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次回の記事: 地方創生〜鯨の町おこしvol.2は こちらから
「曳山(ひきやま)を作るぞ」
父であり、アミナコレクションの創業者である、進藤幸彦が張り切っていた。
2010年に社長の座を私に引き渡した後、自身の故郷である佐賀県の唐津で活動を始めていた。唐津市も他の地方と変わらず合併を繰り返しつつも過疎化が進んでおり、衰退の一途をたどっている。
民俗学を学び、地域に根ざした文化をテーマに仕事を立ち上げてきた父の価値観からすれば、真の地方創生とは豊かな地域性を伴うもの。他とは違う独自性のある文化こそが、地域の活性化に必要な団結やアイデンティティの根となっていくのだ。唐津の地域性を代表するものといえば、「唐津くんち」という江戸時代から続く唐津神社の曳山行事である。
父も横浜で創業して世界中を飛び回っていた頃、苦しい時には故郷の唐津くんちの太鼓や囃子を思い出しては自身を勇気づけてきたのだという。齢70を超えて、そのあまりに活動的な人生の最後の締めくくりの舞台に唐津を選んだのは、必然の帰結だったに違いない。
曳山とは祭りで引かれる出し物のことを言うが、唐津くんちの曳山は台車の上に豪勢な漆の造形物が乗っている。江戸から明治にかけて町と町が競うようにして曳山を製作していき、今では14台の曳山が旧城下町を練り歩く。和太鼓と笛囃子、そして「エンヤ、エンヤ」という独特の掛け声とともに、圧倒的なスケールの曳山群が通り過ぎる様は、圧巻以外の何者でもない。
父は曳山の歴史を遡り、幻の曳山が存在することを知った。一つは曳山絵図にも描かれている、明治に焼失したか損壊したかで失くなってしまった紺屋町の「黒獅子」。製作目前に物価高騰のため実現しなかった八百屋町の「三尾の金魚(らんちゅう)」。また町田で構想が語られていたという「鯨」の曳山。
この歴史を知った父は、3つの幻の曳山を蘇らせよう、というプロジェクトを立ち上げた。江戸から明治にかけて次から次へと曳山が増えて活性化していった歴史を踏まえると、幻の曳山を復活させていくことで現代の唐津くんちの活性化に繋がる。父は本気で実現に向けて動き出したのだ。冒頭の「曳山を作るぞ」は、この構想を決断したときのもの。
父は「唐津っ子連合」という社団法人を設立し、全国に住む唐津出身者に向けて新聞を発行したり、唐津焼のミュージアムを構想したり、唐津に資するため様々な活動をしていたが、メインは何と言っても曳山製作の活動であった。実際に漆を使って幻の曳山の模型を作り、市民にアンケートをとったり、地元唐津で漆職人の育成を計画したり、曳山の製作所となる蔵を建設するなど、精力的に活動していた。
結論から言えば、父の幻の曳山のプロジェクトは実現しなかったのだ。やはり江戸時代から続き文化財に指定されているほどの祭に大きな追加変更を実現するとなれば、気の遠くなるような時間をかけての合意形成をしていかねばならないだろう。実現に向けて膠着状態が続いていく中、父は癌が再発したりと追い詰められていった。
そんなさなかのこと。唐津市に吸収合併された呼子町の神社宮司である八幡さんから「呼子で曳山を引き受けたい」旨の打診があったのだ。呼子でもかつて曳山行事があったが今では失くなってしまったので、曳山を引き受けて祭り行事を復興したい、と。そして呼子はかつて捕鯨で繁栄した歴史があることから、曳山は「鯨」が望ましい、と。父は手を打って喜んだ。唐津くんちの幻の曳山の復活構想は後世に伝え委ねるとして、呼子に奉納するために曳山を作り自らの足跡を残すことができるのだ。いつも仲違いの多い私もこの時ばかりは父を祝福した。
ちょうどその頃、父に呼子に同行するように言われ、八幡さんとの面会の場に同席した。その際に、八幡さんが「お父さんの活動はご家族も応援している、という認識で大丈夫ですか?」といった主旨のことを確認してきたのをよく覚えている。後々に父の死後、活動を継承していくことになるのだが、この八幡さんとのやりとりが強い楔となっていった。父がそれを狙って私を同席させたのか、それは分からない。
父は曳山を製作する前に逝ってしまった。
2016年4月のこと。毎月恒例になっていた唐津に向かう予定の朝のことだった。病が進行し、まともに立つことさえできない状態だったが、唐津に行くと言って無理矢理、着替えようとしていたらしい。結局、救急車で運ばれ、入院した。入院してからも、私が父と呼子の間に立って、曳山製作に向けてやりとりは続けていた。しかしながら徐々に病状の進行とともに意識が弱まっていき、入退院を繰り返し12月に逝ってしまった。
私は父にどこか反感を持っていた。いつも自分のやりたいことで頭がいっぱいな人だった。きちんと向かい合ってもらった記憶もない。そして無関心なくせに過干渉なところもあって、寂しい思いも踏み躙られた思いもたくさん味わった。
父は死に向かう病床でも頭の中は、曳山、曳山。よくある死の間際に息子にかける言葉みたいなのも一切なく、曳山、曳山だ。ここまで来ると、むしろ清々しいと思った。もし、申し訳なかったとか、感謝してる、とか声をかけられたら、「それなら今までどうしてそうしてこなかったんだ」とか思ったかもしれない。 そうではなく、いつもどおりの父を貫いてくれて、むしろ清々しかった。
自分勝手だけれど、いつも何かに夢中になって取り組む父が好きだったのだ。そして誰に何と言われようとも、心身が限界を超えても、最後まで自分を貫いた父の生き様から多くを学ばせてもらったのだ。
〜次号、遺志を継承、曳山を製作する
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。 1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。
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「曳山(ひきやま)を作るぞ」
父であり、アミナコレクションの創業者である、進藤幸彦が張り切っていた。
2010年に社長の座を私に引き渡した後、自身の故郷である佐賀県の唐津で活動を始めていた。唐津市も他の地方と変わらず合併を繰り返しつつも過疎化が進んでおり、衰退の一途をたどっている。
民俗学を学び、地域に根ざした文化をテーマに仕事を立ち上げてきた父の価値観からすれば、真の地方創生とは豊かな地域性を伴うもの。他とは違う独自性のある文化こそが、地域の活性化に必要な団結やアイデンティティの根となっていくのだ。唐津の地域性を代表するものといえば、「唐津くんち」という江戸時代から続く唐津神社の曳山行事である。
父も横浜で創業して世界中を飛び回っていた頃、苦しい時には故郷の唐津くんちの太鼓や囃子を思い出しては自身を勇気づけてきたのだという。齢70を超えて、そのあまりに活動的な人生の最後の締めくくりの舞台に唐津を選んだのは、必然の帰結だったに違いない。
曳山とは祭りで引かれる出し物のことを言うが、唐津くんちの曳山は台車の上に豪勢な漆の造形物が乗っている。江戸から明治にかけて町と町が競うようにして曳山を製作していき、今では14台の曳山が旧城下町を練り歩く。和太鼓と笛囃子、そして「エンヤ、エンヤ」という独特の掛け声とともに、圧倒的なスケールの曳山群が通り過ぎる様は、圧巻以外の何者でもない。
父は曳山の歴史を遡り、幻の曳山が存在することを知った。一つは曳山絵図にも描かれている、明治に焼失したか損壊したかで失くなってしまった紺屋町の「黒獅子」。製作目前に物価高騰のため実現しなかった八百屋町の「三尾の金魚(らんちゅう)」。また町田で構想が語られていたという「鯨」の曳山。
この歴史を知った父は、3つの幻の曳山を蘇らせよう、というプロジェクトを立ち上げた。江戸から明治にかけて次から次へと曳山が増えて活性化していった歴史を踏まえると、幻の曳山を復活させていくことで現代の唐津くんちの活性化に繋がる。父は本気で実現に向けて動き出したのだ。冒頭の「曳山を作るぞ」は、この構想を決断したときのもの。
父は「唐津っ子連合」という社団法人を設立し、全国に住む唐津出身者に向けて新聞を発行したり、唐津焼のミュージアムを構想したり、唐津に資するため様々な活動をしていたが、メインは何と言っても曳山製作の活動であった。実際に漆を使って幻の曳山の模型を作り、市民にアンケートをとったり、地元唐津で漆職人の育成を計画したり、曳山の製作所となる蔵を建設するなど、精力的に活動していた。
結論から言えば、父の幻の曳山のプロジェクトは実現しなかったのだ。やはり江戸時代から続き文化財に指定されているほどの祭に大きな追加変更を実現するとなれば、気の遠くなるような時間をかけての合意形成をしていかねばならないだろう。実現に向けて膠着状態が続いていく中、父は癌が再発したりと追い詰められていった。
そんなさなかのこと。唐津市に吸収合併された呼子町の神社宮司である八幡さんから「呼子で曳山を引き受けたい」旨の打診があったのだ。呼子でもかつて曳山行事があったが今では失くなってしまったので、曳山を引き受けて祭り行事を復興したい、と。そして呼子はかつて捕鯨で繁栄した歴史があることから、曳山は「鯨」が望ましい、と。父は手を打って喜んだ。唐津くんちの幻の曳山の復活構想は後世に伝え委ねるとして、呼子に奉納するために曳山を作り自らの足跡を残すことができるのだ。いつも仲違いの多い私もこの時ばかりは父を祝福した。
ちょうどその頃、父に呼子に同行するように言われ、八幡さんとの面会の場に同席した。その際に、八幡さんが「お父さんの活動はご家族も応援している、という認識で大丈夫ですか?」といった主旨のことを確認してきたのをよく覚えている。後々に父の死後、活動を継承していくことになるのだが、この八幡さんとのやりとりが強い楔となっていった。父がそれを狙って私を同席させたのか、それは分からない。
父は曳山を製作する前に逝ってしまった。
2016年4月のこと。毎月恒例になっていた唐津に向かう予定の朝のことだった。病が進行し、まともに立つことさえできない状態だったが、唐津に行くと言って無理矢理、着替えようとしていたらしい。結局、救急車で運ばれ、入院した。入院してからも、私が父と呼子の間に立って、曳山製作に向けてやりとりは続けていた。しかしながら徐々に病状の進行とともに意識が弱まっていき、入退院を繰り返し12月に逝ってしまった。
私は父にどこか反感を持っていた。いつも自分のやりたいことで頭がいっぱいな人だった。きちんと向かい合ってもらった記憶もない。そして無関心なくせに過干渉なところもあって、寂しい思いも踏み躙られた思いもたくさん味わった。
父は死に向かう病床でも頭の中は、曳山、曳山。よくある死の間際に息子にかける言葉みたいなのも一切なく、曳山、曳山だ。ここまで来ると、むしろ清々しいと思った。もし、申し訳なかったとか、感謝してる、とか声をかけられたら、「それなら今までどうしてそうしてこなかったんだ」とか思ったかもしれない。
そうではなく、いつもどおりの父を貫いてくれて、むしろ清々しかった。
自分勝手だけれど、いつも何かに夢中になって取り組む父が好きだったのだ。そして誰に何と言われようとも、心身が限界を超えても、最後まで自分を貫いた父の生き様から多くを学ばせてもらったのだ。
〜次号、遺志を継承、曳山を製作する
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筆者プロフィール:進藤さわと
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。
1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。