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これは、1981年に入社したチャイハネのレジェンドが語る、 チャイハネの知られざるノンフィクションドラマである。
Vol,1はこちらから
40年前の横浜は「みなとみらい」や「ベイブリッジ」は当然ありません。 元町から「外人墓地」「港の見える丘公園」へ登って、山下公園に行って氷川丸を見るのが唯一のデートコースでした。 桜木町駅は東横線の終点でしたが、今のような賑やかさはありませんでしたが、野毛の飲み屋街は昭和の町並みが懐かしくシブかったです。
赤レンガ倉庫は有りましたが、実際に使用していた古い倉庫で、一般の人は入れません。一部の部屋が不当な関税で税関に没収された輸入品が保管されている倉庫で、ある日大きなインドの真鍮の銅像が何体もあると連絡がきて、ボスと競売に行ったことがありました。しかし、珈琲豆が一緒のセット競り価格で紙に金額を書いて提示しましたが、競り負けしてしまい手に入れる事ができませんでした。仮に入札しても大きな5~6袋の大量のコーヒー豆をどうする?という話で終りました。 古びた薄暗い倉庫がお洒落に生まれ変わり、それどころかここにアミナの直営店舗ができるなんて夢でも予想はできませんでした。
横浜の象徴といえば?そうです!あのマリンタワーです。そういえば最近見てないですが、当時この辺りには高い建物が無く、チャイハネの店頭からもそびえ立つマリンタワーが見えていたほどで、東京から通っていた私は横浜で仕事してる感満載で、毎日がワクワクしていたのを覚えています。同じ大きさのはずが、今では小さく見えるのが寂しいです。
南門シルクロードの招福門の角地は自動車の修理工場があり、いつも社長のおっちゃんが煙草をふかしながら暇そうに焚き火をしていました。
元町からの前田橋の入口にはバッティングセンターがあったり、セブンイレブンのところには「AMERICAN HOSE」1号店がありました。中華街とは無関係な模型屋の「みなとホビー」やサーフショップの「BLUFF46」もありました。
オリエンタルホテルという古い安宿がありました。最終電車が無くなった日に「あらお兄ちゃん珍しいね」とおばさんにひやかされながら泊まった事があります。後から知った話ですが、いきなり行っても泊まらせてくれない船員用の長期滞在用ホテルだったようです。アジアの安宿を十分に味わえる貴重な宿でしたが2015年に閉店してしまい残念です。
1956年の中華街の地図に載ってたほど大昔からあった、「泉屋袋物店」が岩座がある場所にありました。お爺さんとお婆さん二人で経営していた中国雑貨店で、人民帽やカンフーシューズなど軒先だけではなく道路にも出しまくりの小さなお店でしたが南門通り最古の雑貨店が無くなったのは寂し限りです。
夜は早く閉まってしまい薄暗い治安が悪そうな南門通りでしたが、地元のお年寄りから聞いた話ですが、その昔元町と中華街の間の川に「土佐衛門がよく浮かんでたもんだ」と、かなり物騒な話を聞いた事があります。裏通りには赤線もあったようで反社会的勢力の事務所もあったり、米兵や船員相手のバーのネオンが輝いていて市場通りにはパチンコ屋もありました。私が高校生の頃は「中華街に行くと喝上げされるから近づくな」と驚かされたほどですが、今では考えられないほど平和で賑やかな、日本一のチャイナタウンの観光地として繁栄しています。
南門シルクロードで40年前から今でも続いてるお店はどのくらいあるのか数えてみました。 病院、クリーニング屋、酒屋、自転車屋、床屋と居住者区域だったせいか、生活に必要なお店は今でも続いています。 なんと唯一、中華料理屋で今でも続いているのは「大三元」だけでした。肉まんは今でも変わらない味で、コンビニの肉まんとは違って1ケ食べるとお腹がいっぱいになり、何度かBOSSに頼まれてスタッフ人数分を買いに行ってました。
その頃の中華街発展会ではお客さんが中華料理屋に入らなくなるのではと、食べ歩きは推奨していませんでしたが、今では当たり前のように若い人の食べ歩きで盛り上っています。私の一番好きだったのは北京飯店の肉まんでした。1コ450円と当時は破格の値段でしたが、美味しかったなぁ。(今でも同じ450円で変わってないのが不思議です。)
シルクロード舞踏館の隣のお茶屋「悟空」さんはちょうど私が入社した同じ年にオープンしました。社長さん曰く、「看板はチャイハネさんみたいな雰囲気のある看板にしてこの通りを盛上げたいので孫悟空の絵をモチーフにしました。」と、親会社が中国の輸入会社で、アミナコレクションが初めて中国へ出張した時にお世話になった会社さんです。
チャイハネの隣の「陽和クリニック」、この病院はあんまり患者さんが入ったところを見た事がありませんが今だに続いています。(すみません。権威ある先生がいらっしゃると思います。) 酒屋の「一石屋」は店で買ってその場で立ち飲みができる一番安い飲み屋さんです。つまみを贅沢する時は鯖の缶詰にネギと醤油を垂らすだけなのに絶品になります。(マヨネーズは必須)今ではビルになっていますが、さすがに立ち飲みはやっていませんが当時は鼻を赤くしたおじさんたちのたまり場になって昼間から盛り上っていました。
大三元の隣の床屋さんは今でも入口のところに「営業中」の貼り紙がありますが、店内を覗いてみたらグチャグチャ散らかり放題で開店できる状態ではありませんでした。 当事からレトロな床屋で、「ササカマ」というあだ名の仙台出身の大学生がチャイハネでバイトしていた頃、この床屋さんに数ミリ単位で刈り上げを注文した常連客でした。あいつ今頃なにしてんだろう。
今のチャイティーカフェ(ネネビル)のある場所に「西域民具トルクメン」がオープンしたり、「ネネソフラ」という台所回りの雑貨店があったりと、南門通りはアミナコレクションが栄えたと言っても過言ではありません。
元町(ヨーロッパ)と中華街(中国)を結ぶ道は、東西の文化を繋ぐ通り、まさしくシルクロードだ、と「南門シルクロード」という名前はBOSSが南門発展会の会長をやっていた時に発案しました。 2003年マンションの計画を反対して南門シルクロードに「媽祖廟」を建てた功労者もBOSSです。入口にはBOSSの書いた看板があります。
「媽祖」(まーそ)と呼ばれることが多く、海の女神であり、中国道教の中では最も位の高い神様です。海外に旅する者たちに尊敬される庇護者である媽祖は、あらゆる災難から安全を守る偉大な力を持つ女神であると信じられています。(媽祖廟ホームページより)
そんなアミナの歴史を見てきた事を、誇りに思っています。 これからもアミナの歴史を見続ける為にも、アミナコレクション創立50周年に向けて、 頭と身体が続く限り、足手まといにならないよう頑張っていきたいと思っています。
(創立50周年まであと5年か・・・・なんとか、シガミ付いていこっと!)
おめでたい ハッピーマコトより!
1981年に3番目に入社したチャイハネの社員。 チャイハネPart1(本店)の二代目店長を経て、営業部長に就任。 その後定年を迎え、引き続き現役で本部で働き続けて40年。 自分を一言で表すと……、ハッピー・マコト! かな。
これは、1981年に入社した
チャイハネのレジェンドが語る、
チャイハネの知られざる
ノンフィクションドラマである。
Vol,1はこちらから
40年前の横浜は「みなとみらい」や「ベイブリッジ」は当然ありません。
元町から「外人墓地」「港の見える丘公園」へ登って、山下公園に行って氷川丸を見るのが唯一のデートコースでした。
桜木町駅は東横線の終点でしたが、今のような賑やかさはありませんでしたが、野毛の飲み屋街は昭和の町並みが懐かしくシブかったです。
赤レンガ倉庫は有りましたが、実際に使用していた古い倉庫で、一般の人は入れません。一部の部屋が不当な関税で税関に没収された輸入品が保管されている倉庫で、ある日大きなインドの真鍮の銅像が何体もあると連絡がきて、ボスと競売に行ったことがありました。しかし、珈琲豆が一緒のセット競り価格で紙に金額を書いて提示しましたが、競り負けしてしまい手に入れる事ができませんでした。仮に入札しても大きな5~6袋の大量のコーヒー豆をどうする?という話で終りました。
古びた薄暗い倉庫がお洒落に生まれ変わり、それどころかここにアミナの直営店舗ができるなんて夢でも予想はできませんでした。
横浜の象徴といえば?そうです!あのマリンタワーです。そういえば最近見てないですが、当時この辺りには高い建物が無く、チャイハネの店頭からもそびえ立つマリンタワーが見えていたほどで、東京から通っていた私は横浜で仕事してる感満載で、毎日がワクワクしていたのを覚えています。同じ大きさのはずが、今では小さく見えるのが寂しいです。
南門シルクロードの招福門の角地は自動車の修理工場があり、いつも社長のおっちゃんが煙草をふかしながら暇そうに焚き火をしていました。
元町からの前田橋の入口にはバッティングセンターがあったり、セブンイレブンのところには「AMERICAN HOSE」1号店がありました。中華街とは無関係な模型屋の「みなとホビー」やサーフショップの「BLUFF46」もありました。
オリエンタルホテルという古い安宿がありました。最終電車が無くなった日に「あらお兄ちゃん珍しいね」とおばさんにひやかされながら泊まった事があります。後から知った話ですが、いきなり行っても泊まらせてくれない船員用の長期滞在用ホテルだったようです。アジアの安宿を十分に味わえる貴重な宿でしたが2015年に閉店してしまい残念です。
1956年の中華街の地図に載ってたほど大昔からあった、「泉屋袋物店」が岩座がある場所にありました。お爺さんとお婆さん二人で経営していた中国雑貨店で、人民帽やカンフーシューズなど軒先だけではなく道路にも出しまくりの小さなお店でしたが南門通り最古の雑貨店が無くなったのは寂し限りです。
夜は早く閉まってしまい薄暗い治安が悪そうな南門通りでしたが、地元のお年寄りから聞いた話ですが、その昔元町と中華街の間の川に「土佐衛門がよく浮かんでたもんだ」と、かなり物騒な話を聞いた事があります。裏通りには赤線もあったようで反社会的勢力の事務所もあったり、米兵や船員相手のバーのネオンが輝いていて市場通りにはパチンコ屋もありました。私が高校生の頃は「中華街に行くと喝上げされるから近づくな」と驚かされたほどですが、今では考えられないほど平和で賑やかな、日本一のチャイナタウンの観光地として繁栄しています。
南門シルクロードで40年前から今でも続いてるお店はどのくらいあるのか数えてみました。
病院、クリーニング屋、酒屋、自転車屋、床屋と居住者区域だったせいか、生活に必要なお店は今でも続いています。
なんと唯一、中華料理屋で今でも続いているのは「大三元」だけでした。肉まんは今でも変わらない味で、コンビニの肉まんとは違って1ケ食べるとお腹がいっぱいになり、何度かBOSSに頼まれてスタッフ人数分を買いに行ってました。
その頃の中華街発展会ではお客さんが中華料理屋に入らなくなるのではと、食べ歩きは推奨していませんでしたが、今では当たり前のように若い人の食べ歩きで盛り上っています。
私の一番好きだったのは北京飯店の肉まんでした。1コ450円と当時は破格の値段でしたが、美味しかったなぁ。(今でも同じ450円で変わってないのが不思議です。)
シルクロード舞踏館の隣のお茶屋「悟空」さんはちょうど私が入社した同じ年にオープンしました。社長さん曰く、「看板はチャイハネさんみたいな雰囲気のある看板にしてこの通りを盛上げたいので孫悟空の絵をモチーフにしました。」と、親会社が中国の輸入会社で、アミナコレクションが初めて中国へ出張した時にお世話になった会社さんです。
チャイハネの隣の「陽和クリニック」、この病院はあんまり患者さんが入ったところを見た事がありませんが今だに続いています。(すみません。権威ある先生がいらっしゃると思います。)
酒屋の「一石屋」は店で買ってその場で立ち飲みができる一番安い飲み屋さんです。つまみを贅沢する時は鯖の缶詰にネギと醤油を垂らすだけなのに絶品になります。(マヨネーズは必須)今ではビルになっていますが、さすがに立ち飲みはやっていませんが当時は鼻を赤くしたおじさんたちのたまり場になって昼間から盛り上っていました。
大三元の隣の床屋さんは今でも入口のところに「営業中」の貼り紙がありますが、店内を覗いてみたらグチャグチャ散らかり放題で開店できる状態ではありませんでした。
当事からレトロな床屋で、「ササカマ」というあだ名の仙台出身の大学生がチャイハネでバイトしていた頃、この床屋さんに数ミリ単位で刈り上げを注文した常連客でした。あいつ今頃なにしてんだろう。
今のチャイティーカフェ(ネネビル)のある場所に「西域民具トルクメン」がオープンしたり、「ネネソフラ」という台所回りの雑貨店があったりと、南門通りはアミナコレクションが栄えたと言っても過言ではありません。
元町(ヨーロッパ)と中華街(中国)を結ぶ道は、東西の文化を繋ぐ通り、まさしくシルクロードだ、と「南門シルクロード」という名前はBOSSが南門発展会の会長をやっていた時に発案しました。
2003年マンションの計画を反対して南門シルクロードに「媽祖廟」を建てた功労者もBOSSです。入口にはBOSSの書いた看板があります。
~天上聖母(てんじょうせいぼ)~
「媽祖」(まーそ)と呼ばれることが多く、海の女神であり、中国道教の中では最も位の高い神様です。海外に旅する者たちに尊敬される庇護者である媽祖は、あらゆる災難から安全を守る偉大な力を持つ女神であると信じられています。(媽祖廟ホームページより)
そんなアミナの歴史を見てきた事を、誇りに思っています。
これからもアミナの歴史を見続ける為にも、アミナコレクション創立50周年に向けて、
頭と身体が続く限り、足手まといにならないよう頑張っていきたいと思っています。
(創立50周年まであと5年か・・・・なんとか、シガミ付いていこっと!)
おめでたい ハッピーマコトより!
Vol,1はこちらから
筆者プロフィール:マコト
1981年に3番目に入社したチャイハネの社員。
チャイハネPart1(本店)の二代目店長を経て、営業部長に就任。
その後定年を迎え、引き続き現役で本部で働き続けて40年。
自分を一言で表すと……、ハッピー・マコト! かな。