見なんでもない石が地軸(ちじく)まで続いていて、地球を押さえ、地震を警戒してなまずを動かないように抑えていると言う。 それで「要の石」と言うのだ。
ここでもまた好奇心の強いあのお年寄り、水戸の徳川光圀が出てくる。 彼は家来に命じて、この石の周りを地軸まで掘れるものかと昼夜を分かたず掘るに掘らせた。 七日七晩掘っても何にもぶつからず、とうとうあきらめたという伝説が残っている。
鹿島神宮とあまり間を置かずに建立された香取神宮とは伊勢の内宮と外宮の関係のようで、やはりここにも要石があり、鹿島神宮のそれが凹字型をしているのに対し凸字型で長い頭を出していて、神宮の入り口から左の脇にそれた特別の場所にある。
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋
●御祭神
タケミカズチノカミ
●創建
神武天皇元年(紀元前660年?)
〒314-0031 茨城県鹿嶋市宮中
タケミカズチノカミはフツヌシノカミと共にアマテラスオオカミの命によって出雲(いずも)にいたり、オオクニヌシノミコトを服従させた。
その後東国に向かい、部下のタケハズチは東北地方の蝦夷(えぞ)と戦い、アマノカガセオを打ち破り、東日本開拓の突破口を開いた。
そして神武(じんむ)天皇により東国の要として鹿島神宮の祭神として鎮(しず)まった。同じくフツヌシノカミは利根川南方の香取神宮に祭られた。
鹿島神宮には東国の防人(さきもり)たちが鹿島の神を祈って、朝廷から派遣されてはるか九州の海岸まで行軍したという。
これを「鹿嶋立ち」と言い、神社の入り口にはその防人の唄が石に刻まれている。
鹿嶋の森は深い。広さは二十万坪と言われ、本殿奥の杉のご神木は周囲十一m、樹齢千三百年とされ、そのほかヒノキ、マツ、タブノキ、もみじ、桜、スダジイ、ヘラシダそのほか照葉樹林の北限としてフウラン(風蘭)等もあり、八百種を超える野生の植物の宝庫だ。
奥参道は特に神の森と言える荘厳(そうごん)な雰囲気である。ここには江戸末期まで野生の鹿も生息し、奈良時代には春日大社の建立に伴い、神鹿として送られ、やがて放し飼いの鹿として鹿島神宮の鹿をしのぐ生息数となった。
この神域も歴史の変遷(へんせん)の影響を受けて、配置図などは変化している。もとの本殿は現在の奥宮であり、関が原の戦役に祈願がかなった徳川家康の寄進によるものである。
大昔、人々は御手洗池(みたらしいけ)の方から参拝に上がり、奥宮で拝んで、要石(かなめいし)まで行って帰るのが普通であったようだ。
現在の本殿、拝殿は、徳川二代将軍秀忠の造営になる。古い御神木があるのでこの聖地は春日大社の出来た頃から存在したと思われる。
神武天皇以前はどういう聖地であったのかを問うと、やはり奥宮のさらに奥に有る要石(かなめいし)が本来の祭祀(さいし)所であったようだ。
柵に囲まれ二mくらいの一本の榊(さかき)の樹の下に三十cmほどの直径の丸い
石が顔を出している。高さは十cmほどだ。
しかしこの一見なんでもない石が地軸(ちじく)まで続いていて、地球を押さえ、地震を警戒してなまずを動かないように抑えていると言う。
それで「要の石」と言うのだ。
ここでもまた好奇心の強いあのお年寄り、水戸の徳川光圀が出てくる。
彼は家来に命じて、この石の周りを地軸まで掘れるものかと昼夜を分かたず掘るに掘らせた。
七日七晩掘っても何にもぶつからず、とうとうあきらめたという伝説が残っている。
鹿島神宮とあまり間を置かずに建立された香取神宮とは伊勢の内宮と外宮の関係のようで、やはりここにも要石があり、鹿島神宮のそれが凹字型をしているのに対し凸字型で長い頭を出していて、神宮の入り口から左の脇にそれた特別の場所にある。
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋