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これは、1981年に入社した チャイハネのレジェンドが語る、 チャイハネの知られざる ノンフィクションドラマである。
Vol,1は こちら から
40年前の話です。 光陰矢の如しと申しますが、ずいぶん昔のようですが改めて振り返ってみたら、あっと言う間の40年間だった事に気付かされました。
当事の「チャイハネ」は船小屋をイメージした古民家の1階がお店で、2階は大家さん一家が住んでいて、お店の奥にはコの字型に中庭があり、風流な造りになっていました。 大家のお爺さんはラーメン屋を営んでいて、店前の道路で「横浜開港祭」の前身の「横浜どんたく」(今でいうフリーマーケット)で元気良く商売していたBOSSと顔なじみになり、「ラーメン屋を引退するからここで店をやってみないか?」と始まったのがきっかけだと聞いています。(1979年)
実は更に6年前の1972年から世田谷ボロ市にBOSSは出店していたのです。 商売の原点でもある対面販売として、50年間今でも毎年、12月と1月の15日16日に出店が続いています。取引先の倉庫で水びたしになったシミ付のインドのナムダマットをタダ同然で仕入れ、叩き売りした時は面白かったです。
1000円から「500円、300円、もう100円だ、持ってけ!」と、まるで寅さん状態で、商売の面白さを味わいました。 今では新人スタッフの登竜門としてボロ市を体験させるのが伝統になっていますが、私は5年間商売の原点をみっちりと学びました。
なにしろ販売経験もなく、社会復帰したばかりの私の最初の仕事は、大きな包装紙を色々な大きさに切ってのりで貼る袋作りで、消しゴムで作った「チャイハネ」文字のスタンプを押してできあがりです! お香が入るサイズや指輪が入るサイズなど、色々な大きさの袋を作り溜めします。
チャイハネの店開けは店内の照明は20コぐらい、全て裸電球を1コづつ手動で点けます。 店頭にはバリのサローンを張ってディスプレー、大きな鏡の前にカゴ盛りにした色々な種類の世界の帽子やスカーフ類を置くと必ずお客さんは立ち止り身に着けてくれます。
暗くなると外にも裸電球をぶらさげて火事にならないようバザールの雰囲気を出して、閉店には、また1コづつ消して帰ります。
お店の仕事以外は営業車に民芸品を積んで関東一円の小売店さんを回って卸売りに行く外営業もしていました。 卸先に電話するにも店内のレジ横にある電話が1台しか無いほど、こじんまりとした会社でしたが、その頃は国内から海外の生地を仕入れオリジナル衣料を作っていて上大岡にある縫製工場へ取りに行くのも仕事の1つでした。
シルクロード舞踏館の生徒さんにも人気の高いスウェット生地の太極拳スーツやヨガスーツ、地方の教室からも注文がきていました。 ネパールからのオリジナル衣料が始まった頃はコザックマントや農民パンツスーツが売れ筋でした。
アクセサリーでは、500円~1000円のアニマルチェーンブレスや七宝リングにホワイトメタルのイヤリング。不良品のパーツなど組合わせて勝手に値段も付けて売場に置いとくと売れたりします。その時は異常な喜びが襲ってきて小さなオリジナル魂に火が点きます。 雑貨ではキャメルランプや、ラジャスタンシューズ、うるしの小箱、ソープストーンにクリシュナスカーフ、まだまだアジアの民芸品が珍しく何でも売れる時代です。
最初にボスと一緒に外営業で湘南の海岸を通った時でした。 「暑いなぁ・・・よし泳ぐか?ここで止まれ!」と海パンもタオルも無いのにいきなりパンツ一丁で海へ飛び込みました。 当然私もその後を追いかけるようにダイブしました。おかげ様で帰りはベトベトで、後の事は考えないワイルド感満載のエネルギッシュなBOSSでありました。
チャイハネパート1とパート2 2つのお店がありましたが、男手はBOSSと私の二人と女性は学生やアルバイトが多く、キョウサンの他5~6人交代で店番をしていました。
海外から荷物が届くとシルクロード舞踏館で荷開けが始まります。ダンボールで届けば良いのですが木箱でくると私の出番で大きなバールで格闘します。
仕入れから荷開け、小売販売と卸しと小規模ではありましたが全て携わってた事が醍醐味だったのでしょうか、やり甲斐もありました。
南門シルクロードの夜は元町側の前田橋から入ると真っ暗で遠くにチャイハネの電気が見えるほど、人影もまばらな通りでした。 残業は1人で十分だったのですが、港が近いこともありパート2で一人女性が残業していると、海外の船乗りがナンパにくることも度々あり、ボディガードとしても活躍していました。
ある日、残業がチャイハネパート1に1人、パート2にBOSSの時に「今から2人連れのお客様が行くからおまけしてやってくれ。帰り飲みに行くから」と電話がきます。 民芸店で働いていると聞き、情報収集しようと帰りに飲みに行く約束をしたようでした。
常にBOSSはチャイハネと商売の事が頭から離れず、ビジネスの経営に関してはズバ抜けた感性を持っています。 数日後、二人の女の子はチャイハネのスタッフに、もう一人はシルクロード舞踏館の生徒になっていたほどBOSSの魅力の虜になってしまいます。
チャイハネは11時から21時までの営業時間ですが、夜はお客さんが居ると何時迄でも営業を続けます。夕食を終えた酔っぱらいのお客さんが物珍しさと勢いで買ってくれます。 閉店するとほとんど毎晩BOSSに連れられてキョウサンと飲み歩いていましたが、最終で帰っても朝はゆっくりですので夜の時間感覚がズレていました。
ある日、とうとう最終電車に間に合わずBOSSの家にご厄介になった時がありました。 朝起きたら、なんと3人子供たちとオムツをした女の子が私の回りをグルグルと取り囲んでインディアンが白人を捕まえたような状態で目を覚ましました。そうです、その時こそが小学校1年生だった2代目社長との初対面だったのでした! あの頃もっと可愛がっていればナァ・・・・・・
だんだんとスタッフも増え毎週火曜日の朝にミーティングが始まります。 シルクロード舞踏館や隣のエルという喫茶店でやったり、天気の良い日は山下公園の芝生で円陣になって、売上発表や出張報告やその週の出来事を発表したりホームルームのようです。 そういえばBOSSの前職は高校教師で、毎日が文化祭をやっているようで楽しかったなぁ。
パート2の前に大型バスの駐車場があり、団体観光客のおば様たちが出発までの10分間で目の前のパート2に飛び込み手当り次第買い物をして帰るという現象が起こります。(これこそが爆買い!)
チャイハネの常連さんも年々増えてきます。 常連さんから話を聞くと、横浜では「チャイハネ」、吉祥寺では「はるばる屋」や「チチカカ」、高円寺の「むげん堂」、青山の「グランピエ」、六本木では「チョロバザール」など、民俗音楽やエスニック衣料や小物、アクセサリーが大好きなお客さんが老舗の民芸品屋さん回りをしているらしく、東京、横浜のみならず、日本全国に民芸屋さんがたくさんでき始めた時期でもあり、輸入雑貨店のバブリィー時代に突入していきます。
BOSSに拾われた私の人生も、ハッピーな時代に突入していきます。
感謝!
「当時の横浜、南門シルクロード通り」編につづく
1981年に3番目に入社したチャイハネの社員。 チャイハネPart1(本店)の二代目店長を経て、営業部長に就任。 その後定年を迎え、引き続き現役で本部で働き続けて40年。 自分を一言で表すと……、ハッピー・マコト! かな。
これは、1981年に入社した
チャイハネのレジェンドが語る、
チャイハネの知られざる
ノンフィクションドラマである。
Vol,1は こちら から
40年前の話です。
光陰矢の如しと申しますが、ずいぶん昔のようですが改めて振り返ってみたら、あっと言う間の40年間だった事に気付かされました。
当事の「チャイハネ」は船小屋をイメージした古民家の1階がお店で、2階は大家さん一家が住んでいて、お店の奥にはコの字型に中庭があり、風流な造りになっていました。
大家のお爺さんはラーメン屋を営んでいて、店前の道路で「横浜開港祭」の前身の「横浜どんたく」(今でいうフリーマーケット)で元気良く商売していたBOSSと顔なじみになり、「ラーメン屋を引退するからここで店をやってみないか?」と始まったのがきっかけだと聞いています。(1979年)
実は更に6年前の1972年から世田谷ボロ市にBOSSは出店していたのです。
商売の原点でもある対面販売として、50年間今でも毎年、12月と1月の15日16日に出店が続いています。取引先の倉庫で水びたしになったシミ付のインドのナムダマットをタダ同然で仕入れ、叩き売りした時は面白かったです。
1000円から「500円、300円、もう100円だ、持ってけ!」と、まるで寅さん状態で、商売の面白さを味わいました。
今では新人スタッフの登竜門としてボロ市を体験させるのが伝統になっていますが、私は5年間商売の原点をみっちりと学びました。
なにしろ販売経験もなく、社会復帰したばかりの私の最初の仕事は、大きな包装紙を色々な大きさに切ってのりで貼る袋作りで、消しゴムで作った「チャイハネ」文字のスタンプを押してできあがりです!
お香が入るサイズや指輪が入るサイズなど、色々な大きさの袋を作り溜めします。
チャイハネの店開けは店内の照明は20コぐらい、全て裸電球を1コづつ手動で点けます。
店頭にはバリのサローンを張ってディスプレー、大きな鏡の前にカゴ盛りにした色々な種類の世界の帽子やスカーフ類を置くと必ずお客さんは立ち止り身に着けてくれます。
暗くなると外にも裸電球をぶらさげて火事にならないようバザールの雰囲気を出して、閉店には、また1コづつ消して帰ります。
お店の仕事以外は営業車に民芸品を積んで関東一円の小売店さんを回って卸売りに行く外営業もしていました。
卸先に電話するにも店内のレジ横にある電話が1台しか無いほど、こじんまりとした会社でしたが、その頃は国内から海外の生地を仕入れオリジナル衣料を作っていて上大岡にある縫製工場へ取りに行くのも仕事の1つでした。
シルクロード舞踏館の生徒さんにも人気の高いスウェット生地の太極拳スーツやヨガスーツ、地方の教室からも注文がきていました。
ネパールからのオリジナル衣料が始まった頃はコザックマントや農民パンツスーツが売れ筋でした。
アクセサリーでは、500円~1000円のアニマルチェーンブレスや七宝リングにホワイトメタルのイヤリング。不良品のパーツなど組合わせて勝手に値段も付けて売場に置いとくと売れたりします。その時は異常な喜びが襲ってきて小さなオリジナル魂に火が点きます。
雑貨ではキャメルランプや、ラジャスタンシューズ、うるしの小箱、ソープストーンにクリシュナスカーフ、まだまだアジアの民芸品が珍しく何でも売れる時代です。
最初にボスと一緒に外営業で湘南の海岸を通った時でした。
「暑いなぁ・・・よし泳ぐか?ここで止まれ!」と海パンもタオルも無いのにいきなりパンツ一丁で海へ飛び込みました。
当然私もその後を追いかけるようにダイブしました。おかげ様で帰りはベトベトで、後の事は考えないワイルド感満載のエネルギッシュなBOSSでありました。
チャイハネパート1とパート2 2つのお店がありましたが、男手はBOSSと私の二人と女性は学生やアルバイトが多く、キョウサンの他5~6人交代で店番をしていました。
海外から荷物が届くとシルクロード舞踏館で荷開けが始まります。ダンボールで届けば良いのですが木箱でくると私の出番で大きなバールで格闘します。
仕入れから荷開け、小売販売と卸しと小規模ではありましたが全て携わってた事が醍醐味だったのでしょうか、やり甲斐もありました。
南門シルクロードの夜は元町側の前田橋から入ると真っ暗で遠くにチャイハネの電気が見えるほど、人影もまばらな通りでした。
残業は1人で十分だったのですが、港が近いこともありパート2で一人女性が残業していると、海外の船乗りがナンパにくることも度々あり、ボディガードとしても活躍していました。
ある日、残業がチャイハネパート1に1人、パート2にBOSSの時に「今から2人連れのお客様が行くからおまけしてやってくれ。帰り飲みに行くから」と電話がきます。
民芸店で働いていると聞き、情報収集しようと帰りに飲みに行く約束をしたようでした。
常にBOSSはチャイハネと商売の事が頭から離れず、ビジネスの経営に関してはズバ抜けた感性を持っています。
数日後、二人の女の子はチャイハネのスタッフに、もう一人はシルクロード舞踏館の生徒になっていたほどBOSSの魅力の虜になってしまいます。
チャイハネは11時から21時までの営業時間ですが、夜はお客さんが居ると何時迄でも営業を続けます。夕食を終えた酔っぱらいのお客さんが物珍しさと勢いで買ってくれます。
閉店するとほとんど毎晩BOSSに連れられてキョウサンと飲み歩いていましたが、最終で帰っても朝はゆっくりですので夜の時間感覚がズレていました。
ある日、とうとう最終電車に間に合わずBOSSの家にご厄介になった時がありました。
朝起きたら、なんと3人子供たちとオムツをした女の子が私の回りをグルグルと取り囲んでインディアンが白人を捕まえたような状態で目を覚ましました。そうです、その時こそが小学校1年生だった2代目社長との初対面だったのでした!
あの頃もっと可愛がっていればナァ・・・・・・
だんだんとスタッフも増え毎週火曜日の朝にミーティングが始まります。
シルクロード舞踏館や隣のエルという喫茶店でやったり、天気の良い日は山下公園の芝生で円陣になって、売上発表や出張報告やその週の出来事を発表したりホームルームのようです。
そういえばBOSSの前職は高校教師で、毎日が文化祭をやっているようで楽しかったなぁ。
パート2の前に大型バスの駐車場があり、団体観光客のおば様たちが出発までの10分間で目の前のパート2に飛び込み手当り次第買い物をして帰るという現象が起こります。(これこそが爆買い!)
チャイハネの常連さんも年々増えてきます。
常連さんから話を聞くと、横浜では「チャイハネ」、吉祥寺では「はるばる屋」や「チチカカ」、高円寺の「むげん堂」、青山の「グランピエ」、六本木では「チョロバザール」など、民俗音楽やエスニック衣料や小物、アクセサリーが大好きなお客さんが老舗の民芸品屋さん回りをしているらしく、東京、横浜のみならず、日本全国に民芸屋さんがたくさんでき始めた時期でもあり、輸入雑貨店のバブリィー時代に突入していきます。
BOSSに拾われた私の人生も、ハッピーな時代に突入していきます。
感謝!
「当時の横浜、南門シルクロード通り」編につづく
Vol,1は こちら から
筆者プロフィール:マコト
1981年に3番目に入社したチャイハネの社員。
チャイハネPart1(本店)の二代目店長を経て、営業部長に就任。
その後定年を迎え、引き続き現役で本部で働き続けて40年。
自分を一言で表すと……、ハッピー・マコト! かな。