日本社会に復帰できないでいたアジアの旅の放浪者マコト

これは、1981年に入社した
チャイハネのレジェンドが語る、
チャイハネの知られざる
ノンフィクションドラマである。

Vol,2は こちら から

1973年第一次石油ショックから3年後の1976年、私が二十歳の時でした。

1ドル300円の時代、海外旅行といえばパックツアーが主体で、海外に1,000ドル(30万円)以上持って行ってはいけない制限があったほどで、アジアに行くにはコレラの予防接種は必須という時代でした。(アミナコレクション創業の年です。)

友達のお兄さんから「知り合いの旅行会社から15人集めればネパール1ヶ月間の往復チケットが7万円の格安で行けるから行かないか?」と誘われて、友達3人で行ったのが最初の旅行でした。

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ネパールへ旅行に行った際のマコトと友人

なにしろ日本国内も満足に知らない若者がもの珍しさだけでネパールへと旅立ちました。
1ドル300円を12ルピーに換金して、安宿が一泊5ルピーだったので125円で泊まれてしまいます。食事は外人向けのこ汚いレストランで2ルピー(50円)あれば目玉焼きがのってるフライドライスでお腹一杯になります。

カトマンズの中心地だったダルバール広場には「ヒッピーバス」が停まっていました。
ロンドン行きまで100ドル、パリまで80ドルの看板があり、ベンツの護送車を改造した乗合い大型バスがカッコ良くて、まだまだ平和な時代でヨーロッパまで陸路でのんびり行くのでしょう。今度来るときは絶対乗ってやると憧れてしまいます。

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当時のマコト

ネパールで出会った日本旅行者は、純粋にトレッキングを楽しむ登山者以外はお坊さんをドロップアウトした人やビザが切れてパスポートも紛失して数年間日本に帰ってない人とか、一癖も二癖も個性のある人ばかりでした。

既にアメリカでは1960年から70年代にかけてヒッピー文化は終っていましたが、「拳銃を向けられたら銃口に一輪のバラを挿す」のがフラワーチルドレンなんだってと、ヒッピーの思想に憧れ、ほとんどの白人はヨーロッパからの旅行者でしたが、世間を知らない私たちは白人に見習って、クルタにベスト、スカーフとナンチャッテヒッピーになり、毎日が夢のように、1ヶ月あっという間に過ぎてゆき、気付けば浦島太郎状態でネパールの虜になっていました。

日本に帰ってすぐにアルバイトでお金を貯めてフラフラと出掛け、お金が無くなると帰ってきてはバイト、又行ってと5年間行ったり来たりの生活が続きました。

その頃は「地球の歩き方」も無く、「バックパッカー」という言葉もなく、あまりにも貧乏旅行のためかスリランカで体調が悪くなり羽田空港に帰国したところ救急車で隔離病院に連れていかれサルモネラ菌というウイルスにかかっていたことが判明しました。

絵はがきの中の大自然の海から東京のコンクリートジャングルに帰国した私は仕事も手に付かずブラブラと過ごしていました。「なぜ人間は生きているんだ!」と、訳の分らない事を思いながらフラッシュバックの連続で落ち込んでいました。
ニートという言葉がなかったですが、今思うとニートの最先端だったのかもしれません。

そんな私でしたが1981年の春、BOSS(アミナコレクション創業者、進藤幸彦)に拾われたのです。

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当時のBOSS

チャイハネに入るきっかけは、最初に一緒にネパールへ行った友達の一人が、もう既に社会復帰して、アクセサリー屋の営業マンとして働いていました。

彼女もでき楽しそうにしているのを見て、「オレもそういう仕事だったらできそうかも。どこか募集してないか?」と販売の経験も全くないのに尋ねたところ、

「横浜の中華街にチャイハネって変な店があって「スタッフ募集」と店頭にあったな。その店に冬でもビーサンで全身ピンクの布をまとったキョウサンという店長がいてさ、売れ筋のチェーンブレスとか袋に入れて持って行くと50個とか100個とか注文してくれればいいのに、おもむろに袋に手を突っ込んで一握りして2~3回振って幾つか落としながら「この位かな」って数を決めるんだよ。最初から何個って注文すればいいのにさ」

と、そんなブッ飛んでる店長にも会いたかったので次の日履歴書を持って「チャイハネ」へ行きました。

店頭には社長が居て履歴書を見ながら2~3分で、「じゃあ明日から来てくれ」そう、そこにはキョウサン以上にブッ飛んでるBOSSが現れたのでした!

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当時のBOSSとキョウサン

「ちょうど、これから店の前のシルクロード舞踏館がオープンする。第1回目の「新体道」の教室が始まるので出席するように」と指示がありました。

新体操?入社試験なのかとの思い教室に参加しました。
ところがとんでもない、組手や体技の稽古が始まり武道の教室だったのです。
まずは体力作りからと真剣に続け、夏には合宿まで行くほどになりました。

先生を雇い生徒の月謝で運営をしてたので最初の教室には生徒が居ません。
最初はサクラとしての生徒だったので、気流法や修験舞踊、鬼剣舞など参加しました。太極拳では先生の助手免許までとってしまい、仕事中にヨガ教室に参加したり、貴重な体験ができ感謝しています。

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当時のチャイハネ Part1【本店】
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「フォークロアー世界への旅」進藤幸彦 著
18.ヒマラヤの哀歌と山唄 の冒頭から

「いやあ、ネパールだ、ネパールだ、また来ちゃったよう。」マコトが感にたえないような声を出してカトマンズの空気を吸い込んだ。
マコトはメンバーに加わる前は、日本社会に復帰できないでいたアジアの旅の放浪者だった。タイ、インド、スリランカ、ネパール、インドネシアと、日本で働いてお金を貯めては旅に出て、なくなると日本に戻ってアルバイトをするというパターンだ。こういう若者が男女を問わず多くなっている。彼らは一様に26歳くらいになると不安になってくるようだ。このまま気ままな暮らしが性に合ってしまい、日本社会ではまともな仕事ができなくなってしまうのではないかという脅えである。

まさしくその通り。BOSSに見抜かれていました。
チャイハネでバイトしてお金を貯めて、また旅行へ行くつもりだったのが・・・

つづく

Vol,2は こちら から

マコトさんのプロフィール画像

筆者プロフィール:マコト

1981年に3番目に入社したチャイハネの社員。
チャイハネPart1(本店)の二代目店長を経て、営業部長に就任。
その後定年を迎え、引き続き現役で本部で働き続けて40年。
自分を一言で表すと……、ハッピー・マコト! かな。


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