ハワイ王国の誇り「イオラニ宮殿」で、ハワイの歴史に思いを馳せる。

ホノルルのダウンタウンにある「イオラニ宮殿」は、ハワイ王国の繁栄を今に伝える、ハワイアンのアイデンティティともいうべき貴重な史跡です。

8月18日はハワイ州制定記念日。ハワイが正式にアメリカ合衆国に加入し、50番目の州となった日です。ハワイアンにとっては「自国を奪われた日」ともいえるでしょう。

今回は、あえてこの日にハワイアンの誇り「イオラニ宮殿」を取り上げることで、あらためてハワイ王国の歴史や文化に目を向けてみたいと思います。

ハワイ王国の象徴、イオラニ宮殿とは?

 

イオラニ宮殿はどんなところ?

イオラニ宮殿01

イオラニ宮殿は、アメリカ合衆国唯一の宮殿跡。1882年7代目国王カラカウアにより、当時の金額で約36万ドルをかけて建てられました。

イオラニ宮殿02

欧米の建築方式が採用され、グランドホールの階段にはハワイ固有種コアの木が使われています。宮殿内には王国の栄華を象徴する豪華な装飾品がならび、舞踏会や晩餐会が催されていたそうです。

当時から水洗トイレ・水とお湯の出るシャワー・配膳用エレベーター・電話などが完備され、電灯はホワイトハウスより先に導入されていたとか…。

イオラニ宮殿は、1893年リリウオカラニ女王が退位し、ハワイの王政が倒れるまで王室の住居でした。その後1969年まで、ハワイ暫定政府、共和国、準州、州の拠点として使用されていました。

 

ハワイが王国になるまで

ハワイ諸島は統一された地域ではなく、それぞれの島を首長が分割して治めていました。
1778年キャプテンクックがハワイ諸島を発見した後、多くの欧米人がハワイにやってくるようになりました。

カメハメハ大王像

カメハメハ大王は欧米人が持ち込んだ銃や大砲を取り入れることで武力を拡大し、ハワイ諸島を統一、1810年にハワイ王国が誕生しました。

 

ハワイ王国はいつ滅亡した?

王国誕生から84年の1894年、リリウオカラニ王女がクーデターにより退位したことで、ハワイ王国はその歴史を閉じます。

しかしハワイがすぐにアメリカの一部になったわけではありません。その後暫定政府は「ハワイ共和国」を宣言し、3年後には準州へ…。(この時イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国の国旗がアメリカの星条旗へと変えらました)

第二次世界大戦を経て1959年8月21日、ついにハワイはアメリカの50番目の州都となったのです。この日を記念して毎年8月の第3金曜日は「ハワイ州制定記念日」に制定されました。

イオラニ宮殿とゆかりの深いハワイ王国の王様たち

ハワイ王国時代には8人の王様が誕生しました。中でもイオラニ宮殿に深く関わる2人の王について紹介します。

 

イオラニ宮殿を建てた陽気な王様、カラカウア王

カラカウア王

イオラニ宮殿を建てた7代目国王デイヴィッド・カラカウア。フラを復活させたことでも有名な王様です。

当時フラは野蛮で卑猥だとされ、欧米人宣教師により50年もの間禁じられていました。ところが音楽とダンスをこよなく愛するカラカウア王が、自身の誕生会で、当時禁じられていたフラを踊らせたとか。

これを機に西洋的な曲と融合させた現代フラ(アウアナ)が誕生し、フラが発展していったといわれています。

カラカウアはハワイ文化復興にも貢献し、その明るく豪快な人柄から「メリー・モナーク(陽気な王様)」と呼ばれハワイ国民から愛されていました。

毎年ハワイ島ヒロで行われる、フラの祭典「メリーモナーク・フェスティバル」は彼の功績にちなんでつけられたそうです。

 

ハワイ最後の王族、リリウオカラニ女王

リリウオカラニ女王
 

【幽閉された悲劇の女王】

 

リリウオカラニ女王は8代目にしてハワイ王国最後の王。カラカウア王の没後王位につきますが、2年後の1893年、親米派のクーデターにより退位を余儀なくされ、イオラニ宮殿に8カ月もの間幽閉されていました。そのため「悲劇の女王」とも呼ばれています。

そんな中、外の世界との接触を絶たれた孤独な女王に、時々お花を運んでくれた少年がいました。少年は女王が愛した庭園からお花を摘み、その日の新聞で包んで届けてくれました。彼の心遣いで、女王は外の世界で何が起こっているか知ることができたといいます。

幽閉中に女王が作ったハワイアンキルトには、少年「ジョン・ウィルソン」君への感謝の気持ちが刻まれています。この少年は成長し、後にホノルル市長になった人物です。

 

【リリウオカラニが作った曲】

 

リリウオカラニは兄カラカウアと同じく音楽家としても知られています。
代表作「アロハ・オエ(Aloha 'Oe)」は聞いたことある方も多いのでは?

また幽閉中に作ったとされる「クウ・プア・イ・パオアカラニ(Kuʻu Pua IPaoakalani)」という曲は、ウィルソン少年が届けてくれた花に思いを込めて作った曲。多くのフラダンサーに愛され踊り継がれています。

宮殿ツアーでは、女王が閉じ込められていた「幽閉の間」の中も見学できます。ここで彼女がどんな思いで過ごし、お花が届くのをどれだけ心待ちにしていたのか…。
想像すると、胸がいっぱいで言葉になりません。  

 

Aloha ‘Oe

 

Kuʻu Pua I Paoakalani

ハワイ王国の歴史と文化を映し出すシンボル

  

イオラニ宮殿に掲げられるハワイ王国の紋章

ハワイ王国の紋章

イオラニ宮殿の正面ゲートにある「ハワイ王国の紋章」はカメハメハ3世時代に作られたもの。宮殿以外にも王族ゆかりの場所で見ることができますが、この紋章にも深い意味が込められています。

紋章に描かれた2人の人物は、カメハメハ大王の叔父で相談役だった双子の王族、カメエイアモクとカマナワ。2人が手にしているのは槍とカヒリ。カヒリとは羽根がついたスティックで王族のシンボルです。

王冠に描かれた8枚の「タロイモの葉」、旗の8本のストライプはともにハワイ8島を表し、双子の足元には「土地の統治権は正義によって守られる」というカメハメハ3世の言葉が刻まれています。この言葉は王国のモットーとされていました。

またイオラニ宮殿には4つのゲートがあり、使う人の身分や用途により区別されていました。
たとえば。。。

  • ●カウイケアオウリ・ゲート(正面門):儀式の時のみ使用。
  • ●キナウ・ゲート(西門):商人専用。
  • ●ハカレレポニ・ゲート(南門):ハワイ王国の臣下や守衛専用。
  • ●リケリケ・ゲート(東門):王族専用。

イオラニ宮殿の庭には興味深い歴史的シンボルがたくさん残っています。宮殿ツアーは予約が必要ですが、庭は誰でも無料で散策できますよ。気軽に歴史を感じてみてはいかがですか?

 

ハワイの州歌、ハワイポノイ

「ハワイポノイ(Hawaiʻi ponoʻī)」はハワイ州の州歌です。作詞はなんと!カラカウア王、作曲はロイヤルハワイアンバンドの指揮者だったヘンリー・バーガー。もともとハワイ王国の国歌だった曲です。

王国の終焉により一度は姿を消した国歌が、1967年にハワイ州歌として復活。今もハワイアンの誇りでありシンボル的意味を持ち、さまざまな行事で歌われています。
「ハワイポノイ(ハワイの国民よ)」という意味です。

【Maunaloa】チャリティプログラムMālama for IOLANI PALACE

チャリティプログラムMālama for IOLANI PALACE
  

Mālama for IOLANI PALACE(マーラマ フォー イオラニ パレス)とは

 

フラ衣装専門店Maunaloa(マウナロア)は、フラの復活と現代フラの礎の象徴となるイオラニ宮殿存続のサポートのために、マウナロアでの全てのお客様の購買の一部をイオラニ宮殿に寄付するチャリティプログラム「Mālama for IOLANI PALACE」を開催し、継続的な取り組みとしています。

  

2023年寄付金額

この度、2023年4月10日に2回目の寄付を行いました。

2回目(2023年度)3,219.34ドル(日本円換算:424,166円)
※ドル換算は、寄付時の為替ルートによるものです。

マウナロアはフラ専門ブランドとして、フラを愛するすべての人々へ “Pure Hawaii”を届けます。その一環として、今後とも、チャリティープログラムなど様々な活動を通じて、フラ発祥の地「ハワイ」のためにできることを実行していきます。

まとめ

ハワイ王国時代からハワイ州になるまで、激動の時代の舞台となったイオラニ宮殿。王国の歴史を残す優美な姿はホノルルの人気観光スポットです。しかし王国崩壊後には、豪華な調度品のほとんどがオークションで売りに出されてしまいました。

1969年イオラニ宮殿復興運動が始まると、世界中に分散してしまった豪華な調度品は、ボランティアの手で少しずつ集められたといいます。そして約10年に渡る修復工事を経て、イオラニ宮殿は元の美しい姿へと復興を遂げました。現在も、貴重な史跡として大切に守られながらハワイ王国の歴史と文化を伝え続けています。

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