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ハワイ観光の定番のスポット、ホノルル・ダウンタウンにあるカメハメハ大王像。カメハメハ大王とはハワイ諸島を統一しハワイ王国を建国した人物です。
ハワイで最も有名な王様ですが、その出生や遺骨については未だ謎に包まれています。 今回は、カメハメハ大王をはじめ、カメハメハ一族、ハワイ王国の歴史についてお届けします。
「カ・メハメハ=孤独な人・静かな人」の意味。ハワイ島北部コハラの王族(アリイ)の家に生まれたカメハメハ。5歳まで両親と離れてひっそりと育てられたことから付けられた名前だといわれています。
1758年頃に生まれたと推測されますが、古代ハワイには文字がなかったため、はっきりとしたことはわかっていません。
ハワイ王国は8代(84年間)続きますが、カメハメハ一族が統治したのはカメハメハ五世までの62年間。その後は、ルナリロ、カラカウアなど、王族の中から選挙で選ばれた国王がハワイ王国を治めることになります。
ハワイ王国に誕生した8人の国王について、それぞれの時代背景や、彼らの功績についてまとめてみました。
カメハメハ大王は、ハワイ諸島を統一した、ハワイ王国初代国王です。かつてハワイは、各島をそれぞれの酋長が治めており、勢力争いが絶えませんでした。
カメハメハは、探検家ジェームズクックのハワイ諸島発見によりもたらされた、大砲や銃など西洋の最先端武器・戦術を取り入れることで、強大な武力を手にしていきました。
1795年ハワイ島からマウイ島、オアフ島までを支配下おさめたカメハメハは、1810年、カウアイ島を含めハワイ8島すべてを統一しハワイ王国を築きました。
外交感覚に優れ、西洋諸国と友好関係を保ちながら、ハワイの独立と伝統文化を守っていたカメハメハ大王。
一方で、インドや中国で珍重されていた白檀(びゃくだん)を王朝の独占事業とすることで、莫大な資産を築いたといわれています。
1819年カメハメハ大王が亡くなると、長男の「リホリホ」が第2代国王カメハメハ二世となりました。
彼の後見人でカメハメハ大王の妻、カアフマヌの提言により、カメハメハ二世は、約300年続いた厳しい「カプ(タブー)制度」を廃止。
彼自身が公の場で女性と一緒に食事をとることで※、カプを破っても災いが起こらないことを証明してみせたのです。 ※異性と同じ場所で、同じものを食べることはカプで禁止されていました。
この一件が引き金となり、ハワイの人々を長年苦しめてきた「カプ制度」と「古代ハワイの宗教」は崩壊。多くの人がキリスト教に改宗したといわれています。
カメハメハ二世は1823年、カママル妃とともに英国を訪問した際、滞在先のロンドンではしかにより亡くなりました。
リホリホの弟「カウイケアオウリ」は、1825年10歳の若さでカメハメハ三世となり、その後約30年に渡りハワイ王国を統治した国王です。
捕鯨業が全盛期を迎えた頃、ハワイはその立地を活かし、太平洋に展開する捕鯨船の中継地・補給基地として発展しました。
カメハメハ三世は、首都をマウイ島ラハイナからオアフ島ホノルルに遷都、憲法制定、宗教の自由化、土地所有権を認めるなど、ハワイの近代化を実現。
一方で、欧米から入ってきた伝染病による人口減少、英仏から領土受け渡しや不平等条約を強いられるなど、苦しい問題にも直面していました。
カメハメハ四世となった「アレキサンダー・リホリホ」は、カメハメハ大王の孫。幼い頃から跡継ぎとして、英才教育を受けてきました。
1855年、20歳の時に即位し、翌年エマ王妃と結婚。エマは英国出身の叔母の元で育ち、彼もまた10代で英国を訪れていたことから、親英派だったといわれています。
この頃になると、伝染病による人口減少はさらに深刻化。約30万人だったハワイアンの人口は7万3,000人と1/4以下にまで減少していました。
カメハメハ四世とエマ王妃は独自で基金を募り、先進的な病院やハンセン病医療施設などを設立。エマ王妃にちなんで、「クイーンズ・メディカル・センター」と名付けられた施設は、ハワイ随一の総合病院として今も人々の健康を守っています。
カメハメハ四世は、エマ王妃との間に生まれた最愛の息子、アルバート王子を4歳という若さで亡くします。失意の中、翌年1863年彼自身も29歳でこの世を去りました。
弟の死により、兄の「ロット・カプアイヴァ」がカメハメハ五世に。この時代には、捕鯨業から砂糖産業へと経済の主軸が変わり、農場の労働者不足が深刻化。それを受け1864年に移民局を立ち上げました。
1867年になると、米西海岸とハワイ間に蒸気船の定期航路が運航するなど、米国との間の海運がより便利になります。
彼は亡くなる前、カメハメハ一族の末裔であるビショップ氏の妻、バニース・パウアヒ王女に後継を依頼しますが、受け入れられませんでした。そのため、カメハメハ一族(直系)による王政は幕を閉じることになります。
第6代国王ウィリアム・チャールズ・ルナリロは、ハワイ王国建国以来、初めて選挙で選ばれた王様。カラカウアに勝利し国王になりました。
ルナリロは、カメハメハ四世・五世とは対照的に親米派、閣僚にアメリカ人を採用するなどの政策を行いました。しかし即位わずか1年でこの世を去ってしまいます。
第7代国王デイヴィッド・カラカウア。前国王ルナリロが後継者を指名することなく亡くなったため、1872年選挙でエマ王妃を破り、国王に選ばれました。
カラカウアはアメリカと交渉の末1875年に砂糖や米の輸入の自由化を実現。移民問題や外交にも積極的で日本や中国、インド、など世界各国を訪れたことでも有名です。
陽気で華やかな性格からメリー・モナーク(陽気な王様)と呼ばれ、国民から愛されていたカラカウア。50年近く禁じられていたフラを復活させたことはご存じの方も多いのでは?
ハワイ島ヒロで行われる、フラの祭典「メリーモナーク・フェスティバル」の名前は、彼の功績にちなんで付けられました。
19世紀後半になるとアメリカ合衆国への併合を求める親米派の動きが高まります。そんな中、カラカウアは体調を崩し1891年、静養先のアメリカで亡くなります。
8代目にしてハワイ王国最後の国王。兄カラカウアの後を継ぎ、リリウオカラニ女王が王位につきました。しかし1894年、彼女はクーデターにより退位を余儀なくされ、80年以上続いたハワイ王国は終わりを告げます。
リリウオカラニは、8カ月もの間イオラニ宮殿に幽閉されていたことから「悲劇の女王」と呼ばれています。幽閉中に作曲した「アロハ・オエ」は、皮肉にも、音楽家でもある彼女の代表作となりました。
イオラニ宮殿では今も女王が暮らしていた「幽閉の間」を見学することができます。孤独と失望の中、強く生きたリリウオカラニ。晩年は、夫の実家であるホノルル・ワシントンプレイスで余生を過ごしたそうです。
オアフ島ホノルル港を見下ろすヌウアヌの高台に、ロイヤル・モザリアム(王家の霊廟)があります。ここは、歴代ハワイの国王(カメハメハ大王・ルナリロ王以外)を含む53人が埋葬されている神聖な場所。
敷地内には礼拝堂があるほか、カメハメハ王朝、カラカウア王朝など、一族ごとに5つの墓所があります。墓所は全て地下にあり、墓所に下りる階段は埋められているのだとか。
現在も子孫が残るカラカウア王のものは埋められていませんが、残念ながら一般の人の立ち入りはNG。礼拝堂の入口は施錠されていますが、管理者に頼めば中を見学できますよ。
ロイヤル・モザリアムは、かつてイオラニ宮殿の庭にあった王族の墓地が満杯になったため、1865年新たに作られた霊廟。松明(たいまつ)の灯りに照らされた行列とともにイオラニ宮殿の墓地から18人の王族の亡骸がこの地に移されました。
初代国王カメハメハ大王の墓は、ロイヤル・モザリアムにはありません。ではいったいどこにあるのでしょう?
古代ハワイでは、身分の高い人の遺骨には「マナ(パワー)」が宿ると考えられていました。ハワイの伝統に従い、偉大なカメハメハ大王の遺骨は、その強力なマナを持ち去ろうとする者から守るため、ひっそりと葬られ隠されているのです。 ハワイの人々は、大王の尊厳を守るため、積極的に探そうとはしないのだとか。
ちなみにもう1人、ロイヤル・モザリアムに埋葬されていないルナリロ王の遺骨は、本人の希望により、カワイアハオ教会に埋葬されているそうです。
ハワイにはカメハメハ一族、及び王家ゆかりの地がたくさんあります。中でも代表的なものを2つ紹介します。
オアフ島ホノルルのダウンタウンにあるイオラニ宮殿は、1882年第7代国王カラカウアによって建てられました。水洗トイレや電話など当時の最新設備を備えたアメリカ合衆国唯一の宮殿跡といわれています。
ここは代々王の宮殿として使われていた「ハレ・アリイ」があった場所。建物の老朽化に伴い新たに建てられたのがイオラニ宮殿というわけです。
イオラニの名前は、29歳の若さで亡くなった「アレキサンダー・リホリホ・イオラニ(カメハメハ四世)」を偲んで付けられたのだとか。宮殿の向かい側には、あの有名なカメハメハ大王像が立っています。
オアフ島にあるハワイ最古のキリスト教会。当初は藁葺き(わらぶき)の質素なものでしたが、カメハメハ三世の命により、1842年約1万4千個の珊瑚(さんご)を使用した堅固で美しい礼拝堂が建てられました。
この頃にはキリスト教に改宗した王族も多く、教会内にはロイヤルボックスが設置されました。「アリイ(王族)の教会」と呼ばれ、歴代王の戴冠式、結婚式などにも使われたとか。カメハメハ四世とエマ王妃の結婚式もここで行われたそうですよ。
ハワイで最も有名な王様、カメハメハ大王。未だ謎の多いカメハメハとその一族や、ハワイ王国の歴史について、知っているようで知らないお話をお届けしました。
ハワイの歴史は、ハワイアンと西欧勢力との戦いの歴史でもあります。時代に翻弄されながらもハワイ王国を守ろうと奮闘した8人の国王たち。彼らに思いを馳せ、王家ゆかりの地を巡ってみるのもいいですね。
ハワイ観光の定番のスポット、ホノルル・ダウンタウンにあるカメハメハ大王像。カメハメハ大王とはハワイ諸島を統一しハワイ王国を建国した人物です。
ハワイで最も有名な王様ですが、その出生や遺骨については未だ謎に包まれています。
今回は、カメハメハ大王をはじめ、カメハメハ一族、ハワイ王国の歴史についてお届けします。
目次
カメハメハ一族とは
「カ・メハメハ=孤独な人・静かな人」の意味。ハワイ島北部コハラの王族(アリイ)の家に生まれたカメハメハ。5歳まで両親と離れてひっそりと育てられたことから付けられた名前だといわれています。
1758年頃に生まれたと推測されますが、古代ハワイには文字がなかったため、はっきりとしたことはわかっていません。
ハワイ王国は8代(84年間)続きますが、カメハメハ一族が統治したのはカメハメハ五世までの62年間。その後は、ルナリロ、カラカウアなど、王族の中から選挙で選ばれた国王がハワイ王国を治めることになります。
ハワイ王国の8人の王
ハワイ王国に誕生した8人の国王について、それぞれの時代背景や、彼らの功績についてまとめてみました。
カメハメハ大王(一世)
カメハメハ大王は、ハワイ諸島を統一した、ハワイ王国初代国王です。かつてハワイは、各島をそれぞれの酋長が治めており、勢力争いが絶えませんでした。
カメハメハは、探検家ジェームズクックのハワイ諸島発見によりもたらされた、大砲や銃など西洋の最先端武器・戦術を取り入れることで、強大な武力を手にしていきました。
1795年ハワイ島からマウイ島、オアフ島までを支配下おさめたカメハメハは、1810年、カウアイ島を含めハワイ8島すべてを統一しハワイ王国を築きました。
外交感覚に優れ、西洋諸国と友好関係を保ちながら、ハワイの独立と伝統文化を守っていたカメハメハ大王。
一方で、インドや中国で珍重されていた白檀(びゃくだん)を王朝の独占事業とすることで、莫大な資産を築いたといわれています。
カメハメハ二世(リホリホ)
1819年カメハメハ大王が亡くなると、長男の「リホリホ」が第2代国王カメハメハ二世となりました。
彼の後見人でカメハメハ大王の妻、カアフマヌの提言により、カメハメハ二世は、約300年続いた厳しい「カプ(タブー)制度」を廃止。
彼自身が公の場で女性と一緒に食事をとることで※、カプを破っても災いが起こらないことを証明してみせたのです。
※異性と同じ場所で、同じものを食べることはカプで禁止されていました。
この一件が引き金となり、ハワイの人々を長年苦しめてきた「カプ制度」と「古代ハワイの宗教」は崩壊。多くの人がキリスト教に改宗したといわれています。
カメハメハ二世は1823年、カママル妃とともに英国を訪問した際、滞在先のロンドンではしかにより亡くなりました。
カメハメハ三世(カウイケアオウリ)
リホリホの弟「カウイケアオウリ」は、1825年10歳の若さでカメハメハ三世となり、その後約30年に渡りハワイ王国を統治した国王です。
捕鯨業が全盛期を迎えた頃、ハワイはその立地を活かし、太平洋に展開する捕鯨船の中継地・補給基地として発展しました。
カメハメハ三世は、首都をマウイ島ラハイナからオアフ島ホノルルに遷都、憲法制定、宗教の自由化、土地所有権を認めるなど、ハワイの近代化を実現。
一方で、欧米から入ってきた伝染病による人口減少、英仏から領土受け渡しや不平等条約を強いられるなど、苦しい問題にも直面していました。
カメハメハ四世(アレキサンダー・リホリホ)
カメハメハ四世となった「アレキサンダー・リホリホ」は、カメハメハ大王の孫。幼い頃から跡継ぎとして、英才教育を受けてきました。
1855年、20歳の時に即位し、翌年エマ王妃と結婚。エマは英国出身の叔母の元で育ち、彼もまた10代で英国を訪れていたことから、親英派だったといわれています。
この頃になると、伝染病による人口減少はさらに深刻化。約30万人だったハワイアンの人口は7万3,000人と1/4以下にまで減少していました。
カメハメハ四世とエマ王妃は独自で基金を募り、先進的な病院やハンセン病医療施設などを設立。エマ王妃にちなんで、「クイーンズ・メディカル・センター」と名付けられた施設は、ハワイ随一の総合病院として今も人々の健康を守っています。
カメハメハ四世は、エマ王妃との間に生まれた最愛の息子、アルバート王子を4歳という若さで亡くします。失意の中、翌年1863年彼自身も29歳でこの世を去りました。
カメハメハ五世(ロット・カプアイヴァ)
弟の死により、兄の「ロット・カプアイヴァ」がカメハメハ五世に。この時代には、捕鯨業から砂糖産業へと経済の主軸が変わり、農場の労働者不足が深刻化。それを受け1864年に移民局を立ち上げました。
1867年になると、米西海岸とハワイ間に蒸気船の定期航路が運航するなど、米国との間の海運がより便利になります。
彼は亡くなる前、カメハメハ一族の末裔であるビショップ氏の妻、バニース・パウアヒ王女に後継を依頼しますが、受け入れられませんでした。そのため、カメハメハ一族(直系)による王政は幕を閉じることになります。
ウィリアム・チャールズ・ルナリロ
第6代国王ウィリアム・チャールズ・ルナリロは、ハワイ王国建国以来、初めて選挙で選ばれた王様。カラカウアに勝利し国王になりました。
ルナリロは、カメハメハ四世・五世とは対照的に親米派、閣僚にアメリカ人を採用するなどの政策を行いました。しかし即位わずか1年でこの世を去ってしまいます。
デイヴィッド・カラカウア
第7代国王デイヴィッド・カラカウア。前国王ルナリロが後継者を指名することなく亡くなったため、1872年選挙でエマ王妃を破り、国王に選ばれました。
カラカウアはアメリカと交渉の末1875年に砂糖や米の輸入の自由化を実現。移民問題や外交にも積極的で日本や中国、インド、など世界各国を訪れたことでも有名です。
陽気で華やかな性格からメリー・モナーク(陽気な王様)と呼ばれ、国民から愛されていたカラカウア。50年近く禁じられていたフラを復活させたことはご存じの方も多いのでは?
ハワイ島ヒロで行われる、フラの祭典「メリーモナーク・フェスティバル」の名前は、彼の功績にちなんで付けられました。
19世紀後半になるとアメリカ合衆国への併合を求める親米派の動きが高まります。そんな中、カラカウアは体調を崩し1891年、静養先のアメリカで亡くなります。
リリウオカラニ
8代目にしてハワイ王国最後の国王。兄カラカウアの後を継ぎ、リリウオカラニ女王が王位につきました。しかし1894年、彼女はクーデターにより退位を余儀なくされ、80年以上続いたハワイ王国は終わりを告げます。
リリウオカラニは、8カ月もの間イオラニ宮殿に幽閉されていたことから「悲劇の女王」と呼ばれています。幽閉中に作曲した「アロハ・オエ」は、皮肉にも、音楽家でもある彼女の代表作となりました。
イオラニ宮殿では今も女王が暮らしていた「幽閉の間」を見学することができます。孤独と失望の中、強く生きたリリウオカラニ。晩年は、夫の実家であるホノルル・ワシントンプレイスで余生を過ごしたそうです。
王族が眠る場所 ロイヤル・モザリアム
オアフ島ホノルル港を見下ろすヌウアヌの高台に、ロイヤル・モザリアム(王家の霊廟)があります。ここは、歴代ハワイの国王(カメハメハ大王・ルナリロ王以外)を含む53人が埋葬されている神聖な場所。
敷地内には礼拝堂があるほか、カメハメハ王朝、カラカウア王朝など、一族ごとに5つの墓所があります。墓所は全て地下にあり、墓所に下りる階段は埋められているのだとか。
現在も子孫が残るカラカウア王のものは埋められていませんが、残念ながら一般の人の立ち入りはNG。礼拝堂の入口は施錠されていますが、管理者に頼めば中を見学できますよ。
ロイヤル・モザリアムは、かつてイオラニ宮殿の庭にあった王族の墓地が満杯になったため、1865年新たに作られた霊廟。松明(たいまつ)の灯りに照らされた行列とともにイオラニ宮殿の墓地から18人の王族の亡骸がこの地に移されました。
カメハメハ大王の墓
初代国王カメハメハ大王の墓は、ロイヤル・モザリアムにはありません。ではいったいどこにあるのでしょう?
古代ハワイでは、身分の高い人の遺骨には「マナ(パワー)」が宿ると考えられていました。ハワイの伝統に従い、偉大なカメハメハ大王の遺骨は、その強力なマナを持ち去ろうとする者から守るため、ひっそりと葬られ隠されているのです。
ハワイの人々は、大王の尊厳を守るため、積極的に探そうとはしないのだとか。
ちなみにもう1人、ロイヤル・モザリアムに埋葬されていないルナリロ王の遺骨は、本人の希望により、カワイアハオ教会に埋葬されているそうです。
カメハメハ一族ゆかりの地
ハワイにはカメハメハ一族、及び王家ゆかりの地がたくさんあります。中でも代表的なものを2つ紹介します。
イオラニ宮殿
オアフ島ホノルルのダウンタウンにあるイオラニ宮殿は、1882年第7代国王カラカウアによって建てられました。水洗トイレや電話など当時の最新設備を備えたアメリカ合衆国唯一の宮殿跡といわれています。
ここは代々王の宮殿として使われていた「ハレ・アリイ」があった場所。建物の老朽化に伴い新たに建てられたのがイオラニ宮殿というわけです。
イオラニの名前は、29歳の若さで亡くなった「アレキサンダー・リホリホ・イオラニ(カメハメハ四世)」を偲んで付けられたのだとか。宮殿の向かい側には、あの有名なカメハメハ大王像が立っています。
カワイアハオ教会
オアフ島にあるハワイ最古のキリスト教会。当初は藁葺き(わらぶき)の質素なものでしたが、カメハメハ三世の命により、1842年約1万4千個の珊瑚(さんご)を使用した堅固で美しい礼拝堂が建てられました。
この頃にはキリスト教に改宗した王族も多く、教会内にはロイヤルボックスが設置されました。「アリイ(王族)の教会」と呼ばれ、歴代王の戴冠式、結婚式などにも使われたとか。カメハメハ四世とエマ王妃の結婚式もここで行われたそうですよ。
まとめ
ハワイで最も有名な王様、カメハメハ大王。未だ謎の多いカメハメハとその一族や、ハワイ王国の歴史について、知っているようで知らないお話をお届けしました。
ハワイの歴史は、ハワイアンと西欧勢力との戦いの歴史でもあります。時代に翻弄されながらもハワイ王国を守ろうと奮闘した8人の国王たち。彼らに思いを馳せ、王家ゆかりの地を巡ってみるのもいいですね。