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5/2はチャイハネの誕生日!おかげ様で今年で45周年を迎えました! 45周年を迎えられたのは、お客様あってこそです。いつもご愛顧いただき、本当にありがとうございます。お客様に楽しんでいただけるよう、進化が止まらないチャイハネを、これから先もどうぞよろしくお願いいたします!
今回は45周年を祝して、アミナコレクション代表 進藤にチャイハネの45年を振り返り、語っていただきました。幼い頃の記憶から現在に至るまで、進藤目線のノンフィクションストーリーをお届けします。
併せて読みたい!もうひとつのノンフィクションドラマ。 このコラムで代表 進藤が語るシーンを、 チャイハネのレジェンド、ハッピー・マコトは、こう見ていた。 重なる二つのストーリー。Legend of Cayhaneはこちら
チャイハネが生まれたのは1978年、私が3歳のときだ。 父が輸入民藝の卸で創業して、まだ事業的にも手探りの段階でのチャイハネ開業だったと思う。
開業したのは横浜中華街の南門。父の故郷の佐賀県唐津は海沿いの城下町であり文化度も高い。横浜中華街の港町と異文化の雰囲気に、故郷への類似と同時に全く違う刺激、双方を感じ取り創業の地に選んだのだと思う。
チャイハネが開業した通りは当時は人通りも少なく、父の町おこしへの意気込みも感じられる。 初代チャイハネには、「Yokohama Dontak チャイハネ」と掲げられている。関東大震災前にはメインストリートとして異人たちがパレード(=ドンタク)したりと賑わっていたという。その歴史をほりおこし、ドンタクの様子が描かれた横浜浮世絵を看板に掲げていた。町全体をドンタクの雰囲気にして、チャイハネを盛り上げたかったのだ。
父によると『中華街の南門の通りは、ヨーロッパ志向の町並みである元町と中華街を結ぶ、いわばシルクロード。なじみやすい名前を考えたところ、トルコの寄り合い茶屋「チャイハネ」がすぐ浮かんだ。気楽にいろいろなお客に入ってもらい、チャイは飲めないが世界の民芸を楽しんでもらおう。』ということだ。
初代チャイハネは1年の契約限定だったので、さっそく1年で居場所に困ってしまった。しかし日々頑張っている父の姿を見ていた向かいのラーメン屋さんのオーナーである稲垣さんが「もう店を閉めるからここで商売をしたらどうか?」と場所を提供してくれた。それが現在のチャイハネの場所なのである。
もともと船具問屋だった古民家に、木造のボートを掲げて再出発した。このボートは、営業廻りをしていたときに金沢八景の野島付近の運河で放置されていたのを見つけたものだという。 水質汚染がひどかった当時、ウンチのうかぶ運河を泳いで、この貴重な木造ボートを回収し持ち帰った。ボートが掲げられると不思議と旅情がにじみ出る。船小屋チャイハネが完成した。
私が小学生ぐらいのときの記憶だが、当時の通りは閑散としていて、怪しい民族のお面などが壁にあるチャイハネでポツンと1人座る父を見た。いつ倒産してもおかしくないと、子供心に思っていた。
自宅もチャイハネの倉庫を兼ねていて、インドなどの民芸特有の湿ったにおいのする箱の上で遊んだりしていた。父は旅が好きだったので、車で二泊三日とか連れ出してくれたのだが、インドのお香の匂いが車に染みていて、そのせいで毎回酔ってしまったものだ。 父は休みなく働き、家庭生活も仕事もチャンポン、いつしかチャイハネは軌道に乗っていった。
チャイハネが軌道に乗ったのかも、と感じた生活の記憶がいくつかある。 かつては貧乏でオヤツは5人兄弟で100円のスナックを分けあっていたものだが、スナックの袋が2袋、3袋と増えていった。外食なんてもってのほかだったのが、1カ月に1回、外に食べに行くようになった。そして中学生のときに友達から「姉ちゃんがチャイハネファンで、派手な服装するから恥ずかしい」と言われた時、あれ?チャイハネ広がってきてる?って感じたものだ。
父は南門シルクロード通りの町づくりにも尽力しつつ、20数年かけて中華街エリアに店舗を増やしていった。対象となるエスニック諸国やカテゴリーを拡大し、その活動と表現の幅を広げていったのだ。
チャイハネ45年の歴史のうち、2002年までの25年はほぼ中華街の中での展開だったが、2003年から本格的に全国に展開し、2023年時点で70店舗を超えている。
チャイハネの特異性をいくつかしぼって語りたいと思う。
まずは創業の志が特異だ。多くのエスニック系の創業者は、海外を旅行してエスニックが好きになった、とか、海外協力隊で地域と仲良くなって、ということが多い。それに対してチャイハネは、創業者が高校生のときに東北の民俗舞踊と出会い、民俗文化の魅力に没入したところからはじまる。
大学では民俗学を専攻。トルコの民俗調査をしているときに「学者然とした冷たいまなざしで民俗を観るのではなく、互いに生活を賭けた商売を通して民俗文化と繋がっていきたい」と開眼したところからチャイハネの構想がはじまった。そんな縁もあり、チャイハネのネーミングはトルコの寄り合い茶屋から由来している。
また、チャイハネは町づくりとともに産まれ育ったという点も特異だ。 横浜中華街の南門シルクロードという通りの名前を考案したのも父であったし、1985年に建て直したチャイハネの入口にはシルクロードを渡ってやってきた七福神の神々の看板が飾られている。数年にわたり「姫林檎祭り」というシルクロード通りの祭りを企画して、民俗芸能をパレードさせたりもした。
一番強烈だったのは、シルクロード通りの真ん中にマンションができる計画が浮上したとき、血相を変えた父が反対運動をおこした。ついには中華街発展会も合流してマンション計画は廃止され、その計画地に媽祖廟が産まれた。 媽祖廟の入り口には父の詩が進藤彦興名義で飾られている。(父は進藤幸彦という名だが、ペンネームで進藤彦興と名乗っていた。)町づくりに取り組みつつ、横浜中華街の観光地としての発展と共にチャイハネも拡大、成長していったのだ。
余談だが、「なぜ横浜中華街に中華じゃないチャイハネがあるのか?」と言われることがある。チャイハネのチャイはチャイナのチャイか?とも。
私の記憶にあるかつての中華街は、中華中華というより、もっと雑多な町だった。1970年代までは、まだ飛行機ではなく船が主要な移動手段であった。横浜港を使った船客が町に降りてきて、横浜中華街で日用品買ったりバーに立ち寄ったりしていたのだ。
チャイハネPart2も、もともとは時計屋さんだったし、銭湯もあったり床屋もあったりと、もっと生活感があった。初代船小屋チャイハネは二階にオーナーさんが住んでいて、店舗正面から見えるベランダには洗濯物が干され、赤ちゃんの泣き声も聞こえたという。父はそういう町の生活感も気に入っていた。
けっして中華中華な町ではなく、異文化を受け入れつつ生活や旅人の息づかいに満ちた、横浜ローカルな町だった。チャイハネがこの地に産まれたのは何の不思議もなかったのだ。
チャイハネの歴史は発展拡大のエネルギーに満ち溢れている。 前述したようにカテゴリーや対象国を増やしていった店舗展開もさることながら、1986年に小売業界でも先駆的にデザイナーを雇いオリジナル商品開発を始めている。そのことにより既存の民芸品に縛られず、より表現の幅を広げ、民俗文化をさまざまな生活のシーンにお届けすることができるようになった。
またそれは同時に地域の産業の活性化にも繋がってきた。たとえばネパールではもともと和紙を使ったカレンダーや便箋などあったが、それらの⽊版画のデザインは、ヒンズーの神々やブッダやマンダラといった宗教的モチーフばかり。そこで現地の⼯房と組んで、ヨガと⼲⽀をモチーフにしたオリジナルのカレンダーとハガキを作ってみたところ、これらは⽇本で⼈気商品に。同時にネパール和紙に新たなデザインが産まれたことでドイツやオーストラリアにも輸出されるようになり、ネパール和紙という伝統産業が劇的に活性化された。
私自身も20代のときに世界中に出張に行かせてもらったし、バリや中南米諸国などで、まるで旅をするように商品開発をした。 現地に着くと目に飛び込んでくる異文化の建築や人々の営み。鼻を突く匂い。人々のバイタリティ。どっぷりと異世界に身体ごと飛び込んでいって、もうワクワクが止まらない。そこから仕事が始まるのだ。
そして現地の文化や作り手と触れ合いながら互いに切磋琢磨して商品を創造し、お客様に届ける喜び。売れるものを創ることで地域産業にお金が回る、互いに生活を賭けて仕事にとりくむ充実。私は特にペルーのクスコやガテマラのパナハッチェルの町並みや人々の活気とともに、この喜びと充実を思い出すことが多い。
チャイハネはいまだにインドやネパールをはじめ、さまざまな地域産業と商品を産み出している。その45年の歴史はチャイハネの誇りでもあり、支えてくれた現地の工房やお客様への感謝でもある。
そしてまだチャイハネが2店舗だったとき、シルクロード舞踏館なるイベントスペースも立ち上げている。ヨガや太極拳や民俗舞踊といった身体に宿る文化の活動の場として提供しつつ、フライヤーを配布し情報発信もしていった。
「フォークロア世界への旅」「民芸曼荼羅」「世界のお守り」を執筆し、フライヤーに連載していた社員の旅記録「チャイハネマーケット」を書籍化するなど、モノだけでなくそれにまつわる文化的な情報発信を加速した。これも小売業界で先駆的な取り組みだったといえる。 父は『高校生時代に、友人と学校新聞を発行するなどしてきた経験が活きた』と口にしていた。
そしてチャイハネの30周年にはシルクロード舞踏館としてファッションライブを敢行した。チャイハネ衣料のファッションショーと民俗芸能をステージ上で組み合わせた実験的な試みであった。民俗芸能についてはアフリカの芸能なども紹介されたが、ハワイのフラダンスの源流であるカヒコフラ、東北の早池峰の岳神楽といった一流の芸能が紹介された。
私がチャイハネに続き、日本をテーマにしたブランド「倭物やカヤ」「岩座」、ハワイをテーマにした「Kahiko」を展開していったのは、このファッションライブでの感動がインスピレーションになっている。
父の原点である民俗文化(フォークロア)から派生してさまざまに業態を展開してもよいではないか。チャイハネの歴史が持つ発展拡大のエネルギーが私を駆り立てた。以後、ヨーロッパの民俗文化をテーマにした「欧州航路」、フィンランドの民俗文化であるサウナをテーマにした「HARE-TABI SAUNA&INN(2023.4/15OPEN!)」など、発展拡大は続いている。
今のアミナコレクションの活動の原点はチャイハネであり、私もチャイハネだけの時代に入社している。 当時は世の中と同じでは満足できないタイプの尖った人、世界を旅して感性をたくましくした人、ときに普通の社会に適合できないレベルの人もいた。とにかく個性的な集団だった。お客様も社員もそれに呼応するように集まってきて、チャイハネは成長し、その歴史や社風は今でもアミナコレクションのコアとなっている。
これからもチャイハネはアミナコレクションの先頭を切って、時代を切り裂くように存在していく。いろいろ楽しみにしておいてもらいたい。
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。 1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。
5/2はチャイハネの誕生日!おかげ様で今年で45周年を迎えました!
45周年を迎えられたのは、お客様あってこそです。いつもご愛顧いただき、本当にありがとうございます。お客様に楽しんでいただけるよう、進化が止まらないチャイハネを、これから先もどうぞよろしくお願いいたします!
今回は45周年を祝して、アミナコレクション代表 進藤にチャイハネの45年を振り返り、語っていただきました。幼い頃の記憶から現在に至るまで、進藤目線のノンフィクションストーリーをお届けします。
併せて読みたい!もうひとつのノンフィクションドラマ。
このコラムで代表 進藤が語るシーンを、
チャイハネのレジェンド、ハッピー・マコトは、こう見ていた。
重なる二つのストーリー。Legend of Cayhaneはこちら
チャイハネが生まれたのは1978年、私が3歳のときだ。
父が輸入民藝の卸で創業して、まだ事業的にも手探りの段階でのチャイハネ開業だったと思う。
開業したのは横浜中華街の南門。父の故郷の佐賀県唐津は海沿いの城下町であり文化度も高い。横浜中華街の港町と異文化の雰囲気に、故郷への類似と同時に全く違う刺激、双方を感じ取り創業の地に選んだのだと思う。
チャイハネが開業した通りは当時は人通りも少なく、父の町おこしへの意気込みも感じられる。
初代チャイハネには、「Yokohama Dontak チャイハネ」と掲げられている。関東大震災前にはメインストリートとして異人たちがパレード(=ドンタク)したりと賑わっていたという。その歴史をほりおこし、ドンタクの様子が描かれた横浜浮世絵を看板に掲げていた。町全体をドンタクの雰囲気にして、チャイハネを盛り上げたかったのだ。
父によると『中華街の南門の通りは、ヨーロッパ志向の町並みである元町と中華街を結ぶ、いわばシルクロード。なじみやすい名前を考えたところ、トルコの寄り合い茶屋「チャイハネ」がすぐ浮かんだ。気楽にいろいろなお客に入ってもらい、チャイは飲めないが世界の民芸を楽しんでもらおう。』ということだ。
初代チャイハネは1年の契約限定だったので、さっそく1年で居場所に困ってしまった。しかし日々頑張っている父の姿を見ていた向かいのラーメン屋さんのオーナーである稲垣さんが「もう店を閉めるからここで商売をしたらどうか?」と場所を提供してくれた。それが現在のチャイハネの場所なのである。
もともと船具問屋だった古民家に、木造のボートを掲げて再出発した。このボートは、営業廻りをしていたときに金沢八景の野島付近の運河で放置されていたのを見つけたものだという。
水質汚染がひどかった当時、ウンチのうかぶ運河を泳いで、この貴重な木造ボートを回収し持ち帰った。ボートが掲げられると不思議と旅情がにじみ出る。船小屋チャイハネが完成した。
私が小学生ぐらいのときの記憶だが、当時の通りは閑散としていて、怪しい民族のお面などが壁にあるチャイハネでポツンと1人座る父を見た。いつ倒産してもおかしくないと、子供心に思っていた。
自宅もチャイハネの倉庫を兼ねていて、インドなどの民芸特有の湿ったにおいのする箱の上で遊んだりしていた。父は旅が好きだったので、車で二泊三日とか連れ出してくれたのだが、インドのお香の匂いが車に染みていて、そのせいで毎回酔ってしまったものだ。
父は休みなく働き、家庭生活も仕事もチャンポン、いつしかチャイハネは軌道に乗っていった。
チャイハネが軌道に乗ったのかも、と感じた生活の記憶がいくつかある。
かつては貧乏でオヤツは5人兄弟で100円のスナックを分けあっていたものだが、スナックの袋が2袋、3袋と増えていった。外食なんてもってのほかだったのが、1カ月に1回、外に食べに行くようになった。そして中学生のときに友達から「姉ちゃんがチャイハネファンで、派手な服装するから恥ずかしい」と言われた時、あれ?チャイハネ広がってきてる?って感じたものだ。
父は南門シルクロード通りの町づくりにも尽力しつつ、20数年かけて中華街エリアに店舗を増やしていった。対象となるエスニック諸国やカテゴリーを拡大し、その活動と表現の幅を広げていったのだ。
チャイハネ45年の歴史のうち、2002年までの25年はほぼ中華街の中での展開だったが、2003年から本格的に全国に展開し、2023年時点で70店舗を超えている。
チャイハネの特異性をいくつかしぼって語りたいと思う。
まずは創業の志が特異だ。多くのエスニック系の創業者は、海外を旅行してエスニックが好きになった、とか、海外協力隊で地域と仲良くなって、ということが多い。それに対してチャイハネは、創業者が高校生のときに東北の民俗舞踊と出会い、民俗文化の魅力に没入したところからはじまる。
大学では民俗学を専攻。トルコの民俗調査をしているときに「学者然とした冷たいまなざしで民俗を観るのではなく、互いに生活を賭けた商売を通して民俗文化と繋がっていきたい」と開眼したところからチャイハネの構想がはじまった。そんな縁もあり、チャイハネのネーミングはトルコの寄り合い茶屋から由来している。
また、チャイハネは町づくりとともに産まれ育ったという点も特異だ。
横浜中華街の南門シルクロードという通りの名前を考案したのも父であったし、1985年に建て直したチャイハネの入口にはシルクロードを渡ってやってきた七福神の神々の看板が飾られている。数年にわたり「姫林檎祭り」というシルクロード通りの祭りを企画して、民俗芸能をパレードさせたりもした。
一番強烈だったのは、シルクロード通りの真ん中にマンションができる計画が浮上したとき、血相を変えた父が反対運動をおこした。ついには中華街発展会も合流してマンション計画は廃止され、その計画地に媽祖廟が産まれた。
媽祖廟の入り口には父の詩が進藤彦興名義で飾られている。(父は進藤幸彦という名だが、ペンネームで進藤彦興と名乗っていた。)町づくりに取り組みつつ、横浜中華街の観光地としての発展と共にチャイハネも拡大、成長していったのだ。
余談だが、「なぜ横浜中華街に中華じゃないチャイハネがあるのか?」と言われることがある。チャイハネのチャイはチャイナのチャイか?とも。
私の記憶にあるかつての中華街は、中華中華というより、もっと雑多な町だった。1970年代までは、まだ飛行機ではなく船が主要な移動手段であった。横浜港を使った船客が町に降りてきて、横浜中華街で日用品買ったりバーに立ち寄ったりしていたのだ。
チャイハネPart2も、もともとは時計屋さんだったし、銭湯もあったり床屋もあったりと、もっと生活感があった。初代船小屋チャイハネは二階にオーナーさんが住んでいて、店舗正面から見えるベランダには洗濯物が干され、赤ちゃんの泣き声も聞こえたという。父はそういう町の生活感も気に入っていた。
けっして中華中華な町ではなく、異文化を受け入れつつ生活や旅人の息づかいに満ちた、横浜ローカルな町だった。チャイハネがこの地に産まれたのは何の不思議もなかったのだ。
チャイハネの歴史は発展拡大のエネルギーに満ち溢れている。
前述したようにカテゴリーや対象国を増やしていった店舗展開もさることながら、1986年に小売業界でも先駆的にデザイナーを雇いオリジナル商品開発を始めている。そのことにより既存の民芸品に縛られず、より表現の幅を広げ、民俗文化をさまざまな生活のシーンにお届けすることができるようになった。
またそれは同時に地域の産業の活性化にも繋がってきた。たとえばネパールではもともと和紙を使ったカレンダーや便箋などあったが、それらの⽊版画のデザインは、ヒンズーの神々やブッダやマンダラといった宗教的モチーフばかり。そこで現地の⼯房と組んで、ヨガと⼲⽀をモチーフにしたオリジナルのカレンダーとハガキを作ってみたところ、これらは⽇本で⼈気商品に。同時にネパール和紙に新たなデザインが産まれたことでドイツやオーストラリアにも輸出されるようになり、ネパール和紙という伝統産業が劇的に活性化された。
私自身も20代のときに世界中に出張に行かせてもらったし、バリや中南米諸国などで、まるで旅をするように商品開発をした。
現地に着くと目に飛び込んでくる異文化の建築や人々の営み。鼻を突く匂い。人々のバイタリティ。どっぷりと異世界に身体ごと飛び込んでいって、もうワクワクが止まらない。そこから仕事が始まるのだ。
そして現地の文化や作り手と触れ合いながら互いに切磋琢磨して商品を創造し、お客様に届ける喜び。売れるものを創ることで地域産業にお金が回る、互いに生活を賭けて仕事にとりくむ充実。私は特にペルーのクスコやガテマラのパナハッチェルの町並みや人々の活気とともに、この喜びと充実を思い出すことが多い。
チャイハネはいまだにインドやネパールをはじめ、さまざまな地域産業と商品を産み出している。その45年の歴史はチャイハネの誇りでもあり、支えてくれた現地の工房やお客様への感謝でもある。
そしてまだチャイハネが2店舗だったとき、シルクロード舞踏館なるイベントスペースも立ち上げている。ヨガや太極拳や民俗舞踊といった身体に宿る文化の活動の場として提供しつつ、フライヤーを配布し情報発信もしていった。
「フォークロア世界への旅」「民芸曼荼羅」「世界のお守り」を執筆し、フライヤーに連載していた社員の旅記録「チャイハネマーケット」を書籍化するなど、モノだけでなくそれにまつわる文化的な情報発信を加速した。これも小売業界で先駆的な取り組みだったといえる。
父は『高校生時代に、友人と学校新聞を発行するなどしてきた経験が活きた』と口にしていた。
そしてチャイハネの30周年にはシルクロード舞踏館としてファッションライブを敢行した。チャイハネ衣料のファッションショーと民俗芸能をステージ上で組み合わせた実験的な試みであった。民俗芸能についてはアフリカの芸能なども紹介されたが、ハワイのフラダンスの源流であるカヒコフラ、東北の早池峰の岳神楽といった一流の芸能が紹介された。
私がチャイハネに続き、日本をテーマにしたブランド「倭物やカヤ」「岩座」、ハワイをテーマにした「Kahiko」を展開していったのは、このファッションライブでの感動がインスピレーションになっている。
父の原点である民俗文化(フォークロア)から派生してさまざまに業態を展開してもよいではないか。チャイハネの歴史が持つ発展拡大のエネルギーが私を駆り立てた。以後、ヨーロッパの民俗文化をテーマにした「欧州航路」、フィンランドの民俗文化であるサウナをテーマにした「HARE-TABI SAUNA&INN(2023.4/15OPEN!)」など、発展拡大は続いている。
今のアミナコレクションの活動の原点はチャイハネであり、私もチャイハネだけの時代に入社している。
当時は世の中と同じでは満足できないタイプの尖った人、世界を旅して感性をたくましくした人、ときに普通の社会に適合できないレベルの人もいた。とにかく個性的な集団だった。お客様も社員もそれに呼応するように集まってきて、チャイハネは成長し、その歴史や社風は今でもアミナコレクションのコアとなっている。
これからもチャイハネはアミナコレクションの先頭を切って、時代を切り裂くように存在していく。いろいろ楽しみにしておいてもらいたい。
筆者プロフィール:進藤さわと
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。
1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。