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2026年は午年(うまどし)です。なぜ「午」と書いて「うま」と読ませるのかは寡聞にして知りませんが、つまり馬の年というわけですね。
ところで、馬と言えばモンゴルです。なにしろ国章にも馬が描かれているくらいです。日本の約4倍もの広い国土面積を持つこの国ですが、人口はたったの約350万人にすぎません。この人口規模は横浜市と同じくらいです。しかし、馬は人より多く、モンゴル全土に約470万頭いると言われています。
モンゴルの伝統楽器「モリンホール(馬頭琴)」は、馬と生きる人々の精神を音そのものに変えた楽器だと言えるでしょう。
馬頭琴は主にモンゴルで演奏されてきた伝統的な弦楽器です。「モリン」はモンゴル語で「馬」のこと、「ホール」は「楽器」です。 ただ、広い大草原を駆ける馬のような躍動感を連想すると、馬頭琴はそうしたイメージとは真逆の楽器かもしれません。その音色は低く、静かな旋律が特徴です。物悲しい、と感じる人もいるでしょう。
箱状になった胴からは1メートルくらいの棹が伸びていて、その先端には馬の頭部の飾りがついています。弦は2本です。弦も弓も馬の尾(しっぽ)の毛で作られているそうです。
演奏者は椅子に座り、箱状になった胴部分を立てて両足の間に挟み、弓を横から引くようにして演奏します。形態としてはチェロに似ているかもしれません。
馬頭琴の起源ははっきりしません。よく知られているように、中世のモンゴル人たちはユーラシア大陸のほぼ全域に及ぶ世界帝国を作り上げました。その頃にアラビアから渡ってきたハープが、馬頭琴の原型だとする説が比較的有力とされています。
もっとロマンティックな伝説もあります。その中でも、モンゴルで特に広く知られているのが、フフー・ナムジルとその愛馬の物語です。
ナムジルは歌の名手であり、彼の愛馬は空を飛ぶ翼を持っていました。しかし、ある出来事をきっかけにその馬は命を落としてしまいます。深い悲しみに沈んだナムジルは、亡き馬を偲び、その骨や毛を使って楽器を作り、馬を想いながら演奏を始めたと伝えられています。
この物語によると、馬頭琴は愛馬を失った「喪失」と「哀しみ」から生まれた楽器です。そのむせぶような小さな音色をモンゴル人は何世紀も愛してきました。
馬頭琴は伝統的ではありますが、古典の列に収まっているわけではありません。現在のモンゴルでも日常的に見ることができる楽器です。とくに遊牧民が暮らすゲル(移動式住居)には、必ずと言っていいほど馬頭琴が置かれています。幸運を呼び、家畜の繁栄や家族の平安を祈る。家の守り神のような存在でもあり、縁起の良い楽器として大切にされています。
私が生まれて初めてモンゴルを訪問したのはつい昨年のことです。乗馬体験をメインにしたツアーに参加しました。観光はまったくせずに、ゲルに寝泊まりして、朝から晩まで草原を馬に乗るという体育会系の合宿みたいなツアーでしたが、ある日ガイド兼インストラクターの人が馬頭琴を私たちのために演奏してくれました。
遊牧民出身のその人は乗馬が超絶的に上手く、弓を遠くへ飛ばし、モンゴル相撲まで強いという、活動的なタイプの男性でしたが、馬頭琴を演奏するときは雰囲気が打って変わりました。その音色は深く、静かで、心に沁みるものでした。
馬頭琴については、日本では『スーホの白い馬』の物語が有名です。中国の民話をベースにした絵本で、小学校の国語教科書にも掲載されていたので、覚えている人は多いのではないでしょうか。正直に告白しますと、私自身はまったく記憶にないのですが。
この物語も愛馬を失った人の悲しみを描いたものです。貧しい少年スーホと、彼が大切に育てた白い馬。しかし、その馬は理不尽な運命によって奪われ、最後には馬頭琴となってスーホのもとへ戻ってくる。そんな話です。
馬は動物ですし、多くの場合は人より早く死にます。馬と生きる遊牧民たちにも、愛した馬を失ってしまうことは幾度も起こります。だからこそ、死んだ馬が形を変えて寄り添い続けるという物語が愛されるのではないでしょうか。彼らにとって、馬は「ペット」ではなく、「魂の友」であるとする価値観が伝わってきます。
故・開高健氏は著書『モンゴル大紀行』のなかで、「モンゴル人は馬の上で生まれ、馬の上で死ぬ」という言葉を紹介しています。遊牧民にとって、それほどまでに馬は人生において欠かせない存在です。遊牧のための移動手段としてはもちろん、衣・食・住のすべてに関わっています。
馬の生乳を発酵させた乳酸飲料(馬乳酒)は微量のアルコール(約2%)を含みますが、子どもから老人まで日常的に飲まれています。ゲルの骨組みを固定するロープには馬のシッポやたてがみが使われます。乾燥した糞はストーブの燃料になります。
また、競技や祭りの場でも馬は中心的な役割を担います。毎年7月に開催されるモンゴルの国民行事「ナーダム祭」では、競馬・弓射・相撲が三大競技として行われますが、中でも競馬は特別な意味を持っています。
競馬と言っても、日本の競馬場で行われるレースを想像してはいけません。ナーダム祭のそれは広大な草原を数百頭以上もの馬が約15~30キロの長距離を一気に駆け抜けるというものです。馬齢ごとに距離が分けられ、また5~13歳の子どもたちが騎手を務めます。
モンゴルの伝統的な乗馬技術は、鞍に頼らないバランス感覚を特徴とします。人が馬に乗るのではなく、一緒に走る。その人馬一体というべき思想を体現するのが子どもたちです。ただ体重が軽いというだけではなく、馬との信頼関係が重要な要素になります。
作家の椎名誠氏が監督した映画『白い馬』(1995年公開)はタイトルで分かるように、前述した『スーホの白い馬』をモチーフにした作品ですが、モンゴルの大草原と遊牧民の暮らしを描いた貴重な映像資料でもあります。ナーダム祭の少年競馬がストーリー上のクライマックスです。馬頭琴の演奏シーンも登場します。
紀元前に司馬遷が書いた『史記』匈奴列伝には、「馬、牛、羊を飼い、定住せずに穹廬(きゅうろ)(ゲル)に住み、水と草を求めて移動する」という意味の記述があります。それはそのまま現在のモンゴルの遊牧民たちの描写にも使えます。彼らは馬での移動を前提としたライフスタイルを数千年前から変わらず守ってきたのです。
13世紀になるとチンギス・ハーンが遊牧民の諸民族を統一してモンゴル帝国を築き上げました。ハーン死後も帝国は膨張を続け、さらに中国、ロシア、イラン、東ヨーロッパまで次々と征服していき、最盛時の版図は当時の世界地図の5分の3以上に及んだと言われています。
モンゴル帝国の強さの核心はその騎馬軍団にありました。ところが、世界史上最強の軍隊は拍子抜けするほど小さな馬に乗っていました。モンゴル馬の体高は120~140cmでしかありません。西洋のサラブレッドと比較すると3分の2程度の大きさです。
忍耐力と従順な性格もモンゴル馬の大きな特徴です。これでどうやって戦争をしたのだろうと思うくらいです。
私が参加したツアーでも、乗馬前や休憩中など、馬を待たせておく時間が頻繁に発生しました。そんなとき、遊牧民は馬を紐のようなロープで繋ぎます。たったそれだけで馬たちは足掻くことなく、餌も水も貰わずにじっと待っています。
遊牧民は、馬に名前をつけないこともあるそうです。それは、執着しすぎないためかもしれません。しかし、長い時間を共に過ごすことで育まれる信頼は深く、言葉よりも「気配」で通じ合う関係が築かれます。
故・司馬遼太郎氏の著書『草原の記』にこんなエピソードが紹介されています。ベトナム戦争時に当時のモンゴル人民共和国から送られた馬が、ハノイから中越国境を越え、さらに中国領土を縦断して、モンゴルの高原に帰ってきたというのです。真偽は分かりませんが、神秘的なまでに賢いモンゴル馬を見ていると、ひょっとしてそんなこともあったかもしれないと感じました。
モンゴル高原は1年のうち夏がもっとも快適な気候です。私が訪れたのもその時期でした。雨が少なく、空気は乾燥しています。日差しは強く、外気温は摂氏30度を超えることもありますが、日本のような蒸し暑さとは無縁です。ただし、冬は非常に寒く、氷点下40度にも達することもあると聞きました。
その厳しい自然の中で、馬は極めて自然に近い環境で飼育されています。飼育という表現が正しくないのかもしれません。放牧されていても、人からエサを貰うわけではないからです。主食は草です。半野生と言ってもよいかもしれません。
モンゴル高原には丈の低い草が生えた大地が見渡す限りに広がっています。モンゴル馬たちはその無尽蔵とも言える草を食べるだけで、長時間の移動にも耐える動物です。冬になって草原が雪で覆われても、自ら雪を掘り、草を探して生き抜くのだそうです。
馬は人に頼らず、自由に歩き、食べ、選びます。けっしてペットではなく、家族や友人に近い存在なのでしょう。遊牧民はそんな馬に敬意をもって接します。管理しないことが最大のケアなのかもしれません。
こうしたモンゴル人と馬の関係は、世代を超えて受け継がれてきた知恵の結晶です。一方で、モンゴルにも近代化や都市化の波は押し寄せています。すでに人口の約半数が首都ウランバートルに住み、草原で伝統的な遊牧生活をしている人の割合は約25~30%だと推定されています。遊牧民族の伝統をどう守っていくのかは大きな課題でしょう。
できれば、地球のどこかにこんな土地がいつまでも残っていてほしい。そんな風に思うのは現代人のエゴでしょうか。
1981年、中華街の片隅に、赤い木で縁取られ通りから中が覗けるガラス張りの舞踏館が誕生しました。チャイハネがこころをときめかせる刺激の場所ならば、舞踏館はからだを動かし自分と向き合う意識の場所。対であり影響しあう存在です。
街並みも暮らしぶりも行き交う人も変容していくなか、1993年に余儀なく閉館となりましたが、2001年月に旧舞踏館のあった隣で再び産声を上げました。地下階に作られた今度の舞踏館は、ネイティブ・アメリカンの神聖な場所キヴァを模しています。ネイティブ・アメリカンたちは屋根から出入りする半地下のキヴァの中で、そこにこもって、そして大地の懐に抱かれ、祭の歌詞を作り、歌を歌い、踊りを習い、お話を聞き、布を織り、瞑想をし、体を清めたりします。
▼シルクロード舞踏館
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午年を迎えて、あらためて思い出したいのは、人と馬が「共に生きる」という感覚です。人が馬を支配するのではなく、互いに寄り添い、耳を澄ませること。
馬頭琴の音色には、草原を駆ける馬の息づかいと、それを見守ってきた人の祈りが、今も静かに響いています。
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2026年は午年(うまどし)です。なぜ「午」と書いて「うま」と読ませるのかは寡聞にして知りませんが、つまり馬の年というわけですね。
ところで、馬と言えばモンゴルです。なにしろ国章にも馬が描かれているくらいです。日本の約4倍もの広い国土面積を持つこの国ですが、人口はたったの約350万人にすぎません。この人口規模は横浜市と同じくらいです。しかし、馬は人より多く、モンゴル全土に約470万頭いると言われています。
モンゴルの伝統楽器「モリンホール(馬頭琴)」は、馬と生きる人々の精神を音そのものに変えた楽器だと言えるでしょう。
目次
モリンホール(馬頭琴)が語るモンゴルの草原
馬頭琴/モリンホールとは?
馬頭琴は主にモンゴルで演奏されてきた伝統的な弦楽器です。「モリン」はモンゴル語で「馬」のこと、「ホール」は「楽器」です。
ただ、広い大草原を駆ける馬のような躍動感を連想すると、馬頭琴はそうしたイメージとは真逆の楽器かもしれません。その音色は低く、静かな旋律が特徴です。物悲しい、と感じる人もいるでしょう。
箱状になった胴からは1メートルくらいの棹が伸びていて、その先端には馬の頭部の飾りがついています。弦は2本です。弦も弓も馬の尾(しっぽ)の毛で作られているそうです。
演奏者は椅子に座り、箱状になった胴部分を立てて両足の間に挟み、弓を横から引くようにして演奏します。形態としてはチェロに似ているかもしれません。
喪失から生まれた楽器
馬頭琴の起源ははっきりしません。よく知られているように、中世のモンゴル人たちはユーラシア大陸のほぼ全域に及ぶ世界帝国を作り上げました。その頃にアラビアから渡ってきたハープが、馬頭琴の原型だとする説が比較的有力とされています。
もっとロマンティックな伝説もあります。その中でも、モンゴルで特に広く知られているのが、フフー・ナムジルとその愛馬の物語です。
ナムジルは歌の名手であり、彼の愛馬は空を飛ぶ翼を持っていました。しかし、ある出来事をきっかけにその馬は命を落としてしまいます。深い悲しみに沈んだナムジルは、亡き馬を偲び、その骨や毛を使って楽器を作り、馬を想いながら演奏を始めたと伝えられています。
この物語によると、馬頭琴は愛馬を失った「喪失」と「哀しみ」から生まれた楽器です。そのむせぶような小さな音色をモンゴル人は何世紀も愛してきました。
モンゴルの暮らしと馬頭琴
馬頭琴は伝統的ではありますが、古典の列に収まっているわけではありません。現在のモンゴルでも日常的に見ることができる楽器です。
とくに遊牧民が暮らすゲル(移動式住居)には、必ずと言っていいほど馬頭琴が置かれています。幸運を呼び、家畜の繁栄や家族の平安を祈る。家の守り神のような存在でもあり、縁起の良い楽器として大切にされています。
私が生まれて初めてモンゴルを訪問したのはつい昨年のことです。
乗馬体験をメインにしたツアーに参加しました。観光はまったくせずに、ゲルに寝泊まりして、朝から晩まで草原を馬に乗るという体育会系の合宿みたいなツアーでしたが、ある日ガイド兼インストラクターの人が馬頭琴を私たちのために演奏してくれました。
遊牧民出身のその人は乗馬が超絶的に上手く、弓を遠くへ飛ばし、モンゴル相撲まで強いという、活動的なタイプの男性でしたが、馬頭琴を演奏するときは雰囲気が打って変わりました。その音色は深く、静かで、心に沁みるものでした。
日本人が出会った馬頭琴の物語『スーホの白い馬』
馬頭琴については、日本では『スーホの白い馬』の物語が有名です。中国の民話をベースにした絵本で、小学校の国語教科書にも掲載されていたので、覚えている人は多いのではないでしょうか。正直に告白しますと、私自身はまったく記憶にないのですが。
この物語も愛馬を失った人の悲しみを描いたものです。貧しい少年スーホと、彼が大切に育てた白い馬。しかし、その馬は理不尽な運命によって奪われ、最後には馬頭琴となってスーホのもとへ戻ってくる。そんな話です。
馬は動物ですし、多くの場合は人より早く死にます。馬と生きる遊牧民たちにも、愛した馬を失ってしまうことは幾度も起こります。だからこそ、死んだ馬が形を変えて寄り添い続けるという物語が愛されるのではないでしょうか。彼らにとって、馬は「ペット」ではなく、「魂の友」であるとする価値観が伝わってきます。
馬とともに生きる民族
故・開高健氏は著書『モンゴル大紀行』のなかで、「モンゴル人は馬の上で生まれ、馬の上で死ぬ」という言葉を紹介しています。遊牧民にとって、それほどまでに馬は人生において欠かせない存在です。遊牧のための移動手段としてはもちろん、衣・食・住のすべてに関わっています。
馬の生乳を発酵させた乳酸飲料(馬乳酒)は微量のアルコール(約2%)を含みますが、子どもから老人まで日常的に飲まれています。ゲルの骨組みを固定するロープには馬のシッポやたてがみが使われます。乾燥した糞はストーブの燃料になります。
CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
また、競技や祭りの場でも馬は中心的な役割を担います。毎年7月に開催されるモンゴルの国民行事「ナーダム祭」では、競馬・弓射・相撲が三大競技として行われますが、中でも競馬は特別な意味を持っています。
競馬と言っても、日本の競馬場で行われるレースを想像してはいけません。ナーダム祭のそれは広大な草原を数百頭以上もの馬が約15~30キロの長距離を一気に駆け抜けるというものです。馬齢ごとに距離が分けられ、また5~13歳の子どもたちが騎手を務めます。
モンゴルの伝統的な乗馬技術は、鞍に頼らないバランス感覚を特徴とします。人が馬に乗るのではなく、一緒に走る。その人馬一体というべき思想を体現するのが子どもたちです。ただ体重が軽いというだけではなく、馬との信頼関係が重要な要素になります。
作家の椎名誠氏が監督した映画『白い馬』(1995年公開)はタイトルで分かるように、前述した『スーホの白い馬』をモチーフにした作品ですが、モンゴルの大草原と遊牧民の暮らしを描いた貴重な映像資料でもあります。ナーダム祭の少年競馬がストーリー上のクライマックスです。馬頭琴の演奏シーンも登場します。
モンゴル馬の歴史と現在
紀元前に司馬遷が書いた『史記』匈奴列伝には、「馬、牛、羊を飼い、定住せずに穹廬(きゅうろ)(ゲル)に住み、水と草を求めて移動する」という意味の記述があります。それはそのまま現在のモンゴルの遊牧民たちの描写にも使えます。彼らは馬での移動を前提としたライフスタイルを数千年前から変わらず守ってきたのです。
13世紀になるとチンギス・ハーンが遊牧民の諸民族を統一してモンゴル帝国を築き上げました。ハーン死後も帝国は膨張を続け、さらに中国、ロシア、イラン、東ヨーロッパまで次々と征服していき、最盛時の版図は当時の世界地図の5分の3以上に及んだと言われています。
モンゴル帝国の強さの核心はその騎馬軍団にありました。ところが、世界史上最強の軍隊は拍子抜けするほど小さな馬に乗っていました。モンゴル馬の体高は120~140cmでしかありません。西洋のサラブレッドと比較すると3分の2程度の大きさです。
忍耐力と従順な性格もモンゴル馬の大きな特徴です。これでどうやって戦争をしたのだろうと思うくらいです。
私が参加したツアーでも、乗馬前や休憩中など、馬を待たせておく時間が頻繁に発生しました。そんなとき、遊牧民は馬を紐のようなロープで繋ぎます。たったそれだけで馬たちは足掻くことなく、餌も水も貰わずにじっと待っています。
遊牧民は、馬に名前をつけないこともあるそうです。それは、執着しすぎないためかもしれません。
しかし、長い時間を共に過ごすことで育まれる信頼は深く、言葉よりも「気配」で通じ合う関係が築かれます。
故・司馬遼太郎氏の著書『草原の記』にこんなエピソードが紹介されています。ベトナム戦争時に当時のモンゴル人民共和国から送られた馬が、ハノイから中越国境を越え、さらに中国領土を縦断して、モンゴルの高原に帰ってきたというのです。真偽は分かりませんが、神秘的なまでに賢いモンゴル馬を見ていると、ひょっとしてそんなこともあったかもしれないと感じました。
厳しい自然を生き抜く人と馬
モンゴル高原は1年のうち夏がもっとも快適な気候です。私が訪れたのもその時期でした。雨が少なく、空気は乾燥しています。日差しは強く、外気温は摂氏30度を超えることもありますが、日本のような蒸し暑さとは無縁です。ただし、冬は非常に寒く、氷点下40度にも達することもあると聞きました。
その厳しい自然の中で、馬は極めて自然に近い環境で飼育されています。飼育という表現が正しくないのかもしれません。放牧されていても、人からエサを貰うわけではないからです。主食は草です。半野生と言ってもよいかもしれません。
モンゴル高原には丈の低い草が生えた大地が見渡す限りに広がっています。モンゴル馬たちはその無尽蔵とも言える草を食べるだけで、長時間の移動にも耐える動物です。冬になって草原が雪で覆われても、自ら雪を掘り、草を探して生き抜くのだそうです。
馬は人に頼らず、自由に歩き、食べ、選びます。けっしてペットではなく、家族や友人に近い存在なのでしょう。遊牧民はそんな馬に敬意をもって接します。管理しないことが最大のケアなのかもしれません。
こうしたモンゴル人と馬の関係は、世代を超えて受け継がれてきた知恵の結晶です。一方で、モンゴルにも近代化や都市化の波は押し寄せています。すでに人口の約半数が首都ウランバートルに住み、草原で伝統的な遊牧生活をしている人の割合は約25~30%だと推定されています。遊牧民族の伝統をどう守っていくのかは大きな課題でしょう。
できれば、地球のどこかにこんな土地がいつまでも残っていてほしい。そんな風に思うのは現代人のエゴでしょうか。
「芸能の庭」シルクロード舞踏館について
1981年、中華街の片隅に、赤い木で縁取られ通りから中が覗けるガラス張りの舞踏館が誕生しました。
チャイハネがこころをときめかせる刺激の場所ならば、舞踏館はからだを動かし自分と向き合う意識の場所。
対であり影響しあう存在です。
街並みも暮らしぶりも行き交う人も変容していくなか、1993年に余儀なく閉館となりましたが、2001年月に旧舞踏館のあった隣で再び産声を上げました。
地下階に作られた今度の舞踏館は、ネイティブ・アメリカンの神聖な場所キヴァを模しています。
ネイティブ・アメリカンたちは屋根から出入りする半地下のキヴァの中で、そこにこもって、そして大地の懐に抱かれ、祭の歌詞を作り、歌を歌い、踊りを習い、お話を聞き、布を織り、瞑想をし、体を清めたりします。
▼シルクロード舞踏館
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馬頭琴が教えてくれる「共に生きる」伝統
午年を迎えて、あらためて思い出したいのは、人と馬が「共に生きる」という感覚です。人が馬を支配するのではなく、互いに寄り添い、耳を澄ませること。
馬頭琴の音色には、草原を駆ける馬の息づかいと、それを見守ってきた人の祈りが、今も静かに響いています。
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