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「世界三大美女」と並び、実は日本でも古くから時代を彩る美しい人々がいました。彼女たちは単に容姿が整っているだけでなく、その生き様や教養によって多くの人々を魅了し、日本の文化を豊かに彩ってきた存在です。
本記事では、後世に語り継がれる日本三大美人を時代ごとに紹介します。
まず、日本三大美人というのは誰かが公式に定めたものではなく、近代以降に定着した俗称であると言われています。この言葉が持つ意味合いは、大きく分けて次の二つのパターンが存在します。
人物として定義する際には、それぞれの時代によって顔ぶれが異なる点も興味深いです。
この呼称の背景には、江戸時代に流行した文化があります。明和期や寛政期には、「明和三美人」「江戸三美人」といった形で、看板娘や芸妓など美しい女性を三人一組で紹介する風潮が見られました。
こうした表現方法は近代以降も受け継がれ、日本三大美人という呼び名が定着していきました。
「平安時代」、「鎌倉時代」、「戦国時代」、江戸時代の「明和期」「寛政期」に至るまで、それぞれの節目に日本三大美人が存在します。では、時代別に分けて紹介します。
本朝三美人とは、平安時代を代表する美女として知られる「衣通姫」、「光明皇后」、「藤原道綱母」の三人を指す俗称です。日本の歴史上もっとも古い日本三大美人として扱われています。
衣通姫は、『古事記』や『日本書紀』に登場する美しい女性で、第19代允恭天皇の皇女、あるいは寵愛された妃と伝えられています。同母兄弟である木梨軽太子との恋に落ち、関係が露見したことで、兄は伊予に流罪となりました。衣通姫も兄を追って伊予へ向かい、再会した二人は心中したと語られています。
また、衣通姫は和歌の才能にも優れ、その美貌と歌才から「和歌の神様」として玉津島神社(和歌山県)に祀られました。
光明皇后は奈良時代、聖武天皇の皇后として活躍した女性で、熱心な仏教信者であったことで知られています。東大寺の大仏建立といった国家事業に深く関与したほか、全国に国分寺・国分尼寺を建立する政策を支え、仏教による国家の安寧を願いました。さらに、天然痘が流行した際には施薬院や悲田院の設置に関わり、病人や孤児の救済に尽力したと伝えられます。「千人の垢を洗い流した」という逸話は、その慈悲深さと高い精神性を象徴するものとして語り継がれています。
藤原道綱母は平安時代中期を代表する歌人であり、女流日記文学の傑作「蜻蛉日記」の作者です。彼女の作品は、後の「源氏物語」や「紫式部日記」にも大きな影響を与え、女性による自我表現の先駆的な例として歴史的に高く評価されています。また、彼女は「三十六歌仙」の一人にも数えられるほど和歌の才に長けており、その名歌は小倉百人一首にも選ばれているのです。容姿が綺麗で「尊卑分脈」にも「本朝第一美人三人内也」と記されています。
源平三美人とは、平安時代末期から鎌倉時代初期を代表する美女として知られる「常盤御前」、「静御前」、「巴御前」の三人を指す俗称です。
平安末期の女性である常盤御前は、源義朝の側室として知られ、後に英雄となる源義経ら三人の子を産みました。平治の乱で夫が敗死した後、彼女は幼い子供たちを連れて逃亡しますが、捕らえられた母を救うために平清盛のもとへ自首したと伝えられています。子供たちの命を救う条件として平清盛の寵愛を受け入れるという、母としての深い愛情と苦難の物語は、人々の涙を誘ってきました。
平安末期から鎌倉時代初期に活躍した静御前は、卓越した舞の技術を持つ白拍子(舞踊芸人)であり、源義経の愛妾として名高い人物です。義経が兄の頼朝と対立して都を追われた際、彼女も同行しますが、途中で捕らえられ、鎌倉へと送致されてしまいます。
鶴岡八幡宮では義経への忠義と恋慕を込めた舞を披露し、頼朝らを驚かせたという逸話は有名です。義経との間に授かった子を巡る悲劇など、過酷な状況下でも愛を貫いたその生き様は、今なお多くの日本人から愛されています。
巴御前は、平安末期の乱世を駆け抜けた稀代の女武者であり、木曾義仲(源義仲)の愛妾・臣下として戦場で勇名を馳せました。信濃出身の豪族の娘とされる彼女は、義仲軍の有力な将として「倶利伽羅峠の戦い」などで目覚ましい功績を挙げたと言われています。義仲の愛妾として従軍し、最後まで戦場に立ち続けた姿は、勇敢で凛とした美しい女性像として語られています。
戦国三美人とは、戦国時代を代表する美女として知られる「お市の方」、「細川ガラシャ」、「京極竜子」の三人を指す俗称です。
織田信長の妹として知られるお市の方は1568年、信長の命により北近江の浅井長政と政略結婚し、後の「浅井三姉妹」となる三人の娘「茶々(淀殿)」、「初」、「江」を授かりました。しかし、信長と長政が対立し、戦に負けた長政が自害した後は、娘たちと共に織田家へと戻ることになります。その後、柴田勝家と再婚したものの、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北し、勝家と共に自ら命を絶つ道を選びました。三人娘の浅井三姉妹も美人として有名であり、この三姉妹が戦国三美人として語られることも多いです。
明智光秀の次女である細川ガラシャは、キリスト教信者(キリシタン)として有名です。ガラシャはキリシタンの洗礼名であり、実名は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)、法名は秀林院(しゅうりんいん)といわれています。夫・細川忠興との信仰上の対立に苦しみながらも、自らの信念を貫いて洗礼を受け、キリスト教の教えに基づいた慈善活動に尽力しました。1600年の関ヶ原の戦いを前に東軍の忠興が上杉征伐で不在の隙に、細川屋敷は西軍の石田三成軍に攻められました。そして、屋敷を囲まれたガラシャは人質となって夫の重荷になることを案じ、自ら生涯を閉じました。
「松の丸殿」の名で親しまれた京極竜子は、豊臣秀吉の側室として活躍した女性です。若狭武田家へ嫁いだ後に夫を亡くすという逆境を経験しますが、その類まれな美貌が秀吉の目に留まり、側室として招かれました。
伏見城の松の丸に居を構えたことからその名で呼ばれ、秀吉の寵愛を深く受けた彼女の存在感は非常に大きかったはずです。秀吉の死後は関ヶ原の東軍に属した兄・高次を支え続け、徳川家康が天下を取った後は京都で穏やかな余生を過ごしました。
明和三美人とは、江戸時代中期・明和年間(1764〜1772年)に江戸で人気を博した町娘の美女として、「笠森お仙」、「柳屋お藤」、「蔦屋およし」の三人を指す俗称です。
武家や貴族ではなく、町娘が「美人」として注目された点が大きな特徴で、浮世絵の流行と結びつき、江戸の町に一大ブームを巻き起こした江戸庶民の愛されたアイドル的な存在でした。
谷中の笠森稲荷門前にある水茶屋「鍵屋」で看板娘を務めていたのが、笠森お仙です。化粧に頼らない清楚な美貌と穏やかな物腰は、当時の江戸の男たちを瞬く間に熱狂させました。
浮世絵師・鈴木春信は、お仙をモデルにした錦絵を数多く制作し、「谷中笠森里日暮ノ里一躰之圖」などで茶屋の情景とともにその魅力を描いています。「おせん茶屋」「お仙の駆落ち」といった作品では、振り向く仕草や柔らかな曲線美が強調され、錦絵技術の革新と相まって、お仙は全国的な人気を獲得しました。
浅草寺の観音堂裏にあった楊枝店「柳屋」の看板娘として、お仙と人気を二分したのが柳屋お藤です。お仙が清楚派なら、彼女は流行のメイクや華やかな装飾品を使いこなす都会的な美しい女性として注目されました。店頭に立っていた期間は明和6年の春から初夏にかけての短期間でしたが、美貌で瞬く間に評判となり、お仙に次ぐ人気を博します。
鈴木春信の「柳屋お藤」や「柳家見立三美人」では、お仙の清楚さと対比される存在として描かれ、「清楚なお仙」「華麗なお藤」という美の違いが話題となりました。
浅草寺境内の二十軒茶屋「蔦屋」で働いていた看板娘が、蔦屋およしです。お仙やお藤に続く美人として、丁寧な接客と愛らしい人物で多くの客を惹きつけました。
鈴木春信の美人画には「およし」として描かれ、お仙・お藤と並ぶ三美人の一人として定着します。これらの浮世絵の影響から、谷中や浅草を巡る「美女見物」という観光的な社会現象を生み出しました。
「江戸三美人(寛政三美人)」とは、江戸時代後期・寛政期(1789〜1801年)を代表する美女として、「富本豊雛」、「難波屋おきた」、「高島おひさ」の三人を指す俗称です。
喜多川歌麿の美人大首絵によって江戸中のアイドルとして有名になりました。
富本豊雛は、吉原で活躍した芸者であり、浄瑠璃の流派「富本節」の名取としても知られていた人物です。彼女は玉村屋に所属し、桜草の紋がトレードマークだったといわれています。
歌麿の「高名美人六家撰」などのシリーズでは、その優雅さと色気が巧みに表現されており、江戸中で知らない者はいないほどの人気を博しました。三美人の中でも、ひときわ洗練された大人の色香が彼女の持ち味です。
難波屋おきたは、浅草寺随身門脇にあった水茶屋「難波屋」の看板娘で、当時わずか16歳でした。桐紋の簪が特徴で、歌麿の「難波屋おきた」や「当時三美人」では、藍色の着物に黒帯を締めた姿が描かれています。
歌麿が15点以上の作品を描き上げるほど彼女に魅了された結果、店は大繁盛し、浅草全体が活気づく社会現象まで引き起こしました。三人の中で特に高い人気があったそうです。
高島おひさは、両国薬研堀にあった水茶屋「高島屋」の看板娘です。三つ柏紋の団扇を持つ姿が印象的な彼女は、おきたと人気を二分するライバル関係にありました。歌麿の「高島おひさ」や「当時三美人」に描かれています。歌麿の作品では、すらりとした首元や整えられた髪型が艶やかに表現され、落ち着いた気品が印象的です。
現代において「日本三大美人」という言葉は、特定の個人を指すよりも、美人が多いとされる地域を象徴する表現として使われるのが一般的です。具体的には、「秋田美人(秋田県)」「京美人(京都府)」「博多美人(福岡県)」の三地域を指しています。この俗称には、歴史的に明確な根拠はありませんが、かつての花街や歓楽街の繁栄、あるいは出稼ぎや移住によって美しい女性が集まったという社会的な背景と結びついて定着したと考えられているのです。
秋田美人は色白で清楚な美しさ、京美人は洗練された上品さ、博多美人は明るく華やかな魅力といったように、土地ごとに異なる価値観が反映されています。
「世界の三大美女」と聞いて、「クレオパトラ」、「楊貴妃」、そして日本の「小野小町」を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。しかし、実はこの顔ぶれは日本独自の解釈に基づいたものです。
海外では一般的に、小野小町の代わりにギリシャ神話に登場するヘレネが加わり、「クレオパトラ」「楊貴妃」「ヘレネ」の三人が選ばれる傾向にあります。
ヘレネは、そのあまりに美しい容姿ゆえに、ギリシャ神話最大の戦いとされる「トロイア戦争」を引き起こした女性として知られています。その類まれなる美貌が国家を揺るがしたことから、後世の文学やオペラ、映画「トロイ」などの作品において、彼女は「禍をもたらす妻(禍妻)」の象徴として描かれてきました。
世界の三大美女に関するさらに詳しい内容は、当サイト内の別コラムでも紹介しています。ご興味のある方は、ぜひそちらもあわせてご覧になってみてください。
世界三大美女とは?世界や日本の歴史に残る美人や偉大な女性たちを紹介!
歴史に名を残す日本三大美人は、舞踊や芸能、美術、文学、物語といった多様な文化分野に影響を与えていきました。
静御前は白拍子として、男装で舞を踊るという革新的な表現を行いました。当時、女性が舞台上で自己を表現する機会は限られていましたが、静御前の舞は観る者に強い印象を与え、舞踊や芸能の発展に大きな影響を及ぼしたといわれています。
江戸時代の寛政期に活躍した喜多川歌麿の美人画は、日本美術を近代へと大きく押し上げる原動力となりました。それまでの絵画は画一的な理想像を描くのが主流でしたが、歌麿は実在する遊女や町娘をモデルに選び、その個性をキャンバスに写し取ったのです。
また、微妙な目線や口元、指先の仕草を描き分けることで、女性の外見的な美しさだけでなく、内面に秘めた情感までも見事に表現しました。「大首絵(上半身や顔のアップ)」という斬新な構図は、後に西洋美術のトリミング技法にも多大な影響を与えたと伝えられています。
また、文学の世界においても「本朝三美人」に名を連ねる衣通姫や藤原道綱母らが残した和歌は、時代を超えて愛されてきました。
歴史に名を残す日本三大美人は、単なる「美しい女性」として語られてきた存在ではありません。優れた教養と内面の美しさを兼ね備えており、その理想像を目指して、日本人の美意識を形づくる重要な役割を果たしてきました。
教養の面で代表的なのが、「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱母です。彼女は卓越した知性を持つ女流文学の先駆者であり、その感性の鋭さは現代の読者も感動させます。
また、光明皇后が疫病に苦しむ民衆1000人の背中の垢を流したというエピソードは、献身的な振る舞いが内面の美しさを物語っています。このように、高い教養と献身的な振る舞いこそが、日本三大美人として尊ばれる重要な要素となってきました。
歴史上の美女たちは、外見を超えた「内面の美しさ」や「振る舞い」という価値観を、現代の私たちに伝えています。たとえ目に見える姿形は変わっても、自らの信念を貫く姿勢や、相手を思いやる心に「美しさ」を見出す感性は、日本文化の根底に深く根付いていると言えるのです。
日本三大美人は、単なる容姿の美しさではなく、それぞれの時代の価値観や理想像を映し出す存在でした。和歌や信仰、忠義、芸能、町人文化など、美人に付随する物語は社会背景と深く結びついています。
彼女たちは「時代を映す鏡」として、日本人の美意識の変遷を現代に伝え続けているのです。
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「世界三大美女」と並び、実は日本でも古くから時代を彩る美しい人々がいました。彼女たちは単に容姿が整っているだけでなく、その生き様や教養によって多くの人々を魅了し、日本の文化を豊かに彩ってきた存在です。
本記事では、後世に語り継がれる日本三大美人を時代ごとに紹介します。
目次
日本三大美人とは?時代を彩った美しい女性たちの定義と背景
まず、日本三大美人というのは誰かが公式に定めたものではなく、近代以降に定着した俗称であると言われています。
この言葉が持つ意味合いは、大きく分けて次の二つのパターンが存在します。
人物として定義する際には、それぞれの時代によって顔ぶれが異なる点も興味深いです。
この呼称の背景には、江戸時代に流行した文化があります。
明和期や寛政期には、「明和三美人」「江戸三美人」といった形で、看板娘や芸妓など美しい女性を三人一組で紹介する風潮が見られました。
こうした表現方法は近代以降も受け継がれ、日本三大美人という呼び名が定着していきました。
日本三大美人の歴史を辿る!後世まで語り継がれる美しい女性たちの物語
「平安時代」、「鎌倉時代」、「戦国時代」、江戸時代の「明和期」「寛政期」に至るまで、それぞれの節目に日本三大美人が存在します。
では、時代別に分けて紹介します。
本朝三美人
本朝三美人とは、平安時代を代表する美女として知られる「衣通姫」、「光明皇后」、「藤原道綱母」の三人を指す俗称です。日本の歴史上もっとも古い日本三大美人として扱われています。
・衣通姫
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200013212
画像引用:著作権表示:菊池陽彩, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons( CC 表示-継承 4.0)
衣通姫は、『古事記』や『日本書紀』に登場する美しい女性で、第19代允恭天皇の皇女、あるいは寵愛された妃と伝えられています。
同母兄弟である木梨軽太子との恋に落ち、関係が露見したことで、兄は伊予に流罪となりました。衣通姫も兄を追って伊予へ向かい、再会した二人は心中したと語られています。
また、衣通姫は和歌の才能にも優れ、その美貌と歌才から「和歌の神様」として玉津島神社(和歌山県)に祀られました。
・光明皇后
作者:下村観山(C.E.1873-1930)
画像引用:Wikimedia Commons
光明皇后は奈良時代、聖武天皇の皇后として活躍した女性で、熱心な仏教信者であったことで知られています。
東大寺の大仏建立といった国家事業に深く関与したほか、全国に国分寺・国分尼寺を建立する政策を支え、仏教による国家の安寧を願いました。
さらに、天然痘が流行した際には施薬院や悲田院の設置に関わり、病人や孤児の救済に尽力したと伝えられます。
「千人の垢を洗い流した」という逸話は、その慈悲深さと高い精神性を象徴するものとして語り継がれています。
・藤原道綱母
画像引用:Wikimedia Commons
藤原道綱母は平安時代中期を代表する歌人であり、女流日記文学の傑作「蜻蛉日記」の作者です。彼女の作品は、後の「源氏物語」や「紫式部日記」にも大きな影響を与え、女性による自我表現の先駆的な例として歴史的に高く評価されています。
また、彼女は「三十六歌仙」の一人にも数えられるほど和歌の才に長けており、その名歌は小倉百人一首にも選ばれているのです。
容姿が綺麗で「尊卑分脈」にも「本朝第一美人三人内也」と記されています。
源平三美人
源平三美人とは、平安時代末期から鎌倉時代初期を代表する美女として知られる「常盤御前」、「静御前」、「巴御前」の三人を指す俗称です。
・常盤御前
作者:歌川国芳
画像引用:Wikimedia Commons
平安末期の女性である常盤御前は、源義朝の側室として知られ、後に英雄となる源義経ら三人の子を産みました。平治の乱で夫が敗死した後、彼女は幼い子供たちを連れて逃亡しますが、捕らえられた母を救うために平清盛のもとへ自首したと伝えられています。
子供たちの命を救う条件として平清盛の寵愛を受け入れるという、母としての深い愛情と苦難の物語は、人々の涙を誘ってきました。
・静御前
作者:葛飾北斎 - Hokusai-kan.com
画像引用:Wikimedia Commons
平安末期から鎌倉時代初期に活躍した静御前は、卓越した舞の技術を持つ白拍子(舞踊芸人)であり、源義経の愛妾として名高い人物です。義経が兄の頼朝と対立して都を追われた際、彼女も同行しますが、途中で捕らえられ、鎌倉へと送致されてしまいます。
鶴岡八幡宮では義経への忠義と恋慕を込めた舞を披露し、頼朝らを驚かせたという逸話は有名です。義経との間に授かった子を巡る悲劇など、過酷な状況下でも愛を貫いたその生き様は、今なお多くの日本人から愛されています。
・巴御前
画像引用:Wikimedia Commons
巴御前は、平安末期の乱世を駆け抜けた稀代の女武者であり、木曾義仲(源義仲)の愛妾・臣下として戦場で勇名を馳せました。信濃出身の豪族の娘とされる彼女は、義仲軍の有力な将として「倶利伽羅峠の戦い」などで目覚ましい功績を挙げたと言われています。義仲の愛妾として従軍し、最後まで戦場に立ち続けた姿は、勇敢で凛とした美しい女性像として語られています。
戦国三美人
戦国三美人とは、戦国時代を代表する美女として知られる
「お市の方」、「細川ガラシャ」、「京極竜子」の三人を指す俗称です。
・ お市の方
画像引用:Wikimedia Commons
織田信長の妹として知られるお市の方は1568年、信長の命により北近江の浅井長政と政略結婚し、後の「浅井三姉妹」となる三人の娘「茶々(淀殿)」、「初」、「江」を授かりました。
しかし、信長と長政が対立し、戦に負けた長政が自害した後は、娘たちと共に織田家へと戻ることになります。
その後、柴田勝家と再婚したものの、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北し、勝家と共に自ら命を絶つ道を選びました。
三人娘の浅井三姉妹も美人として有名であり、この三姉妹が戦国三美人として語られることも多いです。
・細川ガラシャ
作者:小林清親 – ColBase
画像引用:Wikimedia Commons
明智光秀の次女である細川ガラシャは、キリスト教信者(キリシタン)として有名です。ガラシャはキリシタンの洗礼名であり、実名は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)、法名は秀林院(しゅうりんいん)といわれています。
夫・細川忠興との信仰上の対立に苦しみながらも、自らの信念を貫いて洗礼を受け、キリスト教の教えに基づいた慈善活動に尽力しました。
1600年の関ヶ原の戦いを前に東軍の忠興が上杉征伐で不在の隙に、細川屋敷は西軍の石田三成軍に攻められました。そして、屋敷を囲まれたガラシャは人質となって夫の重荷になることを案じ、自ら生涯を閉じました。
・京極竜子
作者:不明
情報:The Japanese book "Japan, Conutry of Beauty: Inaugural Exhibition
(美の国日本:開館記念特別展)", Nishinippon Shimbun-sha (西日本新聞社), 2005
画像引用:Wikimedia Commons
「松の丸殿」の名で親しまれた京極竜子は、豊臣秀吉の側室として活躍した女性です。若狭武田家へ嫁いだ後に夫を亡くすという逆境を経験しますが、その類まれな美貌が秀吉の目に留まり、側室として招かれました。
伏見城の松の丸に居を構えたことからその名で呼ばれ、秀吉の寵愛を深く受けた彼女の存在感は非常に大きかったはずです。
秀吉の死後は関ヶ原の東軍に属した兄・高次を支え続け、徳川家康が天下を取った後は京都で穏やかな余生を過ごしました。
明和三美人
明和三美人とは、江戸時代中期・明和年間(1764〜1772年)に江戸で人気を博した町娘の美女として、「笠森お仙」、「柳屋お藤」、「蔦屋およし」の三人を指す俗称です。
武家や貴族ではなく、町娘が「美人」として注目された点が大きな特徴で、浮世絵の流行と結びつき、江戸の町に一大ブームを巻き起こした江戸庶民の愛されたアイドル的な存在でした。
・笠森お仙
作者:鈴木春信
情報:Online Collection of Brooklyn Museum; Photo: Brooklyn Museum, 37.433_IMLS_SL2.jpg
画像引用:Wikimedia Commons
谷中の笠森稲荷門前にある水茶屋「鍵屋」で看板娘を務めていたのが、笠森お仙です。化粧に頼らない清楚な美貌と穏やかな物腰は、当時の江戸の男たちを瞬く間に熱狂させました。
浮世絵師・鈴木春信は、お仙をモデルにした錦絵を数多く制作し、「谷中笠森里日暮ノ里一躰之圖」などで茶屋の情景とともにその魅力を描いています。「おせん茶屋」「お仙の駆落ち」といった作品では、振り向く仕草や柔らかな曲線美が強調され、錦絵技術の革新と相まって、お仙は全国的な人気を獲得しました。
・柳屋お藤
作者:一筆斎文調
情報:Online Collection of Brooklyn Museum; Photo: Brooklyn Museum, 16.548_IMLS_SL2.jpg
画像引用:Wikimedia Commons
浅草寺の観音堂裏にあった楊枝店「柳屋」の看板娘として、お仙と人気を二分したのが柳屋お藤です。お仙が清楚派なら、彼女は流行のメイクや華やかな装飾品を使いこなす都会的な美しい女性として注目されました。店頭に立っていた期間は明和6年の春から初夏にかけての短期間でしたが、美貌で瞬く間に評判となり、お仙に次ぐ人気を博します。
鈴木春信の「柳屋お藤」や「柳家見立三美人」では、お仙の清楚さと対比される存在として描かれ、「清楚なお仙」「華麗なお藤」という美の違いが話題となりました。
・蔦屋およし
浅草寺境内の二十軒茶屋「蔦屋」で働いていた看板娘が、蔦屋およしです。お仙やお藤に続く美人として、丁寧な接客と愛らしい人物で多くの客を惹きつけました。
鈴木春信の美人画には「およし」として描かれ、お仙・お藤と並ぶ三美人の一人として定着します。これらの浮世絵の影響から、谷中や浅草を巡る「美女見物」という観光的な社会現象を生み出しました。
江戸三美人
左は高島屋おひさ、上は富本豊雛、右下は難波屋おきた。
作者:喜多川歌麿
情報:cgH3Mn22MIBngA at Google Cultural Institute maximum zoom level
画像引用:Wikimedia Commons
「江戸三美人(寛政三美人)」とは、江戸時代後期・寛政期(1789〜1801年)を代表する美女として、「富本豊雛」、「難波屋おきた」、「高島おひさ」の三人を指す俗称です。
喜多川歌麿の美人大首絵によって江戸中のアイドルとして有名になりました。
・富本豊雛
富本豊雛は、吉原で活躍した芸者であり、浄瑠璃の流派「富本節」の名取としても知られていた人物です。彼女は玉村屋に所属し、桜草の紋がトレードマークだったといわれています。
歌麿の「高名美人六家撰」などのシリーズでは、その優雅さと色気が巧みに表現されており、江戸中で知らない者はいないほどの人気を博しました。三美人の中でも、ひときわ洗練された大人の色香が彼女の持ち味です。
・難波屋おきた
難波屋おきたは、浅草寺随身門脇にあった水茶屋「難波屋」の看板娘で、当時わずか16歳でした。桐紋の簪が特徴で、歌麿の「難波屋おきた」や「当時三美人」では、藍色の着物に黒帯を締めた姿が描かれています。
歌麿が15点以上の作品を描き上げるほど彼女に魅了された結果、店は大繁盛し、浅草全体が活気づく社会現象まで引き起こしました。三人の中で特に高い人気があったそうです。
・高島おひさ
高島おひさは、両国薬研堀にあった水茶屋「高島屋」の看板娘です。
三つ柏紋の団扇を持つ姿が印象的な彼女は、おきたと人気を二分するライバル関係にありました。
歌麿の「高島おひさ」や「当時三美人」に描かれています。歌麿の作品では、すらりとした首元や整えられた髪型が艶やかに表現され、落ち着いた気品が印象的です。
現代の日本三大美人とは?現代で美しい女性が多いとされる三地域の紹介
現代において「日本三大美人」という言葉は、特定の個人を指すよりも、美人が多いとされる地域を象徴する表現として使われるのが一般的です。具体的には、「秋田美人(秋田県)」「京美人(京都府)」「博多美人(福岡県)」の三地域を指しています。この俗称には、歴史的に明確な根拠はありませんが、かつての花街や歓楽街の繁栄、あるいは出稼ぎや移住によって美しい女性が集まったという社会的な背景と結びついて定着したと考えられているのです。
秋田美人は色白で清楚な美しさ、京美人は洗練された上品さ、博多美人は明るく華やかな魅力といったように、土地ごとに異なる価値観が反映されています。
あなたの認識はあっている?世界の三大美女とは
「世界の三大美女」と聞いて、「クレオパトラ」、「楊貴妃」、そして日本の「小野小町」を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。しかし、実はこの顔ぶれは日本独自の解釈に基づいたものです。
海外では一般的に、小野小町の代わりにギリシャ神話に登場するヘレネが加わり、「クレオパトラ」「楊貴妃」「ヘレネ」の三人が選ばれる傾向にあります。
ヘレネは、そのあまりに美しい容姿ゆえに、ギリシャ神話最大の戦いとされる「トロイア戦争」を引き起こした女性として知られています。その類まれなる美貌が国家を揺るがしたことから、後世の文学やオペラ、映画「トロイ」などの作品において、彼女は「禍をもたらす妻(禍妻)」の象徴として描かれてきました。
世界の三大美女に関するさらに詳しい内容は、当サイト内の別コラムでも紹介しています。ご興味のある方は、ぜひそちらもあわせてご覧になってみてください。
世界三大美女とは?世界や日本の歴史に残る美人や偉大な女性たちを紹介!
日本三大美人が現代に与えた影響
歴史に名を残す日本三大美人は、舞踊や芸能、美術、文学、物語といった多様な文化分野に影響を与えていきました。
日本の芸能
静御前は白拍子として、男装で舞を踊るという革新的な表現を行いました。
当時、女性が舞台上で自己を表現する機会は限られていましたが、静御前の舞は観る者に強い印象を与え、舞踊や芸能の発展に大きな影響を及ぼしたといわれています。
浮世絵や女流文学
江戸時代の寛政期に活躍した喜多川歌麿の美人画は、日本美術を近代へと大きく押し上げる原動力となりました。それまでの絵画は画一的な理想像を描くのが主流でしたが、歌麿は実在する遊女や町娘をモデルに選び、その個性をキャンバスに写し取ったのです。
また、微妙な目線や口元、指先の仕草を描き分けることで、女性の外見的な美しさだけでなく、内面に秘めた情感までも見事に表現しました。「大首絵(上半身や顔のアップ)」という斬新な構図は、後に西洋美術のトリミング技法にも多大な影響を与えたと伝えられています。
また、文学の世界においても「本朝三美人」に名を連ねる衣通姫や藤原道綱母らが残した和歌は、時代を超えて愛されてきました。
日本三大美人に見る独自の感性!教養と内面の美しさ
歴史に名を残す日本三大美人は、単なる「美しい女性」として語られてきた存在ではありません。優れた教養と内面の美しさを兼ね備えており、その理想像を目指して、日本人の美意識を形づくる重要な役割を果たしてきました。
日本三大美人に共通する内面の魅力とは
教養の面で代表的なのが、「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱母です。彼女は卓越した知性を持つ女流文学の先駆者であり、その感性の鋭さは現代の読者も感動させます。
また、光明皇后が疫病に苦しむ民衆1000人の背中の垢を流したというエピソードは、献身的な振る舞いが内面の美しさを物語っています。このように、高い教養と献身的な振る舞いこそが、日本三大美人として尊ばれる重要な要素となってきました。
日本三大美人が現代に伝える価値観
歴史上の美女たちは、外見を超えた「内面の美しさ」や「振る舞い」という価値観を、現代の私たちに伝えています。
たとえ目に見える姿形は変わっても、自らの信念を貫く姿勢や、相手を思いやる心に「美しさ」を見出す感性は、日本文化の根底に深く根付いていると言えるのです。
日本三大美人が伝える美しい女性のあり方
日本三大美人は、単なる容姿の美しさではなく、それぞれの時代の価値観や理想像を映し出す存在でした。和歌や信仰、忠義、芸能、町人文化など、美人に付随する物語は社会背景と深く結びついています。
彼女たちは「時代を映す鏡」として、日本人の美意識の変遷を現代に伝え続けているのです。
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