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前回の記事:地方創生〜鯨の町おこしvol.1はこちらから
「鯨の曳山、自分はどこまで本気で作りたい?」
父が亡くなって何年経ったであろうか。鯨の曳山を奉納することだけが決まっていたが、無為に時間だけが過ぎていった。
父が最期に、奉納に向けて呼子とやりとりしていた際、3つの大きな問題に直面していた。
1つ目は、父が幻の曳山構想で作っていた模型はシラス鯨であったのだが、呼子の捕鯨で価値があったのはセミ鯨だったというのだ。造形デザインを根本的にやり直さなければならなくなった。しかもセミ鯨はずんぐりしていてなかなか造形的な美しさを見出すことが困難であった。
2つ目の問題は、唐津くんちの曳山は漆塗りなのだが、漆は保管の温度と湿度が重要で、格納庫での保管維持コストが大きい。かつ致命的なのは、10年に一度、塗り直しが必要で、それが1億円に迫るコストとなるのだ。とてもではないが呼子サイドではそれを負担できない。違う素材に変えてもらえないか?と依頼が来た。これも父の構想を大きく揺るがす問題となり、漆風の化学塗料でやるしかないのか、他に方法はないのか、何にせよ民芸を愛した父からすれば致命的な妥協を迫られたのだ。
3つ目の問題は、呼子に根付く地域の誇りからくるもので、唐津くんちとは差別化された曳山を求められたことだ。城下町を象徴するような唐津くんちの曳山の猛々しさとは違い、漁師の港町である呼子に相応しい曳山が良い、と。これも根本的にコンセプトレベルからやり直さねばならない要素となった。
この三つの要素が巨大な壁になり、病床の父と議論を繰り返したが、答えは出ないまま父は逝ってしまった。この問題の解決のためには、なんにせよ、呼子の方々が納得できるような案を提示しなければならない。そして呼子八幡神社で曳山を引き受ける方向で決まっていたものの、その曳山を用いたお祭り開催準備への町内での合意形成がされていなかった。案を提示して議論していくにはこの合意を待たねばならない。
父の死から3年経った。なかなか事態が動く様子がない。年に1回は八幡さんと会う機会をいただいていたのだが、真摯に町の合意に向けて動いてくださっていることを感じて、かえって心が揺らいだ。八幡さんに大きな負担を与えてしまっているのではないか。あきらめましょう、と言ってあげた方が良いのではないか。それは八幡さんのことを気にかけてのことなのか、実は自分自身に対して投げかけている迷いなのか、、。何にせよ、発起人であった父の不在が曳山製作の精神において大きな空洞を産んでいたなか、私は父の遺志と現実の進展のなさに挟まれて苦しい時間を過ごしていたのだ。
そんな気持ちの揺らぎに耐えていた2020年10月ごろ、「町で本格的に協議に入れるようになったので曳山製作に向けてやりとりをしたい」旨、連絡があった。
私は不意を打たれた。
まだ3つの壁を克服できるアイデアも浮かんでいない。それだけではない。町の合意形成や曳山製作にまつわる多大な時間と労力が割かれるであろう。頭では覚悟していたものの、腹の底からの覚悟が問われたのだ。
そもそも「曳山を作りたい」という父の想いを継承するといっても、自身も自ら深いところで「曳山を作りたい」と思えないと、遭遇するであろうさまざまな困難を越えられるはずがない。「曳山を作りたい」はなかなか特殊な想いだ。「鯨の曳山、自分はどこまで本気で作りたいのだろう?」という自問自答に迫られたのだ。
私は会社事業を父から継承したときにも似た体験をしていた。民俗文化(フォークロア)を理念に創業された会社を、その想いとともに継承することとなった際、最初はまだ気持ちの歯車が100%噛み合っていたわけではなく、どこか自分の想いとして消化しきれない部分が残っていた。もちろん社員の誰よりも会社理念を理解していたし共感もしていたが、社長という役割を十分に果たす上ではどこか不足があり、内面の葛藤は常にあってストレスとなっていた。自分が立ち上げたならともかく、他者が情熱をもって立ち上げたものを継承するのは難しい。二代目にしか分からない苦しみである。
何か答えを持っていたわけではないが、がむしゃらに取り組み続けてきた中で、創業の想いが自分の想いに昇華されていった。そのきっかけは「ただそのまま継承するのではなく、想いの原点に立ち返って自分なりに発展させること」だった。エスニックと言われる発展途上国の文化をテーマにチャイハネという業態を展開していたが、父の理念はエスニックではなく民俗文化なのであるから、エスニック諸国に限定される必要はない。日本やハワイ、ヨーロッパの民俗文化をもテーマにして多業態展開に踏み込んだのだ。それらを成功させていく中で、やっと私の気持ちと会社事業が深いところで噛み合って行ったのであった。
その体験をもとに「あらゆる困難を超えて曳山を作りたい」という想いを自分自身が持つためにも、曳山製作の原点に立ち返って、自分なりに発展形を考えてみた。
まず「漆を使えないから漆に似た化学塗料で代替する」、は違う。父は民芸を愛していた。父は伝統手法を用いた曳山を残そうとしていたのでもあり、その精神が継承されない。そして保管や維持が有利な他の伝統的な手法で曳山を作れないだろうか?手法が変われば必然的に呼子独自の曳山となる。そしてシラス鯨からセミ鯨に造形を変えていくならば、造形デザインを創造できる方と組まなければならない。
結論として、維持管理可能な伝統的手法を用いて、かつ立体的な造形デザインを創造できる人がいれば、3つの壁すべてを突破できる可能性がある、というものだった。そこまで思考がたどりついたのだが、なんだか針の穴に糸を通すような、人物探し。伝統的技術かつ立体的なものを作れる造形家?
伝統的手法から考えてみた。陶器や張り子は大きいものが製作困難だし、壊れやすい。木彫りも同様に違う。博多の山笠みたいな造形ではあまりに曳山とは遠いフォルム。青森県のねぶたのような和紙の貼り合わせも、頻繁に作り直しているという話も聞くし、どうも九州のアイデンティティから遠い感性を感じてしまう。。でも、和紙はいいなあ。
!背中に電気が走った。
そういえば偶然、知り合い伝手に紹介して頂いたばかりの、革新的な和紙作家である堀木エリ子さん。巨大な和紙を建築に組み込む手法を開発した方で、一緒に食事をした際に、立体的に和紙を漉く手法も発明したという話を聞いていた。トヨタとコラボして和紙の車さえ作った、ということであった。世界的にも評価されていて、女性作家としての生き様も素晴らしく、会った印象も強かったので書籍も読ませていただいてるところだった。
ネットで検索してみると、ルーブル美術館に展示された、大きな猫の立体和紙オブジェが目に飛び込んできた。この手法で鯨を製作してもらえないだろうか!?その場で頂いていた名刺を見ながら、メールで曳山製作の打診をしてみたのであった。
~次号:神仕組みと和紙曳山
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。 1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。
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「鯨の曳山、自分はどこまで本気で作りたい?」
父が亡くなって何年経ったであろうか。鯨の曳山を奉納することだけが決まっていたが、無為に時間だけが過ぎていった。
父が最期に、奉納に向けて呼子とやりとりしていた際、3つの大きな問題に直面していた。
1つ目は、父が幻の曳山構想で作っていた模型はシラス鯨であったのだが、呼子の捕鯨で価値があったのはセミ鯨だったというのだ。造形デザインを根本的にやり直さなければならなくなった。しかもセミ鯨はずんぐりしていてなかなか造形的な美しさを見出すことが困難であった。
2つ目の問題は、唐津くんちの曳山は漆塗りなのだが、漆は保管の温度と湿度が重要で、格納庫での保管維持コストが大きい。かつ致命的なのは、10年に一度、塗り直しが必要で、それが1億円に迫るコストとなるのだ。とてもではないが呼子サイドではそれを負担できない。違う素材に変えてもらえないか?と依頼が来た。これも父の構想を大きく揺るがす問題となり、漆風の化学塗料でやるしかないのか、他に方法はないのか、何にせよ民芸を愛した父からすれば致命的な妥協を迫られたのだ。
3つ目の問題は、呼子に根付く地域の誇りからくるもので、唐津くんちとは差別化された曳山を求められたことだ。城下町を象徴するような唐津くんちの曳山の猛々しさとは違い、漁師の港町である呼子に相応しい曳山が良い、と。これも根本的にコンセプトレベルからやり直さねばならない要素となった。
この三つの要素が巨大な壁になり、病床の父と議論を繰り返したが、答えは出ないまま父は逝ってしまった。この問題の解決のためには、なんにせよ、呼子の方々が納得できるような案を提示しなければならない。そして呼子八幡神社で曳山を引き受ける方向で決まっていたものの、その曳山を用いたお祭り開催準備への町内での合意形成がされていなかった。案を提示して議論していくにはこの合意を待たねばならない。
父の死から3年経った。なかなか事態が動く様子がない。年に1回は八幡さんと会う機会をいただいていたのだが、真摯に町の合意に向けて動いてくださっていることを感じて、かえって心が揺らいだ。八幡さんに大きな負担を与えてしまっているのではないか。あきらめましょう、と言ってあげた方が良いのではないか。それは八幡さんのことを気にかけてのことなのか、実は自分自身に対して投げかけている迷いなのか、、。何にせよ、発起人であった父の不在が曳山製作の精神において大きな空洞を産んでいたなか、私は父の遺志と現実の進展のなさに挟まれて苦しい時間を過ごしていたのだ。
そんな気持ちの揺らぎに耐えていた2020年10月ごろ、「町で本格的に協議に入れるようになったので曳山製作に向けてやりとりをしたい」旨、連絡があった。
私は不意を打たれた。
まだ3つの壁を克服できるアイデアも浮かんでいない。それだけではない。町の合意形成や曳山製作にまつわる多大な時間と労力が割かれるであろう。頭では覚悟していたものの、腹の底からの覚悟が問われたのだ。
そもそも「曳山を作りたい」という父の想いを継承するといっても、自身も自ら深いところで「曳山を作りたい」と思えないと、遭遇するであろうさまざまな困難を越えられるはずがない。「曳山を作りたい」はなかなか特殊な想いだ。「鯨の曳山、自分はどこまで本気で作りたいのだろう?」という自問自答に迫られたのだ。
私は会社事業を父から継承したときにも似た体験をしていた。民俗文化(フォークロア)を理念に創業された会社を、その想いとともに継承することとなった際、最初はまだ気持ちの歯車が100%噛み合っていたわけではなく、どこか自分の想いとして消化しきれない部分が残っていた。もちろん社員の誰よりも会社理念を理解していたし共感もしていたが、社長という役割を十分に果たす上ではどこか不足があり、内面の葛藤は常にあってストレスとなっていた。自分が立ち上げたならともかく、他者が情熱をもって立ち上げたものを継承するのは難しい。二代目にしか分からない苦しみである。
何か答えを持っていたわけではないが、がむしゃらに取り組み続けてきた中で、創業の想いが自分の想いに昇華されていった。そのきっかけは「ただそのまま継承するのではなく、想いの原点に立ち返って自分なりに発展させること」だった。エスニックと言われる発展途上国の文化をテーマにチャイハネという業態を展開していたが、父の理念はエスニックではなく民俗文化なのであるから、エスニック諸国に限定される必要はない。日本やハワイ、ヨーロッパの民俗文化をもテーマにして多業態展開に踏み込んだのだ。それらを成功させていく中で、やっと私の気持ちと会社事業が深いところで噛み合って行ったのであった。
その体験をもとに「あらゆる困難を超えて曳山を作りたい」という想いを自分自身が持つためにも、曳山製作の原点に立ち返って、自分なりに発展形を考えてみた。
まず「漆を使えないから漆に似た化学塗料で代替する」、は違う。父は民芸を愛していた。父は伝統手法を用いた曳山を残そうとしていたのでもあり、その精神が継承されない。そして保管や維持が有利な他の伝統的な手法で曳山を作れないだろうか?手法が変われば必然的に呼子独自の曳山となる。そしてシラス鯨からセミ鯨に造形を変えていくならば、造形デザインを創造できる方と組まなければならない。
結論として、維持管理可能な伝統的手法を用いて、かつ立体的な造形デザインを創造できる人がいれば、3つの壁すべてを突破できる可能性がある、というものだった。そこまで思考がたどりついたのだが、なんだか針の穴に糸を通すような、人物探し。伝統的技術かつ立体的なものを作れる造形家?
伝統的手法から考えてみた。陶器や張り子は大きいものが製作困難だし、壊れやすい。木彫りも同様に違う。博多の山笠みたいな造形ではあまりに曳山とは遠いフォルム。青森県のねぶたのような和紙の貼り合わせも、頻繁に作り直しているという話も聞くし、どうも九州のアイデンティティから遠い感性を感じてしまう。。でも、和紙はいいなあ。
!背中に電気が走った。
そういえば偶然、知り合い伝手に紹介して頂いたばかりの、革新的な和紙作家である堀木エリ子さん。巨大な和紙を建築に組み込む手法を開発した方で、一緒に食事をした際に、立体的に和紙を漉く手法も発明したという話を聞いていた。トヨタとコラボして和紙の車さえ作った、ということであった。世界的にも評価されていて、女性作家としての生き様も素晴らしく、会った印象も強かったので書籍も読ませていただいてるところだった。
ネットで検索してみると、ルーブル美術館に展示された、大きな猫の立体和紙オブジェが目に飛び込んできた。この手法で鯨を製作してもらえないだろうか!?その場で頂いていた名刺を見ながら、メールで曳山製作の打診をしてみたのであった。
~次号:神仕組みと和紙曳山
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筆者プロフィール:進藤さわと
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。
1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。