世界三大美女とは?世界や日本の歴史に残る美人や偉大な女性たちを紹介!

人間の歴史上、美しい容姿で多くの人々を魅了した「美女」と呼ばれる女性たち。現代でも私たちを魅了し続けている彼女たちは、どのような人物でどうして「美女」と語り継がれるようになったのでしょうか。
また、世界三大美女の括りには入っていなくても、世界には多くの偉大な女性たちが歴史に名を残しています。

そこで今回は、世界三大美女についてや、歴史に名を残した世界の偉大な女性たちを紹介していきます。

世界三大美女とは

世界三大美女とは、歴史上最も美人だといわれている3人の女性たちのことです。
日本では、クレオパトラ・楊貴妃・小野小町の3人が世界三大美女として知られています。ちなみに、海外ではクレオパトラ・楊貴妃に加えてギリシャ神話に登場するヘレネーの3人が世界三大美女として知られています。

ではなぜ日本でこの3人が世界三大美女といわれるようになったのか、そもそも彼女たちは本当に美人だったのかなどについて解説していきます。

世界三大美女は本当に美人だった?

世界三大美女といわれている3人は、まだ写真も写実的な絵も無かった時代の人物です。そんな彼女たちは本当に美人だったのでしょうか?

中国の楊貴妃は、平安時代に中国から伝わった漢詩の中で、皇帝が美しさに溺れるほどの美人であったと記されています。
また、クレオパトラもその美貌を武器にして、敵軍の将軍カエサルとアントニウスという2人を虜にし、自国を守ったといわれています。
しかし、小野小町については本当に美人だったのかはっきりしていません。

小野小町が生きた時代は、女性が他人に顔を見せることがはしたない事だとされていました。
そのため、小野小町の顔の造形や容姿についてはほとんど記録が残っていません。
また、平安時代の美人の条件は、肌が白い、髪が豊かで黒々としている、和歌を詠むのが上手い、所作が美しいなどで、顔の美しさはあまり重要ではなかったとされています。
しかし、小野小町は六歌仙や三十六歌仙などに選ばれるほどの才能を持った女流歌人であり、当時彼女が仕えていた仁明天皇に寵愛されたといわれていることから、美人であったとされています。

世界三大美女は誰が決めた?認識が広まった理由

日本でクレオパトラ・楊貴妃・小野小町を世界三大美女と決めたのは誰だったのでしょうか。
日本でこの三人が美人として取り上げられるようになったのは明治時代中期ごろからです。

江戸時代には、江戸の町で美人と評判の茶屋の看板娘を「三美人」として取り上げていました。
この慣習が、明治時代に入り日本文化が国際化の影響を受けたことで、「世界三大美女」が誕生したといわれています。
また、明治21年(1888年)に発刊された読売新聞の社説にて、女性の美しさの基準は国や地域によって違うという話が出た際、美人の代表としてクレオパトラ・楊貴妃・小野小町の三人が挙げられたことでこの三人が「世界三大美女」として広まったと考えられています。

なぜこの3人が世界三大美女に選ばれたのか?

クレオパトラ・楊貴妃・小野小町の三人が「世界三大美女」に選ばれたのはなぜなのでしょうか?
ちなみに、この3人を「世界三大美女」としているのは日本だけで、海外ではクレオパトラ・楊貴妃・ヘレネー(ギリシャ神話に登場する女性でその美しさからトロイアの王子にさらわれトロイア戦争の原因となった女性)とされています。

日本では昔から小野小町が理想的な美人であったと言い伝えられており、日本では昔から美人のことを「○〇小町」と呼んできました。
また楊貴妃についても、中国から伝わった漢詩が読まれ続けていたことで、日本では昔から悲劇の美女や傾国の美女として知られていました。
そのため、この二人が「世界三大美女」に選ばれたのは日本人にとって馴染み深い美人だったからだと思われます。

ではなぜ、江戸時代まで馴染みのなかったクレオパトラが突然登場したのでしょうか?
これは、海外では昔からクレオパトラが稀代の美人であったことが言い伝えられていたことや、大正3年(1914年)に浅草の映画館で「アントニーとクレオパトラ」という映画が上映されたこと、当時大人気だった女優・松井須磨子が帝国劇場でクレオパトラ役を演じて評判となっていたことなどから、クレオパトラが選ばれたのではないかと考えられています。

世界三大美女①クレオパトラ

世界三大美女①クレオパトラ

ここからはクレオパトラについて解説していきます。
世界三大美女の1人クレオパトラは、その美貌と豊富な知識を武器に国を守ろうとした古代エジプトの女王です。

クレオパトラが生きた時代

クレオパトラは、紀元前69年に古代エジプトを統治していたプトレマイオス朝のプトレマイオス12世の娘として産まれ、その後プトレマイオス朝の女王となった女性です。
当時の古代エジプトは世界有数の小麦産地で裕福な国ではありましたが、勢力を広げつつあったローマによって国の存続が危ぶまれる状況でした。

そのような中、クレオパトラは18歳の時にプトレマイオス朝の女王となりました。
父親のプトレマイオス12世は彼女が18歳の時に亡くなり、父の遺言によって10歳の弟プトレマイオス13世と共同統治をすることになったのです。

クレオパトラはとても才能豊かで、数か国の言語を使いこなし政治や軍事にも精通する女王でした。
しかし、幼い弟王を操って政治を行おうと考えていた側近たちは、自分たちにとって邪魔な存在だったクレオパトラを罠にはめて追放します。
その頃、ローマの将軍・カエサルが政敵であったポンペイウスを討伐するために、ポンペイウスの逃亡先であったエジプトに向かいました。
ですが、クレオパトラを追放した弟王の側近たちがカエサルの歓心を買うためにポンペイウスを騙して葬ります。しかしカエサルは、ポンペイウスを騙し討ちした側近たちに対して不信感を持つのでした。

クレオパトラは何をしたのか?その人物像とは?

エジプトを追放されていたクレオパトラは、女王の座に返り咲くため、カエサルを味方に付けようとしました。しかし、側近たちはクレオパトラがカエサルに謁見できないように監視を強化します。
クレオパトラは、厳重な監視をかいくぐるため、絨毯にくるまってカエサルへの贈り物として自身を届けさせます。
絨毯を広げたカエサルは、中から出てきたクレオパトラの美しさに魅了されてしまいました。カエサルという強力な後ろ盾を得たクレオパトラは、弟王の側近たちを追放し、再びエジプトの女王となったのです。

カエサルとの間に息子をもうけたクレオパトラは、国賓としてローマに赴きますが、ローマに滞在中カエサルが暗殺されてしまい、身の危険を感じたクレオパトラはエジプトへ帰りました。
その後、ローマの支配者となったアントニウスがクレオパトラに出頭を命じます。
クレオパトラはこの時も、美しいドレスに身を包み、豪華な船に乗って登場してアントニウスの意表を突きます。
アントニウスはクレオパトラの美しさに魅了され、妻子を捨ててクレオパトラと結婚してしまうのです。
アントニウスはクレオパトラにのぼせ上ってしまい、ローマの領地や占領地を与えますが、これに怒ったローマ帝国は、アントニウスを討伐し、クレオパトラを捕らえます。
捕らわれたクレオパトラは、ローマ軍に屈することを拒み、毒蛇に噛ませて自らの命を絶ったのでした。

世界三大美女②楊貴妃

世界三大美女②楊貴妃 浮世絵師、細田栄之によって描かれた楊貴妃 出典:Wikimedia Commons

世界三大美女の1人楊貴妃は、その美しさで中国の唐王朝を傾けたとされる女性です。

楊貴妃が生きた時代

楊貴妃は、中国の唐中期の時代を生きた女性です。
当時、唐を治めていたのは玄宗皇帝でした。
玄宗は、「開元の治」と呼ばれる善政を行い、国民にも愛された名君で、当時は唐の絶頂期といわれています。

楊貴妃は何をしたのか?その人物像とは?

楊貴妃は、本名を楊玉環といい地方の下級役人の娘として産まれましたが、子どもの頃からずば抜けて美しいと評判の女の子でした。
幼いころに両親を失った玉環は、叔父の養女となりましたが、美しいという評判が都にまで届き、玄宗の第18皇子の后となります。

この頃、最愛の妃・武恵妃を亡くした玄宗は、何も手がつかないほど落ち込んでいました。
そんな時に、玄宗は側近に武恵妃によく似た娘がいると紹介された玉環と出会い、妖艶で音楽や舞踊にも長けていた玉環に一目ぼれしてしまいます。
玄宗は、玉環を息子の后であったにも関わらず、后の身分を解いて女道士(道教の聖職者)にさせた後、自分の後宮に迎え入れ、高位の側室である貴妃の位を授けました。
楊貴妃に夢中になった玄宗は、政治を行わず楊貴妃と豪華絢爛な離宮で遊んで暮らすようになってしまいます。
しかし、楊貴妃は高価なものを強請ったり、権力を盾に威張ったりするような女性ではなかったといわれています。

楊貴妃を異常なほど寵愛した玄宗は、彼女の好物であるライチを瑞々しい状態のまま届けさせるために、何千キロもあるライチの産地から3日で運べという無理な命令を出したり、楊貴妃の一族だけを出世させたりしたため、国は荒れてしまいました。
国民たちの不満はどんどん膨れ上がっていき、楊貴妃が37歳の時ついに国民たちは反乱を起こしたのです。
玄宗は楊貴妃とともに逃亡しますが、その途中、同行した兵士たちの間で楊貴妃に対する不満が爆発し、楊貴妃を処刑しろという声が上がったのです。
玄宗は楊貴妃をかばいますが、楊貴妃は「処刑されても決して恨みません」と言い、玄宗は側近に楊貴妃を処刑するよう命じました。

楊貴妃が亡くなったことを知った兵士たちは喜び、反乱は収まりましたが、玄宗は自身が亡くなるまで涙を流して悲しんだということです。

世界三大美女③小野小町

世界三大美女③小野小町 小野小町(鈴木春信画) 出典:Wikimedia Commons

世界三大美女の1人小野小町は、平安時代前期に活躍した女流歌人で、平安時代を代表する歌人「六歌仙」や「三十六歌仙」にも選ばれた才女です。
また、その美しさから多くの男性を魅了したともいわれており、昔から日本を代表する伝説的な美人とされています。

小野小町が生きた時代

小野小町は、平安時代前期の810年~889年頃に生きていたとされています。
平安時代は、中国から伝わった仏教の考え方が生活や政治などに大きな影響を与え、社会の基盤となった時代です。

政治は、天皇が行うものから、天皇を補佐する貴族たちが行うものとなっていき、朝廷内では激しい権力争いが繰り返されていました。
天皇の補佐役となる為には、自分の娘を天皇の后にして男の子を産ませ、外戚として政治の実権を握る摂関政治が確立されます。
その一方、遣唐使が廃止になり、和歌や音楽、ファッションなど日本特有の文化(国風文化)が生まれた時代でもあり、女性が使う文字として平仮名が生まれるなど、現代の日本に続く文化の基盤ができた時代でもあります。

小野小町は何をしたのか?その人物像とは?

小野小町は、平安時代前期に出羽国(でわのくに:現在の秋田県と山形県)を治めていた中流貴族の娘として産まれました。
小野小町は、遣隋使として有名な小野妹子の子孫で、文武両道に優れ、歌人としても有名な小野篁の孫でした。
小野小町は、子どもの頃から美しく才能があると評判で、第54代天皇の仁明天皇・第55代天皇の門徳天皇・第56代天皇の清和天皇の時代に宮中に仕えていたとされています。
宮中でも群を抜いた美しさと和歌や書の才能から多くの貴族から求婚され、さらには仁明天皇の更衣(女御の次の位の天皇の后)として寵愛されたともいわれています。
多くの貴族男性を虜にした小野小町には次のような有名なエピソードがあります。

小野小町が36歳で宮中を退いた後、故郷である出羽国に帰り、小さな庵を作って静かに暮らしていました。
そこへ、小町を想う草深少将が都から出羽国へとやってきます。
草深少将は、小町に会いたいと文を出しますが、小町はこの頃疱瘡を患っており、その醜い顔を見られたくなかったため「わたしを心から慕ってくださるのなら、高土手に毎日一株ずつ芍薬を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心に応えましょう。」という内容の返事を出しました。
少将は、毎日芍薬を一株ずつ植え、小町も疱瘡が治るよう祈りながら毎日神社の清水で顔を洗っていました。
少将が99株目の芍薬を植え、ついに100株目の芍薬を植える夜がきました。
しかし、この日は秋雨が降り続き、川が増水していたのです。
少将は橋を渡る際に橋ごと流されてしまい、帰らぬ人となってしまいました。

小町は深く悲しみ、亡骸を近くの寺に安置して、92歳で亡くなるまで少将を想いながら供養したそうです。

世界三大美女から学ぶこと

世界三大美女は、いずれも美しいだけでなく愛情深い女性たちでした。
また、和歌や舞踊、音楽、学識や政治など才能豊かな人物でもありましたが、これは持って生まれたものだけではなく、努力した結果身に付いたものだと思われます。
そのことから、女性が自分の魅力を最大限に発揮するためには、才能を磨く努力も大切であると学ぶことができるのではないでしょうか。

世界三大美女ではないが世界の偉大な女性

世界三大美女以外にも、歴史に名を遺した偉大な女性は沢山います。
中でも次の女性たちは、現代でもその偉業を讃えられ愛され続けています。

紫式部

紫式部 紫式部(土佐光起画、石山寺蔵) 出典:Wikimedia Commons

紫式部は、世界最古の長編小説「源氏物語」を書いた平安時代中期の女流作家です。
子どもの頃から学者であった父親に習い、漢文を読むほど頭の良かった紫式部は、夫の藤原宣孝(のぶたか)が亡くなった後、「源氏物語」を書き始めます。

「源氏物語」徐々に評判が広がっていき、その才能を買われて、一条天皇の中宮で当時の権力者・藤原道長の娘である彰子の女房(貴人に仕える女性)として仕えることになりました。
源氏物語は、紫式部が亡くなった後も貴族や武士の間で読み続けられ、1,000年以上たった現代では、口語訳だけでなく20以上の言語に翻訳され、世界各国で読み継がれています。

ジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルクは、14世紀中ごろから15世紀中ごろまでイングランドとフランスの間で繰り広げていた百年戦争の末期に、窮地に陥っていたフランス軍を救った少女です。

ジャンヌはフランスのドンレミという小さな村で生まれた少女でしたが、16歳の時に「フランスを救え」という神の声を聴き、フランス王太子シャルルのもとに向かいます。
最初はジャンヌのことを疑っていた王太子たちでしたが、別人を王太子の替え玉にして謁見させた際に、部屋の隅でみすぼらしい格好をしていた本物の王太子を簡単に見破ったことで信頼を得て、フランス軍の1つの隊を任されました。

ジャンヌは次々と勝利し、長期間イングランドに包囲されていたオルレアンの開放を成功させます。
そしてついに王太子シャルルの戴冠式を成功させました。
しかし、1430年にイングランド軍に捕らえられたジャンヌは、魔女裁判にかけられた結果、火あぶりの刑に処されてしまいます。
その後、フランスの勝利で百年戦争を終わらせたシャルルは、ジャンヌが魔女であったという不名誉を取り消し、キリスト教徒として復権させました。
ジャンヌはその後もフランスを救った奇跡の少女として語り継がれ、1920年5月に聖人に列せられたのです。

虞美人(くびじん)

虞美人(くびじん) 虞美人 出典:Wikimedia Commons

虞美人は、紀元前200年ごろの秦末期に活躍した楚の武将・項羽の愛妾です。
項羽に嫁いだ虞美人は、戦の為に各地を転々とする項羽とともに移動し項羽の傍らにいつもいました。
しかし、紀元前202年に降雨が劉邦の軍に包囲され、いよいよ危ないとなった時に最後の酒宴を開きます。
この酒宴で、項羽は辞世の句を詠み虞美人への思いを歌い上げ、虞美人に逃げて生き延びるように勧めました。
しかし虞美人は、項羽から受けた恩を返していないと言って、項羽を生き延びさせるためには自分が足手まといになるわけにはいかないと自ら首を切って命を絶ちました。
虞美人は愛を貫いた強い女性として後世に語り継がれたのです。
また、虞美人が亡くなった翌年の夏に彼女の墓に赤いヒナゲシの花が咲いたことから、ヒナゲシは「虞美人草」と呼ばれるようになりました。

世界三大美女の魅力はただ美しいだけではない

世界の歴史上、美女と呼ばれた女性は沢山います。
なかでも世界三大美女に選ばれた女性たちは、歴史上大きな影響を与えた人物たちでした。
とくに世界三大美女に選ばれた女性たちは、悲劇的な最後を遂げてはいますが、いずれも愛情深く才能豊かな人物だったことが分かっています。

彼女たちは、容姿が美しいだけでなく、愛情深く努力で自分を磨き上げることで自分の魅力を最大限に発揮できるということを教えてくれているのではないでしょうか。


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