2022.05.31

【神社百選】石都々古和気神社

神社dada
●御祭神
アジスキタカヒコネノミコト
オオクニヌシノミコト
ホンダワケノミコト
●創 建
不詳
〒963ー7858 福島県石川郡石川町下泉

イワツツコワケ神社という。境内には勾玉岩、鏡岩、亀石、天狗岩、船形岩、ヒモロギ石などの名のついた巨岩がばらばらに並んでいる。

【神社百選】石都々古和気神社001

神社の国道に面した正面の門は両側の建物に挟まれて息苦しい。
社務所はちょっと離れて同じ国道沿いにある。路地に旗指物が並んでいるのが目印。神社の正面の門の側に立派な石の獅子二頭が目立つ。ちょっと面白い動態をしている。

【神社百選】石都々古和気神社002

入り口の右側に由緒書があり、それによると神社の北側に中世の城跡があり、源氏の石川有光という武士が築城したと伝えられている。

永承六年(一〇五一)陸奥の俘囚(捕虜)の長、安倍頼時が反乱した前九年の役が起きた。
源頼義、義家にしたがって源有光も父と共に参戦し、勝利ののち功によって、この土地を得て山城を作り、姓を石川と変え隣には源氏の氏神、石清水八幡から勧進して八幡社を建てた。
したがって、近在の人はこの神社を単に八幡さんと呼ぶ人も多い。

しかし神社によると八幡を合祀したのは治暦二年(一〇六六)でそれ以前は石都々古和気神社であった。縄文以来の祭祀遺跡と呼ばれる巨石の丘であった。
この山の半分の城は三芦城と呼ばれたが小田原の陣に遅れたために怒った秀吉に没収され廃城となった。その後石川氏は伊達藩の一翼をになう豪族となり、神社は縄文時代以来の巨石を残す神社として知られるようになった。

しかし現在これらの巨石の遺物と神社を結ぶどんな伝説、神事行事も見受けられない。
ただ巨石毎に名前が付けられ、立て札が立てられているが、原始の巨石の雰囲気を味わうのに、これはむしろ邪魔になる物である。

幸い現代の映像処理には技術が有って、立て札や広告や電線等は消してしまうというので、それを利用する事にする。

【神社百選】石都々古和気神社003

ツツコワケというのは同じ福島県中通りの、棚倉町馬場の神社と同町八槻のツツコワケ神社と同名である。中通りには三つ以上のツツコワケ神社が有るということになる。

ツツコとは水戸納豆のようにワラに納めた物を指してツトッコ、ワラヅト、ツツコといい、特に種籾をツツコ二個に包んで、毎年収穫後の十一月の大祭で神社に供え、他の人の持ってきた物一つと交換して田植えに使うという風習が有ったらしい。

各人の工夫してきた品種改良が伝播する機会でもあった。どうやら農業の年中行事からつけられた名前のようだ。
東日本には西日本と違い、冷害という厳しい環境があり、それに強い品種の獲得は必修であった。八槻の宮司さんによるとツツコワケにはもうひとつの解釈も伝わっており、都(朝廷)を分るという意味があり、勢力の範囲外・境界線の地を指していたともいう。

【神社百選】石都々古和気神社004

御祭神はいずれもアジスキタカヒコネノミコトで、オオクニヌシノミコトと宗像三女神のタギリヒメとの間の子という。幼いとき、その泣き叫ぶ声があまりに大きかったので、静かになるまで船にのせて八十島を巡ったり、高いはしごを作って登り降りさせたりして大変だったという。スキ(鍬)と雷の力を併せ持った農業神と伝えられる。

江戸時代、棚倉藩は外様大名の伊達氏を南から監視する戦略的な藩なので、徳川秀忠は藩主に命じて外堀のある城を新たに作らせた。これが亀ヶ城といわれる棚倉城である。

しかしそこには既に「陸奥一宮」都々古別神社が有ったので秀忠は命令で神社を馬場という近くの丘、古墳跡に遷させた。黒ずんだ古い格式のある神社である。小さいながら桃山時代の古社の風情を残した神社である。
今の馬場都々古別神社境内には古さびた大銀杏やエドヒガンザクラ、杉桧の古木、大木、珍しいメタセコイヤが立つ隠れた神域が静まっている。

【神社百選】石都々古和気神社005

馬場から車で五キロほど南に行くと国道沿いに八槻の都々古別神社がある。ここには「奥州一ノ宮」の額が正面鳥居に掲げられている。
ヤマトタケルの東征のおり、八溝山の東夷の大将を攻めた時、討った矢が着いたところをヤツキといい、そこには既に「みくら」が有ったとの伝承が「陸奥の国風土記」に出ているという。

古社の雰囲気の馬場社と違い、明治の神仏分離令の解釈の差で、ここには保守された朱塗りの社殿が残されて明るい。
また境内の池の傍にはピンクの石楠花の花が咲き乱れる。

『詩でたどる日本神社百選』

進藤彦興著 『詩でたどる日本神社百選』から抜粋


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