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国が生まれ、神々が生まれる。この国のはじまりを伝える日本神話。この物語が今に受け継がれるように、古の時代から連綿と伝えられることがたくさんあるのだと、気づかせてくれる物語でもあります。
衣食住にかかわり、とくに稲をはじめとする穀物、豊穣を司るとされる豊受大御神。伊勢神宮外宮に鎮まり、天照大御神をはじめとする神々のお食事を担当されます。
神様ももちろん召し上がる、毎日のご飯。そのお支度となると、とても大変!かの天照大御神からそんな大役を任せられた豊受大御神とは、いったいどんな神様なのでしょうか?
天照大御神(アマテラスオオミカミ)をお祀りすることで知られる伊勢神宮。正式には「神宮」といいます。
この神宮には、内宮と外宮、また別宮に摂社・末社などがあり、すべてを合わせるとなんとその数125。このすべてをあわせて神宮と呼びます。
その神宮の中心、正式には「皇大神宮」である内宮に鎮まるのが天照大御神。そして、外宮である「豊受大神宮」に鎮まるのが、今回紹介する豊受大御神です。
天照大御神が「我が御饌都神」としたと伝わる豊受大御神。
この御饌津(都)神というのは、食物、とくに稲をはじめとする穀物を司る神様の総称です。「饌(け)」は、お供えものやごちそうなどの意味をもつ字。
日本神話には、この御饌津神であるとされる神様が何柱か登場しています。
たとえば、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)。高天原(たかまがはら=神々の住む天上界)を追放され、お腹をすかせた須佐之男命(スサノオノミコト)をもてなします。口や鼻から食材を取り出したことで、穢らわしいことだと、スサノオに斬り殺されてしまうのですが、その亡骸からは稲や麦、蚕などが次々と生まれたと伝わります。
また『日本書紀』で同じように月読命に斬られた保食神(ウケモチノカミ)も、斬られたその体から次々と五穀が成りました。
また、次に紹介する宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)や倉稲魂神(ウカノミタマノミコト)も御饌津神であるとされています。
御饌津神とは、私たちの命の源でもある五穀や食物を司る、とても大切な神様だとされているのです。
豊受大御神と同一神であるとされるのが、宇迦之御魂神。全国の稲荷神社の御祭神でもある神様です。
宇迦之御魂神の名には「稲に宿る神秘的な精霊」という意味があります。
稲荷は「イネナリ、稲生り」という意味があるとされ、穀物や農耕の神として、全国に3万社あるとも4万社ともいわれる神社です。
豊受大御神の「ウケ」は穀物、食物という意味がありますが、宇迦之御魂神「うか」はこのウケの古い形。御饌津神として、この二柱は同一視されるようになったと考えられます。
豊受大御神とされる神様が登場する、日本神話のいくつかの物語を紐解いてみましょう。
イザナギとイザナミによる神生みの場面に登場するのが、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)。
国生みを終え、神生みに取り掛かったイザナミとイザナギは、住まいに纏わる神々、自然に纏わる神々を次々生んでいきます。そして火の神火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を産んだ際、イザナミはホト(陰部)に大火傷を負ってしまいます。
瀕死の重傷を負い、臥せってしまったイザナミ。その床で嘔吐すると鉱山の神々が、また垂れ流した糞尿からは土の神、そして生成の神が生まれました。
この生成の神、生み出す力を持つとされる和久産巣日神(ワクムスヒノカミ)の子が、食物の神、豊宇気毘売神であったと記されています。
そして、イザナミはこの火傷が原因で、神避(神避る=神様が亡くなる)ってしまうのです。
天照大御神の孫である邇邇芸(ニニギ)が、高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに=日本の古称)を治めるために天降ったという、日本神話の中でも有名な天孫降臨の場面。
ニニギが天照大御神から三種の神器(八尺の勾玉、鏡、草薙の剣)を授かり、神々を伴って天降る様子が描かれる中に、登由宇気神の名が並びます。
「登由宇気神、此は、外宮の渡相に坐す神ぞ」
(登由宇気神、この神様は外宮のある渡相(わたらい=三重県伊勢市周辺)に鎮座する神様である)
つまり、この登 由宇気神(トユウケノカミ)とは、外宮に鎮まる豊受大御神を指していると考えられます。
現在の京都府北部。この地域に伝わる伝承や言い伝えをまとめた『丹波国風土記』にも、豊受大御神について記されています。
-丹波国風土記より-
あるとき、丹後国比治山(現在の京丹後市峰山町の磯砂山)の山頂にある、眞名井(現在の女池という説)に、8人の天女が舞い降りて水浴びをしていました。
すると、この山の麓に住む和奈佐という老夫婦が、一人の天女の羽衣を隠してしまいます。
羽衣がなければ帰ることができない天女。請うても夫婦は衣を返してくれず、ついには天女を連れ帰って養女とします。
天女は、それから夫婦のもとで暮らし、万病に効くという天酒を醸します。数十年の月日が経ち、その夫婦の家はしだいに豊かになり、地域も栄えました。
すると、老夫婦は「お前はもともと私たちの子ではない」と、天女を家から追い出したのです。
老夫婦のあまりにひどい仕打ちに、天女は自分の心を荒塩のようだと表し、木によりかかって泣いたといいます。それぞれの地はのちに荒塩、哭木(なきぎ)と呼ばれるようになりました。
それから天女は彷徨い、やがて竹野郡の舟木の里に辿り着くと「私の心は凪(こころな)ぐしくなった」と、そこに安住したと伝わります。
この村は奈具村(なぐむら)と呼ばれたとされ、奈具神社にはこの天女、豊宇賀能売命(トヨウカノメノミコト)が祀られているということです。
伊勢神宮の外宮、豊受大神宮に祀られる豊受大御神。なぜ、天照大御神のすぐそば、この地に鎮まることになったのでしょう。
今から約2000年前、11代垂仁天皇の時代に 天照大御神は五十鈴川の川上に鎮まったとされています。
それから500年ほど経った、21代雄略天皇の時代。雄略天皇の夢枕に立った天照大御神の言葉として、外宮の由来を記した『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』に残ります。
「吾一所のみ坐せば甚苦し。しかのみならず大御饌もやすく聞食さず坐すが故に、丹波国の此治の真奈井に坐す我が御饌津神、等由気大神を我許と」
(ひと所にいるのはとてもつらい。食事も安心して摂ることができないので、丹波の真奈井にいる私の食事を司る神である等由気大神(豊受大御神の別名)に、私のもとに来てもらいたいのだ)
夢から覚めた天皇が、そのお告げのとおりに丹波国から等由気大神を迎え、現在の外宮に社殿を建てて祀り、祭祀を始めます。
これが今から約1500年前のこと。外宮の始まりだと伝わります。
こうして天照大御神のご神託により、丹波国から伊勢の地に鎮まることとなった豊受大御神。
豊受大神宮ではそれ以来、1500年という気の遠くなるような年月、一日も欠かすことなく朝夕二度「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」が執り行われています。
日別朝夕大御饌祭は、前日から籠り心身を浄めた神職たちによって執り行われます。
早朝、神様のお食事神饌(しんせん)の準備は、忌火屋殿(いみびやでん)という建物で、火鑽具(ひきりぐ)を使って木と木の摩擦で火を起こすところから始まるのだそう。
そこから、火をかまどに移し、甑(こしき)でご飯を蒸していきます。
準備ができた神饌は、辛櫃(からひつ)と呼ばれる大きな箱に納められ、忌火屋殿の祓戸で御塩のお祓いを受けたあと、御饌殿(みけでん)へと運ばれます。
御饌殿とは、いわば神様たちの食堂。正宮の板垣内の東北隅に建つ外宮独特の建物で、一般の参拝者が見ることができるのは屋根の一部分のみです。
この御饌殿内の天照大御神や内宮外宮、別宮の神座にそれぞれ神饌がお供えされます。
そして御饌殿の前で神職が祝詞を奏上。皇室の安泰と国民の幸福を祈り、八度拝という神宮独特の丁寧な拝礼をし、神饌をお下げします。これが、日別朝夕大御饌祭のだいたいの流れ。
午前8時(冬季は9時)の朝御饌、午後4時(冬季は3時)の夕御饌の一日二度、それぞれ、40分ほどかけて執り行われます。
神饌は、御飯三盛、鰹節、魚、海藻、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献が基本。そこにお箸も添えられます。
四季折々でお供えするものは変わり、特別なお祭りではお食事の内容も変わります。神宮最大のお祭りである神嘗祭には、30品目にもなるのだそうです。
この神饌は、用いる材料を生産しこしらえる、自給自足が基本とされます。
お米はもちろん、野菜や果物もそれぞれ神宮神田(じんぐうしんでん)、神宮御園(じんぐうみその)で生産されています。そこで育てられている野菜や果物の種類は50種にのぼるとも。
神饌だけでなく、お浄めに用いる御塩も、手間も時間もかかる昔ながらの入浜式塩田法で作られています。
神饌を盛り付けるための食器、素焼きの土器も手作り。一度使ったら再利用はせず、細かく砕いて土に返すのだそうです。
そして、お供えする御水は、毎朝一桶分、外宮神域内にある上御井神社から汲み上げられています。
私たちの命の源でもある稲、穀類の豊かな実りを司るともいわれる豊受大御神。稲荷神社など、全国数多くの神社でお祀りされています。
お伊勢参りの玄関口、伊勢神宮外宮。古くは御杣山(みそまやま、神宮式年遷宮に用いる木材を供給する山)でもあった高倉山の麓にある豊受大神宮。
伊勢市駅ほど近く、伊勢市の中心であるにもかかわらず、一歩その神域に入ると深い静けさに包まれます。
域内には正宮と、多賀宮、土宮、風宮の三つの別宮が鎮座。
内宮の祭事に先立ち、神様の食事を奉ることから「外宮先祭」といわれ、お祭りもまずこの外宮から執り行われます。それに倣って、参拝もまず外宮にお参りしてから内宮というのが習わしです。
また内宮は右側通行であるのに対し、外宮では左側通行となっているのでご注意を。
【豊受大神宮】
所在地:三重県伊勢市豊川町279
明治13年、伊勢にある神宮の遥拝殿として日比谷の地に創設された「東京のお伊勢さま」、東京大神宮。
関東大震災ののち昭和3年に現在の場所に移りました。「飯田橋大神宮」の名で呼ばれていましたが、戦後になり「東京大神宮」と改められます。
御祭神は、天照大御神と豊受大御神。さらに造化の三神と呼ばれ、日本神話の天地創造に登場する三柱、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)、天照大御神の御杖代といわれる倭比売命(ヤマトヒメノミコト)が祀られています。
造化の三神は生成化育(自然が万物を生み育てていくこと)の神とされ、あらゆる結びを司るともいわれることから、縁結びの神様としても篤い信仰を集めています。
【東京大神宮】
所在地:東京都千代田区富士見2-4-1
「元」伊勢外宮という名前を持つこちらの神社。近くには元伊勢内宮皇大神社、また天岩戸神社があり、あわせて元伊勢三社と呼ばれます。
宮中を離れた天照大御神が永遠に鎮まる土地を求め、倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)の次に遷られたのが、この丹波の地。それと合わせて豊受大御神も祀られたことが、この神社の創始とされます。
天照大御神はこの地に4年間鎮まり、その後今の伊勢の地に鎮まったのです。そしてその天照大神に呼ばれ、豊受大御神もこの地から伊勢の地に遷ったとも伝わります。
【元伊勢外宮豊受大神社】
京都府福知山市大江町天田内60
岩座では、日本の神さまをイメージしたアイテムを取り扱っています。
日本の神さまをデザインしたこの「神恩感謝 お守り袋」は天然石や勾玉を入れてお守りにできるのですが、一筆箋が付属しています。
「神恩感謝」とは日々の生活の平穏や恵みを当たり前と思わず感謝すること。
毎日の食事がありふれたものになった現代。当たり前にいただけることへの感謝の気持ちを忘れないよう「神恩感謝」のきもちをしたためて懐におき、お守りにしてみませんか。
神々に神饌をお供えする伊勢神宮外宮の毎日のお祭りは、1500年のあいだ、戦時中も伊勢湾台風の日も、一日も絶えることなく続けられてきたといいます。
その土地で、その季節に採れるものを、大切にいただく。
豊受大神宮で続けられているお祭りは、じつは私たちの日々の営みとおんなじ。どんな大変なことがあっても、辛いことがあっても、続くこと続けていくこと。
今日も口にした「いただきます」という何気ないその言葉には、きっと祈りにも似た感謝の気持ちが溶け込んでいるはず。
これは、なんだか神様をより一層近くに感じる、とてもとても大切な私たちの日々の話でもあるのです。
その年穫れた穀物を天照大御神に供え、恵みに感謝する。奈良時代から続く厳かな祭り「神嘗祭」とは?▼
同一神とされる「ウカノミタマ」を祀る稲荷神社。そこでのみ行われる祭りをしっていますか?▼
国が生まれ、神々が生まれる。
この国のはじまりを伝える日本神話。
この物語が今に受け継がれるように、古の時代から連綿と伝えられることがたくさんあるのだと、気づかせてくれる物語でもあります。
衣食住にかかわり、とくに稲をはじめとする穀物、豊穣を司るとされる豊受大御神。
伊勢神宮外宮に鎮まり、天照大御神をはじめとする神々のお食事を担当されます。
神様ももちろん召し上がる、毎日のご飯。そのお支度となると、とても大変!
かの天照大御神からそんな大役を任せられた豊受大御神とは、いったいどんな神様なのでしょうか?
目次
豊受大御神とはどんな神様?
豊受大御神は伊勢神宮に鎮まる神様
天照大御神(アマテラスオオミカミ)をお祀りすることで知られる伊勢神宮。
正式には「神宮」といいます。
この神宮には、内宮と外宮、また別宮に摂社・末社などがあり、すべてを合わせるとなんとその数125。
このすべてをあわせて神宮と呼びます。
その神宮の中心、正式には「皇大神宮」である内宮に鎮まるのが天照大御神。そして、外宮である「豊受大神宮」に鎮まるのが、今回紹介する豊受大御神です。
御饌津神(ミケツカミ)ってどういう意味?
天照大御神が「我が御饌都神」としたと伝わる豊受大御神。
この御饌津(都)神というのは、食物、とくに稲をはじめとする穀物を司る神様の総称です。
「饌(け)」は、お供えものやごちそうなどの意味をもつ字。
日本神話には、この御饌津神であるとされる神様が何柱か登場しています。
たとえば、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)。
高天原(たかまがはら=神々の住む天上界)を追放され、お腹をすかせた須佐之男命(スサノオノミコト)をもてなします。
口や鼻から食材を取り出したことで、穢らわしいことだと、スサノオに斬り殺されてしまうのですが、その亡骸からは稲や麦、蚕などが次々と生まれたと伝わります。
また『日本書紀』で同じように月読命に斬られた保食神(ウケモチノカミ)も、斬られたその体から次々と五穀が成りました。
また、次に紹介する宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)や倉稲魂神(ウカノミタマノミコト)も御饌津神であるとされています。
御饌津神とは、私たちの命の源でもある五穀や食物を司る、とても大切な神様だとされているのです。
お稲荷さんと同一神?
豊受大御神と同一神であるとされるのが、宇迦之御魂神。
全国の稲荷神社の御祭神でもある神様です。
宇迦之御魂神の名には「稲に宿る神秘的な精霊」という意味があります。
稲荷は「イネナリ、稲生り」という意味があるとされ、穀物や農耕の神として、全国に3万社あるとも4万社ともいわれる神社です。
豊受大御神の「ウケ」は穀物、食物という意味がありますが、宇迦之御魂神「うか」はこのウケの古い形。
御饌津神として、この二柱は同一視されるようになったと考えられます。
豊受大御神にまつわる日本神話
豊受大御神とされる神様が登場する、日本神話のいくつかの物語を紐解いてみましょう。
神生みに登場する豊宇気毘売神
イザナギとイザナミによる神生みの場面に登場するのが、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)。
国生みを終え、神生みに取り掛かったイザナミとイザナギは、住まいに纏わる神々、自然に纏わる神々を次々生んでいきます。
そして火の神火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を産んだ際、イザナミはホト(陰部)に大火傷を負ってしまいます。
瀕死の重傷を負い、臥せってしまったイザナミ。
その床で嘔吐すると鉱山の神々が、また垂れ流した糞尿からは土の神、そして生成の神が生まれました。
この生成の神、生み出す力を持つとされる和久産巣日神(ワクムスヒノカミ)の子が、食物の神、豊宇気毘売神であったと記されています。
そして、イザナミはこの火傷が原因で、神避(神避る=神様が亡くなる)ってしまうのです。
天孫降臨の段に記される登由宇気神
天照大御神の孫である邇邇芸(ニニギ)が、高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに=日本の古称)を治めるために天降ったという、日本神話の中でも有名な天孫降臨の場面。
天孫降臨の地といわれる「宮崎県高千穂 高千穂峰」頂上には天逆鉾が刺さる。
ニニギが天照大御神から三種の神器(八尺の勾玉、鏡、草薙の剣)を授かり、神々を伴って天降る様子が描かれる中に、登由宇気神の名が並びます。
「登由宇気神、此は、外宮の渡相に坐す神ぞ」
(登由宇気神、この神様は外宮のある渡相(わたらい=三重県伊勢市周辺)に鎮座する神様である)
つまり、この登 由宇気神(トユウケノカミ)とは、外宮に鎮まる豊受大御神を指していると考えられます。
羽衣を奪われ天に戻れなくなった天女
現在の京都府北部。
この地域に伝わる伝承や言い伝えをまとめた『丹波国風土記』にも、豊受大御神について記されています。
-丹波国風土記より-
あるとき、丹後国比治山(現在の京丹後市峰山町の磯砂山)の山頂にある、眞名井(現在の女池という説)に、8人の天女が舞い降りて水浴びをしていました。
すると、この山の麓に住む和奈佐という老夫婦が、一人の天女の羽衣を隠してしまいます。
羽衣がなければ帰ることができない天女。
請うても夫婦は衣を返してくれず、ついには天女を連れ帰って養女とします。
天女は、それから夫婦のもとで暮らし、万病に効くという天酒を醸します。
数十年の月日が経ち、その夫婦の家はしだいに豊かになり、地域も栄えました。
すると、老夫婦は「お前はもともと私たちの子ではない」と、天女を家から追い出したのです。
老夫婦のあまりにひどい仕打ちに、天女は自分の心を荒塩のようだと表し、木によりかかって泣いたといいます。
それぞれの地はのちに荒塩、哭木(なきぎ)と呼ばれるようになりました。
それから天女は彷徨い、やがて竹野郡の舟木の里に辿り着くと「私の心は凪(こころな)ぐしくなった」と、そこに安住したと伝わります。
この村は奈具村(なぐむら)と呼ばれたとされ、奈具神社にはこの天女、豊宇賀能売命(トヨウカノメノミコト)が祀られているということです。
伊勢神宮外宮に鎮まる豊受大御神
伊勢神宮の外宮、豊受大神宮に祀られる豊受大御神。
なぜ、天照大御神のすぐそば、この地に鎮まることになったのでしょう。
伊勢神宮外宮の由緒とは?
今から約2000年前、11代垂仁天皇の時代に 天照大御神は五十鈴川の川上に鎮まったとされています。
それから500年ほど経った、21代雄略天皇の時代。
雄略天皇の夢枕に立った天照大御神の言葉として、外宮の由来を記した『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』に残ります。
「吾一所のみ坐せば甚苦し。しかのみならず大御饌もやすく聞食さず坐すが故に、丹波国の此治の真奈井に坐す我が御饌津神、等由気大神を我許と」
(ひと所にいるのはとてもつらい。食事も安心して摂ることができないので、丹波の真奈井にいる私の食事を司る神である等由気大神(豊受大御神の別名)に、私のもとに来てもらいたいのだ)
夢から覚めた天皇が、そのお告げのとおりに丹波国から等由気大神を迎え、現在の外宮に社殿を建てて祀り、祭祀を始めます。
これが今から約1500年前のこと。
外宮の始まりだと伝わります。
外宮で1500年以上毎日続く祭りとは?
こうして天照大御神のご神託により、丹波国から伊勢の地に鎮まることとなった豊受大御神。
豊受大神宮ではそれ以来、1500年という気の遠くなるような年月、一日も欠かすことなく朝夕二度「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」が執り行われています。
日別朝夕大御饌祭はどう執り行われる?
日別朝夕大御饌祭は、前日から籠り心身を浄めた神職たちによって執り行われます。
早朝、神様のお食事神饌(しんせん)の準備は、忌火屋殿(いみびやでん)という建物で、火鑽具(ひきりぐ)を使って木と木の摩擦で火を起こすところから始まるのだそう。
そこから、火をかまどに移し、甑(こしき)でご飯を蒸していきます。
準備ができた神饌は、辛櫃(からひつ)と呼ばれる大きな箱に納められ、忌火屋殿の祓戸で御塩のお祓いを受けたあと、御饌殿(みけでん)へと運ばれます。
御饌殿とは、いわば神様たちの食堂。
正宮の板垣内の東北隅に建つ外宮独特の建物で、一般の参拝者が見ることができるのは屋根の一部分のみです。
この御饌殿内の天照大御神や内宮外宮、別宮の神座にそれぞれ神饌がお供えされます。
そして御饌殿の前で神職が祝詞を奏上。
皇室の安泰と国民の幸福を祈り、八度拝という神宮独特の丁寧な拝礼をし、神饌をお下げします。
これが、日別朝夕大御饌祭のだいたいの流れ。
午前8時(冬季は9時)の朝御饌、午後4時(冬季は3時)の夕御饌の一日二度、それぞれ、40分ほどかけて執り行われます。
神々が召し上がるお食事とは?
神饌は、御飯三盛、鰹節、魚、海藻、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献が基本。
そこにお箸も添えられます。
四季折々でお供えするものは変わり、特別なお祭りではお食事の内容も変わります。
神宮最大のお祭りである神嘗祭には、30品目にもなるのだそうです。
この神饌は、用いる材料を生産しこしらえる、自給自足が基本とされます。
お米はもちろん、野菜や果物もそれぞれ神宮神田(じんぐうしんでん)、神宮御園(じんぐうみその)で生産されています。
そこで育てられている野菜や果物の種類は50種にのぼるとも。
神饌だけでなく、お浄めに用いる御塩も、手間も時間もかかる昔ながらの入浜式塩田法で作られています。
神饌を盛り付けるための食器、素焼きの土器も手作り。
一度使ったら再利用はせず、細かく砕いて土に返すのだそうです。
そして、お供えする御水は、毎朝一桶分、外宮神域内にある上御井神社から汲み上げられています。
豊受大御神をお祀りしている神社
私たちの命の源でもある稲、穀類の豊かな実りを司るともいわれる豊受大御神。
稲荷神社など、全国数多くの神社でお祀りされています。
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)/三重県
お伊勢参りの玄関口、伊勢神宮外宮。
古くは御杣山(みそまやま、神宮式年遷宮に用いる木材を供給する山)でもあった高倉山の麓にある豊受大神宮。
伊勢市駅ほど近く、伊勢市の中心であるにもかかわらず、一歩その神域に入ると深い静けさに包まれます。
域内には正宮と、多賀宮、土宮、風宮の三つの別宮が鎮座。
内宮の祭事に先立ち、神様の食事を奉ることから「外宮先祭」といわれ、お祭りもまずこの外宮から執り行われます。
それに倣って、参拝もまず外宮にお参りしてから内宮というのが習わしです。
また内宮は右側通行であるのに対し、外宮では左側通行となっているのでご注意を。
【豊受大神宮】
所在地:三重県伊勢市豊川町279
東京大神宮/東京都
明治13年、伊勢にある神宮の遥拝殿として日比谷の地に創設された「東京のお伊勢さま」、東京大神宮。
関東大震災ののち昭和3年に現在の場所に移りました。
「飯田橋大神宮」の名で呼ばれていましたが、戦後になり「東京大神宮」と改められます。
御祭神は、天照大御神と豊受大御神。
さらに造化の三神と呼ばれ、日本神話の天地創造に登場する三柱、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)、天照大御神の御杖代といわれる倭比売命(ヤマトヒメノミコト)が祀られています。
造化の三神は生成化育(自然が万物を生み育てていくこと)の神とされ、あらゆる結びを司るともいわれることから、縁結びの神様としても篤い信仰を集めています。
【東京大神宮】
所在地:東京都千代田区富士見2-4-1
元伊勢外宮豊受大神社/京都府
「元」伊勢外宮という名前を持つこちらの神社。
近くには元伊勢内宮皇大神社、また天岩戸神社があり、あわせて元伊勢三社と呼ばれます。
宮中を離れた天照大御神が永遠に鎮まる土地を求め、倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)の次に遷られたのが、この丹波の地。
それと合わせて豊受大御神も祀られたことが、この神社の創始とされます。
天照大御神はこの地に4年間鎮まり、その後今の伊勢の地に鎮まったのです。
そしてその天照大神に呼ばれ、豊受大御神もこの地から伊勢の地に遷ったとも伝わります。
【元伊勢外宮豊受大神社】
京都府福知山市大江町天田内60
豊受大御神をイメージしたアイテム
岩座では、日本の神さまをイメージしたアイテムを取り扱っています。
日本の神さまをデザインしたこの「神恩感謝 お守り袋」は天然石や勾玉を入れてお守りにできるのですが、一筆箋が付属しています。
「神恩感謝」とは日々の生活の平穏や恵みを当たり前と思わず感謝すること。
毎日の食事がありふれたものになった現代。当たり前にいただけることへの感謝の気持ちを忘れないよう「神恩感謝」のきもちをしたためて懐におき、お守りにしてみませんか。
1500年受け継がれているお祭り
神々に神饌をお供えする伊勢神宮外宮の毎日のお祭りは、1500年のあいだ、戦時中も伊勢湾台風の日も、一日も絶えることなく続けられてきたといいます。
その土地で、その季節に採れるものを、大切にいただく。
豊受大神宮で続けられているお祭りは、じつは私たちの日々の営みとおんなじ。
どんな大変なことがあっても、辛いことがあっても、続くこと続けていくこと。
今日も口にした「いただきます」という何気ないその言葉には、きっと祈りにも似た感謝の気持ちが溶け込んでいるはず。
これは、なんだか神様をより一層近くに感じる、とてもとても大切な私たちの日々の話でもあるのです。
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