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この記事の連載一覧はこちらから:地方創生 鯨の町おこし
堀木エリ子さんに和紙の曳山を製作してもらう方向となり、そのことについて八幡さんから町の有力者に説明をして欲しい、という打診があった。
京都でのやりとりから2ヶ月たった2021年3月、呼子に堀木さんをご招待して、まずは町の古い町並みや鯨で栄えた歴史などを見て回っていただいた。 堀木さんが特異な存在である理由の一つであるが、単に曳山の製作を引き受けただけでなく、それにふさわしい祭りとはどのようなものであるべきか、まで考察と提案をしてきてくれたことである。
京都で話していた段階ですでに、和紙は柔らかく光る美しい特性があるので宵の時間に祭りをするのが良いのではないか、最後に船に乗せて海を行くフィナーレが良いのではないか、祭りに食の名物も必要なのではないか、など祭りの構想を文面にまとめてくれていたのである。 そして実際に現地で海に面して伸びゆく港町を歩きながら、祭りのイメージも改めて噛み砕き直している様子であった。
多くの人は請け負った仕事について、相手方との間に一線を引いて、そこから先に踏み込んでこないものである。 堀木さんとしては曳山製作の完成度を上げるためにも至極当然ということなのかもしれないが、私は強烈な印象を受けたのであった。
夜の説明会の時間となった。私は奉納する側として説明を担う立ち位置だったのだが、難しさも感じていた。 もちろん町の方々が喜ぶ奉納をしたいという気持ちであったが、説明した結果、当然、賛否両論もろもろ意見が出るだろうし、その場合は誰が取りまとめるのだろう?と。吸収合併で町長のような存在もいないわけで、町の合意とは何なのか私には理解できなかったのだ。
しかも私の準備したプレゼンシートが機器の不具合で映写されず、ふわふわしたプレゼンテーションになってしまった。 何だか申し訳ない気持ちで堀木さんのプレゼンにバトンタッチすることになった。
ところが堀木さんのプレゼンテーションは私の迷いなど天に吹き飛ばすようなエネルギーがあった。 ご自身の積み上げてきた作品実績の紹介、和紙が浄化の意味を持つゆえ祭りにふさわしい素材であること、呼子の祭りのあるべき姿のこと、などを滔々と語ってくれた。
町の一部の方の懸念や疑問に対しても、誠実かつ明瞭に答えていていき、曇ることがない。実績や経験のある方だと、そのような状況で激昂したり、取り繕ったり、相手を軽んじたりする対応をしたりすることがあるのだが、そういう陰りが一切ない。
そして町として祭りを本当に再興するかどうか正式に定まってない状況だったので、当然出てくる消極的な発言がときおり場を重い空気にしていたのであるが、それに対してキッパリと、「やれるかやれないか、ではなく、やれる前提でどうすればできるかを考えるべきです」と割って入ってくれたのであった。
堀木さんのその言葉は、さまざまな挑戦を困難を乗り越えて実現してきた裏付けのある言葉であり、電気のように現場の空気を走り抜けた。 もちろん、この会合だけで全てが合意に至ったわけではないのだが、ここから曳山の受け入れと祭りの再興は一つの筋道として流れに乗って行ったのは確かだと思う。
翌朝、堀木さんを唐津くんちの曳山が保管展示されている曳山会館にお連れした。 かつての芸術の最高峰を結集して作られた曳山群を前に、幻の曳山を3つ創ろうとした父の気概を思い返していたのだが、堀木さんが一言「これに負けないものを作らないとですね」と口にした。
堀木さんの中では和紙で完成された鯨のイメージが出来上がっているとおっしゃっていたので、この素晴らしい唐津くんちに負けないものが堀木さんには見えているのか、と改めて胸が高鳴ったのを覚えている。
鯨の曳山は親と子の2つを製作していただくことも決まった。親子の情の深さも鯨の特徴であるし、祭りとして親と子の2台があった方が断然、曳山や祭りの存在感が出るとか考えられたからである。 最後は子供を5人育ててきた母ゆえの子鯨への強い気持ちが最終判断となった。この判断によって祭りにさらに1つ、親子、とか、次世代、とかの温かな情感が宿っていくことになった。
それから1年と2ヵ月の後に和紙の曳山が完成し、呼子にお披露目されるに至るのだが、それまでも堀木さんには複数回呼子に来ていただき、もしくは京都の工房にお招きいただいたりした。 お披露目式は中尾家屋敷にて2022年5月28日にされることになった。
お披露目会の前日は晴天で、港の海を背景にコンテナから梱包された状態の曳山が降ろされた。そして堀木さんの指示のもと、中尾家屋敷の中庭で組み立てられ、屋敷内に配置されていった。
見たことのない巨大な和紙の造形物が、親と子の鯨という形で目の前に現れたのだ。私が想像していたよりもスケールも芸術性も遥かに高い完成度で圧倒されてしまった。 光が灯されると、和紙独特の柔らかな光が、鯨に施された模様を浮かび上がらせ、その美しい鯨のフォルムを通して屋敷の薄暗い空間を神々しく照らした。
江戸時代の呼子の繁栄の象徴である鯨が、その繁栄を支えた鯨漁の頭領「中尾甚六」の屋敷を照らし、時代を超えた会合を果たしたように感じた。
堀木さんに最初に呼子に来ていただいた時に、鯨の曳山をどこに格納するか、ということで、格納庫になりうる古民家物件を堀木さんと見て回っていた。 どんな格納庫になるかによって、曳山のサイズなど搬入可能な形態で製作をしなければならなかったからだ。
物件巡りに疲れて休みをとったのが、この中尾家屋敷だった。 休憩しながら中尾家屋敷の高く巨大な梁が横たわる屋根を見上げて、「ここでいいやん!ここしかないやん!」と堀木さんが声を上げた。文化財だったりする建物に保管できるかどうか、があったが、ここしかない!が関係者の一念ともなって実現にこぎつけた。
呼子の繁栄の象徴である鯨と鯨組主の会合が、何か空気を動かしている気がしてならない。 この鯨の曳山が呼子の歴史的なプライドをかき立てて、地域の明るい未来を創造していく精神の拠り所になってくれることを祈りたい。
そして私は魔法でもかけられた気分になった。 1年と2ヵ月前に堀木さんが頭に中に描いていた鯨が、こうやって現実のものとなった。唐津くんちの曳山に負けない芸術性の高いものとして。
同時に、父が10年以上も前から故郷の活性化に取り組み、死に至る病床でも口にし続けていた「鯨の曳山」が長い時を経て目の前に現実のものとして現れたのである。魔法を見てるようだが、実際に私は当事者の1人として身をもって体験したのだ。 人の頭の中にあることは強烈な想いと掛け合わさることで、ときに継承され、ときに人と人を結びつけながら現実化していくのだ。
お披露目式は市長や役所の方々、地元の方々、そして多くのメディアも参加していただいた。 太鼓や唄といった芸能も織り交ぜた素晴らしいお披露目式であった。
多くのメディアが、「豊かな地域文化あってこその地方創生」という父の遺志、その遺志を息子である私が継承してきたストーリー、そして堀木エリ子さんの素晴らしい和紙の作品、と続け様に感銘を受けてくれているようであった。
「町への寄贈を終えて、どんなお気持ちですか?」と幾度もメディアから質問していただいた。 私は「感無量です。」と答えるしかなかった。
父への感傷的な気持ちも、達成感も、それほど感じてはおらず、単に素晴らしいなと感じて感無量だった。 父の遺志、呼子の歴史、鯨の曳山、お披露目会、それを祝ってくださった皆様、町の方々の祭り再興への気持ち、全てが素晴らしく、感無量だったのだ。
次号に続く
前回の記事:神仕組みと和紙の曳山 連載一覧へ:地方創生 鯨の町おこし
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。 1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。
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地方創生 鯨の町おこし
堀木エリ子さんに和紙の曳山を製作してもらう方向となり、そのことについて八幡さんから町の有力者に説明をして欲しい、という打診があった。
京都でのやりとりから2ヶ月たった2021年3月、呼子に堀木さんをご招待して、まずは町の古い町並みや鯨で栄えた歴史などを見て回っていただいた。
堀木さんが特異な存在である理由の一つであるが、単に曳山の製作を引き受けただけでなく、それにふさわしい祭りとはどのようなものであるべきか、まで考察と提案をしてきてくれたことである。
京都で話していた段階ですでに、和紙は柔らかく光る美しい特性があるので宵の時間に祭りをするのが良いのではないか、最後に船に乗せて海を行くフィナーレが良いのではないか、祭りに食の名物も必要なのではないか、など祭りの構想を文面にまとめてくれていたのである。
そして実際に現地で海に面して伸びゆく港町を歩きながら、祭りのイメージも改めて噛み砕き直している様子であった。
多くの人は請け負った仕事について、相手方との間に一線を引いて、そこから先に踏み込んでこないものである。
堀木さんとしては曳山製作の完成度を上げるためにも至極当然ということなのかもしれないが、私は強烈な印象を受けたのであった。
夜の説明会の時間となった。私は奉納する側として説明を担う立ち位置だったのだが、難しさも感じていた。
もちろん町の方々が喜ぶ奉納をしたいという気持ちであったが、説明した結果、当然、賛否両論もろもろ意見が出るだろうし、その場合は誰が取りまとめるのだろう?と。吸収合併で町長のような存在もいないわけで、町の合意とは何なのか私には理解できなかったのだ。
しかも私の準備したプレゼンシートが機器の不具合で映写されず、ふわふわしたプレゼンテーションになってしまった。
何だか申し訳ない気持ちで堀木さんのプレゼンにバトンタッチすることになった。
ところが堀木さんのプレゼンテーションは私の迷いなど天に吹き飛ばすようなエネルギーがあった。
ご自身の積み上げてきた作品実績の紹介、和紙が浄化の意味を持つゆえ祭りにふさわしい素材であること、呼子の祭りのあるべき姿のこと、などを滔々と語ってくれた。
町の一部の方の懸念や疑問に対しても、誠実かつ明瞭に答えていていき、曇ることがない。実績や経験のある方だと、そのような状況で激昂したり、取り繕ったり、相手を軽んじたりする対応をしたりすることがあるのだが、そういう陰りが一切ない。
そして町として祭りを本当に再興するかどうか正式に定まってない状況だったので、当然出てくる消極的な発言がときおり場を重い空気にしていたのであるが、それに対してキッパリと、「やれるかやれないか、ではなく、やれる前提でどうすればできるかを考えるべきです」と割って入ってくれたのであった。
堀木さんのその言葉は、さまざまな挑戦を困難を乗り越えて実現してきた裏付けのある言葉であり、電気のように現場の空気を走り抜けた。
もちろん、この会合だけで全てが合意に至ったわけではないのだが、ここから曳山の受け入れと祭りの再興は一つの筋道として流れに乗って行ったのは確かだと思う。
翌朝、堀木さんを唐津くんちの曳山が保管展示されている曳山会館にお連れした。
かつての芸術の最高峰を結集して作られた曳山群を前に、幻の曳山を3つ創ろうとした父の気概を思い返していたのだが、堀木さんが一言「これに負けないものを作らないとですね」と口にした。
堀木さんの中では和紙で完成された鯨のイメージが出来上がっているとおっしゃっていたので、この素晴らしい唐津くんちに負けないものが堀木さんには見えているのか、と改めて胸が高鳴ったのを覚えている。
鯨の曳山は親と子の2つを製作していただくことも決まった。親子の情の深さも鯨の特徴であるし、祭りとして親と子の2台があった方が断然、曳山や祭りの存在感が出るとか考えられたからである。
最後は子供を5人育ててきた母ゆえの子鯨への強い気持ちが最終判断となった。この判断によって祭りにさらに1つ、親子、とか、次世代、とかの温かな情感が宿っていくことになった。
それから1年と2ヵ月の後に和紙の曳山が完成し、呼子にお披露目されるに至るのだが、それまでも堀木さんには複数回呼子に来ていただき、もしくは京都の工房にお招きいただいたりした。
お披露目式は中尾家屋敷にて2022年5月28日にされることになった。
お披露目会の前日は晴天で、港の海を背景にコンテナから梱包された状態の曳山が降ろされた。そして堀木さんの指示のもと、中尾家屋敷の中庭で組み立てられ、屋敷内に配置されていった。
見たことのない巨大な和紙の造形物が、親と子の鯨という形で目の前に現れたのだ。私が想像していたよりもスケールも芸術性も遥かに高い完成度で圧倒されてしまった。
光が灯されると、和紙独特の柔らかな光が、鯨に施された模様を浮かび上がらせ、その美しい鯨のフォルムを通して屋敷の薄暗い空間を神々しく照らした。
鯨のフォルムが伝統建築を照らす
江戸時代の呼子の繁栄の象徴である鯨が、その繁栄を支えた鯨漁の頭領「中尾甚六」の屋敷を照らし、時代を超えた会合を果たしたように感じた。
堀木さんに最初に呼子に来ていただいた時に、鯨の曳山をどこに格納するか、ということで、格納庫になりうる古民家物件を堀木さんと見て回っていた。
どんな格納庫になるかによって、曳山のサイズなど搬入可能な形態で製作をしなければならなかったからだ。
物件巡りに疲れて休みをとったのが、この中尾家屋敷だった。
休憩しながら中尾家屋敷の高く巨大な梁が横たわる屋根を見上げて、「ここでいいやん!ここしかないやん!」と堀木さんが声を上げた。文化財だったりする建物に保管できるかどうか、があったが、ここしかない!が関係者の一念ともなって実現にこぎつけた。
呼子の繁栄の象徴である鯨と鯨組主の会合が、何か空気を動かしている気がしてならない。
この鯨の曳山が呼子の歴史的なプライドをかき立てて、地域の明るい未来を創造していく精神の拠り所になってくれることを祈りたい。
そして私は魔法でもかけられた気分になった。
1年と2ヵ月前に堀木さんが頭に中に描いていた鯨が、こうやって現実のものとなった。唐津くんちの曳山に負けない芸術性の高いものとして。
同時に、父が10年以上も前から故郷の活性化に取り組み、死に至る病床でも口にし続けていた「鯨の曳山」が長い時を経て目の前に現実のものとして現れたのである。魔法を見てるようだが、実際に私は当事者の1人として身をもって体験したのだ。
人の頭の中にあることは強烈な想いと掛け合わさることで、ときに継承され、ときに人と人を結びつけながら現実化していくのだ。
お披露目式は市長や役所の方々、地元の方々、そして多くのメディアも参加していただいた。
太鼓や唄といった芸能も織り交ぜた素晴らしいお披露目式であった。
多くのメディアが、「豊かな地域文化あってこその地方創生」という父の遺志、その遺志を息子である私が継承してきたストーリー、そして堀木エリ子さんの素晴らしい和紙の作品、と続け様に感銘を受けてくれているようであった。
「町への寄贈を終えて、どんなお気持ちですか?」と幾度もメディアから質問していただいた。
私は「感無量です。」と答えるしかなかった。
父への感傷的な気持ちも、達成感も、それほど感じてはおらず、単に素晴らしいなと感じて感無量だった。
父の遺志、呼子の歴史、鯨の曳山、お披露目会、それを祝ってくださった皆様、町の方々の祭り再興への気持ち、全てが素晴らしく、感無量だったのだ。
次号に続く
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神仕組みと和紙の曳山
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筆者プロフィール:進藤さわと
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。
1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。