私の登拝日記【第2回】~M.Sより~

登拝とは、「信仰として山に登る」という意味合いがありますが、現代の登拝者たちの目的・想いは様々なのかもしれません。
この企画は、古代から脈々と続く、祈りやお社・神話という形の様々なストーリーを根底に、登拝経験者に思いの丈を吐露してもらうというもの。
弊社スタッフ数名がともに参加した登拝体験を基に、スタッフ持ち回りで連載していきます。

第1回の記事は こちら


僕が講義で印象深く受けた先生の言葉のひとつに、「登山ではなく登拝に行きます!」という一言。
耳慣れない言葉でしたが、この比較表現により僕の中で明確に理解が一歩だけ進んだ気がします。「信仰の対象である御神体の御山に入るということか」と。

とはいえ実際のところは、頭で少しわかったような気になったというぐらいで、具体的にどうすりゃいいかなんて答えは全く持っていませんでしたが・・・
「祈る」「拝む」とは、いったいどういうことなのか・・・

「信仰の対象である~」と述べると何だか重々しく感じる方もいるかもしれませんが、そうではなくて、実際に体験した感想をシンプルに言うと、これまで僅かながら僕が経験してきた山登りやハイキングとは、少し違った感覚で自然を楽しみながら、自身に向き合う経験が出来たということかも知れません。
その中で、様々な気づきが沢山あったように思います。
 

訪れた場所は、奇岩・奇峰で知られる妙義山。

もともと山岳信仰の霊場として多くの修験者たちを迎え入れてきた御山は、僕がこれまで認識していた日本の山とはイメージが大きく異なる姿でした。「これが修験の山か。」「日本じゃないみたい。」

低山とはいえ、目の前に見える断崖絶壁のそれは、とても荒々しく、結局のところ僕からすれば普通に見上げる大きな岩山。ただただその自然の山容に圧倒された感覚を覚えています。

この一見して人を寄せ付けない程の険しい姿を前に、古代から人々は、あたりまえの様に「畏れ」「敬い」祈りを捧げてきたのかもしれませんね。
そんな事をぼんやりと感じながら、僕なりに「登拝」を意識し心を整え、いざ御山へと向かったのでした。(正直、心が整うどころかワクワクしていましたが・・・)

まずは長い石階段を登った先の仏教山門をくぐり、本殿で御挨拶してから山道へと進みます。
登るルートは、初級・中級コースに加え一部上級ラインを登るのですが、妙義山の主峰、白雲山の山麓に鎮座する妙義神社から、その先の「奥の院」を目指します。

前述したとおり修験の山だけあって、なかなか険しい道??を進むのですが、登り始めてほんの数分にも関わらず、気が付けば大量の汗をかき、大きく肺を動かさないと息が苦しく、日常の生活ではしばらく感じたことの無い自分自身をいきなり突きつけられたような感覚だったと思います。

自分の体力を過信していた訳ではないのですが、平地とここでは同じ一歩がこんなにも違ってくるのか・・・当たり前だけど。

しばらくすると不思議なもので少し体も慣れてきます。
ようやく意識や視線も周囲の景色や同行する仲間へも向かうようになってきた頃、危険なルートのサインとも言える鎖場が現れ始めます。

急斜面や大きな岩場などに、登山者の助けとなる鎖が張られたポイントなのですが、この非日常感により個人的にはかなりテンションも上がりました。
ゴッツイ鎖を掴んでよじ登る。ちょっとしたアドベンチャー感覚というとこでしょうか。

その一方で、先生のナビゲートのもと、登拝を意識して進む中では、神仏習合の痕跡を色濃く残す祈りの場や、雄大な景色の一部に自分の身を置く体験も出来ます。

ここまでの道のりも、前日の雨を少し含んだ土や落ち葉で、滑りやすい箇所も多いのですが、鎖場ではその危険をより一層感じる為、緊張感を持って進む必要があります。

僕の日常生活は、あたりまえですが完全二足歩行で難なく歩みを進める事ができます。もっと言えば、電動式平行移動装置?階段式自動昇降機(エスカレーター)??みたいな発明によって楽に前進も可能です。
しかしここでは、「前進」する為に「全身」を使わなければなりません。手足はもちろん頭やお尻など、とにかく全身。
それと人によっては、仲間の励ましがないと恐怖で前に進めないという方もいました。

僕自身も仲間の声を頼りにしないと、次の一歩をどこに進める事が安全なのか判断が難しい場面もありました。
そうした初めて通る安全が不確かな険しい場所では、少なからず恐怖と戦うような、心を試される場面もあります。

正直な話、「ここは危険。ヤバそう・・・」と思うポイントも、実際越えてしまえば結局のところは「意外と余裕だったなぁ」となる訳ですが、一瞬「これ滑って落ちたら大怪我、いや最悪・・・」なんて事を少し考えてしまう場面もあります。

さっきまで普通だったのに、一瞬「死」を意識する周辺状況。実は気を抜けば「死」や大怪我に繋がる危険が、目の前の状況や自分自身の中にある事に気が付くのです。

ここで改めて先生の言葉を思い出す。「登拝とは黄泉(よみ)がえり体験なんです」と。

【黄泉(よみ)】とは、日本神話における死者の世界の事で、古事記では【黄泉の国】と表記されますが、先生の言葉の意味は、【黄泉帰り】=【蘇り】ということ。

なるほど・・・日本という国は比較的平和な事もあり、日常生活の中で「死」という事を明確に意識する瞬間はそう無い時代かもしれません。
しかしこの登拝では、日頃の常識や危険への意識が低い感覚のままでは、歩みが難しくなる場面もあれば、「死」に直結する危険な状況を自ら作り出してしまう事だってある。

実際のところは楽しい登山という側面もあるし、本当に「死」を意識した瞬間は僅かだったかもしれません。
しかし危険である事を認識し、自然への畏敬と畏怖の念を持って一歩一歩進む必要があるのが登拝かもしれません。
「死」に繋がる事をリアルに意識させられる体験は、自らにとって当たり前の「生と死」について、改めて考えさせられるものでした。

そんなこんなで、「楽あり苦あり」・「清々しさあり恐怖あり」と、変則リズムで登り進めていくと、神仏習合の痕跡を残す祈りの場でもある【大の字】に辿りつきます。

ここは、妙義山に向かう車中からでも認識できたほど大きな「大」という白文字が設置されているのですが、これは妙義大権現を省略したものとも、大日如来を表したものともいわれているそうで、当時からお参りに来る事が出来ない人々が、遠くからここに向けて手を合わせてきた場所のようです。
 

この大の字へは、危険な垂直の岩場を数メートル登って辿り着くのですが、そこは別世界の絶景ポイントでもあります。

先ほど入山前に、下から見上げていた断崖絶壁の一部でもあり、ここに身を置く事ができるのですが、ここはせり出し切り立った小さな岩の上という事になるでしょうか。

大人10人も居合わせれば肩が触れたり、強風が吹いたりするだけで真っ逆さまに転落するのでは?と不安になるくらい高所恐怖を感じるスペースです。
その一方で、頑張って垂直の鎖場を登った者だけが拝める絶景がお出迎えしてくれる訳です。

そしてビビリながらも山を背にギリギリの崖際に腰を下ろし、美味い空気を吸っていると、何だか自然の一部になったような気にもなってきます。

今までは木々に囲まれ視界が限られていた山中から、遮る物がなく広い空の下、麓から遠くまで一望出来るこの場所は、まさに「清々しさあり恐怖あり」の場所だと思います。
高所恐怖症ぎみの僕は、基本的に低い姿勢のまま、この場を満喫すると同時に少し休憩をとったのでした。

次回は奥の院への登拝について、お話します。

★M.Sより★


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