人気のキーワード
★隙間時間にコラムを読むならアプリがオススメ★
ことわざが使われ始めたのはいつかご存じですか? 最古の記録はなんと4,000年前。メソポタミア文明の最盛期で、ハンムラビ法典が発布された時代です。そのころ日本は縄文時代でした。
そんな古い歴史を持つことわざは世界中に存在しています。 ことわざは磁石や印刷技術のように、ある場所から世界へと広がったわけではなく、各地域で生み出されたものです。だからこそ、それぞれ特色があり、面白さや魅力が詰まっているのです。
ことわざを辞書で調べると、“古くから人々によって言い慣わされた、教訓や訓戒を内容とする短い文句”とあります。簡潔で細かい説明が無くても、経験から得た知恵を効果的に伝えることで、私たちの生活に役立ってきたのです。つまり、ことわざは便利なお役立ちツールなのです。
日本最古のことわざ辞典、『世俗諺文(せぞくげんぶん)』は、平安時代(西暦1,007年)に編纂されました。そこには、現在でもよく見かける、「良薬口に苦し」も掲載されています。ずいぶん古いことわざなのですね。また、中国から流入した「温故知新」も掲載されています。
日本のことわざには庶民の生活から生まれたもの、外国からの流入、著名人の言葉、川柳や俳句からなどが混在しています。そして年を追うごとに数も増えています。だから日本最大のことわざ辞典とされる、『ことわざ大辞典―故事・俗信』にも改訂版があるのです。 このことからもことわざは、その時々に合わせた便利ツールとしてアップデートされているのがわかります。
ことわざは世界中で大活躍しています。各国のことわざは、それぞれの国や地域の歴史や風土を反映しており、まるで文化のかたまりです。 その一方で各地域のことわざを見ていくと意外な共通点もあります。 今回は中国の他に、ややなじみの薄いインド、ロシア、アフリカのことわざをご紹介します。その魅力や共通点を一緒に見ていきましょう。
“牛に対して琴を弾いて聞かせる“という意味です。でも、琴の美しい音色で牛はよろこびませんね。つまり、“価値のわからない者に貴重なものを与えても役に立ちませんよ”と言っているのです。
このことわざは中国の七弦琴の名手である公明儀が琴を弾じて名曲を聞かせるも、牛は素知らぬ顔で草を食べていたという『祖庭事苑』にある故事が由来です。
日本でいう「馬の耳に念仏」ですね。動物を相手に音楽や念仏とは、分かりやすいですが、“そんなこと言われても…”という牛の嘆きが聞こえてきそうです。牛からすれば「人間に干し草」なのかもしれません。
“目先のことばかり考えて将来を考えないでいると、必ず急な心配事が起こる”という意味です。『論語-衛霊公』にある“子曰く、人遠き慮おもんぱかり無ければ、必ず近き憂い有り”から来ています。この“遠慮”は、遠い未来を考えることを意味します。
日本でもよく知られていることわざですが、「備えあれば憂いなし」や「転ばぬ先の杖」なども似ていますね。
「一を聞いて十を知る」(一部を聞いて、すぐに全体を理解できる)、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」(やり過ぎることは、やり足りないこと同様によくない)など、中国から来た日本のことわざには、『論語』に由来するものも多く、それぞれ相反する語彙の対比は、単純かつ明快です。
イードはアラビア語で“祭り”や“宴”、ラマダン(断食月)後の盛大な祭りを意味します。“人生には、楽しいイードもあれば、辛い断食もある“というインドのイスラム教の言葉です。日本には、ズバリ、「苦あれば楽あり」がありますね。
ラマダンは、約一ヶ月間、日の出から日没まで続く過酷な慣習ですが、その後に楽しいイードが待っています。でも、なぜ祭りの後に、また断食なのでしょうか。それはイードのお祝いに出費がかさみ、お祭り後に断食をする羽目になるからというのです。そこまで極端でなくても、日本でも“お正月の後でお財布が厳しい”というのは、ありがちですね。
バレーリーは、インドのウッタル・プラーデシュ州西北にある竹の産地です。そこにわざわざ竹を持って行くという“無意味なこと”のたとえです。しかし、このことわざは現在では意味が通じにくいものになっています。
急速な経済成長が進むインド。バレーリーでも産業が発達し、見事な竹細工の家具は知名度が上がりました。今では他の産地の竹も使用されるようになっています。バレーリーに竹を持っていくことは、無駄ではなくなったのです。
今このことわざを使うなら、同時にウンチクも必要です。時代がことわざの位置づけを変えた一つの例といえるでしょう。
ブリンとは、ロシアのパンケーキ。ブリニとかブリヌィとも呼ばれます。初めてブリンを焼く場合、うまく焼けずにかたまりになってしまうことが多いことから、“物事は最初からうまくいくわけではない”ことを諭しています。「失敗は成功の母」を思い起こします。
ブリンは、小麦粉、牛乳、卵などを混ぜて焼きあげてから、果物や生クリーム、サーモンなどの色々な具材をのせたり、巻いたりして食べます。薄く焼き上げる必要があり、初心者には難しいのです。
ロシアのことわざには、ブリン以外にもピロシキ(揚げパン)やピローグ(パイ)が登場するものもあり、食文化の豊かさを感じます。
“地道に努力をすれば、いつかは成し遂げられる”と伝えていることわざです。日本の「千里の道も一歩から」と似ています。ウリータはロシア人女性の名前ですが、歩みが遅いカタツムリ(ロシア語でウリートゥカ)と語呂を合わせています。
ロシアには、こうした語呂合わせや韻を踏んでいることわざが多く見られます。例えば、「神は注意深い者を大切にする」(天は自ら助くる者を助く)や、「私の舌は私の敵」(口はわざわいの門)などをロシア語で聞くと、言葉は分からなくても、リズミカルであることは理解できます。ことわざを覚えやすくする工夫なのだと感心します。
ケニア、タンザニアなどで使われているスワヒリ語の言葉です。サバンナが目の前に広がるような言葉ですが、アフリカで“象”は、権力を持つもの、“草”は弱い立場にあるものをそれぞれ象徴しています。“争う象に踏みにじられて地面の草が傷つくように、強い者同士の争いは弱い者を苦しめる”と言っているのです。
スワヒリ語では “マタリ”と呼ばれる韻を踏むような表現方法が多く見られるのですが、このことわざにも含まれているそうです。ロシアのことわざと同じように、遠く離れたアフリカでも、韻を踏んだことわざが使われているということです。
これもスワヒリ語のことわざで、“より好みをするとかえって意に沿わぬものを引き当てる”という意味です。この地域の人々とココナツとの関係は深く、それゆえココナツの成長に応じて、呼び名がなんと7回も変わるそうです。日本のブリやスズキなどの出世魚と同じ考え方がココナツに使われているとは、ちょっと驚きますね。
成熟期のココナツは“コロマ”と呼ばれ、白い果実から絶品のミルクを絞り出すことができます。でもココナツが“コロマ”になったかどうか見分けるのは困難です。そこで、このことわざは教えてくれます。“迷いすぎて、かえって未熟なココナツを選ぶことがないように”と。
日本にも「選んで粕を掴む」があります。“粕”は“カス”。選び抜いて選んだものが搾りカスだったら、へこんでしまいますよね。
中国、インド、ロシア、そしてアフリカのことわざはいかがでしたでしょうか。宗教や食文化や風土など、それぞれの個性が溢れていましたね。一方で遠く離れた地域なのに共通する考え方や、同様の表現方法があったり、似たようなことわざが日本にも存在していたりと、興味深い点も多かったのではないでしょうか。
ことわざは様々な文化の中で必要な知恵を伝えるお役立ちツールとして、日々の生活を支えています。時代の変化で廃れるものも出てきますが、新しいことわざも生み出されています。そうして歴史が積み重ねられていくのです。
ことわざが使われ始めたのはいつかご存じですか?
最古の記録はなんと4,000年前。メソポタミア文明の最盛期で、ハンムラビ法典が発布された時代です。そのころ日本は縄文時代でした。
そんな古い歴史を持つことわざは世界中に存在しています。
ことわざは磁石や印刷技術のように、ある場所から世界へと広がったわけではなく、各地域で生み出されたものです。だからこそ、それぞれ特色があり、面白さや魅力が詰まっているのです。
目次
ことわざとは?
ことわざを辞書で調べると、“古くから人々によって言い慣わされた、教訓や訓戒を内容とする短い文句”とあります。簡潔で細かい説明が無くても、経験から得た知恵を効果的に伝えることで、私たちの生活に役立ってきたのです。つまり、ことわざは便利なお役立ちツールなのです。
日本のことわざ
日本最古のことわざ辞典、『世俗諺文(せぞくげんぶん)』は、平安時代(西暦1,007年)に編纂されました。そこには、現在でもよく見かける、「良薬口に苦し」も掲載されています。ずいぶん古いことわざなのですね。また、中国から流入した「温故知新」も掲載されています。
日本のことわざには庶民の生活から生まれたもの、外国からの流入、著名人の言葉、川柳や俳句からなどが混在しています。そして年を追うごとに数も増えています。だから日本最大のことわざ辞典とされる、『ことわざ大辞典―故事・俗信』にも改訂版があるのです。
このことからもことわざは、その時々に合わせた便利ツールとしてアップデートされているのがわかります。
世界のことわざ
ことわざは世界中で大活躍しています。各国のことわざは、それぞれの国や地域の歴史や風土を反映しており、まるで文化のかたまりです。
その一方で各地域のことわざを見ていくと意外な共通点もあります。
今回は中国の他に、ややなじみの薄いインド、ロシア、アフリカのことわざをご紹介します。その魅力や共通点を一緒に見ていきましょう。
中国のことわざ
牛に対して琴を弾ず
“牛に対して琴を弾いて聞かせる“という意味です。でも、琴の美しい音色で牛はよろこびませんね。つまり、“価値のわからない者に貴重なものを与えても役に立ちませんよ”と言っているのです。
このことわざは中国の七弦琴の名手である公明儀が琴を弾じて名曲を聞かせるも、牛は素知らぬ顔で草を食べていたという『祖庭事苑』にある故事が由来です。
日本でいう「馬の耳に念仏」ですね。動物を相手に音楽や念仏とは、分かりやすいですが、“そんなこと言われても…”という牛の嘆きが聞こえてきそうです。牛からすれば「人間に干し草」なのかもしれません。
遠慮なければ近憂あり
“目先のことばかり考えて将来を考えないでいると、必ず急な心配事が起こる”という意味です。『論語-衛霊公』にある“子曰く、人遠き慮おもんぱかり無ければ、必ず近き憂い有り”から来ています。この“遠慮”は、遠い未来を考えることを意味します。
日本でもよく知られていることわざですが、「備えあれば憂いなし」や「転ばぬ先の杖」なども似ていますね。
「一を聞いて十を知る」(一部を聞いて、すぐに全体を理解できる)、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」(やり過ぎることは、やり足りないこと同様によくない)など、中国から来た日本のことわざには、『論語』に由来するものも多く、それぞれ相反する語彙の対比は、単純かつ明快です。
インドのことわざ
イードの後で断食をする
イードはアラビア語で“祭り”や“宴”、ラマダン(断食月)後の盛大な祭りを意味します。“人生には、楽しいイードもあれば、辛い断食もある“というインドのイスラム教の言葉です。日本には、ズバリ、「苦あれば楽あり」がありますね。
ラマダンは、約一ヶ月間、日の出から日没まで続く過酷な慣習ですが、その後に楽しいイードが待っています。でも、なぜ祭りの後に、また断食なのでしょうか。それはイードのお祝いに出費がかさみ、お祭り後に断食をする羽目になるからというのです。そこまで極端でなくても、日本でも“お正月の後でお財布が厳しい”というのは、ありがちですね。
バレーリーに竹を持って行く
バレーリーは、インドのウッタル・プラーデシュ州西北にある竹の産地です。そこにわざわざ竹を持って行くという“無意味なこと”のたとえです。しかし、このことわざは現在では意味が通じにくいものになっています。
急速な経済成長が進むインド。バレーリーでも産業が発達し、見事な竹細工の家具は知名度が上がりました。今では他の産地の竹も使用されるようになっています。バレーリーに竹を持っていくことは、無駄ではなくなったのです。
今このことわざを使うなら、同時にウンチクも必要です。時代がことわざの位置づけを変えた一つの例といえるでしょう。
ロシアのことわざ
一枚目のブリンはだんごになる
ブリンとは、ロシアのパンケーキ。ブリニとかブリヌィとも呼ばれます。初めてブリンを焼く場合、うまく焼けずにかたまりになってしまうことが多いことから、“物事は最初からうまくいくわけではない”ことを諭しています。「失敗は成功の母」を思い起こします。
ブリンは、小麦粉、牛乳、卵などを混ぜて焼きあげてから、果物や生クリーム、サーモンなどの色々な具材をのせたり、巻いたりして食べます。薄く焼き上げる必要があり、初心者には難しいのです。
ロシアのことわざには、ブリン以外にもピロシキ(揚げパン)やピローグ(パイ)が登場するものもあり、食文化の豊かさを感じます。
ウリータは行く、いつかは着くだろう
“地道に努力をすれば、いつかは成し遂げられる”と伝えていることわざです。日本の「千里の道も一歩から」と似ています。ウリータはロシア人女性の名前ですが、歩みが遅いカタツムリ(ロシア語でウリートゥカ)と語呂を合わせています。
ロシアには、こうした語呂合わせや韻を踏んでいることわざが多く見られます。例えば、「神は注意深い者を大切にする」(天は自ら助くる者を助く)や、「私の舌は私の敵」(口はわざわいの門)などをロシア語で聞くと、言葉は分からなくても、リズミカルであることは理解できます。ことわざを覚えやすくする工夫なのだと感心します。
アフリカのことわざ
二頭の象が争う時、傷つくのは草
ケニア、タンザニアなどで使われているスワヒリ語の言葉です。サバンナが目の前に広がるような言葉ですが、アフリカで“象”は、権力を持つもの、“草”は弱い立場にあるものをそれぞれ象徴しています。“争う象に踏みにじられて地面の草が傷つくように、強い者同士の争いは弱い者を苦しめる”と言っているのです。
スワヒリ語では “マタリ”と呼ばれる韻を踏むような表現方法が多く見られるのですが、このことわざにも含まれているそうです。ロシアのことわざと同じように、遠く離れたアフリカでも、韻を踏んだことわざが使われているということです。
より好みすると、熟れてないココナツにあたる
これもスワヒリ語のことわざで、“より好みをするとかえって意に沿わぬものを引き当てる”という意味です。この地域の人々とココナツとの関係は深く、それゆえココナツの成長に応じて、呼び名がなんと7回も変わるそうです。日本のブリやスズキなどの出世魚と同じ考え方がココナツに使われているとは、ちょっと驚きますね。
成熟期のココナツは“コロマ”と呼ばれ、白い果実から絶品のミルクを絞り出すことができます。でもココナツが“コロマ”になったかどうか見分けるのは困難です。そこで、このことわざは教えてくれます。“迷いすぎて、かえって未熟なココナツを選ぶことがないように”と。
日本にも「選んで粕を掴む」があります。“粕”は“カス”。選び抜いて選んだものが搾りカスだったら、へこんでしまいますよね。
まとめ
中国、インド、ロシア、そしてアフリカのことわざはいかがでしたでしょうか。宗教や食文化や風土など、それぞれの個性が溢れていましたね。一方で遠く離れた地域なのに共通する考え方や、同様の表現方法があったり、似たようなことわざが日本にも存在していたりと、興味深い点も多かったのではないでしょうか。
ことわざは様々な文化の中で必要な知恵を伝えるお役立ちツールとして、日々の生活を支えています。時代の変化で廃れるものも出てきますが、新しいことわざも生み出されています。そうして歴史が積み重ねられていくのです。