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八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。代々、皇位とともにこの国の天皇に継承される三種の神器です。
この国のはじまりを記した日本神話にも登場する、三つの宝物。実は、天皇を含め、誰も目にすることが許されていないのだとか。
現在、これらはいったいどこにあるのか?三つの神宝が背負う壮大な物語の数々。そして、誰の目にも触れていないとはいえ、気になるその姿形とは?
さあ、謎に満ち満ちた、この国の神宝三種の神器に迫ります!
「三種の神器」。この言葉、一度は耳にしたことがある方も多いでしょう。
三種の神器とは、神々の時代に起源を持つとされる、この国に伝わる三つの宝物のこと。さまざまな時代を超え、代々皇位とともに日本の天皇に伝えられています。
「三種の神宝」ともいわれ、大和言葉では「みくさのかむたから」と読みます。
三種の神器は、三つがひと所に納められているわけではなく、別々の場所に、それぞれ役割を担って祀られています。
それぞれを神話とあわせて紹介します。
実は三種の神器のうち、鏡と剣は本体と形代(かたしろ)というものが存在します。形代は「うつし」とも呼ばれますが、いわゆる複製やレプリカではなく、本体からうつした神霊が宿り、本体と同じ神威を持つとされているもの。
皇位継承における儀式に用いられる鏡と剣は、この形代なのです。
現在、八咫鏡の本体は、伊勢神宮内宮の正殿にご神体として祀られています。
もともと八咫鏡は宮中に祀られ、天皇とともにある存在でした(同床共殿)。しかし第10代・崇神天皇の時代、疫病の流行をきっかけに、その強い神威を畏れて宮中から外へ移されることになります。
その後、鎮座地を求めて各地を巡り、第11代・垂仁天皇の時代、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が伊勢の地で神託を受け、現在の伊勢神宮に落ち着いたとされています。そう、これが、伊勢神宮の起源となりました。そして、本体が外に出ることになり作られた形代は、現在、宮中三殿の賢所(かしこどころ)に祀られています。
日本神話には、要所要所でこの八咫鏡が登場しています。
弟スサノオのあまりに横暴な行いを嘆いたアマテラスが、岩穴に入り天岩戸を閉めてしまったという、有名な天岩戸伝説。この八咫鏡は、困り果てた八百万の神が、アマテラスを岩穴から誘い出すための「祭り」計画に使うために、鍛冶の神である天津麻羅(アマツマラ)・伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)が作ったとされています。
八咫鏡は、アマテラスの孫である邇邇芸(ニニギ)が、高天原の神々を率いて葦原中国(今の日本)に天降る、天孫降臨の物語にも登場します。「葦原中国を治めるように」と、アマテラスがニニギに授けたのが、三種の神器でした。
ことに鏡については「この鏡を私自身だと思い、祀りなさい。ひとつ同じ屋根の下に祀り、祭祀の神鏡としなさい」と伝えたといいます。このように、三種の神器は高天原の神々とともにこの地上にもたらされたのです。
誰も見たことがないといわれる八咫鏡。その姿については、さまざまな推論がなされています。
この「八咫鏡」の「咫(あた)」は、古い時代の長さの単位。「八咫」とは一般的に具体的な大きさの値ではなく、「八百万」の八のように、とにかく大きいさまを形容していると考えられています。
また、こんな説も。八咫鏡についての記録によると、その姿は福岡県糸島市の平原(ひらばる)遺跡から出土した、日本最大の銅鏡「大型内行花文鏡」によく似るというのです。
そして、八咫鏡を納めている入れ物について、その内径が約49cmという記録も。大型内行花文鏡は径が約46cm。大きさもほぼ同じなのではないかといわれています。
この勾玉という存在は、日本で独自に発達した装身具とされています。その不思議な形から、胎児や太陽と月、魂を模ったともいわれており、非常に神聖な力を持つものとされてきました。
三種の神器の中で、勾玉だけは形代が作られず、本体のみが存在します。
勾玉が剣とともに祀られているのが、皇居内「剣璽の間」と呼ばれる場所。「璽」が勾玉を意味しています。この剣璽の間は、宮中の極めて重要な場所に安置されているとされ、土壁に囲まれている特別な部屋です。
八尺瓊勾玉の起源もまた、八咫鏡と同じく岩屋に閉じこもったアマテラスを誘い出すための祭りにあります。
祭りで使われる祀具として、玉祖命(タマノオヤノミコト)が「八尺瓊勾玉の五百津の御すまるの珠」を作りました。数多くの勾玉を長い緒に通した飾りもの、という意味でしょうか。そして根ごと掘り起こした、立派な枝ぶりの榊(さかき)。その上の枝にこの勾玉のついた飾りを、真ん中には八咫鏡を、下の枝から布を垂らした見事な供物を作りました。
神々がこの供物を持ち、祝詞をあげ、神楽を舞い踊る。高天原が轟くほどに神々がどっと笑い、その賑やかな様子を不思議に思ったアマテラスは、天岩戸を緩めて外の様子をうかがいます。それがアマテラスを岩穴の外に引き戻し、世界に光を取り戻すきっかけとなったのでした。
八尺瓊勾玉もやはり、誰も目にしたことがないとされています。
「八尺」というのは鏡の「八咫」と同じで、大きいさまの形容と考えられます。ただ、勾玉自体が大きいのか、それとも勾玉が連ねられている緒が長いのか、わかっていません。
「瓊」という字には、美しく赤い玉という意味があるといいます。この勾玉には瑪瑙(めのう)が使われているのではないか、という推察もなされているのです。
天皇の武力の象徴だとされる草薙剣。もとは、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれていたとも伝わります。
もともと草薙剣の本体は、鏡とともに伊勢神宮に祀られていましたが、倭姫命によって日本武尊(ヤマトタケル)に授けられます。
ヤマトタケルはその草薙剣を携えて東征を成功させたのち、妻である宮簀媛(ミヤズヒメ)のもとにこの剣を残したまま亡くなりました。ミヤズヒメがヤマトタケルとともにこの草薙剣を祀ったのが、のちの熱田神宮です。
鏡と同じく形代が作られた草薙剣。形代は、現在勾玉とともに皇居内、剣璽の間に祀られています。
この形代にも、長い歴史の中でこんな逸話があります。
源平の時代、草薙剣と八尺瓊勾玉は、壇ノ浦の戦いで幼い安徳天皇とともに、関門海峡に沈んだと伝わります。八尺瓊勾玉はやがて箱ごと浮かび打ち上げられましたが、剣はそのまま見つからなかったのだとか。
その後、伊勢神宮から献上された剣に草薙剣の本体から御霊をうつし、形代として祀られているとされています。
三種の神器のうち、この草薙剣の起源はまたとてもドラマチックです。
アマテラスの弟スサノオは、あまりの横暴なふるまいから高天原を追放されました。そして天降ったのが出雲国(現在の島根県東部)。ここでスサノオはこの地の人々が恐れる化け物、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、英雄となります。
剣はスサノオに倒されたヤマタノオロチの尾から見つかったもの。それはあまりに神々しく立派な剣であったことから、スサノオはアマテラスに献上したと伝わります。
「天叢雲剣」という名は、ヤマタノオロチの頭上にいつでも雲が群れていたことに由来するといいます。
スサノオの物語について詳しく知りたい方はこちら
熊襲や東国の征討を行ったとされる、古代日本の伝説的英雄ヤマトタケル。叔母である倭姫命を訪ねた際、この神剣を授かりました。東征で騙し討ちにあい、野原で火攻めにあったヤマトタケルは、授かったこの神剣であたりの草を薙ぎ払い、難を逃れます。
この逸話から付けられたのが、草薙剣という名なのです。
実はこの草薙剣、実見されたとされる記録が残されています。
そのうち、江戸時代の記録には
「五尺(約1.5m)ほどの木の箱に入り、さらにその中にまた石箱があって、その間には赤土が詰めてあった。さらに石箱の中には、樟(くすのき)をくり抜いた箱があり、その中に金が敷き詰められてその上にご神体(草薙剣)があった。ご神体は長さ2尺7、8寸(約82〜85cm)で、刃は菖蒲の葉のよう、中ほどは厚みがあり、本の方6寸(約18cm)は節立って、魚の背骨のようで、色は全体的に白い」
と伝えられています。(玉木正英『玉籖集裏書』)
誰も目にしたことはない、また見てはならないとされている三種の神器。天皇陛下ですら、目にすることは許されないとされています。それでも長い歴史の中では、その姿を一目見ようとする者があったのです。
有名な『平家物語』にも、この三種の神器についての記述があります。
源平の戦いの終わり。壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに草薙剣と八尺瓊勾玉は海に沈みましたが、船には八咫鏡が入った脚のついた大きな入れ物が残されたといいます。
源氏の兵士が安徳天皇の乗っていた船になだれ込み、その入れ物の鎖をねじ切って、中に納められた箱を開けようとしました。すると途端に兵士たちの目は眩み、鼻血が垂れたのだそう。
捕えられている平時忠がそれを見て「それは内侍所(八咫鏡の別称)である!平民は目にしてはならぬ」と伝えます。兵士たちはみな後退りし、鏡の箱は元のように納められました。(『平家物語』巻第十一)
幼いころより精神を病み、奇行が目立ったという平安時代中期の第63代冷泉天皇のお話。
あるとき、天皇が八尺瓊勾玉の箱を開けようとしていました。しかし間一髪!それを聞きつけ、慌てて駆けつけた藤原道長の父兼家が、実見を阻止したのだとか。
箱の中の勾玉は、青い絹の布に包まれ、網のように紫の糸で結ばれていたのだそう。(順徳天皇『禁秘御抄』)
勾玉についてはもう一つ。粗暴な振る舞いが多いことで知られた、第57代陽成天皇。異常な精神状態であるとき、八尺瓊勾玉を納めた箱を開けさせたといいます。すると中から白い雲が立ち上ったのだそう。
恐れ慄いた天皇は、結局中を見ることなく放り出し、女官に箱の紐を結ばせたと記されています。(源顕兼編『古事談』)
こちらもまた陽成天皇。ある夜、天皇は寝所のそばの剣が祀られている部屋で、草薙剣を鞘から引き抜いたのだそうです。すると、夜であるのに御殿がきらきらと明るくなったため、驚いて思わず剣を放り出し、剣はひとりでに鞘に収まったのだとか。(『平家物語』)
また、この草薙剣の姿については、比較的詳しい記述も残されています。それは江戸時代に熱田神宮の神職ら4、5人が密かに草薙剣を見たためだとされているのです。ただ、この者たちは、流罪になったり、重い病にかかり亡くなったり、天罰が下ったのではないかと伝わっています。(玉木正英『玉籖集裏書』)
2,000年を超える伝統を持つ勾玉。
あの独特な形は、魂を象ったのだとも、陰陽を表すとも、また再生や生命力を象徴するとも。そしてその素材によっても、さまざまな意味を持つとされます。
古代の人々も、おしゃれのアイテムやお守りとして、きっと楽しみながら大事に身につけてきたはず。
そんなルーツにも想いを馳せつつ、あなたなりの意味を込めて、楽しみながら選んでみてはいかがですか?
気の遠くなるほどの物語を抱え、皇位とともに連綿と受け継がれてきた三種の神器。
そっと蓋を開けたら、いったい何がそこにあるのか、その物語は、真実なのか、そして、この先どんな物語が待っているのか。
とても遠い存在に、私たちはどうしてこんなに惹きつけられるのでしょう。
今を生きる者誰ひとり見たことがなく、こんなにも謎に包まれている。それなのに、どんなものよりも揺るぎなく、力強い存在に思えるのは、なぜ。
そうして、またひとつ、新たな謎が生まれるのです。
勾玉は祖先の魂が宿る日本特有のお守り▼
日本最古の歴史書に記される神様のものがたり▼
八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。代々、皇位とともにこの国の天皇に継承される三種の神器です。
この国のはじまりを記した日本神話にも登場する、三つの宝物。
実は、天皇を含め、誰も目にすることが許されていないのだとか。
現在、これらはいったいどこにあるのか?
三つの神宝が背負う壮大な物語の数々。
そして、誰の目にも触れていないとはいえ、気になるその姿形とは?
さあ、謎に満ち満ちた、この国の神宝三種の神器に迫ります!
目次
三種の神器とは?
「三種の神器」。
この言葉、一度は耳にしたことがある方も多いでしょう。
三種の神器とは、神々の時代に起源を持つとされる、この国に伝わる三つの宝物のこと。
さまざまな時代を超え、代々皇位とともに日本の天皇に伝えられています。
「三種の神宝」ともいわれ、大和言葉では「みくさのかむたから」と読みます。
三種の神器はどこにある?どんな姿?
三種の神器は、三つがひと所に納められているわけではなく、別々の場所に、それぞれ役割を担って祀られています。
それぞれを神話とあわせて紹介します。
八咫鏡|伊勢神宮に祀られる御神体
実は三種の神器のうち、鏡と剣は本体と形代(かたしろ)というものが存在します。
形代は「うつし」とも呼ばれますが、いわゆる複製やレプリカではなく、本体からうつした神霊が宿り、本体と同じ神威を持つとされているもの。
皇位継承における儀式に用いられる鏡と剣は、この形代なのです。
現在、八咫鏡の本体は、伊勢神宮内宮の正殿にご神体として祀られています。
もともと八咫鏡は宮中に祀られ、天皇とともにある存在でした(同床共殿)。
しかし第10代・崇神天皇の時代、疫病の流行をきっかけに、その強い神威を畏れて宮中から外へ移されることになります。
その後、鎮座地を求めて各地を巡り、第11代・垂仁天皇の時代、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が伊勢の地で神託を受け、現在の伊勢神宮に落ち着いたとされています。
そう、これが、伊勢神宮の起源となりました。
そして、本体が外に出ることになり作られた形代は、現在、宮中三殿の賢所(かしこどころ)に祀られています。
八咫鏡にまつわる神話① 起源は有名な天岩戸伝説
日本神話には、要所要所でこの八咫鏡が登場しています。
弟スサノオのあまりに横暴な行いを嘆いたアマテラスが、岩穴に入り天岩戸を閉めてしまったという、有名な天岩戸伝説。
この八咫鏡は、困り果てた八百万の神が、アマテラスを岩穴から誘い出すための「祭り」計画に使うために、鍛冶の神である天津麻羅(アマツマラ)・伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)が作ったとされています。
八咫鏡にまつわる神話② 天孫降臨で葦原中国へ
八咫鏡は、アマテラスの孫である邇邇芸(ニニギ)が、高天原の神々を率いて葦原中国(今の日本)に天降る、天孫降臨の物語にも登場します。
「葦原中国を治めるように」と、アマテラスがニニギに授けたのが、三種の神器でした。
ことに鏡については「この鏡を私自身だと思い、祀りなさい。ひとつ同じ屋根の下に祀り、祭祀の神鏡としなさい」と伝えたといいます。
このように、三種の神器は高天原の神々とともにこの地上にもたらされたのです。
八咫鏡はどんな姿?
誰も見たことがないといわれる八咫鏡。その姿については、さまざまな推論がなされています。
この「八咫鏡」の「咫(あた)」は、古い時代の長さの単位。
「八咫」とは一般的に具体的な大きさの値ではなく、「八百万」の八のように、とにかく大きいさまを形容していると考えられています。
また、こんな説も。八咫鏡についての記録によると、その姿は福岡県糸島市の平原(ひらばる)遺跡から出土した、日本最大の銅鏡「大型内行花文鏡」によく似るというのです。
そして、八咫鏡を納めている入れ物について、その内径が約49cmという記録も。
大型内行花文鏡は径が約46cm。大きさもほぼ同じなのではないかといわれています。
八尺瓊勾玉|本体のみが宮中に存在
この勾玉という存在は、日本で独自に発達した装身具とされています。
その不思議な形から、胎児や太陽と月、魂を模ったともいわれており、非常に神聖な力を持つものとされてきました。
三種の神器の中で、勾玉だけは形代が作られず、本体のみが存在します。
勾玉が剣とともに祀られているのが、皇居内「剣璽の間」と呼ばれる場所。「璽」が勾玉を意味しています。
この剣璽の間は、宮中の極めて重要な場所に安置されているとされ、土壁に囲まれている特別な部屋です。
八尺瓊勾玉にまつわる神話 起源は世界を救った天岩戸伝説!
八尺瓊勾玉の起源もまた、八咫鏡と同じく岩屋に閉じこもったアマテラスを誘い出すための祭りにあります。
祭りで使われる祀具として、玉祖命(タマノオヤノミコト)が「八尺瓊勾玉の五百津の御すまるの珠」を作りました。数多くの勾玉を長い緒に通した飾りもの、という意味でしょうか。
そして根ごと掘り起こした、立派な枝ぶりの榊(さかき)。その上の枝にこの勾玉のついた飾りを、真ん中には八咫鏡を、下の枝から布を垂らした見事な供物を作りました。
神々がこの供物を持ち、祝詞をあげ、神楽を舞い踊る。
高天原が轟くほどに神々がどっと笑い、その賑やかな様子を不思議に思ったアマテラスは、天岩戸を緩めて外の様子をうかがいます。
それがアマテラスを岩穴の外に引き戻し、世界に光を取り戻すきっかけとなったのでした。
八尺瓊勾玉はどんな姿?
八尺瓊勾玉もやはり、誰も目にしたことがないとされています。
「八尺」というのは鏡の「八咫」と同じで、大きいさまの形容と考えられます。
ただ、勾玉自体が大きいのか、それとも勾玉が連ねられている緒が長いのか、わかっていません。
「瓊」という字には、美しく赤い玉という意味があるといいます。
この勾玉には瑪瑙(めのう)が使われているのではないか、という推察もなされているのです。
草薙剣|熱田神宮に祀られる御神体
天皇の武力の象徴だとされる草薙剣。
もとは、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれていたとも伝わります。
もともと草薙剣の本体は、鏡とともに伊勢神宮に祀られていましたが、倭姫命によって日本武尊(ヤマトタケル)に授けられます。
ヤマトタケルはその草薙剣を携えて東征を成功させたのち、妻である宮簀媛(ミヤズヒメ)のもとにこの剣を残したまま亡くなりました。
ミヤズヒメがヤマトタケルとともにこの草薙剣を祀ったのが、のちの熱田神宮です。
鏡と同じく形代が作られた草薙剣。形代は、現在勾玉とともに皇居内、剣璽の間に祀られています。
この形代にも、長い歴史の中でこんな逸話があります。
源平の時代、草薙剣と八尺瓊勾玉は、壇ノ浦の戦いで幼い安徳天皇とともに、関門海峡に沈んだと伝わります。
八尺瓊勾玉はやがて箱ごと浮かび打ち上げられましたが、剣はそのまま見つからなかったのだとか。
その後、伊勢神宮から献上された剣に草薙剣の本体から御霊をうつし、形代として祀られているとされています。
草薙剣にまつわる神話① スサノオが倒したヤマタノオロチの尾から出現
三種の神器のうち、この草薙剣の起源はまたとてもドラマチックです。
アマテラスの弟スサノオは、あまりの横暴なふるまいから高天原を追放されました。
そして天降ったのが出雲国(現在の島根県東部)。
ここでスサノオはこの地の人々が恐れる化け物、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、英雄となります。
剣はスサノオに倒されたヤマタノオロチの尾から見つかったもの。
それはあまりに神々しく立派な剣であったことから、スサノオはアマテラスに献上したと伝わります。
「天叢雲剣」という名は、ヤマタノオロチの頭上にいつでも雲が群れていたことに由来するといいます。
スサノオの物語について詳しく知りたい方はこちら
草薙剣にまつわる神話② 倭姫命がヤマトタケルに授ける
熊襲や東国の征討を行ったとされる、古代日本の伝説的英雄ヤマトタケル。叔母である倭姫命を訪ねた際、この神剣を授かりました。
東征で騙し討ちにあい、野原で火攻めにあったヤマトタケルは、授かったこの神剣であたりの草を薙ぎ払い、難を逃れます。
この逸話から付けられたのが、草薙剣という名なのです。
草薙剣はどんな姿?
実はこの草薙剣、実見されたとされる記録が残されています。
そのうち、江戸時代の記録には
「五尺(約1.5m)ほどの木の箱に入り、さらにその中にまた石箱があって、その間には赤土が詰めてあった。さらに石箱の中には、樟(くすのき)をくり抜いた箱があり、その中に金が敷き詰められてその上にご神体(草薙剣)があった。ご神体は長さ2尺7、8寸(約82〜85cm)で、刃は菖蒲の葉のよう、中ほどは厚みがあり、本の方6寸(約18cm)は節立って、魚の背骨のようで、色は全体的に白い」
と伝えられています。(玉木正英『玉籖集裏書』)
三種の神器は見てはいけない⁈
誰も目にしたことはない、また見てはならないとされている三種の神器。天皇陛下ですら、目にすることは許されないとされています。
それでも長い歴史の中では、その姿を一目見ようとする者があったのです。
八咫鏡|目が眩み鼻血が出た⁈
有名な『平家物語』にも、この三種の神器についての記述があります。
源平の戦いの終わり。
壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに草薙剣と八尺瓊勾玉は海に沈みましたが、船には八咫鏡が入った脚のついた大きな入れ物が残されたといいます。
源氏の兵士が安徳天皇の乗っていた船になだれ込み、その入れ物の鎖をねじ切って、中に納められた箱を開けようとしました。
すると途端に兵士たちの目は眩み、鼻血が垂れたのだそう。
捕えられている平時忠がそれを見て「それは内侍所(八咫鏡の別称)である!平民は目にしてはならぬ」と伝えます。
兵士たちはみな後退りし、鏡の箱は元のように納められました。(『平家物語』巻第十一)
八尺瓊勾玉|蓋を開けると白雲が立ち込めた⁈
幼いころより精神を病み、奇行が目立ったという平安時代中期の第63代冷泉天皇のお話。
あるとき、天皇が八尺瓊勾玉の箱を開けようとしていました。
しかし間一髪!それを聞きつけ、慌てて駆けつけた藤原道長の父兼家が、実見を阻止したのだとか。
箱の中の勾玉は、青い絹の布に包まれ、網のように紫の糸で結ばれていたのだそう。(順徳天皇『禁秘御抄』)
勾玉についてはもう一つ。粗暴な振る舞いが多いことで知られた、第57代陽成天皇。
異常な精神状態であるとき、八尺瓊勾玉を納めた箱を開けさせたといいます。
すると中から白い雲が立ち上ったのだそう。
恐れ慄いた天皇は、結局中を見ることなく放り出し、女官に箱の紐を結ばせたと記されています。(源顕兼編『古事談』)
草薙剣|自ら鞘に納まった!
こちらもまた陽成天皇。
ある夜、天皇は寝所のそばの剣が祀られている部屋で、草薙剣を鞘から引き抜いたのだそうです。
すると、夜であるのに御殿がきらきらと明るくなったため、驚いて思わず剣を放り出し、剣はひとりでに鞘に収まったのだとか。(『平家物語』)
また、この草薙剣の姿については、比較的詳しい記述も残されています。
それは江戸時代に熱田神宮の神職ら4、5人が密かに草薙剣を見たためだとされているのです。
ただ、この者たちは、流罪になったり、重い病にかかり亡くなったり、天罰が下ったのではないかと伝わっています。(玉木正英『玉籖集裏書』)
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2,000年を超える伝統を持つ勾玉。
あの独特な形は、魂を象ったのだとも、陰陽を表すとも、また再生や生命力を象徴するとも。
そしてその素材によっても、さまざまな意味を持つとされます。
古代の人々も、おしゃれのアイテムやお守りとして、きっと楽しみながら大事に身につけてきたはず。
そんなルーツにも想いを馳せつつ、あなたなりの意味を込めて、楽しみながら選んでみてはいかがですか?
まとめ:三種の神器は、謎に満ちた確かなもの
気の遠くなるほどの物語を抱え、皇位とともに連綿と受け継がれてきた三種の神器。
そっと蓋を開けたら、いったい何がそこにあるのか、
その物語は、真実なのか、
そして、この先どんな物語が待っているのか。
とても遠い存在に、私たちはどうしてこんなに惹きつけられるのでしょう。
今を生きる者誰ひとり見たことがなく、こんなにも謎に包まれている。
それなのに、どんなものよりも揺るぎなく、力強い存在に思えるのは、なぜ。
そうして、またひとつ、新たな謎が生まれるのです。
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勾玉は祖先の魂が宿る日本特有のお守り▼
日本最古の歴史書に記される神様のものがたり▼