掲載日:2022.11.19

6年越し、祭り成る

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地方創生 鯨の町おこし

「美しき 縁に曳かれて 祭り成る 神仕組みなり 呼子のくんち」

2022年10月16日、いよいよ、呼子くんちが復活する運びとなった。

1週間前ほど前から天気予報を確認していたが、すこぶる悪い予報であった。
2日ほど前までの予報でも、朝から晩まで暴風雨。強風、大雨のマークが並んでいた。

今回のお祭りは、最後のフィナーレが鯨の山車が海上を行くものであり、荒天で海が荒れれば中止となる可能性が高く、どうなることやらと思った。しかしお祭りは毎年続けていくものであるから、雨の日もあれば晴れの日もある。とにかく祭りを始めることに意味がある、そう自分に言い聞かせていた。
ただ知人やクラウドファンディングで寄付してくれた方々が多数来てくださる予定もあったので心苦しくもあった。

ところがどうであろう?前日の天気予報で当日夕方までは晴れるという予報に変わった。そして当日の朝の予報では、ちょうど鯨の山車が海上にいるあたりで雨が降り出すかというところまで回復し、どうやら祭りとしては大方は晴れそうだということになった。

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当日の朝は、目の覚めるような晴天であった。呼子の港に着くと日に照らされた穏やかな海を背景に祭りの法被を来た町の若衆たちが忙しく準備を進める姿があった。

祭りの山車の出発地点はやはり、鯨の頭領であった中尾甚六の屋敷がふさわしい。中尾家屋敷で出発式が執り行われ、和太鼓の芸能奉納がされると、親子の鯨の山車が町へ曳かれていった。
先に親鯨が大人の引き手達により曳かれていき、後をついて子鯨が地域の子供たちの手で曳かれていった。子供たちが曳きながら大きな声で「ヨイヤサーヨイヤサー」と気勢を上げると、声が晴れた大空に抜けていくようで、見ていて本当に気持ちが良かった。

■古い町並みを曳かれる親鯨

■古い町並みを曳かれる子鯨

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中尾甚六が奉納したお神輿と鯨の山車が並ぶ

朝市通りの町並みを抜けると、海沿いの通りに戻り御旅所でご神事が執り行われた。
御旅所に親子の鯨が引き込まれると、江戸時代の捕鯨の頭領であった中尾甚六が奉納したという御神輿と並んだ。鯨で栄えた漁師町にふさわしい、過度な華美を押さえ質実剛健さを感じさせる素晴らしい御神輿である。

そして江戸時代と令和時代に奉納された御神輿と鯨が、鯨の歴史という文脈でつながり時空を超えて並んでいることに、神事の祝詞もあいまってとても意義深いものがあった。

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ご神事が終わると海沿いを北端の広場に山車が移動していき、強い日差しの下、よさこい、小川島の骨切唄、呼子ハイヤ節といった各種芸能が披露された。よさこいは数年前に呼子で発足した彩海というチームで、活気あふれる踊りの後ろで大きく翻っていた鯨が描かれた大漁旗が印象的であった。

そこからいよいよ、フィナーレの海上を鯨を浮かべるために、船乗り場まで曳かれていった。

■じんわりと光ながら曳かれていく鯨

呼子には「親子鯨の弁天様詣で」という伝承がある。

捕鯨の漁師の夢に子連れの鯨が出てきて、「明日、子供を連れて弁天島の弁天様にお参りに行くので、どうか明日だけは見逃してほしい」とお願いしてきた。しかし、その漁師が翌日に漁に出ると弁天島付近で親子の鯨が仲間の漁師にすでに仕留められいて、海は血に染まっていた。
その漁師が家に帰ると、自身の子供に鯨を突くモリが落ちて刺さり死んでしまっていた。その漁師も酒におぼれて死んでしまったという。

伝承というのは、それが事実であったかというより、何ゆえに何世代にもわたって言い伝えられてきたかが大事なのかもしれない。
鯨の漁には、親子鯨の深い情を利用したものもある。親子鯨に遭遇した場合、先に子鯨を殺すと、子鯨が死んでしまっても親の鯨は子鯨から離れようとしないので、それを利用して親鯨も殺すという。生きるために仕方のない殺生とはいえ、多くの供養塔が立っていたり、弁天詣りのような伝承が伝えられてきたことを考えると、鎮魂や供養の念といった気持ちが強くあったのだと思う。

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クレーンで台船に移動する鯨の山車

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巨大な鯨の山車を海の上の台船に移動する作業が始まった。17:30を過ぎて少しずつ日が暮れ始め、内照された光がうっすらと和紙を明るく照らし始めていた。

貴重な和紙の工芸芸術品でもあり、巨大で重量のある山車を海上の台船にクレーンで運ぶわけで、緊張感が現場に走る。それを観覧している観光客や地元の方々も息をのんで見つめていた。
関係者が怒号にも似た声の掛け合いのもと、クレーンで移動が完了すると自然と拍手が起きた。ちょっとした祭りの見せ場となったと思う。

ここから眼前に目の当たりにした光景は、筆舌を尽くしても伝えるのが難しいと思うほど、幻想的であった。

まず台船は港内を一周したのだが、町を背景に親子鯨がほのかな光を発しながら海上を移動していった。夕暮れの静寂の中、奥の町並みと手前の鯨が遠近の時間差を生じながら遷移していく光景を見て、何か新しい呼子の情景が産まれたのではないかと感じた。

そして親子鯨は弁天島に向かっていった。

■港内を回り弁天島に向かう鯨

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呼子大橋の下にある弁天島の鳥居は町の有志によりライトアップされていた。
港を出た親子鯨は弁天島の前にたどり着くと、円を描いて海上を優雅に大きく回った。20分ほどかけてだろうか、3回ほど回っているその間にどんどん日が暮れていった。そして闇の中に、弁天島のライトアップされた鳥居と、二匹の輝く鯨が海上を泳いでいた。

弁天島の伝承がまさに目の前で実現していたのだ。
和紙は不純なものを取り除いて作られることから浄化を意味し、昔から不浄なお金を包むものとして使われた。そしてその清浄な和紙を通す光は限りなく柔らかく、芸術的な鯨のフォルムとデザインが闇に浮き出て、鎮魂にふさわしい感動的な光景となった。

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「ついに弁天島の親子鯨がお参りをすることができたんだ。」鯨の親子の情の深さや、呼子の方々が伝承の中に込めてきた鎮魂の情感が、目の前ですべて光景として広がっていて、誰しもが感情移入するに十分なものがあった。

鯨は港に戻ると、大きな花火と観衆に出迎えられ、陸地から中尾家屋敷に格納されていき、祭りは終わった。

それから30分ほどして雨が降り出した。そういえば予報よりも遅い雨だ。祭りが終わるのを待ち受けるようにして雨が降った。
多くの方から「お父様の執念ですね」とか「鎮魂の気持ちが空に届いた」などと声をかけられたが、確かに数日前の嵐のような予報からは信じられない天気であった。

あまりに幻想的で美しく闇に浮かんだ鯨の光景と、鎮魂の祭りであったこと、そしてこの祭りの実現までの奇跡的な縁の連鎖を想うと、この天気のくだりも、あながち神がかった力が働いたと言っても言い過ぎではないなと、本当にそう思った。

父が亡くなって6年、七回忌を前に祭りが実現した。
「お父様は喜んでるでしょうね?」と何人もの方に声をかけられてきた。間違いなく、喜んでくれている。父の一番好きなど真ん中のものが実現したと思う。父に一番反発してきた私だが、確信して言える。もし生きていて見ていたならば、愛嬌たっぷりの笑顔で夢中になって見ていたことだろう。

祭りが終わって、6年がかりの想いが出て行ったからか、1週間ほどは抜け殻のようになった。
鯨の製作者である堀木エリ子さん、もともと呼子くんち復活の構想を話し合っていたという八幡宮司や山下実行委員長、そして祭りを企画実行してくれた町の方々。私は運よく縁をつなげることができただけ。空っぽの抜け殻になった心に残ったのは、そんな感謝の気持ちばかりであった。

~ところで。
祭りが終わっても、私はある活動のために呼子に足を運んでいる。
その活動について、また次号から報告していきたいと思う。

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感無量、お披露目式
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筆者プロフィール:進藤さわと

アミナコレクション創業者 進藤幸彦の次男坊。2010年に社長に就任。
1975年生まれ。自然と歴史と文化、それを巡る旅が好き。


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