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●御祭神 オオナムチノミコト スクナヒコノミコト ●創 建 斉衡(さいこう)3年12月(西暦856年) 〒311ー1301 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町
その彩色の不思議な石を御神体として出来たのが大洗磯前(おおあらいいそさき)神社と酒列磯前(さかつらいそさき)神社といわれる。両社の間には約十キロの太平洋の海岸線がある。岬は人界と異界を結ぶところとしてヒンズー教の聖地でもよく祀(まつ)られている。
この神磯(かみいそ)の異変は朝廷に伝えられると当時の東北地方のたびたびの地震と飢饉、それに伴う蝦夷(えぞ)の動揺と治安の悪化、そして全国で流行っていた天然痘の恐怖から、神社の建立はすんなり認められた
そして「大洗磯前薬師菩薩明神(おおあらいいそさきやくしぼさつみょうじん)」の称号を与えられた。神仏集合の江戸時代までそれで通っていた。明治になって仏教色の強い名前は消されてしまった。
オオナムチノミコトは別名大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、単に大黒様とも言われ慈悲(じひ)深く、スクナヒコノミコトが恵比寿と呼ばれたように、共に医薬の祖神(そしん)として信仰された。
神社の森は海からも陸からも目立つ岡の上にあり、境内の敷地は三万坪、松、シイノキ、クリ、杉が自生している。そしてよく見ると神社以前から祀られていたようなものも見受けられる。
頂上の駐車場の真ん中にある「烏帽子(えぼし)厳社」というのは明らかに海岸の磯にあったような同じ組成の烏帽子の形の岩を祀っている。どうしてこのような数十人以上の人がかりでないと運べない大きな石がそこにあるのか不明である。祀っていた家の子孫は現存するが今では由緒も不明だ。そうしたものが置いてある聖地に神社が建てられたと言うことであろう。
本殿の中には御神体の石が閉まってあると言うが、宮司も見ることを許されない。正面鳥居の下、岡を下っていくと東の神磯は御神体のあらわれたところで、現在そこには石の鳥居が立てられ、太平洋の波浪を被っている。
元日には神職と役員総代はそこに降りて初日の出を参拝する。一般市民も未明より参加するもの数万人、神磯の日の出を拝してから拝殿に上り参拝する。真東から太陽は鳥居の向こうに顔を見せる。
大洗磯崎神社はこのように薬師菩薩として長く尊崇(そんすう)されていたわけだが、延喜(えんぎ)式では「名神(みょうしん)大社」に列せられ、関東の庶民を守る神として名実共に力を持った。
しかし戦国時代の永禄年間、小田氏治(おだうじばる)の乱で社殿はことごとく焼失。徳川の平和が訪れてから水戸藩の徳川光圀(みつくに)公が由緒ある神社の荒廃(こうはい)を嘆き、元禄三年に社殿の造営を始め、水戸三代藩主綱條(つなえだ)公の時代に本殿、拝殿、神門にいたるまで再建した。従って神社の現在の社殿はほとんどが徳川初期の建築文化財として貴重な物である。
また境内には古い錆付いた錨(いかり)が多く納められている建物がある。これは周辺の漁師たちが網にひっかかった錨をそのままにせず、錆(さ)びた金物は神が嫌い、大漁を邪魔するとして引き揚げて神社に奉納したのだという。もうひとつ目立たない魅力があった。
拝殿の後ろは真新しいカヤの屋根の本殿だが、屋根の厚みが太く、きゃしゃな一間四方の木製の社殿を包み込むように、囲うように立っている。まるでカブトガニを思わせるような曲線の「流れ作り」だ。素朴で繊細な日本建築の妙に思わぬところで出会い幸福な気分になる。
東北大震災では石灯篭(とうろう)や三の鳥居や手すりなどが損傷をうけたが二十mの高台にあるため、比較的大きな被害はなかったといわれる。それどころか公営の水道も止まる中、神社の昔からの湧き水は避難者のすくいの水となった。
しかし衆人(しゅうじん)を驚かせたのは震災当日大洗海岸に出現した巨大な渦巻きだった。マスコミやインターネットに現れたその渦巻きは漁船も巻き込みながら大きく旋回していた。神の御手を感じさせる円心だった。
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋
●御祭神
オオナムチノミコト
スクナヒコノミコト
●創 建
斉衡(さいこう)3年12月(西暦856年)
〒311ー1301 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町
その彩色の不思議な石を御神体として出来たのが大洗磯前(おおあらいいそさき)神社と酒列磯前(さかつらいそさき)神社といわれる。両社の間には約十キロの太平洋の海岸線がある。岬は人界と異界を結ぶところとしてヒンズー教の聖地でもよく祀(まつ)られている。
この神磯(かみいそ)の異変は朝廷に伝えられると当時の東北地方のたびたびの地震と飢饉、それに伴う蝦夷(えぞ)の動揺と治安の悪化、そして全国で流行っていた天然痘の恐怖から、神社の建立はすんなり認められた
そして「大洗磯前薬師菩薩明神(おおあらいいそさきやくしぼさつみょうじん)」の称号を与えられた。神仏集合の江戸時代までそれで通っていた。明治になって仏教色の強い名前は消されてしまった。
オオナムチノミコトは別名大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、単に大黒様とも言われ慈悲(じひ)深く、スクナヒコノミコトが恵比寿と呼ばれたように、共に医薬の祖神(そしん)として信仰された。
神社の森は海からも陸からも目立つ岡の上にあり、境内の敷地は三万坪、松、シイノキ、クリ、杉が自生している。そしてよく見ると神社以前から祀られていたようなものも見受けられる。
頂上の駐車場の真ん中にある「烏帽子(えぼし)厳社」というのは明らかに海岸の磯にあったような同じ組成の烏帽子の形の岩を祀っている。どうしてこのような数十人以上の人がかりでないと運べない大きな石がそこにあるのか不明である。祀っていた家の子孫は現存するが今では由緒も不明だ。そうしたものが置いてある聖地に神社が建てられたと言うことであろう。
本殿の中には御神体の石が閉まってあると言うが、宮司も見ることを許されない。正面鳥居の下、岡を下っていくと東の神磯は御神体のあらわれたところで、現在そこには石の鳥居が立てられ、太平洋の波浪を被っている。
元日には神職と役員総代はそこに降りて初日の出を参拝する。一般市民も未明より参加するもの数万人、神磯の日の出を拝してから拝殿に上り参拝する。真東から太陽は鳥居の向こうに顔を見せる。
大洗磯崎神社はこのように薬師菩薩として長く尊崇(そんすう)されていたわけだが、延喜(えんぎ)式では「名神(みょうしん)大社」に列せられ、関東の庶民を守る神として名実共に力を持った。
しかし戦国時代の永禄年間、小田氏治(おだうじばる)の乱で社殿はことごとく焼失。徳川の平和が訪れてから水戸藩の徳川光圀(みつくに)公が由緒ある神社の荒廃(こうはい)を嘆き、元禄三年に社殿の造営を始め、水戸三代藩主綱條(つなえだ)公の時代に本殿、拝殿、神門にいたるまで再建した。従って神社の現在の社殿はほとんどが徳川初期の建築文化財として貴重な物である。
また境内には古い錆付いた錨(いかり)が多く納められている建物がある。これは周辺の漁師たちが網にひっかかった錨をそのままにせず、錆(さ)びた金物は神が嫌い、大漁を邪魔するとして引き揚げて神社に奉納したのだという。もうひとつ目立たない魅力があった。
拝殿の後ろは真新しいカヤの屋根の本殿だが、屋根の厚みが太く、きゃしゃな一間四方の木製の社殿を包み込むように、囲うように立っている。まるでカブトガニを思わせるような曲線の「流れ作り」だ。素朴で繊細な日本建築の妙に思わぬところで出会い幸福な気分になる。
東北大震災では石灯篭(とうろう)や三の鳥居や手すりなどが損傷をうけたが二十mの高台にあるため、比較的大きな被害はなかったといわれる。それどころか公営の水道も止まる中、神社の昔からの湧き水は避難者のすくいの水となった。
しかし衆人(しゅうじん)を驚かせたのは震災当日大洗海岸に出現した巨大な渦巻きだった。マスコミやインターネットに現れたその渦巻きは漁船も巻き込みながら大きく旋回していた。神の御手を感じさせる円心だった。
進藤彦興著、 『詩でたどる日本神社百選』 から抜粋