読み物
2022.02.27

色とりどりで魅惑的。インドの民芸サリー

 

民芸にはいろんな顔があります。
どの顔を思い浮かべながら話しを聞くかで、内容がすっかり変わってしまいます。

ここではアミナコレクションの創業者・進藤幸彦が、世界で実際に出会い、見聞きしたその民俗(フォークロア)を綴ります。

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世界民芸曼陀羅 インド編

14 サリー ~ 色とりどりにひるがえる民族の象徴 ~

カルカッタに初めて行った時のことだ。市の中心部に近いハスラー橋に立って、ガンガの下流のほうを眺めていた。

渡船溜まりの先に桟橋が突き出していて、そこに赤や黄や白、色とりどりの蛇がくねくねと水平方向に浮かんでいる。男たちが一人一人、両手を高くかかげて布の先端をもち、布は風にあおられて生き物のように波をそろえて躍っているのだ。
風は男たちの背のほうから吹いてきてガンガの川面に向かっていた。何人もの男たちが上半身裸で、両手を挙げてじっとしたまま仕事をしている。

その光景は何かユーモラスだ。洗濯屋たちの仕上げの日干しである。
風にへんぽんと流れる布には、チベット仏教の塔にはためく無数のハンカチのような旗を思い重ねても、言うに言われぬ魂をとらえる風情がある。

サリーは幅が一メートル前後、長さが五メートルくらい、なかには十一メートルのものもある。

男用とされるドーティーも色はほとんど白だが、ほぼ同じサイズなので桟橋で風に乾かしていたのはサリーだけでなく、ドーティーも交ざっていたかもしれない。
カルカッタの男たちはサリーと同じように腰に巻き付け、ただ前後にひだを作って垂らして飾っている。

【世界民芸曼陀羅紀】サリー01

「インドの古典にもサリーとドーティーは同じものとして出てきますよ」
と、高山が教えてくれた。業者のゴビさんも話にのってきた。

「そうそう、それに今のような女性専用のサリーというのは、比較的新しい形でしてね。
アウランゼブ大帝の時代(十七世紀後半)に大帝の妹が、有名な『ダッケ・マルマル(ダッカ地方のボイル染め)』の透け透けのサリーを着て、なみいる大臣たちの前に出て来たので、即刻ちゃんとしたものに着替えて来いと命じられたという伝説があります。そのころから、ペチコートを下に着てサリーを着るのがはやったらしい。」

大臣は、ムスリムを奉じたムガール帝国の最強のころの皇帝だ。ムスリムは女性が素肌をさらすのを嫌うので、インドの服飾史はこの時代に大きな転機を強いられたに違いない。屈従を嫌ったラージプートの王国は別にしても。

古代からのヒンドゥーの彫刻で見ると、腰に巻くきらびやかなアクセサリー(タグリ)を主体にして、下半身にうすい布をまとい、肩に天女のようにスカーフ(デュパタ)やサリーを巻くようなスタイルが圧倒的に多い。
男のドーティーと同じ着方をしたものもある。

十三世紀になってムガールの支配が強くなるにつれ、彫刻自体もなくなってしまう。
裸に近い生活をしている民族にとって、腰に巻き付けるものは、たとえ一本のひもであれ神聖であった。
腰にまくタグリが消えたことは重大な変化だ。

【世界民芸曼陀羅紀】サリー02

「サリー、ドーティーには無縫製、無裁断を浄衣とするヒンドゥーの考えが根本にあるといわれていますがね、インドの民俗のなかには、今でも無縫製どころか無衣を良しとする思想もあります。
裸で暮らすサドゥー(バラモン)の一群や、雨期の前に真夜中、ひそかに畑に出てサリーを脱いで神に祈るなどの習俗がそうです」

ちなみに、ゴビさんの奥さんは何枚のサリーをもっているか聞いてみたら、二十四、五枚かな、と言っていた。毎年、三、四枚は新しく購入し、同じ分、人に贈ったり別の用途にまわしたりする。

また従業員の女性たちには、ヒンドゥー暦の正月に当たるディワリの祭りの前にサリーを一枚ずつボーナスとして贈り、男たちにもドーティーを贈るそうだ。

農村部を旅行すると、若い女性でもチュンニー(上着)をつけずにサリーをうまく使って胸の前を隠し、そのままスカーフのように頭に巻き、その上に荷物をのせてさっそうと歩いている。あるところでは片手いっぱいにサリーを開き、交通止めの仕事をしている女性も見た。

暑ければ日傘、寒ければショール。
なかなか便利で魅惑的なものだ。

世界民芸曼陀羅

進藤彦興著  『世界民芸曼陀羅』 から抜粋

第一刷 一九九二年九月


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