読み物
2021.07.26

私の登拝日記~horahukistより~

登拝とは、「信仰として山に登る」という意味合いがありますが、現代の登拝者たちの目的・想いは様々なのかもしれません。
この企画は、古代から脈々と続く、祈りやお社・神話という形の様々なストーリーを根底に、登拝経験者に思いの丈を吐露してもらうというもの。
弊社スタッフ数名がともに参加した登拝体験を基に、スタッフ持ち回りで連載していきます。

●過去の登拝日記の記事は こちら から


去る2020年秋、人生で初めての「登拝(とうはい)」を経験した。

この機会に恵まれたのは、中村真先生が主催する「神社学」に参加してみないかと社長よりお達しがあり、岩座の事業長であるS氏と受講したのがご縁だった。

「神社学」の講義自体は神社の話が中心でありながらも、先生が実際に感じたことや体験したことを中心に「主観」を交えて話してくれるので、非常にリアリティを感じられる内容でいろいろと衝撃を受けた。
恐らく神社に興味がない方でも退屈せずに聴ける内容なので、気になる方はぜひ受講することをお勧めしたい!
※詳しくはS氏の登拝日記冒頭に綴られているので、そちらを是非。
記事は こちら から。

そして、その「神社学」講義に於いて、最終日のフィールドワークとして体験する内容が所謂「登拝」と呼ばれるものだった。

「登拝??なんじゃそりゃ?」的な思いがあったのは否めないけれど、「まあ登山的なものやろ」という、なんとも短絡的な考えで臨んだのは、ここだけの話。

どこへ行くかは直前まで敢えてお知らせがなかったので、「登拝」に対しても敢えて予備知識は持たずに行こうと自分に言い聞かせ、その日を待ちわびた。

前日は遠足を待つ子供のように寝付けない夜を過ごし、いよいよその日がやって来た。

目的地は群馬県にある妙義山。
自分自身初めて訪れる地であり、なんとも仏教チックな名前で、仏好きの自分としては行く前からワクワクしていた。

しかし、その喜びはなんなく打ち砕かれる。

その要因の一つは目的地までの移動。
都内から目的地まで向かう中村先生のハンドル捌きは「登坂」「追い越し」関係なしに爆走する、よもや黄泉路とも言うべきものであり、生きた心地がしなかった。
猛スピードでありながら、遠足へ向かう子供のように笑う中村先生が分からない。
そんなことを助手席に乗りながら感じていた。

そして二つ目は山。
目的地に近づくにつれ、「ここは日本?!」と見紛うようなゴツゴツとした岩肌が、眼前に広がっている。
かつてアメリカ出張時ツーソンで見た山を思い出した瞬間だった。

車中にて、「森田君、登拝は黄泉がえりなんだよ」という言葉を中村先生より聞かされたけれども、御山の姿を拝見して、なんとなく意味が分かったような気がした。
後日調べると、妙義山は日本の山でもかなり危険な部類に入るらしい。
※上級者コース含む

しかし!
「ここまで来たら行くしかない!」
そう決心し、いざ山の麓である妙義神社へと足を踏み入れた。

「習合してんな〜」
境内に入り、まずはそう思った。

それもそのはず。
妙義神社として開かれているこの場所は、かつて明治時代に神仏分離令が出るまでは大日如来を本尊とし、お寺として開かれていた修験の山であるとのこと。
今でこそ神社とお寺は別物として認識されているが、明治時代までは神社と寺は一緒に祀られることが多く、「神様は仏様の仮の姿」という話があるほどお互いは近いものであり、その片鱗がここ妙義神社各所に感じられる。

自分はこの良いものを積極的に取り入れる「神仏習合」の考え方が、なんとも日本人らしくて昔から好きだった。

そんなことを思いながら本殿への参拝を終え、気合いを入れた。
いよいよ自分達は中腹にある奥の院を目指す。

しかし気合いを入れたのもつかの間、日頃の運動不足が祟り、序盤の道のりで息も絶え絶え。
元々修行の山だけあり、とにかく階段、山道が険しい。

「えらいところに来てもうた」
そう思ったのが、正直な感想だった。

しかし、人間というのは不思議なもので慣れてくる生き物。
自分のペースを掴めると、同じような傾斜でも序盤より楽に感じる。
先が見えるにつれ、段々と苦しさが当たり前に変わっていく。

道中は山肌に触れ、危険な鎖場を登りながら黙々と道なき道を行くので、様々なことを考えた。

「登拝とは?」「登山との違いって何?」
「昔の人は何故修行で山に登っていたのか?」

そんなことを思いながら、片道2時間を掛け、遂に奥の院へと到着した。

妙義山奥の院は、岩と岩が重なり合った空洞に祠がある、なんとも形容し難い雰囲気を醸し出していた。

そこは自然の神秘に対し、何かを感じた人が祠を立てた、まさにアニミズムとも呼ぶべき場所。

昼食を終え、中村先生のお祈りが始まった。
中村先生のお祈りは「祝詞」「読経」「お香」「歌」「笛」何でもあり。

これには正直面食らった。
元々神仏集合の場所だから「祝詞」「読経」は分かるとして、「歌?!」と思ったのが正直なところ。

しかし、ここで思い出したのが神社学講義で中村先生が言っていた、「自分がどう思い、どう感じるかを大事にしてほしい」という言葉。

「成る程、中村先生は自分が感じたことをただ表現しているだけなんだ」
そう思った。

形に捉われた参拝ではなく、自分なりの方法で祈りを表現する。
柏手を叩く、ただ手を合わせる、言葉に出す、頭を下げる、その人の気持ちがそこに乗っていれば形などは何でも良いんだな。
そう自分は思った。

下山中、自分なりにいろいろなことを考えた。

「大事なのはどう思うかどうか。」
「登拝」一つとっても、全ては登る人の気持ち次第で「意義あるもの」「ただ辛いもの」どちらにでもなる。
「山に入り参拝し、お祈りする」という「目的」を意識するだけで、道中ただ山を登るだけの時間から、自分自身や生きていることについて考える時間に変わる。
仕事も一緒で、きちんと進むべき道を認識できていれば、その途中の辛さや感じたことは後の実になるということ。

生きることは自分の思いや考え方、心次第でどうにでも成る。
そう感じた「登拝」の一日だった。

帰りの車。
「登拝は黄泉がえり」
またもやその言葉を思い出した。

楽しそうに猛スピードで車を飛ばす中村先生を見て、
「成る程。この車が黄泉がえりを体現しているんだ」
そんなことを思ったのは、ここだけの話。

★horahukistより★


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