人気のキーワード
★隙間時間にコラムを読むならアプリがオススメ★
今やアミナコレクションの主要事業の1つとなった『倭物やカヤ』。 その誕生のきっかけや秘話、店名やロゴに込められた思いを、立ち上げた本人である社長自身が綴ります。
挑戦の日々や迷い、工夫の裏側まで、どうぞお楽しみください。
2005年に『おばけの金太』という民芸品に出会った。
チャイハネが本格的に全国展開を開始した頃、チャイハネ熊本店を立ち上げる運びとなった。そのオープンを見届けた後、熊本城にあった熊本県伝統工芸館に1人立ち寄った。
そこに『おばけの金太』はあった。赤い漆塗りの愛嬌ある民芸品で、ひもをひっぱると「あっかんべー」をする仕掛け。なんとも愛らしく熊本県の観光ポスターにもたびたび登場する、熊本のDNAともいえる民芸品だ。 気に入って買ったのだが、店員の女性が「一子相伝で後継者難に直面しているらしく、もう作れなくなるかもしれない」とぽつりと話してくれた。
それからずっと、『おばけの金太』は私のデスクの上に置かれていたが、それが目に入るたびに、「もう失われてしまうかもしれない」ということが胸をかすめた。 それ以来、なんとなく、失われつつある日本の民芸であったり、日本古来からの生活慣習にアンテナを張るようになっていった。
それから4年後の2009年、リーマンショックのあおりを受けて横浜中華街の大通りの一等地に空きが出た。 アミナコレクションも大打撃を受けており、まだ足元もひどい状況が続いていたが、創業者である父(以下通称、ボス)は「念願の大通り出店だ」ということで契約を進めようとした。
当時のアミナコレクションは、創業30年以上にわたり、エスニック諸国の文化をテーマにした『チャイハネ』1本でやってきていた。そこで問題になったのが、その大通りの店で何をやるか。
大通りからチャイハネ本店が目と鼻の先であるにもかかわらず、「チャイハネをやればいい」とボスは主張した。それは無理があるのだ。
そのときに、何年もずっと溜めていた想いが突き上げてきた。 『おばけの金太』のように日本のアイデンティティーに関わるものが消えていこうとしているなら、全てが失われるより先に日本のフォークロアをテーマに新事業を立ち上げたい。
この構想をボスに提案した。 ボスが民俗文化に傾倒したきっかけは日本の民俗芸能であったし、チャイハネをやりながらも神楽の公演をやっていたりもしていたから、日本をテーマにした新業態は賛成してくれるものと思っていた。 ところが、意外にも猛反対を受ける。
ボスが反対した理由は、 「かつて日本の民芸品店が日本中にあったが、どんどん閉店してほとんど滅びてしまった。それをまた立ち上げても失敗するだけだし、リーマンショックで打撃を受けている中で失敗は許されない」ということだった。
しかしながら当時、代官山で手拭いを新たにリデザインした店舗が人気を博しはじめていたりと、和雑貨・和民芸の世界に新たな兆しを感じていた。 ところが、そのあたりをいくら説明しても分かってくれない。2晩にわたり大喧嘩を繰り広げたのだが、議論するほど互いに譲れなくなっていくだけだった。
最後に私が「何と言われようとやらせていただく。とにかく店舗をオープンさせるから、それを見てやはり問題だというなら言ってほしい。」と啖呵を切ってボスの前を去った。
そのようにして、ほとんど無理矢理新事業をスタートすることになった。 大通りの物件の契約が済んだのが9月だったのだが、大通りは賃料も高く、またリーマンショックの打撃もあったため、空家賃を避ける必要があった。そのため同年の12月、つまり3ヶ月後にオープンさせる運びとなった。
その間にコンセプト構築や、和雑貨業界のリサーチを一気に行い、200のメーカーや工房と商談をして最終的に100社との取引を結んだ。 リーマンショックからの会社立て直しで忙しくもあったので、3ヶ月間休みなしであった。
倭物やカヤを立ち上げるときによく口にしていたのは「日本人を活性化し、日本的な普遍性を世界に発信する」ということ。 伝統は大事だが、変化しないものは滅びる。なので日本人のアイデンティティーをしっかり未来に残すため、日本の古きよき物やライフスタイルを現代に活きるカタチに再創造、発信していく。そしてこの日本独自のスタイルを世界へ発信していく。 まさに現在のコンセプト「+NIPPON DNA」の魂は立ち上げのときからあった。
例えば、 下駄売場を作るときは「日本の風景からカランコロンという音を失くしていいものだろうか?」と話しながら、大胆に1スパン分を使ってコーナーを展開した。 現代にも活きるモダンなデザインのがま口や手拭いなどを必死に探した。 漆や陶器についても、地方の地に根付いた産業のパワーと再創造されたデザインの融合を探し求めた。 桝(ます)で酒を飲んだり、風呂敷で包む、ふんどしを履く…、といった日本人ならではのライフスタイルを紹介していった。
『倭物やカヤ』はオープン直後から好調だった。
当時はまだ和雑貨ブームやインバウンドブームが来る前であり、和雑貨業界も疲弊していたときに、泥に咲くのようにカヤは鮮烈にデビューした。
そのためか多くの和雑貨業者が視察に訪れてきていた。 大喧嘩したボスも店舗を見にくると嬉しそうにしていて、仲間の社長を連れてきたりしていた。
創業以来30年間、チャイハネしかやってこなかった会社に新たな業態が成功したことは大きい。 エスニックではなく、フォークロア(民俗文化)を理念にした会社だからこそ、日本をやってもいい。この事業展開を「フォークロア再創造」と呼び、のちに多様な業態を展開する礎となった。
アミナコレクションは『倭物やカヤ』の誕生により、“エスニック企業”から“フォークロア企業”に変貌を遂げたのだ。
意見が決裂していたので、コンセプトや商品構成、売場設計にボスは参加していなかったが、ずっと中華街で店舗を展開してきた流れは汲みたかったので、店名と看板はボスに頼って見出してもらった。
はるか昔、4世紀ごろに朝鮮半島と日本の間に伽耶(カヤ)という国があり、鉄器など大陸の文化を日本に伝えてきたそうだ。 明治の文明開化では日本文明と西洋文明との融合が起きたが、古代から大陸の文明との融合も起きていた。
日本のアイデンティティーをテーマに事業展開するとすれば、日本文化が良き悪きにせよ、変化していく様を見つめていく必要がある。その一つの象徴としてとらえて、ショップ名を「カヤ」と名づけることとした。
最初は「チャイハネ カヤ」という名前でスタートしたが、チャイハネの名前に頼らないブランドの独立を企図して『倭物やカヤ』と変更した。
「倭物や」という言葉は、オープンのとき掲げられた看板にボスの選んだ横浜浮世絵の図に、倭物やとあったのをヒントにした。
カヤ国の当時に日本が「倭」と呼ばれていたことを踏まえて、日本の歴史的な芯を感じるなと思い、採用した。
『倭物やカヤ』のロゴにも使用されている「荒雲」と「荒波」は、明治維新の文明開化において、急激な西洋化で日本文化が危機に瀕したことを表現している。
現在の日本も、文化的なアイデンティティーが存亡の危機であることから、「荒波」「荒雲」を乗り越えて、時代に日本人のDNAがしっかり継承されていく、そういう志がデザインに込められている。
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。 1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。
日本の美しいこころを表現したブランド「岩座」誕生秘話▼
チャイハネができるまで▼
今やアミナコレクションの主要事業の1つとなった『倭物やカヤ』。
その誕生のきっかけや秘話、店名やロゴに込められた思いを、立ち上げた本人である社長自身が綴ります。
挑戦の日々や迷い、工夫の裏側まで、どうぞお楽しみください。
目次
きっかけは1つの「民芸品」との出会い
2005年に『おばけの金太』という民芸品に出会った。
チャイハネが本格的に全国展開を開始した頃、チャイハネ熊本店を立ち上げる運びとなった。そのオープンを見届けた後、熊本城にあった熊本県伝統工芸館に1人立ち寄った。
そこに『おばけの金太』はあった。赤い漆塗りの愛嬌ある民芸品で、ひもをひっぱると「あっかんべー」をする仕掛け。なんとも愛らしく熊本県の観光ポスターにもたびたび登場する、熊本のDNAともいえる民芸品だ。
気に入って買ったのだが、店員の女性が「一子相伝で後継者難に直面しているらしく、もう作れなくなるかもしれない」とぽつりと話してくれた。
それからずっと、『おばけの金太』は私のデスクの上に置かれていたが、それが目に入るたびに、「もう失われてしまうかもしれない」ということが胸をかすめた。
それ以来、なんとなく、失われつつある日本の民芸であったり、日本古来からの生活慣習にアンテナを張るようになっていった。
それから4年後の2009年、リーマンショックのあおりを受けて横浜中華街の大通りの一等地に空きが出た。
アミナコレクションも大打撃を受けており、まだ足元もひどい状況が続いていたが、創業者である父(以下通称、ボス)は「念願の大通り出店だ」ということで契約を進めようとした。
当時のアミナコレクションは、創業30年以上にわたり、エスニック諸国の文化をテーマにした『チャイハネ』1本でやってきていた。そこで問題になったのが、その大通りの店で何をやるか。
大通りからチャイハネ本店が目と鼻の先であるにもかかわらず、「チャイハネをやればいい」とボスは主張した。それは無理があるのだ。
そのときに、何年もずっと溜めていた想いが突き上げてきた。
『おばけの金太』のように日本のアイデンティティーに関わるものが消えていこうとしているなら、全てが失われるより先に日本のフォークロアをテーマに新事業を立ち上げたい。
この構想をボスに提案した。
ボスが民俗文化に傾倒したきっかけは日本の民俗芸能であったし、チャイハネをやりながらも神楽の公演をやっていたりもしていたから、日本をテーマにした新業態は賛成してくれるものと思っていた。
ところが、意外にも猛反対を受ける。
ボスが反対した理由は、
「かつて日本の民芸品店が日本中にあったが、どんどん閉店してほとんど滅びてしまった。それをまた立ち上げても失敗するだけだし、リーマンショックで打撃を受けている中で失敗は許されない」ということだった。
しかしながら当時、代官山で手拭いを新たにリデザインした店舗が人気を博しはじめていたりと、和雑貨・和民芸の世界に新たな兆しを感じていた。
ところが、そのあたりをいくら説明しても分かってくれない。2晩にわたり大喧嘩を繰り広げたのだが、議論するほど互いに譲れなくなっていくだけだった。
最後に私が「何と言われようとやらせていただく。とにかく店舗をオープンさせるから、それを見てやはり問題だというなら言ってほしい。」と啖呵を切ってボスの前を去った。
反対を押し切ってでも挑んだ、新事業の立ち上げ
そのようにして、ほとんど無理矢理新事業をスタートすることになった。
大通りの物件の契約が済んだのが9月だったのだが、大通りは賃料も高く、またリーマンショックの打撃もあったため、空家賃を避ける必要があった。そのため同年の12月、つまり3ヶ月後にオープンさせる運びとなった。
その間にコンセプト構築や、和雑貨業界のリサーチを一気に行い、200のメーカーや工房と商談をして最終的に100社との取引を結んだ。
リーマンショックからの会社立て直しで忙しくもあったので、3ヶ月間休みなしであった。
倭物やカヤを立ち上げるときによく口にしていたのは「日本人を活性化し、日本的な普遍性を世界に発信する」ということ。
伝統は大事だが、変化しないものは滅びる。なので日本人のアイデンティティーをしっかり未来に残すため、日本の古きよき物やライフスタイルを現代に活きるカタチに再創造、発信していく。そしてこの日本独自のスタイルを世界へ発信していく。
まさに現在のコンセプト「+NIPPON DNA」の魂は立ち上げのときからあった。
例えば、
下駄売場を作るときは「日本の風景からカランコロンという音を失くしていいものだろうか?」と話しながら、大胆に1スパン分を使ってコーナーを展開した。
現代にも活きるモダンなデザインのがま口や手拭いなどを必死に探した。
漆や陶器についても、地方の地に根付いた産業のパワーと再創造されたデザインの融合を探し求めた。
桝(ます)で酒を飲んだり、風呂敷で包む、ふんどしを履く…、といった日本人ならではのライフスタイルを紹介していった。
『倭物やカヤ』誕生が、アミナコレクションを変えた
『倭物やカヤ』はオープン直後から好調だった。
当時はまだ和雑貨ブームやインバウンドブームが来る前であり、和雑貨業界も疲弊していたときに、泥に咲くのようにカヤは鮮烈にデビューした。
そのためか多くの和雑貨業者が視察に訪れてきていた。
大喧嘩したボスも店舗を見にくると嬉しそうにしていて、仲間の社長を連れてきたりしていた。
創業以来30年間、チャイハネしかやってこなかった会社に新たな業態が成功したことは大きい。
エスニックではなく、フォークロア(民俗文化)を理念にした会社だからこそ、日本をやってもいい。この事業展開を「フォークロア再創造」と呼び、のちに多様な業態を展開する礎となった。
アミナコレクションは『倭物やカヤ』の誕生により、“エスニック企業”から“フォークロア企業”に変貌を遂げたのだ。
看板と店名はボスによって手掛けられた
意見が決裂していたので、コンセプトや商品構成、売場設計にボスは参加していなかったが、ずっと中華街で店舗を展開してきた流れは汲みたかったので、店名と看板はボスに頼って見出してもらった。
はるか昔、4世紀ごろに朝鮮半島と日本の間に伽耶(カヤ)という国があり、鉄器など大陸の文化を日本に伝えてきたそうだ。
明治の文明開化では日本文明と西洋文明との融合が起きたが、古代から大陸の文明との融合も起きていた。
日本のアイデンティティーをテーマに事業展開するとすれば、日本文化が良き悪きにせよ、変化していく様を見つめていく必要がある。その一つの象徴としてとらえて、ショップ名を「カヤ」と名づけることとした。
最初は「チャイハネ カヤ」という名前でスタートしたが、チャイハネの名前に頼らないブランドの独立を企図して『倭物やカヤ』と変更した。
「倭物や」という言葉は、オープンのとき掲げられた看板にボスの選んだ横浜浮世絵の図に、倭物やとあったのをヒントにした。
カヤ国の当時に日本が「倭」と呼ばれていたことを踏まえて、日本の歴史的な芯を感じるなと思い、採用した。
「荒雲」と「荒波」に込めた願い
『倭物やカヤ』のロゴにも使用されている「荒雲」と「荒波」は、明治維新の文明開化において、急激な西洋化で日本文化が危機に瀕したことを表現している。
現在の日本も、文化的なアイデンティティーが存亡の危機であることから、「荒波」「荒雲」を乗り越えて、時代に日本人のDNAがしっかり継承されていく、そういう志がデザインに込められている。
筆者プロフィール:進藤さわと
アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。
1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。
関連記事
日本の美しいこころを表現したブランド「岩座」誕生秘話▼
チャイハネができるまで▼