蘇民将来とは? スサノオがもたらした疫病退散・災厄除けの風習のはじまり

私たちの暮らしに根づいた、疫病退散や災厄除けの風習。
よく知られるものに、民間信仰の「蘇民将来」があります。

この蘇民将来は、善い行いをしたことで、蔓延する疫病から守られたという逸話の主人公の名前に由来するもの。

じつはこの話は災厄除けの神として広く知られるスサノオにも繋がっています。
そして、夏越の大祓の神事、あの茅の輪くぐりのルーツもじつはここにあるのです。

日常のなにげない景色に宿る、壮大な物語。
今回は蘇民将来の物語をみていきましょう。

蘇民将来とは?

蘇民将来、という言葉は聞いたことはあるけれど、いったい何を指しているのかよくわからない、という方も多いかもしれません。

蘇民将来とは?

日本各地に広く根づいた蘇民将来信仰。
時代とともに、「蘇民将来」という言葉はいろいろな意味合いを含みながら、その土地土地で受け継がれているのです。

「蘇民将来」という言葉は、

  • 備後国風土記にある逸話の主人公
  • 疫病除け、災厄除けの神様
  • 日本各地に伝わる厄除けの護符(蘇民将来符)
  • 日本各地に伝わる民間信仰(蘇民将来信仰)
  • 日本各地に伝わる祭祀(蘇民祭)

などの意味で使われることがあるようです。

蘇民将来、もともとは『備後国風土記』に登場する人物の名。
一晩の宿を求めた神を、貧しいながらも厚くもてなしたことで、その子孫は災厄をまぬがれた、という物語から転じて、疫病退散、災厄除けの神様とされてきました。

また疫病退散、災厄除けの護符を指す言葉ともなっています。

蘇民将来にまつわる物語

まずは蘇民将来の逸話をみていきましょう。
蘇民将来でもっとも有名なのは、奈良時代のはじめに編纂された『備後国風土記』。
備後国とは、今の広島県東部をいいます。

蘇民将来にまつわる物語

備後国風土記逸文

昔、北の海に住む武塔神が、南の海に住む神の娘を娶るために旅をしていると、途中で日が暮れてしまった。そこで、将来兄弟に一夜の宿を求めることにした。

備後国風土記逸文

兄の蘇民将来は非常に貧しく、一方弟の巨旦将来は家や蔵を100も持つほど大変に裕福であった。

武塔神が巨旦将来に宿を借りることを申し入れると、ケチな弟はこれを拒んだ。
そして、蘇民将来はこの頼みをこころよく受け入れ、敷物の代わりに粟殻を敷き詰め、粟飯を炊いて精一杯もてなした。

数年後、南の海から北の海に帰る道中、ふたたび立ち寄った武塔神。

「礼をしようと思う。家に子などはいるか」

「娘と妻がおります」

武塔神は「茅の輪を作って、それを腰につけさせよ」と教えた。
いわれたとおりに茅の輪を腰につけさせると、その夜、蘇民将来の娘一人を除いて、一人残らず殺し、滅ぼしてしまった。

「私はスサノオである。後の世に疫病が流行ることがあれば、『蘇民将来の子孫である』と語り、茅の輪を腰につける者はこの疫病から逃れることができるだろう」と伝えたという。

備後国風土記逸文_02

日本各地に伝わる蘇民将来

蘇民将来の物語には、旅をする神が異なったり、あらすじが少し違ったりといった、異伝といわれるものも数多くあります。

伊勢市二見町の松下地区に伝わる、松下社の祭文『敬白牛頭天王儀軌之事』という巻物。ここにも、ほぼ同じ物語が記されています。
平安中期ごろ安倍晴明により建立されたと伝わる松下社。
この一帯では、この松下社の裏の鬱蒼とした木立を「蘇民の森」と呼び、ここに蘇民将来の家があったとも伝わります。

毎年1月7、8日の八日堂縁日で蘇民将来の護符を頒布することで知られる信濃国分寺には、蘇民将来の物語は『牛頭天王之祭文』という形で伝えられています。

あの風習・お守りのルーツも蘇民将来!

蘇民将来の行いによって、神から災厄除け・疫病除けの術を伝えられたという蘇民将来の逸話。
今の時代にみられる、多くの災厄除けや疫病退散の風習のルーツになっていますよ。

夏越の大祓の神事「茅の輪くぐり」

6月30日、日本各地の神社で行われる夏越の大祓。
その象徴ともいえるのが、茅の輪くぐりの神事です。

茅の輪くぐり

境内などに設けられる茅でできた大きな輪を祓詞を唱えながらくぐることで、半年のあいだに身についた穢れを祓い、あとの半年を無事過ごせるようにと願います。
物語の中で武塔神が伝えたという、腰につける災厄除けの守り、茅の輪がこの風習の起源となっています。

もともとは腰につける小さな輪、時代とともに次第に大きくなっていったようです。
平安時代には、人が手で持つほどのサイズとなって、頭から脚先に通す「菅貫(すがぬき)」となり、現在のように、大きな輪になったのは江戸時代の初期ごろだとされています。

全国で授与される厄除けの「蘇民将来符」

「蘇民将来の子孫である」と書かれた護符を、身につけたり玄関に吊るしたりする風習は、広く全国にみられます。

八日堂蘇民将来符

蘇民将来符の頒布でとくに有名なのが、長野県上田市の信濃国分寺の八日堂蘇民将来符。郷土玩具や民芸品としても扱われる、格調高いデザインの護符です。

ドロヤナギを手彫りした六角錐に、朱と墨でさまざまな言葉や絵が描かれます。
この八日堂蘇民将来符は、「蘇」の字の魚と禾を入れ替えて書かれるのが特徴。

かつて信濃国分寺の門前に暮らしていた蘇民講と呼ばれる人々の手で、室町時代から守り継がれています。

八日堂蘇民将来符は毎年1月7、8日の八日堂縁日で頒布されます。蘇民講による七福神などが描かれた絵蘇民は、8日の朝8時からのみの頒布。
家ごとに描かれるものも絵のタッチも違い、それぞれ独特の味わいがあります。

八坂神社の蘇民将来符

厄除けの神スサノオを祀る八坂神社の蘇民将来符。
八角柱の木製で、中心部分に麻紐が通してあり、吊り下げられるようになっています。
八面は赤と緑に塗り分けられ、一文字ずつ「蘇民将来之子孫也」と書かれています。

八坂神社は、祇園祭の時期になると期間限定で厄除けちまきや茅の輪守りなどの授与品も揃います。

日本最古の蘇民将来符とは

最古とされる蘇民将来符は、長岡京跡で発掘されました。
長岡京は784年から794年の10年間営まれた都。1200年以上前のものと考えられます。

長さ2,7cm、幅1,3cm、厚さ0,2cmで、両面に「蘇民将来之子孫者」と墨書きされた木製の小さな板。
上部に小さな穴が開けられて紐を通せるようになっており、首などから下げてお守りのようにして持ち歩いたものだと考えられる形状です。

一年中飾られる伊勢地方の注連縄(しめ縄)

一年中飾られる伊勢地方の注連縄(しめ縄)

三重県の伊勢地方には、お正月の注連縄を一年中飾っておく風習があります。
そのしめ縄の中心に据えられているのが、蘇民将来の護符。

「門」の字を左右に開いてあしらい、その中央には「蘇民将来子孫家」。
左上には「七難即滅」、右上には「七福即生」と書かれています。これは七つの災難があっという間に消え去り、すぐに七つの福が生まれ出るという意味。

そしてこの護符の裏には、左右に平安時代の陰陽師安倍晴明の五芒星(セーマン)と蘆屋道満(あしやどうまん)の九字(ドーマン)、中央に「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」の文字が書かれています。

一年中飾られる伊勢地方の注連縄(しめ縄)

このセーマン・ドーマンは、伊勢からさらに南、鳥羽・志摩地方の海女さんたちが、必ず身につけて海に入るという魔除けの呪い。
急急如律令は、もともと中国・漢で使われていた言葉で、日本に伝わり陰陽道によって「早々に退散せよ」という、魔除けの力を強める言葉として使われるようになったとされています。

蘇民将来信仰、蘇民将来符が広く全国に伝えられ、庶民の暮らしに根付いたその経緯には、陰陽道、陰陽師が深く関わっているとされているのです。

伊勢ならではの注連縄について、詳しくはぜひこちらをどうぞ。

岩手に伝わる裸祭り蘇民祭

岩手県を中心に伝わる「蘇民祭」は、無病息災、五穀豊穣を願って行われる裸詣。
起こりは平安時代中期ともいわれ、国の選択無形文化財にも指定されています。

男衆が盛んに叫ぶ「ジャッソー、ジョヤサ」という独特の掛け声。
邪な心を正し、常(とこしえ)の住まいを作るという「邪正、常屋作」が語源とされ、邪心を祓い、家内安全を祈る言葉です。

祭りのクライマックスには、麻袋「蘇民袋」に入った小間木と呼ばれる護符を、下帯姿の男たちが奪い合います。
最後に袋の口前を掴んだ者が「取主(とりぬし)」。取主は無病息災が約束され、その年は東西どちらの土地が豊作になるかが決まります。

岩手の蘇民祭の中で最も有名で、日本三大奇祭にも挙げられていた奥州市黒石寺蘇民祭は、2024年2月17日、千年以上という歴史に幕を下ろしました。
檀家の高齢化や担い手の減少が理由とされます。

花巻市の胡四王神社蘇民祭や、奥州市の伊手熊野神社蘇民祭など、現在も7つほどの蘇民祭が守り継がれています。

京都の夏の風物詩、祇園祭

祇園祭

毎年7月1日から1ヶ月にわたって行われる京都の祇園祭。
このお祭りも、もともと疫病退散を祈願して始まったお祭りです。

平安時代はじめ、京の町をはじめ日本各地で疫病が蔓延した869年。
霊場神泉苑に当時の日本の国の数にちなみ66本の鉾を立て、八坂神社から神輿を迎えて悪疫を封じ込める御霊会を行ったことが起源とされています。

この祇園祭の期間、八坂神社や各山鉾の町会所で授与される厄除け粽(ちまき)。
笹の葉に巻かれ、藁の柄がつけられたもので、蘇民将来の逸話に登場する茅の輪が転じて茅巻きとなったものだとされます。粽に添えられる紙の札には「蘇民将来之子孫也」の文字。

疫病・厄災除けのお守りとして、一年間玄関の軒先などに飾り、一年後に八坂神社や求めた町会に納めます。
粽は町会ごとに個性があり、デザインはさまざま。またご利益も、厄除けのほかに、その山鉾の由来などに合わせてご利益が異なります。

蘇民将来は、スサノオと牛頭天王、武塔神と同じ神⁈

蘇民将来の逸話に登場し疫病を免れる術を伝えたという神は、逸話によって、武塔神であったり牛頭天王であったりします。
そして、最後に「自分はスサノオである」と名乗るのです。

蘇民将来は、スサノオと牛頭天王、武塔神と同じ神⁈

また、この神々とあの薬師如来も同じ神だとされているのはご存知ですか?
そこには、この国ならでは祈りのかたち、「神仏習合」が関わっています。

神仏習合とは?

さまざまな神が同一視されるようになった背景には、日本独特の神仏習合という信仰の形があります。

それは、日本古来の神道に、6世紀に大陸から伝わった仏教が融合するというもの。

奈良時代には、神社の隣にお寺、神宮寺が建てられるようになります。
これは、神も人と同じく悩み苦しむ存在、そのため仏法によって救われるべきである、という考え方に基づくものでした。
さらに、お寺の境内に、仏を守るための鎮守が建てられるようにもなります。

平安時代になり広まったのが、「本地垂迹」という思想。
これは、神と仏は一体、本当の姿は仏・菩薩であり、日本の人々を救うために日本古来の神の姿となって現れている、という考え方です。

この神仏習合という形は、明治時代はじめ、明治維新の「神仏分離令」により終わりを迎えますが、この神仏習合という信仰の名残りは今もさまざまな形でみることができます。

一体となった疫病・災厄除けの神様たち

蘇民将来の逸話に登場する武塔神は、じつは謎が多く、中国の民間信仰の神であったという説や朝鮮に由来があるという説も。

鎌倉時代に編纂された日本書紀の注釈書である『釈日本紀』には、「祇園を行疫神となす武塔天神の御名は世の知る所なり」とあります。
これは、「疫病をもたらす神として知られる武塔天神の名は広く知れ渡っている」という意味。なんと、疫病を広める神であったとされているのです。

また、古代インドの釈迦が説法を行った道場、聖地でもある祇園精舎の守護神として知られる牛頭天王。この牛頭天王もじつは行疫神!

国宝『辟邪絵』には、険しい顔の天刑星という神様に捕まった疫鬼、牛頭天王がむしゃむしゃと食われて退治されている様子が描かれています。

そしてまたスサノオも、荒ぶる神として知られ、その傍若無人な数々の行いから神々の住まう高天原を追放されました。そして、災厄や疫病を司るともされています。

このように、疫病除け、厄災除けの神様として祀られている神様、じつは疫病をもたらすとされる神々でもあるのです。

その荒ぶる強い力を抑えるには、まずはお迎えして丁寧に祀り、鎮まることを祈る。
祀り崇めるうちに、この神々は次第に疫病除け・災厄除けのご神徳を持つ、同一の神となっていったと考えられます。

そして本地垂迹、神仏習合の広がりによって、スサノオそして武塔神は牛頭天王であり、その本地仏は病気平癒や厄除け、人々を苦しみから救う薬師如来であると考えられるようになっていきました。

荒ぶる神々を慰め鎮める祇園祭

荒ぶる神々を慰め鎮める祇園祭

古の時代、人々を苦しめる疫病などは、非業の死を遂げた人々の霊や、こうした行疫神の祟りによってもたらされるものだと信じられてきました。

先にも紹介した、蘇民将来の逸話がルーツだとされる祇園祭。
日本中に蔓延する疫病、次々に起こる天変地異は、悪霊や行疫神の祟りであると考えられました。

そして、八坂神社の御祭神であった牛頭天王を慰め祀ることで、その強い力で疫病を退散し悪霊を鎮めてもらうということが起源となったのです。

のちに明治の神仏分離令によって、八坂神社の御祭神は牛頭天王からスサノオとなりました。

疫病退散としての起源を持ち、日本を代表する祭りでもある祇園祭についてはぜひこちらをどうぞ。

伊勢の注連縄が購入できる「岩座 伊勢店」

伊勢神宮内宮の宇治橋のたもとからまっすぐにのびる石畳の道、両側には土産物屋やこの土地ならではの美味しいものを売るお店が立ち並びます。これがおはらい町です。

このおはらい町に軒を連ねる岩座 伊勢店では、本文で紹介した伊勢の地独特の注連縄を購入することができます。

蘇民将来の護符を中心に、橙や裏白などがあしらわれたもの。
毎年とても人気がある商品なので、タイミングによっては売り切れということも。

2026年はちょっと特別な注連縄を用意して、伊勢の地の風習のように一年中飾ってみるのはいかがでしょう?

施設概要・アクセス

私たちだからこそ知ること

蘇民将来の逸話が生まれたという奈良時代。

いえ、それよりずっとずっと昔から、人々は疫病や次々に起こる災厄を大いなるものの力だとして畏れ、さまざまな方法でそれを防ごうとしてきました。

それが今私たちの目に映るものとして、風習として残っています。
小さなお守り、受け継がれる祭り、力強い祈りの声。こんなにもたくさん。

まだ記憶に新しい、目に見えない脅威と戦った経験をもつ私たち。

長い時間の中で、少しずつ形を変えながらも蘇民将来を信じ、その護符を欠かさず玄関口に吊るしてきた人々の祈りを、今の私たちはきっと知っています。


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