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「シルクロード」をご存じですか?歴史の教科書で見たことがあるという方も多いかもしれません。 シルクロードは、古代の中国と西洋を結んだ道であり、それぞれの交易品を運ぶ商人たちが使った交易路のことです。 3月28日は「シルクロードの日」として知られています。 今回は、古代から様々な物や文化を運んだ道・シルクロードの歴史について解説します。
シルクロードとは、紀元前2世紀から15世紀半ばまで使われた、東洋と西洋をつなぐ道のことです。主に、中国やローマなどの東西都市で貿易をするために使われました。
「シルクロード」という名称を初めて使ったのは、ドイツの地理学者であるリヒトホーフェンといわれています。当時、中国から名産品として絹織物が多く輸出されていたことから、その交易路として使われた道を「絹の道=シルクロード」と名付けたのです。
20世紀にリヒトホーフェンの弟子であるスウェーデンの地理学者・ヘディンが「The Silk Road」という旅行記を発表したことをきっかけに、広く知られるようになしました。
シルクロードは、中国の都・長安を東側の起点とし、中央アジアを経て西洋側の起点・ローマやシリアのアンティオキアを結びました。 道中は砂漠や高原が続く、過酷で長い道のりです。 当時は自動車もありませんから、人々はラクダや馬を使ったり自らの足で歩いたりして荒野を進んでいきました。
その距離は、なんと14,000kmまでにもわたったとか。道中には水や食料を補給できるオアシス都市が点在しており、旅人たちはオアシス都市を渡り歩くようにして旅をしたことでしょう。
ところで、なぜ3月28日はシルクロードの日なのでしょうか? それは、この日にシルクロードにとって重大な発見がされたことに由来しています。
1900年3月28日、先述したスウェーデンの地理学者・ヘディンは楼蘭(ろうらん)という都市を発見しました。楼蘭は、約2000年前にシルクロードの中継地点として栄えたオアシス都市です。
ロプノール湖という湖の西側に位置していたことから、旅人にとっては水源にありつける貴重な都市でしたが、3世紀ごろにロプノール湖の水が干上がってしまったことをきっかけに、楼蘭は廃墟となってしまいました。 その後楼蘭は人々の記憶から忘れ去られてしまいますが、1900年にヘディンの一行が楼蘭を偶然発見したことにより、古代都市として研究が進められるようになりました。
楼蘭の発掘により、この地にシルクロードがあったことが裏付けられたため、3月28日は「シルクロードの日」と呼ばれるようになったのです。
歴史の古いシルクロードは、2014年にユネスコ世界文化遺産にも登録されています。 東洋と西洋の交流を促し、宗教などの文化や様々な商品を運ぶのに重要な役割を果たしたことが認められたからです。
シルクロードは、中国・カザフスタン・キルギスを通る長大な交易路のため、世界遺産として登録された際には3か国33遺跡にわたる遺跡群として登録されました。 先述した楼蘭のように、長い年月を経て廃墟となってしまった遺跡もたくさん含まれます。 世界遺産に登録されることで、遺跡が保全されシルクロードの記憶は後世に伝えられるようになることでしょう。
シルクロードの始まりは、紀元前2世紀の前漢の時代といわれています。 前漢とは、中小国家による戦争が続いていた中国を平定した古代国家です。
権力を得た前漢は、未開の地だった中央アジアに進出し、中央アジアの開拓を進めました。前漢の皇帝は、外交官へと中央アジアにおける貿易国や同盟国を見つけるよう命じ、これによってヨーロッパとの交易が始まりました。
交易では、東洋からは茶・香水・磁器・織物が、西洋からは馬・ラクダ・蜂蜜・ワインなどが輸出され、中国の名産品であった絹織物は、西洋で大変貴重なものとして取引されました。
薄く柔らかで滑らかな絹は、上流階級の人々に愛され、紀元前1世紀ごろにはローマやエジプト、ギリシアなどの大都市において高値で取引されるようになったそうです。
一方中国では西洋産の馬が求められ、同様に交易で取引されました。 中でも前漢の武帝の時代では、「汗血馬(かんけつば)」と呼ばれる中央アジア産の馬が求められました。
西洋の馬は中国の馬と比べて体格が良く長い距離を走ることができたといわれています。中央アジアの国家・フェルガナ(大苑)の馬は、 「血のような汗を流し、一日千里を走る名馬」 であるとして前漢の皇帝・武帝の耳に届き、渇望されたそうです。
交易には欠かせないシルクロードでしたが、1453年にオスマン帝国が勢力を拡大すると、東西の貿易は途絶えて使われなくなってしまいます。 ですが西洋人はなんとかして東洋の商品を手に入れようと、今度は海路を開拓していきました。
こうしてシルクロードは終わりをつげ、海を舞台に大航海時代が幕を開けたのです。
シルクロードでは、東西の様々な名産品が運ばれました。
東洋では、シルクロードを通じて西洋原産の食べ物が運ばれてきました。
ぶどうやザクロ、胡桃や胡瓜は、シルクロードを通じて東洋に知られた食べ物です。特にぶどうは、シルクロードを経て唐から日本に持ち込まれ、栽培が開始されました。 シルクロードがなければ、知られることのなかった食べ物はたくさんあったかもしれませんね。
シルクロードで運ばれたものは物資に限りません。
音楽や舞踊、宗教などの文化、楽器やガラス、紙、火薬などの製造方法もシルクロードを通じて伝わりました。
製紙の技術や火薬の製造法は、東洋から西洋に伝わった代表的な技術です。 シルクロードを通って技術者や宗教家、芸人なども行き来し、盛んに交流が行われました。
シルクロードの交易によって、人々の生活はより豊かで便利になり、様々な文化が花開いたといえるでしょう。
東西を結んだシルクロード。実はシルクロードは複数あることをご存知でしょうか?
というのも、シルクロードは古代から使われた交易路のため、街道として整備されているわけではありません。旅人たちが自らの足で切り開いてきた交易路のため、東西を結ぶルートは膨大に存在します。
シルクロードの東の始まりも、中国ではなく日本とする説もあるとか。シルクロードは厳密に定義のできない、まさにその場所に住まう人々の手でつくられた道なのです。
現在、ユネスコ世界遺産として登録されているシルクロードは3つあり、それぞれ「天山南路」「天山北路」「西域南路」と呼ばれています。 この3つのシルクロードは「オアシスの道」として知られており、砂漠や山脈の続く中央アジアのオアシス都市を通過して東西を結ぶルートです。
天山南路・天山北路は、中央アジアの天山山脈を基準にしたルートです。 2つのルートの大きな違いは、名前の通り山脈の南を通るか・北を通るかになります。
天山南路は、中国の長安を出発し、敦煌を経て天山山脈の南側を通ります。 山脈を通ったり、平均標高5000mの高原を通ったりする厳しいルートですが、隊商路として多用されたルートだったそうです。
天山北路は、天山南路よりも比較的新しい道です。 山越えや砂漠を通る必要がないので、時間はかかりますが穏やかな旅を送ることができます。
西域南路は、「オアシスの道」としては最も古いシルクロードで、紀元前2世紀ごろには使われていたという記録が残っています。 中央アジアの中央部に位置するタクラマカン砂漠の南側を通り、地理的には最短距離のルートです。
しかし、砂漠を通る必要があったり道中の湖が干上がってしまうことがあったため、オアシスの道の中では特に過酷なルートだったといわれています。 13世紀に元の都を訪れたイタリアの商人、マルコ・ポーロは、この西域南路を通ったそうですよ。
横浜にもシルクロードがあるのをご存じでしょうか?
横浜中華街を東洋、横浜元町ショッピングストリートを西洋と見立て、それをつなぐ通りのことを南門シルクロードと呼んでいます。 街路樹には中央アジア原産の姫りんごの木が植えられていて、春になると白い花を咲かせ、秋には小さな実がなります。
中華街大通りを曲がってから南門まで、約300メートルほどの通りにはご存じチャイハネ&岩座、大きな中華料理店や老舗中華など多種多様の店舗が並びます。 2004年にみなとみらい線開通し、2006年には横浜媽祖廟(まそびょう)が開廟しました。 この南門シルクロードの名付け親は、チャイハネ創業者でもあります。
本当に小さなシルクロードを旅しているように変化があり、南門を抜けると、中華街とは街並みががらり変わり、元町ショッピングストリートや山手西洋館、外人墓地など異国情緒を楽しむことができます。
荒野を越え、人々をつなげたシルクロード。 シルクロードがなかったら、私たちの生活は少し違ったものになっていたかもしれませんね。
シルクロードで始まった東西間の交易は、今ではよりグローバルに続いています。 3月28日には、砂漠を渡った古代の人々に思いをはせて、シルクロードの歴史を調べてみてはいかがでしょうか。
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「シルクロード」をご存じですか?歴史の教科書で見たことがあるという方も多いかもしれません。
シルクロードは、古代の中国と西洋を結んだ道であり、それぞれの交易品を運ぶ商人たちが使った交易路のことです。
3月28日は「シルクロードの日」として知られています。
今回は、古代から様々な物や文化を運んだ道・シルクロードの歴史について解説します。
目次
シルクロードとは
シルクロードとは、紀元前2世紀から15世紀半ばまで使われた、東洋と西洋をつなぐ道のことです。主に、中国やローマなどの東西都市で貿易をするために使われました。
「シルクロード」という名称を初めて使ったのは、ドイツの地理学者であるリヒトホーフェンといわれています。当時、中国から名産品として絹織物が多く輸出されていたことから、その交易路として使われた道を「絹の道=シルクロード」と名付けたのです。
20世紀にリヒトホーフェンの弟子であるスウェーデンの地理学者・ヘディンが「The Silk Road」という旅行記を発表したことをきっかけに、広く知られるようになしました。
シルクロードは、中国の都・長安を東側の起点とし、中央アジアを経て西洋側の起点・ローマやシリアのアンティオキアを結びました。
道中は砂漠や高原が続く、過酷で長い道のりです。
当時は自動車もありませんから、人々はラクダや馬を使ったり自らの足で歩いたりして荒野を進んでいきました。
その距離は、なんと14,000kmまでにもわたったとか。道中には水や食料を補給できるオアシス都市が点在しており、旅人たちはオアシス都市を渡り歩くようにして旅をしたことでしょう。
3月28日がシルクロードの日なのはなぜ?
ところで、なぜ3月28日はシルクロードの日なのでしょうか?
それは、この日にシルクロードにとって重大な発見がされたことに由来しています。
1900年3月28日、先述したスウェーデンの地理学者・ヘディンは楼蘭(ろうらん)という都市を発見しました。楼蘭は、約2000年前にシルクロードの中継地点として栄えたオアシス都市です。
ロプノール湖という湖の西側に位置していたことから、旅人にとっては水源にありつける貴重な都市でしたが、3世紀ごろにロプノール湖の水が干上がってしまったことをきっかけに、楼蘭は廃墟となってしまいました。
その後楼蘭は人々の記憶から忘れ去られてしまいますが、1900年にヘディンの一行が楼蘭を偶然発見したことにより、古代都市として研究が進められるようになりました。
楼蘭の発掘により、この地にシルクロードがあったことが裏付けられたため、3月28日は「シルクロードの日」と呼ばれるようになったのです。
世界遺産にもなった「長安-天山回廊の交易路網」
歴史の古いシルクロードは、2014年にユネスコ世界文化遺産にも登録されています。
東洋と西洋の交流を促し、宗教などの文化や様々な商品を運ぶのに重要な役割を果たしたことが認められたからです。
シルクロードは、中国・カザフスタン・キルギスを通る長大な交易路のため、世界遺産として登録された際には3か国33遺跡にわたる遺跡群として登録されました。
先述した楼蘭のように、長い年月を経て廃墟となってしまった遺跡もたくさん含まれます。
世界遺産に登録されることで、遺跡が保全されシルクロードの記憶は後世に伝えられるようになることでしょう。
シルクロードの歴史
シルクロードの始まりは、紀元前2世紀の前漢の時代といわれています。
前漢とは、中小国家による戦争が続いていた中国を平定した古代国家です。
権力を得た前漢は、未開の地だった中央アジアに進出し、中央アジアの開拓を進めました。前漢の皇帝は、外交官へと中央アジアにおける貿易国や同盟国を見つけるよう命じ、これによってヨーロッパとの交易が始まりました。
魅惑の絹織物
交易では、東洋からは茶・香水・磁器・織物が、西洋からは馬・ラクダ・蜂蜜・ワインなどが輸出され、中国の名産品であった絹織物は、西洋で大変貴重なものとして取引されました。
薄く柔らかで滑らかな絹は、上流階級の人々に愛され、紀元前1世紀ごろにはローマやエジプト、ギリシアなどの大都市において高値で取引されるようになったそうです。
名馬「汗血馬(かんけつば)」
一方中国では西洋産の馬が求められ、同様に交易で取引されました。
中でも前漢の武帝の時代では、「汗血馬(かんけつば)」と呼ばれる中央アジア産の馬が求められました。
西洋の馬は中国の馬と比べて体格が良く長い距離を走ることができたといわれています。中央アジアの国家・フェルガナ(大苑)の馬は、
「血のような汗を流し、一日千里を走る名馬」
であるとして前漢の皇帝・武帝の耳に届き、渇望されたそうです。
交易には欠かせないシルクロードでしたが、1453年にオスマン帝国が勢力を拡大すると、東西の貿易は途絶えて使われなくなってしまいます。
ですが西洋人はなんとかして東洋の商品を手に入れようと、今度は海路を開拓していきました。
こうしてシルクロードは終わりをつげ、海を舞台に大航海時代が幕を開けたのです。
シルクロードから伝来したもの
シルクロードでは、東西の様々な名産品が運ばれました。
東洋では、シルクロードを通じて西洋原産の食べ物が運ばれてきました。
ぶどうやザクロ、胡桃や胡瓜は、シルクロードを通じて東洋に知られた食べ物です。特にぶどうは、シルクロードを経て唐から日本に持ち込まれ、栽培が開始されました。
シルクロードがなければ、知られることのなかった食べ物はたくさんあったかもしれませんね。
シルクロードで運ばれたものは物資に限りません。
音楽や舞踊、宗教などの文化、楽器やガラス、紙、火薬などの製造方法もシルクロードを通じて伝わりました。
製紙の技術や火薬の製造法は、東洋から西洋に伝わった代表的な技術です。
シルクロードを通って技術者や宗教家、芸人なども行き来し、盛んに交流が行われました。
シルクロードの交易によって、人々の生活はより豊かで便利になり、様々な文化が花開いたといえるでしょう。
シルクロードを構成した代表的な3つのルート
東西を結んだシルクロード。実はシルクロードは複数あることをご存知でしょうか?
というのも、シルクロードは古代から使われた交易路のため、街道として整備されているわけではありません。旅人たちが自らの足で切り開いてきた交易路のため、東西を結ぶルートは膨大に存在します。
シルクロードの東の始まりも、中国ではなく日本とする説もあるとか。シルクロードは厳密に定義のできない、まさにその場所に住まう人々の手でつくられた道なのです。
現在、ユネスコ世界遺産として登録されているシルクロードは3つあり、それぞれ「天山南路」「天山北路」「西域南路」と呼ばれています。
この3つのシルクロードは「オアシスの道」として知られており、砂漠や山脈の続く中央アジアのオアシス都市を通過して東西を結ぶルートです。
天山山脈の南と北のルート「天山南路」「天山北路」(世界遺産)
天山南路・天山北路は、中央アジアの天山山脈を基準にしたルートです。
2つのルートの大きな違いは、名前の通り山脈の南を通るか・北を通るかになります。
天山南路は、中国の長安を出発し、敦煌を経て天山山脈の南側を通ります。
山脈を通ったり、平均標高5000mの高原を通ったりする厳しいルートですが、隊商路として多用されたルートだったそうです。
天山北路は、天山南路よりも比較的新しい道です。
山越えや砂漠を通る必要がないので、時間はかかりますが穏やかな旅を送ることができます。
最短だが過酷なルート「西域南路」
西域南路は、「オアシスの道」としては最も古いシルクロードで、紀元前2世紀ごろには使われていたという記録が残っています。
中央アジアの中央部に位置するタクラマカン砂漠の南側を通り、地理的には最短距離のルートです。
しかし、砂漠を通る必要があったり道中の湖が干上がってしまうことがあったため、オアシスの道の中では特に過酷なルートだったといわれています。
13世紀に元の都を訪れたイタリアの商人、マルコ・ポーロは、この西域南路を通ったそうですよ。
横浜のシルクロード
横浜にもシルクロードがあるのをご存じでしょうか?
横浜中華街を東洋、横浜元町ショッピングストリートを西洋と見立て、それをつなぐ通りのことを南門シルクロードと呼んでいます。
街路樹には中央アジア原産の姫りんごの木が植えられていて、春になると白い花を咲かせ、秋には小さな実がなります。
中華街大通りを曲がってから南門まで、約300メートルほどの通りにはご存じチャイハネ&岩座、大きな中華料理店や老舗中華など多種多様の店舗が並びます。
2004年にみなとみらい線開通し、2006年には横浜媽祖廟(まそびょう)が開廟しました。
この南門シルクロードの名付け親は、チャイハネ創業者でもあります。
本当に小さなシルクロードを旅しているように変化があり、南門を抜けると、中華街とは街並みががらり変わり、元町ショッピングストリートや山手西洋館、外人墓地など異国情緒を楽しむことができます。
グローバルな現代において
荒野を越え、人々をつなげたシルクロード。
シルクロードがなかったら、私たちの生活は少し違ったものになっていたかもしれませんね。
シルクロードで始まった東西間の交易は、今ではよりグローバルに続いています。
3月28日には、砂漠を渡った古代の人々に思いをはせて、シルクロードの歴史を調べてみてはいかがでしょうか。
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