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みなさんは、ハワイの王様や王家と聞いて、どのような人・ことをイメージするでしょうか?「そもそもハワイに王様がいたことを知らなかった……!」という方や、「カメハメハ大王なら聞いたことがある!」という方など、さまざまだと思います。
このコラムでは、ハワイの第7代国王であるカラカウア(デイビット・カラカウア)について詳しくご紹介していきたいと思います。いったいカラカウア王はどんな人物だったのか、どんなことを成し遂げたのか、探っていきましょう!
カメハメハ大王と比べて、カラカウア王を知っているという方はあまり多くないのではないでしょうか。そこで、まずはハワイ王国第7代国王デイビット・カラカウアが、どんな人柄で、どのようにして国王になったのかなどについてご紹介します!
ハワイ王国第7代国王のデイビット・カラカウアは、1836年11月16日ホノルル生まれの人物です。快活で社交的な人柄だったと言われていて、その明るい性格から、世界中の王族や賓客から愛され、親しまれた人でした。
また一方では、ハワイらしい穏やかでのんびりとした性格だったという話、好奇心旺盛だったという話、発明に取り組む研究熱心な性格だったという話も残っています。
カラカウア王は、王族が通う学校「ロイヤル・スクール」にて、アメリカ人宣教師から教育を受け、在学中には軍事訓練も受けていました。その後、カメハメハ3世、4世、5世のもと、約15年間軍事や政治の世界に身を置きました。
1874年、第6代国王ルナリロ王が在位わずか1年ほどで亡くなってしまいます。その際、跡継ぎを指名していなかったため、王様を選ぶ選挙が議会で行われました。その選挙でほかの候補者に大きな差をつけて王に選ばれたのが、カラカウアだったのです。
カラカウア王には、「メリー・モナーク(merry monarch:陽気な王様・陽気な君主)」というあだ名がありました。人々からあだ名で呼ばれて親しまれた王様でもあったのです。「陽気な」といわれたのは、カラカウア王の明るく華やかな人柄や生活ぶりからでした。
カラカウア王は、在位中にたくさんの功績を残しました。どのようなことを成し遂げ、その後のハワイや世界の国々にどのような影響を与えたのか、チェックしていきましょう!
カラカウア王は、9か月という長期間にわたる世界一周旅行をしたことでも有名です。これは、移民について学び、外交関係を改善するという目的がありました。当時、ハワイは西欧人の来島以来、病気で人口が減っており、外国からの移民を労働力として受け入れなければならない状況だったのです。
世界一周旅行の最初の寄港地はなんと日本の横浜!
その後、中国、シンガポール、マレーシア、ミャンマー、インド、エジプト、バチカン、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻りました。
ちなみに、アメリカ滞在中には、発明家・エジソンにも会ったそうです。そして、蓄音機にハワイ語でメッセージを収録し、ハワイに持ち帰りました。
カラカウア王が行った大切な功績のひとつが、アメリカとの互恵条約締結です。ハワイ経済を良くするため、1874年アメリカ・ワシントンに行き、グラント大統領と会っています。1875年には、ハワイの名産である砂糖やお米の輸入自由化を認めてもらうことに成功しました。
こうした砂糖などの産業によって、ハワイの隆盛を成し遂げました。
カラカウア王は日本にとっても大きな影響を与えました。現職の外国元首の初来日として、日本は彼を丁寧に迎えました。カラカウア王は明治天皇にも謁見し、ハワイへの日本人移民受入れを申し出て、1885年に始まる官約移民(政府公認の移民)のきっかけをつくりました。
官約移民はハワイ王国が終わりを迎える1894年までつづきました。その間にハワイへ渡った日本人は約3万人といわれています。それ以降も日本からハワイへ移住する人は増えていきました。こうした理由から、カラカウア王は「日系移民の父」とも称されています。
カラカウア王は、ハワイ文化の復活にも力を入れました。
カラカウア王が王様に選出された当時、アメリカからやってきた宣教師たちによってフラをはじめとするハワイ文化が迫害されていました。ハワイの伝統文化の存続が危ぶまれるなか、カラカウア王は、フラを公式行事に取り入れるなど、伝統文化の復活に大きく貢献しました。特に、1886年のカラカウア王50歳の誕生式典の際に行われた盛大なフラのパフォーマンスは、ハワイ文化の復活のピークとして、ハワイの人々の心に強く刻まれています。
なお、フラを復活させたカラカウア王の功績にちなんで、現在ハワイ島では毎年フラの大会「メリー・モナーク・フェステバル」が開催されているんですよ!
「メリー・モナーク・フェステバル」について詳しく知りたい方は こちら
カラカウア王は、1882年に3年の年月と当時のお金で36万ドルもの資金をつぎこんだ、イオラニ宮殿という宮殿を建設しました。イオラニ宮殿は、ホノルルにある当時の最新のテクノロジーを駆使して建てられた、ハワイ王朝の栄華の象徴ともいえる宮殿です。
宮殿のなかには、水洗トイレ、水と湯の出るシャワー、電話、ハワイ王朝第一代目からの肖像画、世界各国や王室などから贈られた品々などがあります。
また、ハワイではじめて「電灯」がつけられたことでも有名です。これは、ホワイトハウスよりも早かったといわれています。 現在、イオラニ宮殿はアメリカ合衆国に存在する唯一の宮殿となっています。
「イオラニ宮殿」について詳しく知りたい方は こちら
カラカウア王は、妹のリリウオカラニとともに、大の音楽好きでもありました。いろいろな歌を残しましたが、最も有名なのが「Hawaiʻi Ponoʻī」です。昔はハワイ国歌であり、1967年以降はハワイ州歌として親しまれています。
そのほか、E Nihi Ka Hele、Koni Au i ka Wai、Nā Mele、Sweet Lei Lehuaなどがカラカウア王自身が作った曲として知られています。
カラカウア王は、日本からハワイに多くの人が移住するきっかけをつくったり、私たちが今親しんでいるハワイ文化を復活させたりしました。カラカウア王の功績を知ると、ハワイが身近に感じられるのではないでしょうか。
このコラムが、みなさんがハワイをもっと好きになるきっかけになればうれしいです!
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みなさんは、ハワイの王様や王家と聞いて、どのような人・ことをイメージするでしょうか?「そもそもハワイに王様がいたことを知らなかった……!」という方や、「カメハメハ大王なら聞いたことがある!」という方など、さまざまだと思います。
このコラムでは、ハワイの第7代国王であるカラカウア(デイビット・カラカウア)について詳しくご紹介していきたいと思います。いったいカラカウア王はどんな人物だったのか、どんなことを成し遂げたのか、探っていきましょう!
目次
ハワイ王国第7代国王デイビット・カラカウア
カメハメハ大王と比べて、カラカウア王を知っているという方はあまり多くないのではないでしょうか。そこで、まずはハワイ王国第7代国王デイビット・カラカウアが、どんな人柄で、どのようにして国王になったのかなどについてご紹介します!
カラカウア王とは
ハワイ王国第7代国王のデイビット・カラカウアは、1836年11月16日ホノルル生まれの人物です。快活で社交的な人柄だったと言われていて、その明るい性格から、世界中の王族や賓客から愛され、親しまれた人でした。
また一方では、ハワイらしい穏やかでのんびりとした性格だったという話、好奇心旺盛だったという話、発明に取り組む研究熱心な性格だったという話も残っています。
国王になるまでの歴史
カラカウア王は、王族が通う学校「ロイヤル・スクール」にて、アメリカ人宣教師から教育を受け、在学中には軍事訓練も受けていました。その後、カメハメハ3世、4世、5世のもと、約15年間軍事や政治の世界に身を置きました。
1874年、第6代国王ルナリロ王が在位わずか1年ほどで亡くなってしまいます。その際、跡継ぎを指名していなかったため、王様を選ぶ選挙が議会で行われました。その選挙でほかの候補者に大きな差をつけて王に選ばれたのが、カラカウアだったのです。
カラカウア王のあだ名
カラカウア王には、「メリー・モナーク(merry monarch:陽気な王様・陽気な君主)」というあだ名がありました。人々からあだ名で呼ばれて親しまれた王様でもあったのです。「陽気な」といわれたのは、カラカウア王の明るく華やかな人柄や生活ぶりからでした。
カラカウア王の功績
カラカウア王は、在位中にたくさんの功績を残しました。どのようなことを成し遂げ、その後のハワイや世界の国々にどのような影響を与えたのか、チェックしていきましょう!
世界一周旅行
カラカウア王は、9か月という長期間にわたる世界一周旅行をしたことでも有名です。これは、移民について学び、外交関係を改善するという目的がありました。当時、ハワイは西欧人の来島以来、病気で人口が減っており、外国からの移民を労働力として受け入れなければならない状況だったのです。
世界一周旅行の最初の寄港地はなんと日本の横浜!
その後、中国、シンガポール、マレーシア、ミャンマー、インド、エジプト、バチカン、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻りました。
ちなみに、アメリカ滞在中には、発明家・エジソンにも会ったそうです。そして、蓄音機にハワイ語でメッセージを収録し、ハワイに持ち帰りました。
米国との互恵条約締結
カラカウア王が行った大切な功績のひとつが、アメリカとの互恵条約締結です。ハワイ経済を良くするため、1874年アメリカ・ワシントンに行き、グラント大統領と会っています。1875年には、ハワイの名産である砂糖やお米の輸入自由化を認めてもらうことに成功しました。
こうした砂糖などの産業によって、ハワイの隆盛を成し遂げました。
日本人官約移民
カラカウア王は日本にとっても大きな影響を与えました。現職の外国元首の初来日として、日本は彼を丁寧に迎えました。カラカウア王は明治天皇にも謁見し、ハワイへの日本人移民受入れを申し出て、1885年に始まる官約移民(政府公認の移民)のきっかけをつくりました。
官約移民はハワイ王国が終わりを迎える1894年までつづきました。その間にハワイへ渡った日本人は約3万人といわれています。それ以降も日本からハワイへ移住する人は増えていきました。こうした理由から、カラカウア王は「日系移民の父」とも称されています。
ハワイ文化の復活
カラカウア王は、ハワイ文化の復活にも力を入れました。
カラカウア王が王様に選出された当時、アメリカからやってきた宣教師たちによってフラをはじめとするハワイ文化が迫害されていました。ハワイの伝統文化の存続が危ぶまれるなか、カラカウア王は、フラを公式行事に取り入れるなど、伝統文化の復活に大きく貢献しました。特に、1886年のカラカウア王50歳の誕生式典の際に行われた盛大なフラのパフォーマンスは、ハワイ文化の復活のピークとして、ハワイの人々の心に強く刻まれています。
なお、フラを復活させたカラカウア王の功績にちなんで、現在ハワイ島では毎年フラの大会「メリー・モナーク・フェステバル」が開催されているんですよ!
「メリー・モナーク・フェステバル」について詳しく知りたい方は こちら
イオラニ宮殿の建設
カラカウア王は、1882年に3年の年月と当時のお金で36万ドルもの資金をつぎこんだ、イオラニ宮殿という宮殿を建設しました。イオラニ宮殿は、ホノルルにある当時の最新のテクノロジーを駆使して建てられた、ハワイ王朝の栄華の象徴ともいえる宮殿です。
宮殿のなかには、水洗トイレ、水と湯の出るシャワー、電話、ハワイ王朝第一代目からの肖像画、世界各国や王室などから贈られた品々などがあります。
また、ハワイではじめて「電灯」がつけられたことでも有名です。これは、ホワイトハウスよりも早かったといわれています。
現在、イオラニ宮殿はアメリカ合衆国に存在する唯一の宮殿となっています。
「イオラニ宮殿」について詳しく知りたい方は こちら
カラカウア王が作詞した曲
カラカウア王は、妹のリリウオカラニとともに、大の音楽好きでもありました。いろいろな歌を残しましたが、最も有名なのが「Hawaiʻi Ponoʻī」です。昔はハワイ国歌であり、1967年以降はハワイ州歌として親しまれています。
そのほか、E Nihi Ka Hele、Koni Au i ka Wai、Nā Mele、Sweet Lei Lehuaなどがカラカウア王自身が作った曲として知られています。
カラカウア王を知れば、ハワイがもっと好きになる♪
カラカウア王は、日本からハワイに多くの人が移住するきっかけをつくったり、私たちが今親しんでいるハワイ文化を復活させたりしました。カラカウア王の功績を知ると、ハワイが身近に感じられるのではないでしょうか。
このコラムが、みなさんがハワイをもっと好きになるきっかけになればうれしいです!
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