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11月は、日本の報道写真家・一ノ瀬泰造が亡くなった月です。内戦状態にあったカンボジアに潜入取材をして命を落とした彼。そのお墓は、アンコール・ワットのほど近くにあると言われています。一体どんなお墓なのか、どんな場所にあるのか、現地に行ってきました。
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俳優・浅野忠信が主演を務めた映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』は、一ノ瀬泰造の書簡を原作としています。1999年に公開された古い映画ですが、この映画をきっかけに一ノ瀬泰造という人物や、人口の1/4を死に追いやったカンボジア大虐殺の歴史を知った人も多いはず。知識としてお墓参りの前に観賞することをオススメします。
比べるものではありませんが、パレスチナ・ガザ地区では1年間で4万人が、カンボジア大虐殺では4年間で200万人近くが亡くなっています。
アンコール・ワットを初めて見た感想は「写真より実物の方がステキ」でした。
最近では加工技術の進化が目覚ましく、本物を凌駕する見栄えの写真が出回っています。観光地に行って「ガイドブックの方が素敵だったね」「インスタと違うね」と残念に思うことも少なくない昨今。でも、アンコール・ワットに関しては、そんな心配は不要です。写真より壮大、写真より美しい、目の前にそびえ立つ遺跡に圧倒されました。
一ノ瀬泰造は内戦下のカンボジア、このアンコール・ワットがあるジャングルに潜入した後、消息を絶っています。
アンコール・ワットの敷地は広大です。私たちが思い浮かべるあの遺跡はアンコール遺跡群のごく一部。周辺には大小合わせ600もの遺跡があり、全部を見て回るのはかなり厳しいのが現実。
一ノ瀬泰造のお墓は中心地から少し外れた「バンテアイ・スレイ」と呼ばれるアンコール遺跡群の中でもとりわけ美しい遺跡へ向かう途中にあります。バスなどの公共交通機関はなく、小さな村や舗装されていない道が続くだけなので観光客が単独で行くのはちょっとハード。私もトゥクトゥクをチャーターして向かいました。
彼はとても有名なので、トゥクトゥク乗り場で「TAIZO」と言って写真を見せれば、だいたいの運転手さんが連れて行ってくれます。
賑やかな街を離れ、トゥクトゥクは土煙が舞う未舗装の道を走り続けます。右を見ても左を見ても目に入るのは植物の緑と土ばかり。時々現れる家は木でできた簡素なもので、のんびり昼寝をしているおじさんや、犬と戯れる子どもたちの姿がありました。かつてジャングルだった場所を人間が申し訳程度に切り開いて住まわせてもらっている、そんな印象を持ちました。
道幅がさらに狭くなり人の気配が消えたころトゥクトゥクが止まりました。ここからは歩いてねとドライバーが言います。目の前には、「TAIZO」と書かれた簡素な看板。その先には木の板を並べた簡素な橋が続いていました。
「ここからは歩いて」と言われても、お墓の姿は全く見えません。躊躇しているとドライバーが先導してくれました。簡単に踏み外してしまえそうな木の橋を気にすることなく、軽い足取りで進んでいく運転手。私も後に続きました。
一ノ瀬泰造のお墓は真っ白でした。カンボジア式のお墓なのでしょうか?日本のお墓とは全く異なる装いですが、お墓の正面には日本語で「一ノ瀬泰造」と、側面には「1973年11月、泰造ここに眠る」と書かれていました。入口にあった看板はTAIZOと英語だったのに、こちらは日本語。日本人の手が加わっているのでしょうか。
正面には、日本のビールがたくさん供えられていました。1本2本ではなく、結構な数が並んでいます。きっと私が思っているよりずっと多くの日本人がこのお墓を訪れているのでしょう。
お墓の近くには、屋根と柱だけの簡素な小屋が建っていました。吹きっさらしの東屋ですが、中には一ノ瀬泰造に関係した書物や写真、記帳名簿がギッシリ並んでいました。管理人さんらしき現地の人が一人座っていて、私を先導してくれたドライバーさんは、私が参拝する間ずっとここでお喋りを楽しんでいました(といってもほんの10分足らずですが)。私には分からない現地語で、雑談をしています。
パラパラと記帳名簿をめくります。8割以上が日本語で、さまざまな場所から訪れた人が、熱い思いを綴っていました。その中の1ページに目が留まります。「このお墓はこの地の人々の善意で成り立っている」と書かれています。お墓の周りの草木が刈りとられているのも、お供え物が動物に荒らされずに済んでいるのも全部、現地の人々のおかげ。そっか、感謝をしないと。そう気付かされた私の手は自然と寄付箱にのびていました。
帰り道は、行きとは別の道へ進みました。運転手さんが知っているという近場の遺跡に立ち寄るのが目的です。ジャングルの中にポツンと現れるその遺跡は、ひっそりとしてとても静かでした。誰に邪魔されることなく、精巧な石の彫刻をじっくり観察できる穴場です。
運転手さんに何度遺跡の名前を聞いても私は覚えられず、ネットで検索してもヒットせず。結局、名前は分からないままになってしまいましたが、600個も遺跡があるのですから、(日本語の)名前のない遺跡があっても仕方ないのかもしれません。
道すがら、地雷を示すドクロマークの看板を何度も見ました。内戦状態が終わった今のカンボジアは平和です。でも、まだ至る所に「地雷」が埋まっている…
先ほど見たばかりの子どもたちの姿を思い出します。転がるように走りまわっていた小さな子どもたち。さほど遠くない距離です。あの子たちがもし間違ってこの地雷原に入ってしまったら…?想像しただけで胸が締め付けられました。“終わったはずの戦争に苦しめられている人がいる”目の前に続く地雷の看板は私に強烈なメッセージを伝えます。
カンボジアでは今も地雷被害が続いています。私が危惧した通り、幼い子が遊びの最中に犠牲になるケースも発生していました。一ノ瀬泰造が生きていたら今年で77歳。この光景を見て何を思うのか。“戦争は終わっていなかった”そう叫ぶ気がしました。
大学卒業後、ライター&編集者として出版社や新聞社に勤務。マイナーな国をメインに、世界中を旅する。旅先で出会ったイスラム教徒と国際結婚。出産&離婚&再婚を経て現在は2児の母。公式HP:Lucia Travel
11月は、日本の報道写真家・一ノ瀬泰造が亡くなった月です。
内戦状態にあったカンボジアに潜入取材をして命を落とした彼。そのお墓は、アンコール・ワットのほど近くにあると言われています。
一体どんなお墓なのか、どんな場所にあるのか、現地に行ってきました。
前回の記事は こちら
Lucia Travel連載一覧は こちら
目次
『地雷を踏んだらサヨウナラ』
俳優・浅野忠信が主演を務めた映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』は、一ノ瀬泰造の書簡を原作としています。
1999年に公開された古い映画ですが、この映画をきっかけに一ノ瀬泰造という人物や、人口の1/4を死に追いやったカンボジア大虐殺の歴史を知った人も多いはず。知識としてお墓参りの前に観賞することをオススメします。
比べるものではありませんが、パレスチナ・ガザ地区では1年間で4万人が、カンボジア大虐殺では4年間で200万人近くが亡くなっています。
写真より美しいアンコール・ワット
アンコール・ワットを初めて見た感想は「写真より実物の方がステキ」でした。
最近では加工技術の進化が目覚ましく、本物を凌駕する見栄えの写真が出回っています。観光地に行って「ガイドブックの方が素敵だったね」「インスタと違うね」と残念に思うことも少なくない昨今。
でも、アンコール・ワットに関しては、そんな心配は不要です。写真より壮大、写真より美しい、目の前にそびえ立つ遺跡に圧倒されました。
一ノ瀬泰造は内戦下のカンボジア、このアンコール・ワットがあるジャングルに潜入した後、消息を絶っています。
遺跡への道中に位置するお墓
アンコール・ワットの敷地は広大です。
私たちが思い浮かべるあの遺跡はアンコール遺跡群のごく一部。周辺には大小合わせ600もの遺跡があり、全部を見て回るのはかなり厳しいのが現実。
一ノ瀬泰造のお墓は中心地から少し外れた「バンテアイ・スレイ」と呼ばれるアンコール遺跡群の中でもとりわけ美しい遺跡へ向かう途中にあります。
バスなどの公共交通機関はなく、小さな村や舗装されていない道が続くだけなので観光客が単独で行くのはちょっとハード。私もトゥクトゥクをチャーターして向かいました。
彼はとても有名なので、トゥクトゥク乗り場で「TAIZO」と言って写真を見せれば、だいたいの運転手さんが連れて行ってくれます。
土煙舞う道の先に
賑やかな街を離れ、トゥクトゥクは土煙が舞う未舗装の道を走り続けます。
右を見ても左を見ても目に入るのは植物の緑と土ばかり。時々現れる家は木でできた簡素なもので、のんびり昼寝をしているおじさんや、犬と戯れる子どもたちの姿がありました。
かつてジャングルだった場所を人間が申し訳程度に切り開いて住まわせてもらっている、そんな印象を持ちました。
道幅がさらに狭くなり人の気配が消えたころトゥクトゥクが止まりました。ここからは歩いてねとドライバーが言います。
目の前には、「TAIZO」と書かれた簡素な看板。その先には木の板を並べた簡素な橋が続いていました。
小さな白いお墓の前で
「ここからは歩いて」と言われても、お墓の姿は全く見えません。躊躇しているとドライバーが先導してくれました。
簡単に踏み外してしまえそうな木の橋を気にすることなく、軽い足取りで進んでいく運転手。私も後に続きました。
一ノ瀬泰造のお墓は真っ白でした。カンボジア式のお墓なのでしょうか?日本のお墓とは全く異なる装いですが、お墓の正面には日本語で「一ノ瀬泰造」と、側面には「1973年11月、泰造ここに眠る」と書かれていました。
入口にあった看板はTAIZOと英語だったのに、こちらは日本語。日本人の手が加わっているのでしょうか。
正面には、日本のビールがたくさん供えられていました。1本2本ではなく、結構な数が並んでいます。きっと私が思っているよりずっと多くの日本人がこのお墓を訪れているのでしょう。
善意で成り立つお墓の管理
お墓の近くには、屋根と柱だけの簡素な小屋が建っていました。吹きっさらしの東屋ですが、中には一ノ瀬泰造に関係した書物や写真、記帳名簿がギッシリ並んでいました。
管理人さんらしき現地の人が一人座っていて、私を先導してくれたドライバーさんは、私が参拝する間ずっとここでお喋りを楽しんでいました(といってもほんの10分足らずですが)。私には分からない現地語で、雑談をしています。
パラパラと記帳名簿をめくります。8割以上が日本語で、さまざまな場所から訪れた人が、熱い思いを綴っていました。その中の1ページに目が留まります。「このお墓はこの地の人々の善意で成り立っている」と書かれています。
お墓の周りの草木が刈りとられているのも、お供え物が動物に荒らされずに済んでいるのも全部、現地の人々のおかげ。そっか、感謝をしないと。そう気付かされた私の手は自然と寄付箱にのびていました。
「地雷原」あちこちに残る戦争の爪痕
帰り道は、行きとは別の道へ進みました。運転手さんが知っているという近場の遺跡に立ち寄るのが目的です。
ジャングルの中にポツンと現れるその遺跡は、ひっそりとしてとても静かでした。誰に邪魔されることなく、精巧な石の彫刻をじっくり観察できる穴場です。
運転手さんに何度遺跡の名前を聞いても私は覚えられず、ネットで検索してもヒットせず。結局、名前は分からないままになってしまいましたが、600個も遺跡があるのですから、(日本語の)名前のない遺跡があっても仕方ないのかもしれません。
道すがら、地雷を示すドクロマークの看板を何度も見ました。
内戦状態が終わった今のカンボジアは平和です。でも、まだ至る所に「地雷」が埋まっている…
先ほど見たばかりの子どもたちの姿を思い出します。転がるように走りまわっていた小さな子どもたち。さほど遠くない距離です。あの子たちがもし間違ってこの地雷原に入ってしまったら…?想像しただけで胸が締め付けられました。
“終わったはずの戦争に苦しめられている人がいる”目の前に続く地雷の看板は私に強烈なメッセージを伝えます。
カンボジアでは今も地雷被害が続いています。私が危惧した通り、幼い子が遊びの最中に犠牲になるケースも発生していました。
一ノ瀬泰造が生きていたら今年で77歳。この光景を見て何を思うのか。“戦争は終わっていなかった”そう叫ぶ気がしました。
筆者プロフィール:R.香月(かつき)
大学卒業後、ライター&編集者として出版社や新聞社に勤務。
マイナーな国をメインに、世界中を旅する。
旅先で出会ったイスラム教徒と国際結婚。
出産&離婚&再婚を経て現在は2児の母。
公式HP:Lucia Travel