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2011年の夏至から2年半ほど、私は滋賀県彦根市の琵琶湖畔で暮らしていました。近江國は、古い神社仏閣が多く、磐座信仰も各地に残っています。今回は、住んでいた彦根市とその周辺、湖東のいくつかの磐座や巨石を紹介します。
写真・文 須田郡司 前回の記事はこちら
滋賀県で最も信仰を集めている神社が、「お多賀さん」として親しまれている多賀大社です。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」と里歌に歌われている多賀大社の祭神は、天照大神の両親である伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の2柱です。
古くから広く民衆の信仰を集めていました。 多賀大社境内には、磐座ではありませんが信仰されている「寿命石」があります。平安時代、東大寺の再建を命ぜられた俊乗坊重源は多賀大社に参詣し、二十年の寿命を授かったといいます。寿命石はその由緒を伝える石として延命を祈る人々が耐えないようです。
伊邪那岐と伊邪那美は、滋賀県犬上郡の山に降臨し、調宮神社(ととのみやじんじゃ)に鎮座しました。その後、多賀大社の地に移ったと伝えられていることから、調宮神社は多賀大社の奥宮として信仰されています。
毎年4月の多賀大社古例大祭に先立ち、調宮神社へ渡御され神輿鳳輦(ほうれん)に境内の富の木(神が宿るとされる桂の木)を飾り、大社に還奉されます。調宮神社から少し離れた境内に高さ3メートルほどの巨石あり、その前にはだれが置いたのか白石が供えられています。 地元の人によれば、かつてこの石には注連縄がまかれていた時期もあったそうで、古くは磐座として信仰されていたのではないかと考えられています。
多賀大社の別宮と呼ばれているのが滋賀県犬上郡多賀町敏満寺にある胡宮神社です。 胡宮神社は、青龍山の巨石信仰が起源といわれ、ご祭神は多賀大社と同じ伊邪那岐、伊邪那美です。 標高333メートルの青龍山は、社殿ができる以前の原始信仰の姿を今に残している聖なる山です。
また、青龍山は双耳峰で、低いほうの峰に胡宮神社の磐座があります。 胡宮神社裏から急な登山道を上ること15分あまりで、高さ5メートル、幅8メートルほどの巨石が現れ、その前に小さな祠が鎮座しています。ここには龍神が祀られ、古くから長寿・豊作・雨乞の祈願をしたと言われています。
彦根市から湖岸沿を北上し米原市に入ってすぐ左手に巨石が見えます。
琵琶湖を一望する磯の浜辺に浮かぶ4m四方もの大きな岩。この岩を北側から見ると烏帽子に見えることから烏帽子岩と呼ばれています。 また、岩をよく見ると男岩・女岩の2つの岩がひとつに重なっているところから、『結びの岩』とも呼ばれています。彦根に住んでいた頃、この烏帽子岩は身近な存在でした。
この写真は、ある夕暮れ時、琵琶湖の水面の色が変化している中、烏帽子岩と水面をアップで撮影したものです。彦根での暮らしは、日々、琵琶湖と空の夕景の美しさに魅せられていたことが懐かしい思い出です。
彦根市の中西部に標高284mの独立峰、荒神山(こうじんやま)があります。 山頂に「かまど神」として信仰される荒神山神社があり、御祭神に火産霊神(ほむすびのかみ)・奥津日子神(おきつひこのかみ)・奥津比売神(おきつひめのかみ)をお祀りする神社です。
荒神山神社は古くは奈良時代、行基が山頂に奥山寺を開山した際に三宝大荒神の像を祀ったことから荒神山と呼ばれるようになりました。明治の神仏分離令により廃寺となり、荒神山神社だけが残ったといいます。
この山の山中に蛇岩と呼ばれる奇岩があります。 蛇岩は長さ6m・高さ3m・幅3m。地元では石神さまとして毎年12月に注連縄が取り替えられ、正月には鏡餅を供えてお祀りされているといいます。
蛇岩には、こんな伝説があります。 「むかし天竺(インド)の霊鷲山の一岳を、大へびが背に乗せて月氏國(中央アジアの遊牧民国家)を経て日本に化来し、大へびは岩と化し、毎朝東にむかって三度口を開いて、日光を呑む。」
荒神山の南西に稲村神社があります。 御祭神は「豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)・伊邪那美命・丹生(にう)大神」の3柱を祀り、創建は天智天皇の御宇六年、常陸国久慈郡稲村に鎮座の稲村神社の分霊を当稲里町小字塚の地に迎え、奉祀したのが始まりとされています。
境内にはいくつかの磐座が鎮座しています。この槍のような磐座は、とても存在感があります。
滋賀港からの琵琶湖を望むと正面に浮かぶ小島が多景島です。 彦根港の近くに住んでいた頃、夕陽が沈む琵琶湖畔に浮かぶ多景島を何度も見ながら感動したことを思い出します。
彦根市街地から6.5キロメートルの湖上に浮かぶ周囲約600メートルの花崗岩の島です。1655年(明暦1)日請上人が予知夢で島が現れ、それがここ多景島だったことから霊夢山見塔寺を建立しました。
この島で知られている巨石は「南無妙法蓮華経」の文字が彫られた題目岩です。高さ10m。幕末、桜田門外の変の際に岩から鮮血が滲み出たとの言い伝えがあります。この題目岩は、残念ながら風化のため2018年に上部が崩落してしまいました。
最後に、彦根で最もよく通っていた好きな磐座を紹介します。 彦根市の山間部、比婆山に鎮座する比婆神社です。 彦根市街地から車で30分、山道を上って行くと彦根市男鬼町の集落が見えてきます。
今、ここに住んでいる人はいません。限界集落で冬場は積雪のため隔離されるため、男鬼町は廃村となり人々は彦根市街地へ移住したのです。 集落の外れの鳥居を潜り、さらに険しい坂道を上って行くと、比婆神社の入口に辿り着きます。比婆山の山頂近くに岩窟があり、その前に社殿が造られ比婆神社が鎮座しています。 比婆神社は地元男鬼町の人々にとって山神さんとして信仰されていました。比婆神社の前庭は、少し平らな空間があります。その先端に行くと、大きな巨石群が岩室のように重なっていることがわかります。
元々、山神さんはこの岩室の中にお鎮まりなったといわれます。驚くことに神社の東側には、多くの巨石群の岩室が広がっているのです。 岩には苔が生えていて、緑の絨毯のようで神の石庭といった佇まいで、どこか神秘的な雰囲気があります。
比婆神社の御祭神は伊邪那美。古くは「山神さん」と信仰され、湖東、湖北、関ヶ原、また全国から参詣する人が多いといわれます。 宝暦以前から社殿があり、昭和23年、崇敬者の寄進により荘厳な神明造りの社殿が再建されました。山上の社殿にしては、とても立派な佇まいです。それは、地元の熱心な崇敬社の方々によって信仰されているからです。
比婆神社といえば広島にある比婆山が有名です。 彦根市男鬼町の比婆神社は、元々は山の神でしたが、それが比婆神社として信仰されるようになったきっかけがあります。 それは、大正時代のこと、長浜のある女性シャーマンの方が率いた講集団に信仰されるようになってからとのことです。当時、長浜の村で村方の相談役になっていた憑依型シャーマン的存在の霊能の強い女性が、ある日多賀大社に向かう道中鳥居本を通りかかると、鈴鹿の山の方から「行者登ってこいよー、行者登ってこいよー」と神の声を聴いたそうです。それから霊能者を中心に比婆神社信仰が広がり、やがて山の神は比婆神社として知られるようになったというのです。
2012年11月25日、比婆神社で新しい注連縄を付け替える祭典があることを知り参列させていただく。比婆神社の前には、彦根市在住の氏子総代さんと十数人もの崇敬者の方々が集まっていました。
比婆神社を兼務している山田神社の宮司によって神事が行われました。面白いことに、比婆神社は彦根市にあるのですが、長浜市石田町(石田三成出身地)の方々が中心になってお守りされているのです。 お話を聞けば、ここをお参りすると、商売をしている人は繁盛するそうです。石田町の方々は立派な銅板の社殿、車が上れるように山道をセメント道に整備していました。比婆神社は、大正時代から長浜の人達によって守られ続けているのです。
祭典後、参拝者の何人かの方は、旧参道沿いにある磐座、男鬼の日枝神社で熱心に祈っていました。 ある男性の方は、どうもシャーマンのようでした。産後に男鬼町の日吉神社を参拝した際、男性は神がかり、神様として崇敬者の方々を労っていたのです。 近年、神社神道はシャーマニズムを否定的な存在としてとらえていますが、比婆神社のようにシャーマニズム色の濃い信仰は、日本各地に残されています。 琵琶湖の湖東地域には、いまでも信仰されている石の聖地がたくさん存在しています。
本記事を執筆いただいた須田郡司さんの1部の作品を岩座にて取り扱っております。 岩座の店舗でも販売しておりますので、ぜひお手に取って磐座のもつ魅力を感じてみてください。
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写真家・巨石ハンター・石の語りべ。1962年、群馬県沼田市生まれ。沖縄在住。琉球大学法文学部史学科地理学専攻・写真専門学校卒業。雑誌カメラマンを経て独立。国内や世界50カ国以上を訪ね、聖なる石や巨石を撮影。日本石巡礼(2003~2006)、世界石巡礼(2009~2010)を行う。2004年より巨石文化の魅力を伝えるため「石の語りべ」講演活動を展開。「石の聖地」研究、巨石マップ制作、巨石ツアーのコーディネートを行なっている。ザ・ロックツアー「琉球の聖なる石を訪ねる」を主催。2020年、島根大学大学院人文社会科学研究科言語・社会文化専攻(文化人類学)修士課程修了。
2011年の夏至から2年半ほど、私は滋賀県彦根市の琵琶湖畔で暮らしていました。
近江國は、古い神社仏閣が多く、磐座信仰も各地に残っています。今回は、住んでいた彦根市とその周辺、湖東のいくつかの磐座や巨石を紹介します。
写真・文 須田郡司
前回の記事はこちら
目次
多賀大社ゆかりの磐座
滋賀県で最も信仰を集めている神社が、「お多賀さん」として親しまれている多賀大社です。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」と里歌に歌われている多賀大社の祭神は、天照大神の両親である伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の2柱です。
古くから広く民衆の信仰を集めていました。
多賀大社境内には、磐座ではありませんが信仰されている「寿命石」があります。平安時代、東大寺の再建を命ぜられた俊乗坊重源は多賀大社に参詣し、二十年の寿命を授かったといいます。寿命石はその由緒を伝える石として延命を祈る人々が耐えないようです。
伊邪那岐と伊邪那美は、滋賀県犬上郡の山に降臨し、調宮神社(ととのみやじんじゃ)に鎮座しました。その後、多賀大社の地に移ったと伝えられていることから、調宮神社は多賀大社の奥宮として信仰されています。
毎年4月の多賀大社古例大祭に先立ち、調宮神社へ渡御され神輿鳳輦(ほうれん)に境内の富の木(神が宿るとされる桂の木)を飾り、大社に還奉されます。
調宮神社から少し離れた境内に高さ3メートルほどの巨石あり、その前にはだれが置いたのか白石が供えられています。 地元の人によれば、かつてこの石には注連縄がまかれていた時期もあったそうで、古くは磐座として信仰されていたのではないかと考えられています。
多賀大社の別宮と呼ばれているのが滋賀県犬上郡多賀町敏満寺にある胡宮神社です。
胡宮神社は、青龍山の巨石信仰が起源といわれ、ご祭神は多賀大社と同じ伊邪那岐、伊邪那美です。
標高333メートルの青龍山は、社殿ができる以前の原始信仰の姿を今に残している聖なる山です。
また、青龍山は双耳峰で、低いほうの峰に胡宮神社の磐座があります。
胡宮神社裏から急な登山道を上ること15分あまりで、高さ5メートル、幅8メートルほどの巨石が現れ、その前に小さな祠が鎮座しています。
ここには龍神が祀られ、古くから長寿・豊作・雨乞の祈願をしたと言われています。
烏帽子岩
彦根市から湖岸沿を北上し米原市に入ってすぐ左手に巨石が見えます。
琵琶湖を一望する磯の浜辺に浮かぶ4m四方もの大きな岩。この岩を北側から見ると烏帽子に見えることから烏帽子岩と呼ばれています。 また、岩をよく見ると男岩・女岩の2つの岩がひとつに重なっているところから、『結びの岩』とも呼ばれています。彦根に住んでいた頃、この烏帽子岩は身近な存在でした。
この写真は、ある夕暮れ時、琵琶湖の水面の色が変化している中、烏帽子岩と水面をアップで撮影したものです。彦根での暮らしは、日々、琵琶湖と空の夕景の美しさに魅せられていたことが懐かしい思い出です。
荒神山の蛇岩
彦根市の中西部に標高284mの独立峰、荒神山(こうじんやま)があります。
山頂に「かまど神」として信仰される荒神山神社があり、御祭神に火産霊神(ほむすびのかみ)・奥津日子神(おきつひこのかみ)・奥津比売神(おきつひめのかみ)をお祀りする神社です。
荒神山神社は古くは奈良時代、行基が山頂に奥山寺を開山した際に三宝大荒神の像を祀ったことから荒神山と呼ばれるようになりました。明治の神仏分離令により廃寺となり、荒神山神社だけが残ったといいます。
この山の山中に蛇岩と呼ばれる奇岩があります。
蛇岩は長さ6m・高さ3m・幅3m。地元では石神さまとして毎年12月に注連縄が取り替えられ、正月には鏡餅を供えてお祀りされているといいます。
蛇岩には、こんな伝説があります。 「むかし天竺(インド)の霊鷲山の一岳を、大へびが背に乗せて月氏國(中央アジアの遊牧民国家)を経て日本に化来し、大へびは岩と化し、毎朝東にむかって三度口を開いて、日光を呑む。」
荒神山の南西に稲村神社があります。
御祭神は「豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)・伊邪那美命・丹生(にう)大神」の3柱を祀り、創建は天智天皇の御宇六年、常陸国久慈郡稲村に鎮座の稲村神社の分霊を当稲里町小字塚の地に迎え、奉祀したのが始まりとされています。
境内にはいくつかの磐座が鎮座しています。この槍のような磐座は、とても存在感があります。
多景島~崩落した題目岩
滋賀港からの琵琶湖を望むと正面に浮かぶ小島が多景島です。
彦根港の近くに住んでいた頃、夕陽が沈む琵琶湖畔に浮かぶ多景島を何度も見ながら感動したことを思い出します。
彦根市街地から6.5キロメートルの湖上に浮かぶ周囲約600メートルの花崗岩の島です。1655年(明暦1)日請上人が予知夢で島が現れ、それがここ多景島だったことから霊夢山見塔寺を建立しました。
この島で知られている巨石は「南無妙法蓮華経」の文字が彫られた題目岩です。高さ10m。
幕末、桜田門外の変の際に岩から鮮血が滲み出たとの言い伝えがあります。この題目岩は、残念ながら風化のため2018年に上部が崩落してしまいました。
比婆神社(山神さん)
最後に、彦根で最もよく通っていた好きな磐座を紹介します。
彦根市の山間部、比婆山に鎮座する比婆神社です。
彦根市街地から車で30分、山道を上って行くと彦根市男鬼町の集落が見えてきます。
今、ここに住んでいる人はいません。限界集落で冬場は積雪のため隔離されるため、男鬼町は廃村となり人々は彦根市街地へ移住したのです。
集落の外れの鳥居を潜り、さらに険しい坂道を上って行くと、比婆神社の入口に辿り着きます。比婆山の山頂近くに岩窟があり、その前に社殿が造られ比婆神社が鎮座しています。
比婆神社は地元男鬼町の人々にとって山神さんとして信仰されていました。比婆神社の前庭は、少し平らな空間があります。その先端に行くと、大きな巨石群が岩室のように重なっていることがわかります。
元々、山神さんはこの岩室の中にお鎮まりなったといわれます。驚くことに神社の東側には、多くの巨石群の岩室が広がっているのです。
岩には苔が生えていて、緑の絨毯のようで神の石庭といった佇まいで、どこか神秘的な雰囲気があります。
比婆神社の御祭神は伊邪那美。古くは「山神さん」と信仰され、湖東、湖北、関ヶ原、また全国から参詣する人が多いといわれます。
宝暦以前から社殿があり、昭和23年、崇敬者の寄進により荘厳な神明造りの社殿が再建されました。山上の社殿にしては、とても立派な佇まいです。それは、地元の熱心な崇敬社の方々によって信仰されているからです。
比婆神社といえば広島にある比婆山が有名です。
彦根市男鬼町の比婆神社は、元々は山の神でしたが、それが比婆神社として信仰されるようになったきっかけがあります。
それは、大正時代のこと、長浜のある女性シャーマンの方が率いた講集団に信仰されるようになってからとのことです。当時、長浜の村で村方の相談役になっていた憑依型シャーマン的存在の霊能の強い女性が、ある日多賀大社に向かう道中鳥居本を通りかかると、鈴鹿の山の方から「行者登ってこいよー、行者登ってこいよー」と神の声を聴いたそうです。それから霊能者を中心に比婆神社信仰が広がり、やがて山の神は比婆神社として知られるようになったというのです。
2012年11月25日、比婆神社で新しい注連縄を付け替える祭典があることを知り参列させていただく。比婆神社の前には、彦根市在住の氏子総代さんと十数人もの崇敬者の方々が集まっていました。
比婆神社を兼務している山田神社の宮司によって神事が行われました。面白いことに、比婆神社は彦根市にあるのですが、長浜市石田町(石田三成出身地)の方々が中心になってお守りされているのです。
お話を聞けば、ここをお参りすると、商売をしている人は繁盛するそうです。石田町の方々は立派な銅板の社殿、車が上れるように山道をセメント道に整備していました。比婆神社は、大正時代から長浜の人達によって守られ続けているのです。
祭典後、参拝者の何人かの方は、旧参道沿いにある磐座、男鬼の日枝神社で熱心に祈っていました。
ある男性の方は、どうもシャーマンのようでした。産後に男鬼町の日吉神社を参拝した際、男性は神がかり、神様として崇敬者の方々を労っていたのです。 近年、神社神道はシャーマニズムを否定的な存在としてとらえていますが、比婆神社のようにシャーマニズム色の濃い信仰は、日本各地に残されています。
琵琶湖の湖東地域には、いまでも信仰されている石の聖地がたくさん存在しています。
須田郡司さんの作品紹介
本記事を執筆いただいた須田郡司さんの1部の作品を岩座にて取り扱っております。
岩座の店舗でも販売しておりますので、ぜひお手に取って磐座のもつ魅力を感じてみてください。
岩座のショップリストはこちら
ライタープロフィール:須田郡司
写真家・巨石ハンター・石の語りべ。1962年、群馬県沼田市生まれ。沖縄在住。琉球大学法文学部史学科地理学専攻・写真専門学校卒業。雑誌カメラマンを経て独立。国内や世界50カ国以上を訪ね、聖なる石や巨石を撮影。日本石巡礼(2003~2006)、世界石巡礼(2009~2010)を行う。2004年より巨石文化の魅力を伝えるため「石の語りべ」講演活動を展開。「石の聖地」研究、巨石マップ制作、巨石ツアーのコーディネートを行なっている。ザ・ロックツアー「琉球の聖なる石を訪ねる」を主催。2020年、島根大学大学院人文社会科学研究科言語・社会文化専攻(文化人類学)修士課程修了。