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忍者は決まった主君を持たず、依頼されたら仕事を行うという独立した特殊技能集団でした。 敵の情報を集めるために生み出された色々な忍術を使って、密かに活動するイメージの強い忍者ですが、実際にはどのような活動をしていたのでしょうか?
そこで今回は、忍者の歴史や本当の役割、戦国時代実際に活躍した忍者の服部半蔵や忍者の体験ができる人気スポットなどについて詳しく解説していきます。
忍者は、日本だけでなく海外でも人気のコンテンツです。 忍者について詳しく語る前になぜ人気になったのかその火付け役を紹介します。 近年では、忍者漫画の「NARUTO-ナルト-」が海外での忍者ブームの立役者となっています。でも、なぜ海外で忍者が人気なのでしょうか?
海外の忍者ブームは近年始まったものではありません。 忍者ブームの先駆けは、1981年にアメリカで公開された「燃えよNINJA」という映画作品です。この映画の中で、アクション俳優のショー・コスギ氏が演じた忍者が大人気となりました。人気の理由は、陰に潜んで活動する神秘性や、確実に任務を遂行する日本人らしい堅実さだったといわれています。
「燃えよNINJA」のヒットから、忍者の登場する映画は世界各国で作られるようになり、「タートルズ」という子供向けのアニメなどでもヒーローとして登場し、海外での忍者ブームは加速していきました。 ブームの始めの頃の忍者は、クールで真面目なあまり派手さのないキャラクターとして人気が高かったのですが、「NARUTO-ナルト-」のアニメが海外で放送され、分身の術などの魔法のような派手でカッコいい忍術が数多く使われたことと、主人公のナルトをはじめとした魅力的なキャラクターたちが、どんな逆境にも耐えて乗り越えていく熱い姿が、「NINJA」人気に拍車をかけたといわれています。
忍者といえば、顔を隠した黒装束に身を包んで、手裏剣や短剣などの武器や忍術を駆使して戦い、武将などの主君を陰ながら守るボディーガードのようなイメージがありますよね。 しかし、忍者の本来の役割は少し違っていて、彼らが派手に戦うことはほとんどなかったそうです。 では、忍者の本来の役割とはどのようなものだったのでしょうか?
忍者の役割は、主に諜報活動・破壊工作・暗殺などであったとされています。 諜報活動とはいわゆるスパイ活動のことで、僧侶や農民、薬売り、曲芸師などに変装して敵の陣地に忍び込んだり、屋敷に忍び込んで盗聴したりして情報を収集し、生きて情報を持ち帰るというのが忍者の最も重要な役割でした。 敵陣に侵入した際には、噓の情報を流したり火を付けたりして敵の内部を混乱させたりもしていました。
また、戦国時代の忍者は、戦の際に敵陣に忍び込んで建物に火を放ったり、少数部隊で夜間に敵の兵士たちに奇襲をかけたりといった破壊工作をしたり、敵の要人を暗殺したりといった役割も担っていたとされています。
忍者は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍したといわれていますが、忍者がいつ誕生したのかについては諸説あります。 一説には、忍者の起源は聖徳太子に仕えていた「大伴細人(おおとものさびと)」という人物が忍者の祖といわれています。
大伴細人は、飛鳥時代に甲賀地方の馬杉という土地に住む官位の低い役人でした。 聖徳太子は、敵対していた物部氏の調査を細人に依頼し、細人が集めた情報によって物部氏を倒すことができたといわれています。聖徳太子は細人に「志能便(しのび)」という称号を与え、この称号が後に「忍び」になったとされています。 また、細人はある日不思議な老人から忍術を学び、巻物を授かったといわれ、甲賀忍者の祖としても名前が残っています。
忍者の前身とされる存在が史実上はっきりと登場するのは室町時代に書かれた「太平記」という南北朝時代の内乱について記された軍記で、「忍び」と表記されていました。
「忍び」の前身は「悪党」と呼ばれていた幕府に仕えない武士の集団だといわれています。 悪党は、鎌倉時代末期に貴族や寺社などの荘園支配に反抗し、農民や地侍たちを率いて年貢を奪ったり放火をしたりして荘園内を荒らす厄介ものでした。 南北朝時代に入ると、悪党は足利軍に雇われ、夜襲や諜報活動などを行うようになります。 「太平記」の中に、「普通には入り込めない場所に夜の雨風の音に紛れて忍び込み、石清水八幡宮に火をつけて敵を混乱させた」「夜襲の手引きをするために集められていた忍びの隠れ家が襲われ、彼らは自害した」というような「忍び」に関する記述があり、「忍び」が戦いにおいて重要な役割を担っていたことが分かっています。
「忍者」という呼び方は、じつは戦後に付けられたもので、それ以前は時代や地域によっていろいろな呼び方をされていましたので下記で紹介していきます。
様々な呼び方をされていた忍びの集団ですが、「忍者」という呼び方が定着したには昭和30年以降です。 「忍者」という呼び方は、昭和30年ごろ活躍した小説家の山田風太郎氏が作った造語で、彼の作品「甲賀忍法帖」や「くノ一忍法帖」などの中での呼び方でした。 これらの作品はベストセラーとなり、「忍者」や「くノ一」という呼び方が広まり、定着していきました。 それぞれ呼び方を紹介します。
時代別では次のように呼ばれていました。
地域によっては次のように呼ばれていました。
戦国時代の武将も忍者のことを、それぞれ違う呼び方をしていました。
呼び方の意味にはそれぞれ次のような意味があったとされています。
忍者は日本全国に存在し、各地の武将に仕えていました。 そのため、多くの流派が生まれ、その数は四十九派もあったといわれています。 皆さんもよくご存じの三重県の伊賀流や滋賀県の甲賀流をはじめ、神奈川県の風魔流、栃木県の松本流、滋賀県の戸隠流、京都府の波多野流、奈良県の楠流、岡山県の備前流、山梨県の武田流、青森県の中川流、新潟県の上杉流、福岡県の黒田流などの流派があり、中には伊賀流や甲賀流の流れを汲んでいるものもありました。 ここでは、有名な流派の特徴について紹介していきましょう。
伊賀流は、忍術や戦闘能力に優れており、火術や呪術を得意とした流派です。 特に藻草(もぐさ)や樟脳(しょうのう)などの火薬の原料が手に入りやすい地域であったことから、火薬玉や火矢、狼煙(のろし)などを使った火術を得意とし、漫画や映画などで見る火薬玉を爆発させて煙を出し、視界が悪くなっている間に姿を消すといった術は、伊賀忍者が実際に行っていたといわれています。
また、伊賀忍者の祖先には京都の政争で敗れて逃れてきた人が多くいて、その中に呪術を得意とした物部家(もののべけ)もいました。 そのため、物部家から伝わった呪術も得意としていました。 代表的な呪術には、「臨兵闘者皆陣列在前(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」と唱えながら一文字ごとに両手で印を結び、右人差し指と中指を刀の様にして九字を切る「九字護身法(くじごしんほう)」と呼ばれる保身の呪術や、自己暗示をかけて精神統一を促し、ピンチを乗り切る「印明護身法(いんみょうごしんほう)」と呼ばれる呪術などを使っていたといわれています。
甲賀流は、山に籠り厳しい修行をする「修験道(しゅげんどう)」が起源とされ、薬草に詳しくゲリラ戦を得意とした流派です。 甲賀の山には様々な薬草が自生していたため薬の知識に長けており、毒薬を使った奇術や薬売りに変装して敵地の情報を集めることを得意としていました。
また、室町時代後期に起こった「長享(ちょうきょう)・延徳(えんとく)の乱」の中の「鈎(まがり)の陣」という戦いで、甲賀忍者は「亀六ノ法(かめりくのほう)」という戦法で幕府軍を翻弄しました。 この戦法は、亀が手足や首を出したり引っ込めたりするように、敵が攻めてくると隠れて撤退すると奇襲をかけるというゲリラ戦法です。 甲賀忍者はこの戦法によって有名になったといわれています。
風魔流は、小田原から箱根周辺に拠点を置いた忍者集団で、特殊な騎馬術に優れた流派です。 小田原北条氏だけに仕え、天正9年(1581年)の「黄瀬川の戦い」で夜討ちによって敵を混乱させ、北条氏に貢献したといわれています。
戸隠流は、攻撃ではなく自分の身や家族、主君を守ることに重きをおいた流派です。 自分からは攻撃せず、相手の戦闘能力を奪うような技を得意としていました。 戸隠流のルーツは平安時代末期の武将・木曽義仲(きそよしなか)に仕えた仁科大助(にしなだいすけ)であるといわれています。
大助は、戸隠山で修験道を修行して様々な技を習得していました。 義仲が討たれた後、伊賀に逃れて伊賀流忍術を習得し、再び戸隠に戻って戸隠流を開いたといわれています。
忍者が活躍していた戦国時代、彼らはどのような生活をしていたのでしょうか? 戦国時代とは言え、毎日戦があったわけではありません。忍者たちも戦や依頼が無いときは、農民や町民と同じような暮らしをしていました。
伊賀の菊岡如幻(きくおかじょげん)が書いた「伊乱記」には、忍者の普段の生活について「午前中は家業に精励し、午後は寺に集まって軍術、兵道の稽古をした」とあります。 流派によって多少の違いはありますが、伊賀忍者は午前中に畑仕事や煙玉などの武器づくりをし、午後には忍術の稽古をしていたとされています。 また、里で畑仕事や行商を行いながら、情報収集を行うことも日常的に行っていました。 甲賀忍者も伊賀忍者と同じように、畑仕事や行商を行っていましたが、薬学に長けていたので、薬草を育てたり採集したりしながら薬を作り、それを日本各地で売りながら情報収集をしていました。
当時、どのようにしたら忍者になれたのでしょうか? 忍者になるには厳しい修行を行わなければなりませんでした。 漫画やアニメにあるような学校のようなものはなく、集落の中だけで師匠から直接教えてもらうという方法で、技が受け継がれてきたのです。集落には、昔からいる一族だけでなく、戦で敗れた武士たちが逃れてきた者もいました。 ですから、忍者になるには、忍者の集落に生まれて子どもの頃から厳しい修行を行うか、忍者の集落に落ち延びて修行して忍者の技を習得していたとされています。
私たちが想像する忍者は、風の様に速く走ったり木と木を飛び移ったりといった超人的な運動能力や、手裏剣や鎖鎌などの特殊な武器を使ったり気配を消して諜報活動をする特殊な技能を持った人たちというものですよね。 しかし、実際に当時の忍者に必要だった能力は、超人的な運動能力や特殊や技能だけではありませんでした。
忍者の一番重要な任務は情報収集でした。 そのため、敵地の人たちに馴染むことのできる「コミュニケーション能力」や収集した情報を覚えておく「記憶力」、臨機応変に対処する「適応力」が必要とされていました。 また、忍者はどんなことをしても生き延びて情報を持ち帰らなければならなかったので、逆境にも耐えうる「忍耐力」も必要でした。 その他にも、薬学や医術、呪術、天文学、気象学など高度な学力も必要とされていたのです。
では、当時の忍者の身体能力とはどのくらいのものだったのでしょうか? 忍者は日頃から農業の傍らに訓練を重ねていたため、常人とは比べ物にならない身体能力があったと考えられています。 猿のように木や建物に素早く登ったり屋根の上を走って移動したりと、現代のパルクールをする人のような身軽さがあったとされ、諜報活動をする際には軽業を見せる芸人として潜入することもありました。また、1日に100㎞以上もの道のりを走ることもあったといわれ、強靭な脚力があったと考えられています。
しかし、忍者も普通の人間なので、体を動かすのが不得意な人もいました。 体を使うのが苦手な人でも、変身術や交渉術などそれぞれに得意な分野で活躍していたのです。 忍術書には、「走るのが遅い者に急ぎの用事を申し付けてはならない」「弁術が苦手な者に交渉の役目を申し付けてはならない」など、適材適所を見極めて持ち場を決めることも忍者の中では重要視されていました。
忍者は、農業をすることで日常的に体を鍛えていました。 それに併せて、次のような特殊な修行をしていたといわれています。
忍者は敵から逃げるために早く長く走る必要がありました。 そのため、後ろに長く垂らしたはちまきを頭に巻いて、はちまきが地面に着かないように走る修行や、胸に笠を当てて落ちないように走る修行などを行っていたとされています。
忍者は、高い柵を飛び越えたり屋根から屋根へ飛び移ったりするために高い跳躍力が必要とされていました。 そのため、育つのが早い麻や萱(かや)を植えて、毎日飛び越えるという修行をしていたとされています。
忍者は敵に見つからないように静かに歩く必要がありました。 そのため、猫の歩き方を真似した忍び足の修業をしていたとされています。
忍者は諜報活動を主流としていたため、敵の小さな声も聞き取れるような聴力が必要でした。 そのため、音がしない静かな部屋で砥石の上に針を落した音を聞くという修行や沢山の針を砥石に落として針が何本だったかを当てるという修行をしていたとされています。 この修業は二人一組で行われ、砥石と聞く人の距離を少しずつ離していったそうです。
忍者は、夜に活動することが多かったため、夜目がきく必要がありました。 そのため、明るい場所と暗い場所を何度も往復して暗いところでもすぐに目が慣れるための修行をしていたとされています。
忍者は、手裏剣やクナイなど特殊な武器を使って戦っていました。 そのため、これらの武器を使いこなせるような修行をしていました。
忍術とは、敵の情報を集めて持ち帰るためや敵を攻撃するために忍者が使う特殊な技術のことです。 具体的には、変装術や心理学などの諜報に必要な技術や、敵を攪乱し自分の身や主人の身を護るための剣術や武術などがあります。 忍術には、漫画や映画などで忍者が使っている水遁(すいとん)の術や変化の術などは実際にあったとされているものもありますが、分身の術や変わり身の術などのお馴染みの忍術は残念ながらさすがに無かったようです。
忍者の武器と言えば手裏剣が最も有名ですが、その他にも次のような武器を使っていました。
忍者の武器の中で最もポピュラーな武器です。 投げつけて敵を傷つけるものですが、攻撃するというよりも自分の身を護る際に使われる武器でした。 色々な形のものがあり、折り紙で馴染み深い「十字手裏剣」や棒状の形をした「棒状手裏剣」、突起の数が多い「六方手裏剣」や「八方手裏剣」「十方手裏剣」などがあります。
「苦無」や「苦内」などの漢字が使われており、敵が苦しまずに命を奪うという意味があるそうです。 小さな両刃の刃物で、武器としてだけでなく壁に昇る際や地面に穴を掘る際などにも使われていました。
鎌の持ち手の端に分銅が付いた鎖を結び付けた武器です。 離れた敵に分銅を投げつけたり、鎌の部分で切りつけたりして使われます。
ヒシの実や桑の実などを三角にして乾かしたもので、地面にばらまいて敵の動きを封じたり敵に投げつけて攻撃したりするために使われていました。 漫画などでは鉄製のものがポピュラーですが、実際は鉄製は使われていなかったのだとか。
忍者が使う刀で、長さが短くて反りの無い真っすぐな刀です。 一般的な刀よりも鍔(つば)が大きく四角いのも特徴で、塀を乗り越える際に地面に刺して鍔を足掛かりにするためだといわれています。
鉄製の熊手のようなもので、手に装着して使う武器です。 敵を攻撃したり刀を受けて防御したりするために使われていました。 また、爪を引っかけて木や塀を登ったり塀に穴を開けたりするのにも使われていました。
細長い筒に毒針を仕込み、息を吹き込んで針を飛ばす暗殺用の道具です。
縄の先に鉤(先が4つに分かれて曲がった棒状の金属)がついた器具です。 攻撃ではなく高い場所に引っかけて登るための道具として使われていました。
忍者は色々な忍術を使って任務を遂行していました。 忍術は特殊なものがほとんどで、漫画や映画などにもその名前は多数登場します。 しかし、実際の忍術は漫画とは内容が違い地味なものがほとんどです。 ここでは、代表的な忍術と実際はどのような術だったのかを紹介します。
竹筒の先を水面に出して呼吸をしながら長時間水中に潜って身を隠したり、石などを水に投げ入れて大きな音を出し相手の注意を逸らして混乱させたりする術です。 潜ったまま水中を移動して、敵陣に潜入することもありました。
火薬を爆発させたり火を燃やしたりして相手の気を逸らす術です。 火薬を詰めた竹筒や鳥の子と呼ばれる和紙で火薬を包んだものなどを使ったり、敵陣に火を付けたりしていました。
木や草、稲や麦、木の葉などの植物を使って身を隠す術です。 「木の葉隠れの術」と呼ばれることもあります。 身近な植物を使ったり木に登ったりする比較的簡単な術とされています。
地形を利用して身を隠す術です。 岩や窪地、低い土地、大地の盛り上がった所などに身を隠したり、抜け穴を掘って逃げたりしていました。 夜の暗闇で体を丸めてうつ伏せになり、気配を消す「ウズラ隠れの術」もありました。
農民や商人、虚無僧や巫女などに変装して敵地に潜伏する術です。
水蜘蛛と呼ばれる木製の大きな輪っか状の浮きを付けた履物をはいて、水面を移動する術です。
漫画や映画などで取り上げられることも多い服部半蔵は、戦国時代に活躍した忍者とされています。 日本の歴史上最も有名な忍者とされる服部半蔵とはどのような人物だったのでしょうか。
「服部半蔵」という名前は、実は代々一族に受け継がれる家名でした。 最も知られている服部半蔵は2代目の正成(まさなり)です。 初代・服部半蔵は保長(やすなが)といい、伊賀国花垣村(現・三重県伊賀市)に住む忍者でした。 保長は一族をつれて伊賀国を離れ、室町幕府12代将軍・足利義春に仕えていましたが、室町幕府が衰退の一途を辿っていたので、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)の松平清康に乗り換えます。 しかし、清康が家臣に命を奪われたことで保長は松平家から離れ、岡崎で亡くなります。 保長の五男として生まれた正成は、6歳の時に寺に預けられますが、出家するのが嫌で寺を脱走し、兄弟たちに匿われて育ちました。 16歳の時に初陣に出た正成は、松平家に仕える伊賀衆(伊賀忍者)の一員として夜襲に参加し、敵を討ち取ります。 当時、家督を継いで岡崎の領主となっていた家康は、正成の功績を称えて槍を授け、領主と対面できる身分となったのです。 その後正成は家督を継いで、2代目・服部半蔵となりました。
服部半蔵正成は、家康に家臣として数々の功績を挙げますが、じつは忍者としてではなく武将として仕えていました。 しかし、武田軍との戦である「三方ヶ原の戦い」では、負けはしたものの戦で活躍したことにより、家康から伊賀衆150人を預かることとなりました。 このことから後に、服部半蔵正成は伊賀忍者の頭領として語り継がれるようになってしまったのです。
また、本能寺の変が起こった際に大坂の堺にいた家康が明智軍に隠れながら伊賀や甲賀を通って伊勢から三河まで無事帰還した「伊賀越え」の際、正成は伊賀や甲賀の豪族と交渉し、忍者たちに家康の護衛をさせることに成功しました。 このことも、服部半蔵正成が忍者の頭領と言われるようになった理由の1つとなっています。 この時に護衛していた忍者たちは、後に徳川幕府に伊賀同心・甲賀同心として召し抱えられるようになり、服部半蔵家が同心たちの指揮を取るようになりました。
2代目服部半蔵・正成が亡くなった後、3代目服部半蔵・正就(まさなり)が2代目将軍・徳川秀忠の怒りを買って武士の位を剥奪されてしまいます。 跡を継いだ4代目服部半蔵・正重(まさしげ)は、紆余曲折あり浪人となってしまいますが、正就の次男が仕えていた桑名藩に招かれ、桑名藩の上席家老となりました。 その後服部半蔵家は、幕末まで桑名家松平家に仕えますが、12代正義で途絶えてしまいます。
しかし、服部半蔵の親戚の一族は現代も残っているのです。 服部家の子孫は、現在三重県亀山市で「深川屋(ふかわや)」という和菓子屋を経営しています。深川屋の初代当主は、初代服部半蔵・保長の父方のいとこであったと考えられているそうです。保長の親戚であった服部保重は、三代将軍徳川家光の時代に亀山市にあった東海道沿いの宿場町で「深川屋」という和菓子屋を創業しました。保重が考案した和菓子「関の戸」はとても評判がよく、参勤交代で宿場町に立ち寄る大名たちの間で人気を得ました。
また、評判は京都の朝廷にも伝わり、皇族出身者が代々住職を務めていた仁和寺御用達のお菓子にもなったそうです。和菓子屋となった服部家ですが、忍者としての諜報の仕事もしていたそうです。 現在は14代当主の服部吉右衛門亜樹さんが跡を継いでいて、「忍者の末裔の老舗和菓子屋」として有名なお店となっています。
室町時代から江戸時代にかけて活躍した忍者ですが、徳川幕府が政権を朝廷に返したことにより歴史上から姿を消しました。 しかし、現代の日本にも忍者を名乗る人たちはいます。日本各地にある忍者のテーマパークや忍者ゆかりの観光地などで自ら忍者を名乗り、忍者の歴史や文化、忍術などを教えてくれる人たちです。その中には忍者の末裔だった人たちも含まれていて、日本を代表する文化といえる忍者を世界中に発信し続けてくれているのです。
江戸時代に滅びてしまった忍者ですが、現代の私たちは忍者になれるのでしょうか? 現代の忍者は、テーマパークなどで忍者ショーに出たり忍術の体験道場で忍術を教えたり、忍者ゆかりの土地で観光案内をしたりしています。 忍者ショーに出たり忍術を人に教えたりする場合は、忍者の修業をする必要があり、施設の忍者や忍者道場などで教えてもらい習得するのが一般的なようです。 忍者の修業ができる道場は、伊賀や甲賀など日本各地にあります。
また、忍者ゆかりの土地を案内する場合には、忍者について勉強する必要があります。 甲賀忍者の里があったとされる滋賀県甲賀市では、毎年甲賀流忍者検定を行っています。 検定は、初級・中級・上級に分かれていて、忍者の歴史や忍術、過去本当にいた忍者に関する問題などが出題されます。 初級受験者に限り、コスプレで受験した人に5点加点と手裏剣投げの実技を行うことで5点加点されるという特典があります。
忍者に興味がある方はぜひチャレンジしてみてください。
忍者とは、主君に敵の情報を伝えるためにどんなことをしても生き延びて帰らなければなりませんでした。 そのためには、時に怒りや悲しみ、自分の欲をも耐え忍んで自分の感情を平静に保つようコントロールしなければならなかったのです。 忍者の「忍」には、「敵地に忍び込む」という意味だけでなく「耐え忍ぶ」という意味も含まれていたといわれています。
この精神は、海外からみるといかにも「日本人らしい」と見えるのだそうです。 現代の日本では、頑張っても報われないことが多くなってきており、生きる気力が弱くなっている人が増えてきているような気がします。このような時代だからこそ、目的を果たす為に感情をコントロールし、なんとか持ちこたえて生き抜くために、忍者の精神を活かしてみるのも良いかもしれませんね。
日本には、忍者の歴史に触れられて体験ができる場所が数多くあります。 忍者は海外でも人気が高いので、世界各国から忍者の文化に触れることを目的とした人たちがたくさん訪れているのです。 ここでは、特に人気の高い忍者のテーマパークなどをご紹介します。
伊賀忍者の里があった三重県伊賀市にある忍者の博物館です。 「現在に活用できる忍術を再現する」をコンセプトに、忍者とはどのような人たちだったのかを紹介しています。 忍者屋敷・忍術体験館・忍者伝承館の3つの場所があり、忍者屋敷のからくりや忍術の秘密や忍者の歴史などを学ぶことができます。 忍術実演ショーの観覧や手裏剣打ちの体験などもできます。
甲賀忍者発祥の地とされる滋賀県甲賀市にあるテーマパークです。 敷地内には、世界一の資料数を誇る甲賀忍術博物館をはじめ、たくさんの仕掛けがあるからくり屋敷や手裏剣道場などがあります。
また、水蜘蛛・井戸抜け・一本渡り・坂道上がり・綱渡り・壁づたい・塀横歩き・塀越え・石垣上がりなどの忍者修行を体験することでき、修行を全てクリアすると「免許皆伝」の巻物が貰えます。 有料ですが忍者の衣装を借りることもできるので、服が汚れることを気にせず忍者になり切って思いっきり楽しむことができますよ。
戦国時代に活躍した戸隠流忍者の里があったとされる長野県長野市戸隠にあるアミューズメント施設です。 子どもを中心に楽しめる体験型施設で、アスレチックや手裏剣打ちの体験、忍術ショーなどを通して、楽しみながら忍者の文化を学ぶことができます。 また、手裏剣投げ大会など月替わりのイベントも開催されているので、そちらもぜひチェックしてみてください。
本格的な忍者の修業ができる道場と、忍者が使っていた道具や忍者装束、忍者書籍などを展示した本格的な忍者博物館がある施設です。手裏剣体験や忍術修行、殺陣や弓道などの教室、忍者ショーなどが開催され、忍者グッズも数多く販売されているため、日本人だけでなく海外の観光客にも人気が高く、毎年多くの人たちが訪れています。 また、京都の東山三十六峰・大文字を巡る忍者トレッキングツアーも行われています。
忍者が日本だけでなく海外でも人気が高いのは、自分が生きるために、主君や仲間を活かす為に必死に戦った人たちだからだと思います。
漫画や映画のなかで誇張された忍術がカッコいいというのももちろん人気の理由の1つでしょうが、実際の忍術もフィクションの忍術も、全ては生きるため生かすための技でした。 ボロボロになりながらも生きるために戦い、悲しみにも耐え忍ぶ姿こそが、現代の私たちを虜にする最大の魅力なのではないでしょうか。
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日本人も知らない?!日本各地の不思議な風習
日本て世界一古い国って知ってた?▼
なぜ現存する世界一古い国が日本なのか? 建国約2700年の歴史からその理由を紐解く。
忍者は決まった主君を持たず、依頼されたら仕事を行うという独立した特殊技能集団でした。
敵の情報を集めるために生み出された色々な忍術を使って、密かに活動するイメージの強い忍者ですが、実際にはどのような活動をしていたのでしょうか?
そこで今回は、忍者の歴史や本当の役割、戦国時代実際に活躍した忍者の服部半蔵や忍者の体験ができる人気スポットなどについて詳しく解説していきます。
目次
日本だけでなく忍者が「NINJA」として海外からも人気な理由
忍者は、日本だけでなく海外でも人気のコンテンツです。
忍者について詳しく語る前になぜ人気になったのかその火付け役を紹介します。
近年では、忍者漫画の「NARUTO-ナルト-」が海外での忍者ブームの立役者となっています。でも、なぜ海外で忍者が人気なのでしょうか?
海外の忍者ブームは近年始まったものではありません。
忍者ブームの先駆けは、1981年にアメリカで公開された「燃えよNINJA」という映画作品です。この映画の中で、アクション俳優のショー・コスギ氏が演じた忍者が大人気となりました。人気の理由は、陰に潜んで活動する神秘性や、確実に任務を遂行する日本人らしい堅実さだったといわれています。
「燃えよNINJA」のヒットから、忍者の登場する映画は世界各国で作られるようになり、「タートルズ」という子供向けのアニメなどでもヒーローとして登場し、海外での忍者ブームは加速していきました。
ブームの始めの頃の忍者は、クールで真面目なあまり派手さのないキャラクターとして人気が高かったのですが、「NARUTO-ナルト-」のアニメが海外で放送され、分身の術などの魔法のような派手でカッコいい忍術が数多く使われたことと、主人公のナルトをはじめとした魅力的なキャラクターたちが、どんな逆境にも耐えて乗り越えていく熱い姿が、「NINJA」人気に拍車をかけたといわれています。
忍者とは?忍者の役割からみる存在理由とは?
忍者といえば、顔を隠した黒装束に身を包んで、手裏剣や短剣などの武器や忍術を駆使して戦い、武将などの主君を陰ながら守るボディーガードのようなイメージがありますよね。
しかし、忍者の本来の役割は少し違っていて、彼らが派手に戦うことはほとんどなかったそうです。
では、忍者の本来の役割とはどのようなものだったのでしょうか?
忍者の役割
忍者の役割は、主に諜報活動・破壊工作・暗殺などであったとされています。
諜報活動とはいわゆるスパイ活動のことで、僧侶や農民、薬売り、曲芸師などに変装して敵の陣地に忍び込んだり、屋敷に忍び込んで盗聴したりして情報を収集し、生きて情報を持ち帰るというのが忍者の最も重要な役割でした。
敵陣に侵入した際には、噓の情報を流したり火を付けたりして敵の内部を混乱させたりもしていました。
また、戦国時代の忍者は、戦の際に敵陣に忍び込んで建物に火を放ったり、少数部隊で夜間に敵の兵士たちに奇襲をかけたりといった破壊工作をしたり、敵の要人を暗殺したりといった役割も担っていたとされています。
忍者の発祥から歴史に迫る
忍者は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍したといわれていますが、忍者がいつ誕生したのかについては諸説あります。
一説には、忍者の起源は聖徳太子に仕えていた「大伴細人(おおとものさびと)」という人物が忍者の祖といわれています。
大伴細人は、飛鳥時代に甲賀地方の馬杉という土地に住む官位の低い役人でした。
聖徳太子は、敵対していた物部氏の調査を細人に依頼し、細人が集めた情報によって物部氏を倒すことができたといわれています。聖徳太子は細人に「志能便(しのび)」という称号を与え、この称号が後に「忍び」になったとされています。
また、細人はある日不思議な老人から忍術を学び、巻物を授かったといわれ、甲賀忍者の祖としても名前が残っています。
忍者の前身とされる存在が史実上はっきりと登場するのは室町時代に書かれた「太平記」という南北朝時代の内乱について記された軍記で、「忍び」と表記されていました。
「忍び」の前身は「悪党」と呼ばれていた幕府に仕えない武士の集団だといわれています。
悪党は、鎌倉時代末期に貴族や寺社などの荘園支配に反抗し、農民や地侍たちを率いて年貢を奪ったり放火をしたりして荘園内を荒らす厄介ものでした。
南北朝時代に入ると、悪党は足利軍に雇われ、夜襲や諜報活動などを行うようになります。
「太平記」の中に、「普通には入り込めない場所に夜の雨風の音に紛れて忍び込み、石清水八幡宮に火をつけて敵を混乱させた」「夜襲の手引きをするために集められていた忍びの隠れ家が襲われ、彼らは自害した」というような「忍び」に関する記述があり、「忍び」が戦いにおいて重要な役割を担っていたことが分かっています。
忍者の呼び方の変化
「忍者」という呼び方は、じつは戦後に付けられたもので、それ以前は時代や地域によっていろいろな呼び方をされていましたので下記で紹介していきます。
様々な呼び方をされていた忍びの集団ですが、「忍者」という呼び方が定着したには昭和30年以降です。
「忍者」という呼び方は、昭和30年ごろ活躍した小説家の山田風太郎氏が作った造語で、彼の作品「甲賀忍法帖」や「くノ一忍法帖」などの中での呼び方でした。
これらの作品はベストセラーとなり、「忍者」や「くノ一」という呼び方が広まり、定着していきました。
それぞれ呼び方を紹介します。
• 時代別
時代別では次のように呼ばれていました。
• 地域別
地域によっては次のように呼ばれていました。
• 戦国時代の武将たち
戦国時代の武将も忍者のことを、それぞれ違う呼び方をしていました。
• 忍者の呼び方の意味
呼び方の意味にはそれぞれ次のような意味があったとされています。
忍者の流派がある?その種類とは?
忍者は日本全国に存在し、各地の武将に仕えていました。
そのため、多くの流派が生まれ、その数は四十九派もあったといわれています。
皆さんもよくご存じの三重県の伊賀流や滋賀県の甲賀流をはじめ、神奈川県の風魔流、栃木県の松本流、滋賀県の戸隠流、京都府の波多野流、奈良県の楠流、岡山県の備前流、山梨県の武田流、青森県の中川流、新潟県の上杉流、福岡県の黒田流などの流派があり、中には伊賀流や甲賀流の流れを汲んでいるものもありました。
ここでは、有名な流派の特徴について紹介していきましょう。
火術と呪術が得意な「伊賀忍者」
伊賀流は、忍術や戦闘能力に優れており、火術や呪術を得意とした流派です。
特に藻草(もぐさ)や樟脳(しょうのう)などの火薬の原料が手に入りやすい地域であったことから、火薬玉や火矢、狼煙(のろし)などを使った火術を得意とし、漫画や映画などで見る火薬玉を爆発させて煙を出し、視界が悪くなっている間に姿を消すといった術は、伊賀忍者が実際に行っていたといわれています。
また、伊賀忍者の祖先には京都の政争で敗れて逃れてきた人が多くいて、その中に呪術を得意とした物部家(もののべけ)もいました。
そのため、物部家から伝わった呪術も得意としていました。
代表的な呪術には、「臨兵闘者皆陣列在前(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」と唱えながら一文字ごとに両手で印を結び、右人差し指と中指を刀の様にして九字を切る「九字護身法(くじごしんほう)」と呼ばれる保身の呪術や、自己暗示をかけて精神統一を促し、ピンチを乗り切る「印明護身法(いんみょうごしんほう)」と呼ばれる呪術などを使っていたといわれています。
薬学に長けゲリラ戦を得意とした「甲賀忍者」
甲賀流は、山に籠り厳しい修行をする「修験道(しゅげんどう)」が起源とされ、薬草に詳しくゲリラ戦を得意とした流派です。
甲賀の山には様々な薬草が自生していたため薬の知識に長けており、毒薬を使った奇術や薬売りに変装して敵地の情報を集めることを得意としていました。
また、室町時代後期に起こった「長享(ちょうきょう)・延徳(えんとく)の乱」の中の「鈎(まがり)の陣」という戦いで、甲賀忍者は「亀六ノ法(かめりくのほう)」という戦法で幕府軍を翻弄しました。
この戦法は、亀が手足や首を出したり引っ込めたりするように、敵が攻めてくると隠れて撤退すると奇襲をかけるというゲリラ戦法です。
甲賀忍者はこの戦法によって有名になったといわれています。
乗馬が得意な「風魔忍者」
風魔流は、小田原から箱根周辺に拠点を置いた忍者集団で、特殊な騎馬術に優れた流派です。
小田原北条氏だけに仕え、天正9年(1581年)の「黄瀬川の戦い」で夜討ちによって敵を混乱させ、北条氏に貢献したといわれています。
守りを重んじた「戸隠忍者」
戸隠流は、攻撃ではなく自分の身や家族、主君を守ることに重きをおいた流派です。
自分からは攻撃せず、相手の戦闘能力を奪うような技を得意としていました。
戸隠流のルーツは平安時代末期の武将・木曽義仲(きそよしなか)に仕えた仁科大助(にしなだいすけ)であるといわれています。
大助は、戸隠山で修験道を修行して様々な技を習得していました。
義仲が討たれた後、伊賀に逃れて伊賀流忍術を習得し、再び戸隠に戻って戸隠流を開いたといわれています。
当時の忍者の生活とは?
忍者が活躍していた戦国時代、彼らはどのような生活をしていたのでしょうか?
戦国時代とは言え、毎日戦があったわけではありません。忍者たちも戦や依頼が無いときは、農民や町民と同じような暮らしをしていました。
忍者のとある1日の暮らし
伊賀の菊岡如幻(きくおかじょげん)が書いた「伊乱記」には、忍者の普段の生活について「午前中は家業に精励し、午後は寺に集まって軍術、兵道の稽古をした」とあります。
流派によって多少の違いはありますが、伊賀忍者は午前中に畑仕事や煙玉などの武器づくりをし、午後には忍術の稽古をしていたとされています。
また、里で畑仕事や行商を行いながら、情報収集を行うことも日常的に行っていました。
甲賀忍者も伊賀忍者と同じように、畑仕事や行商を行っていましたが、薬学に長けていたので、薬草を育てたり採集したりしながら薬を作り、それを日本各地で売りながら情報収集をしていました。
忍者になる方法
当時、どのようにしたら忍者になれたのでしょうか?
忍者になるには厳しい修行を行わなければなりませんでした。
漫画やアニメにあるような学校のようなものはなく、集落の中だけで師匠から直接教えてもらうという方法で、技が受け継がれてきたのです。集落には、昔からいる一族だけでなく、戦で敗れた武士たちが逃れてきた者もいました。
ですから、忍者になるには、忍者の集落に生まれて子どもの頃から厳しい修行を行うか、忍者の集落に落ち延びて修行して忍者の技を習得していたとされています。
忍者に必要とされていた能力とは?
私たちが想像する忍者は、風の様に速く走ったり木と木を飛び移ったりといった超人的な運動能力や、手裏剣や鎖鎌などの特殊な武器を使ったり気配を消して諜報活動をする特殊な技能を持った人たちというものですよね。
しかし、実際に当時の忍者に必要だった能力は、超人的な運動能力や特殊や技能だけではありませんでした。
忍者の一番重要な任務は情報収集でした。
そのため、敵地の人たちに馴染むことのできる「コミュニケーション能力」や収集した情報を覚えておく「記憶力」、臨機応変に対処する「適応力」が必要とされていました。
また、忍者はどんなことをしても生き延びて情報を持ち帰らなければならなかったので、逆境にも耐えうる「忍耐力」も必要でした。
その他にも、薬学や医術、呪術、天文学、気象学など高度な学力も必要とされていたのです。
人の能力を超越した忍者の身体能力とは?
では、当時の忍者の身体能力とはどのくらいのものだったのでしょうか?
忍者は日頃から農業の傍らに訓練を重ねていたため、常人とは比べ物にならない身体能力があったと考えられています。
猿のように木や建物に素早く登ったり屋根の上を走って移動したりと、現代のパルクールをする人のような身軽さがあったとされ、諜報活動をする際には軽業を見せる芸人として潜入することもありました。また、1日に100㎞以上もの道のりを走ることもあったといわれ、強靭な脚力があったと考えられています。
しかし、忍者も普通の人間なので、体を動かすのが不得意な人もいました。
体を使うのが苦手な人でも、変身術や交渉術などそれぞれに得意な分野で活躍していたのです。
忍術書には、「走るのが遅い者に急ぎの用事を申し付けてはならない」「弁術が苦手な者に交渉の役目を申し付けてはならない」など、適材適所を見極めて持ち場を決めることも忍者の中では重要視されていました。
忍者はどのような修行をしていた?
忍者は、農業をすることで日常的に体を鍛えていました。
それに併せて、次のような特殊な修行をしていたといわれています。
• 走る修行
忍者は敵から逃げるために早く長く走る必要がありました。
そのため、後ろに長く垂らしたはちまきを頭に巻いて、はちまきが地面に着かないように走る修行や、胸に笠を当てて落ちないように走る修行などを行っていたとされています。
• 飛ぶ修行
忍者は、高い柵を飛び越えたり屋根から屋根へ飛び移ったりするために高い跳躍力が必要とされていました。
そのため、育つのが早い麻や萱(かや)を植えて、毎日飛び越えるという修行をしていたとされています。
• 忍び足の修業
忍者は敵に見つからないように静かに歩く必要がありました。
そのため、猫の歩き方を真似した忍び足の修業をしていたとされています。
• 聴力を鍛える修行
忍者は諜報活動を主流としていたため、敵の小さな声も聞き取れるような聴力が必要でした。
そのため、音がしない静かな部屋で砥石の上に針を落した音を聞くという修行や沢山の針を砥石に落として針が何本だったかを当てるという修行をしていたとされています。
この修業は二人一組で行われ、砥石と聞く人の距離を少しずつ離していったそうです。
• 視力を鍛える修行
忍者は、夜に活動することが多かったため、夜目がきく必要がありました。
そのため、明るい場所と暗い場所を何度も往復して暗いところでもすぐに目が慣れるための修行をしていたとされています。
• 武器を使う修行
忍者は、手裏剣やクナイなど特殊な武器を使って戦っていました。
そのため、これらの武器を使いこなせるような修行をしていました。
忍術とは?
忍術とは、敵の情報を集めて持ち帰るためや敵を攻撃するために忍者が使う特殊な技術のことです。
具体的には、変装術や心理学などの諜報に必要な技術や、敵を攪乱し自分の身や主人の身を護るための剣術や武術などがあります。
忍術には、漫画や映画などで忍者が使っている水遁(すいとん)の術や変化の術などは実際にあったとされているものもありますが、分身の術や変わり身の術などのお馴染みの忍術は残念ながらさすがに無かったようです。
手裏剣以外にもある!忍者の武器
忍者の武器と言えば手裏剣が最も有名ですが、その他にも次のような武器を使っていました。
・手裏剣
忍者の武器の中で最もポピュラーな武器です。
投げつけて敵を傷つけるものですが、攻撃するというよりも自分の身を護る際に使われる武器でした。
色々な形のものがあり、折り紙で馴染み深い「十字手裏剣」や棒状の形をした「棒状手裏剣」、突起の数が多い「六方手裏剣」や「八方手裏剣」「十方手裏剣」などがあります。
・クナイ
「苦無」や「苦内」などの漢字が使われており、敵が苦しまずに命を奪うという意味があるそうです。
小さな両刃の刃物で、武器としてだけでなく壁に昇る際や地面に穴を掘る際などにも使われていました。
・鎖鎌(くさりかま)
鎌の持ち手の端に分銅が付いた鎖を結び付けた武器です。
離れた敵に分銅を投げつけたり、鎌の部分で切りつけたりして使われます。
・撒菱(まきびし)
ヒシの実や桑の実などを三角にして乾かしたもので、地面にばらまいて敵の動きを封じたり敵に投げつけて攻撃したりするために使われていました。
漫画などでは鉄製のものがポピュラーですが、実際は鉄製は使われていなかったのだとか。
・忍刀(しのびがたな)
忍者が使う刀で、長さが短くて反りの無い真っすぐな刀です。
一般的な刀よりも鍔(つば)が大きく四角いのも特徴で、塀を乗り越える際に地面に刺して鍔を足掛かりにするためだといわれています。
・手甲鉤(てっこうかぎ)
鉄製の熊手のようなもので、手に装着して使う武器です。
敵を攻撃したり刀を受けて防御したりするために使われていました。
また、爪を引っかけて木や塀を登ったり塀に穴を開けたりするのにも使われていました。
・吹き矢
細長い筒に毒針を仕込み、息を吹き込んで針を飛ばす暗殺用の道具です。
・鉤縄(かぎなわ)
縄の先に鉤(先が4つに分かれて曲がった棒状の金属)がついた器具です。
攻撃ではなく高い場所に引っかけて登るための道具として使われていました。
有名な忍者の術
忍者は色々な忍術を使って任務を遂行していました。
忍術は特殊なものがほとんどで、漫画や映画などにもその名前は多数登場します。
しかし、実際の忍術は漫画とは内容が違い地味なものがほとんどです。
ここでは、代表的な忍術と実際はどのような術だったのかを紹介します。
• 水遁(すいとん)の術
竹筒の先を水面に出して呼吸をしながら長時間水中に潜って身を隠したり、石などを水に投げ入れて大きな音を出し相手の注意を逸らして混乱させたりする術です。
潜ったまま水中を移動して、敵陣に潜入することもありました。
• 火遁(かとん)の術
火薬を爆発させたり火を燃やしたりして相手の気を逸らす術です。
火薬を詰めた竹筒や鳥の子と呼ばれる和紙で火薬を包んだものなどを使ったり、敵陣に火を付けたりしていました。
• 木遁(もくとん)の術
木や草、稲や麦、木の葉などの植物を使って身を隠す術です。
「木の葉隠れの術」と呼ばれることもあります。
身近な植物を使ったり木に登ったりする比較的簡単な術とされています。
• 土遁(どとん)の術
地形を利用して身を隠す術です。
岩や窪地、低い土地、大地の盛り上がった所などに身を隠したり、抜け穴を掘って逃げたりしていました。
夜の暗闇で体を丸めてうつ伏せになり、気配を消す「ウズラ隠れの術」もありました。
• 変化の術
農民や商人、虚無僧や巫女などに変装して敵地に潜伏する術です。
• 水蜘蛛の術
水蜘蛛と呼ばれる木製の大きな輪っか状の浮きを付けた履物をはいて、水面を移動する術です。
実在した伝説の忍者「服部半蔵」の正体とは?
漫画や映画などで取り上げられることも多い服部半蔵は、戦国時代に活躍した忍者とされています。
日本の歴史上最も有名な忍者とされる服部半蔵とはどのような人物だったのでしょうか。
「服部半蔵」は家名だった
「服部半蔵」という名前は、実は代々一族に受け継がれる家名でした。
最も知られている服部半蔵は2代目の正成(まさなり)です。
初代・服部半蔵は保長(やすなが)といい、伊賀国花垣村(現・三重県伊賀市)に住む忍者でした。
保長は一族をつれて伊賀国を離れ、室町幕府12代将軍・足利義春に仕えていましたが、室町幕府が衰退の一途を辿っていたので、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)の松平清康に乗り換えます。
しかし、清康が家臣に命を奪われたことで保長は松平家から離れ、岡崎で亡くなります。
保長の五男として生まれた正成は、6歳の時に寺に預けられますが、出家するのが嫌で寺を脱走し、兄弟たちに匿われて育ちました。
16歳の時に初陣に出た正成は、松平家に仕える伊賀衆(伊賀忍者)の一員として夜襲に参加し、敵を討ち取ります。
当時、家督を継いで岡崎の領主となっていた家康は、正成の功績を称えて槍を授け、領主と対面できる身分となったのです。
その後正成は家督を継いで、2代目・服部半蔵となりました。
服部半蔵 正成は忍者ではなかった?
服部半蔵正成は、家康に家臣として数々の功績を挙げますが、じつは忍者としてではなく武将として仕えていました。
しかし、武田軍との戦である「三方ヶ原の戦い」では、負けはしたものの戦で活躍したことにより、家康から伊賀衆150人を預かることとなりました。
このことから後に、服部半蔵正成は伊賀忍者の頭領として語り継がれるようになってしまったのです。
また、本能寺の変が起こった際に大坂の堺にいた家康が明智軍に隠れながら伊賀や甲賀を通って伊勢から三河まで無事帰還した「伊賀越え」の際、正成は伊賀や甲賀の豪族と交渉し、忍者たちに家康の護衛をさせることに成功しました。
このことも、服部半蔵正成が忍者の頭領と言われるようになった理由の1つとなっています。
この時に護衛していた忍者たちは、後に徳川幕府に伊賀同心・甲賀同心として召し抱えられるようになり、服部半蔵家が同心たちの指揮を取るようになりました。
服部半蔵の末裔
2代目服部半蔵・正成が亡くなった後、3代目服部半蔵・正就(まさなり)が2代目将軍・徳川秀忠の怒りを買って武士の位を剥奪されてしまいます。
跡を継いだ4代目服部半蔵・正重(まさしげ)は、紆余曲折あり浪人となってしまいますが、正就の次男が仕えていた桑名藩に招かれ、桑名藩の上席家老となりました。
その後服部半蔵家は、幕末まで桑名家松平家に仕えますが、12代正義で途絶えてしまいます。
しかし、服部半蔵の親戚の一族は現代も残っているのです。
服部家の子孫は、現在三重県亀山市で「深川屋(ふかわや)」という和菓子屋を経営しています。深川屋の初代当主は、初代服部半蔵・保長の父方のいとこであったと考えられているそうです。保長の親戚であった服部保重は、三代将軍徳川家光の時代に亀山市にあった東海道沿いの宿場町で「深川屋」という和菓子屋を創業しました。保重が考案した和菓子「関の戸」はとても評判がよく、参勤交代で宿場町に立ち寄る大名たちの間で人気を得ました。
また、評判は京都の朝廷にも伝わり、皇族出身者が代々住職を務めていた仁和寺御用達のお菓子にもなったそうです。和菓子屋となった服部家ですが、忍者としての諜報の仕事もしていたそうです。
現在は14代当主の服部吉右衛門亜樹さんが跡を継いでいて、「忍者の末裔の老舗和菓子屋」として有名なお店となっています。
現代の日本にも忍者はいるのか?
室町時代から江戸時代にかけて活躍した忍者ですが、徳川幕府が政権を朝廷に返したことにより歴史上から姿を消しました。
しかし、現代の日本にも忍者を名乗る人たちはいます。日本各地にある忍者のテーマパークや忍者ゆかりの観光地などで自ら忍者を名乗り、忍者の歴史や文化、忍術などを教えてくれる人たちです。その中には忍者の末裔だった人たちも含まれていて、日本を代表する文化といえる忍者を世界中に発信し続けてくれているのです。
現代でも忍者になれる?
江戸時代に滅びてしまった忍者ですが、現代の私たちは忍者になれるのでしょうか?
現代の忍者は、テーマパークなどで忍者ショーに出たり忍術の体験道場で忍術を教えたり、忍者ゆかりの土地で観光案内をしたりしています。
忍者ショーに出たり忍術を人に教えたりする場合は、忍者の修業をする必要があり、施設の忍者や忍者道場などで教えてもらい習得するのが一般的なようです。
忍者の修業ができる道場は、伊賀や甲賀など日本各地にあります。
また、忍者ゆかりの土地を案内する場合には、忍者について勉強する必要があります。
甲賀忍者の里があったとされる滋賀県甲賀市では、毎年甲賀流忍者検定を行っています。
検定は、初級・中級・上級に分かれていて、忍者の歴史や忍術、過去本当にいた忍者に関する問題などが出題されます。
初級受験者に限り、コスプレで受験した人に5点加点と手裏剣投げの実技を行うことで5点加点されるという特典があります。
忍者に興味がある方はぜひチャレンジしてみてください。
現代社会で活きる忍者の精神とは?
忍者とは、主君に敵の情報を伝えるためにどんなことをしても生き延びて帰らなければなりませんでした。
そのためには、時に怒りや悲しみ、自分の欲をも耐え忍んで自分の感情を平静に保つようコントロールしなければならなかったのです。
忍者の「忍」には、「敵地に忍び込む」という意味だけでなく「耐え忍ぶ」という意味も含まれていたといわれています。
この精神は、海外からみるといかにも「日本人らしい」と見えるのだそうです。
現代の日本では、頑張っても報われないことが多くなってきており、生きる気力が弱くなっている人が増えてきているような気がします。このような時代だからこそ、目的を果たす為に感情をコントロールし、なんとか持ちこたえて生き抜くために、忍者の精神を活かしてみるのも良いかもしれませんね。
現代の日本で忍者の歴史に触れられる場所4選
日本には、忍者の歴史に触れられて体験ができる場所が数多くあります。
忍者は海外でも人気が高いので、世界各国から忍者の文化に触れることを目的とした人たちがたくさん訪れているのです。
ここでは、特に人気の高い忍者のテーマパークなどをご紹介します。
三重県「伊賀流忍者博物館」
伊賀忍者の里があった三重県伊賀市にある忍者の博物館です。
「現在に活用できる忍術を再現する」をコンセプトに、忍者とはどのような人たちだったのかを紹介しています。
忍者屋敷・忍術体験館・忍者伝承館の3つの場所があり、忍者屋敷のからくりや忍術の秘密や忍者の歴史などを学ぶことができます。
忍術実演ショーの観覧や手裏剣打ちの体験などもできます。
滋賀県「甲賀の里忍術村」
甲賀忍者発祥の地とされる滋賀県甲賀市にあるテーマパークです。 敷地内には、世界一の資料数を誇る甲賀忍術博物館をはじめ、たくさんの仕掛けがあるからくり屋敷や手裏剣道場などがあります。
また、水蜘蛛・井戸抜け・一本渡り・坂道上がり・綱渡り・壁づたい・塀横歩き・塀越え・石垣上がりなどの忍者修行を体験することでき、修行を全てクリアすると「免許皆伝」の巻物が貰えます。
有料ですが忍者の衣装を借りることもできるので、服が汚れることを気にせず忍者になり切って思いっきり楽しむことができますよ。
長野県「チビッ子忍者村」
戦国時代に活躍した戸隠流忍者の里があったとされる長野県長野市戸隠にあるアミューズメント施設です。
子どもを中心に楽しめる体験型施設で、アスレチックや手裏剣打ちの体験、忍術ショーなどを通して、楽しみながら忍者の文化を学ぶことができます。
また、手裏剣投げ大会など月替わりのイベントも開催されているので、そちらもぜひチェックしてみてください。
京都府「伊賀流忍者道場 京都校」
本格的な忍者の修業ができる道場と、忍者が使っていた道具や忍者装束、忍者書籍などを展示した本格的な忍者博物館がある施設です。手裏剣体験や忍術修行、殺陣や弓道などの教室、忍者ショーなどが開催され、忍者グッズも数多く販売されているため、日本人だけでなく海外の観光客にも人気が高く、毎年多くの人たちが訪れています。
また、京都の東山三十六峰・大文字を巡る忍者トレッキングツアーも行われています。
忍者が人気なのは生きるため生かすために忍ぶ人たちだったから
忍者が日本だけでなく海外でも人気が高いのは、自分が生きるために、主君や仲間を活かす為に必死に戦った人たちだからだと思います。
漫画や映画のなかで誇張された忍術がカッコいいというのももちろん人気の理由の1つでしょうが、実際の忍術もフィクションの忍術も、全ては生きるため生かすための技でした。
ボロボロになりながらも生きるために戦い、悲しみにも耐え忍ぶ姿こそが、現代の私たちを虜にする最大の魅力なのではないでしょうか。
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