読み物
2021/11/28 00:00

【世界民芸曼陀羅紀】トルコ ボヤ・サンドゥー編

民芸にはいろんな顔があります。
どの顔を思い浮かべながら話し聞くかで、内容がすっかり変わってしまいます。

ここではアミナコレクションの創業者・進藤幸彦が、世界で実際に出会い、見聞きしたその民俗(フォークロア)を綴ります。

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世界民芸曼陀羅 トルコ編
3 ボヤ・サンドゥー ~黄金色に輝くオスマン宮廷の靴磨き台~

トルコに留学中、首都のアンカラから、初めて農村の調査に出かけた時のこと。

あちらの雨の多い冬場のこととて、登山靴をはいて重装備で出発した。

ぬかるみだらけの田舎道を覚悟していたからである。
目抜き通りを少し入った停留所でドルムシュ(乗り合いのタクシー)を待っていた。

「アーベイ(兄さん)、靴を磨かせてよ」
坊主頭の、十歳ほどの男の子がこちらを見上げて言った。
この靴には要らないんだよ、といくら言ってもきかない。
まあ、いいか、とおもしろ半分に靴載せ台に登山靴を載せてみた。

木製の粗末な自家製のような台で、クリームの容器も幾つも見えない。
それでも布に水を湿らせ、わずかな汚れを落とし、靴の裏までほじくり、ひもをいったんほどいて締め直してくれた。

私は結構、満足してお金を払った。
トルコの義務教育は小学校五年までのはずだが、いまだにこうして日中から健気に働いている子供が多い。

アンカラから同じアナトリア高原の典型的な村、ハサン・オーラン村へ行った。
そしてそこから黒海地方の山岳地帯、カスタモヌやギレスンでその地方地方の民俗芸能と、その背景にある民俗を調査した。

思った通り、持って行ったスキー用のズボンやジャンパーまで泥だらけになる田舎道の連続だった。

アナトリア中央部の民俗舞踊はハライ、東アナトリアのはバル、黒海沿岸地方のホロンといわれている。
いずれもおもむきが違う民俗舞踊だが、共通しているのは「列」をなして踊ること。
足の動きに踊り手の視線と神経が集中し、重々しく、また若い馬の足さばきのように軽妙に踊ることだ。

若い踊り手たちには一瞬のダンディズムがあり、足元、つまり革靴やブーツへ深い関心を寄せる。
したがって私の登山靴はどこに行っても笑いの種になった。

「それじゃ、疲れるだろう。長くは歩けまい」
などと言われたが、意地を張って外出はそれで通した。
本当は確かに疲れるのだが、そうかといって革靴では村の中は歩き回れなかったのである。

四月の末になり、疲れがたまりお金もなくなってからアンカラに戻った。
文部省で、その月のお金を受け取ってから、ふと思いついて例の靴磨きの所へ行った。
その日は天皇誕生日で、留学生も日本大使館のパーティーに招待されていたのだ。

泥のこびりついた登山靴を少しは見栄えのよいものにしようと柄にもない配慮をしたのである。
あの少年はいなかった。
かわりにハンチングをかぶった年配の男が、見事な靴磨き台を前にして座っていた。

なにしろピカピカに輝いた真鍮の、黄金色の靴磨き台なのだ。
繁華街で見かけたことはあったが試したことはなかった。
いかにも値段が高そうでおじけづいてしまうのだ。

「カルデシ(兄弟)! 変わった靴だなあ、安くしてやるから、載っけていきな。値段? そんなもの、あとであんたの好きなだけでいいよ」

私はつくづく、このボヤ・サンドゥー(靴磨き台)を観賞した。
そしてそのお礼に足を載せた。

「アフェンディ(旦那)、これはオスマントルコ時代からの伝統工芸だよ。昔はお偉いさん用だったんだよ。世界でもトルコだけにしかないね。」

世界のどこの国に旅行したのか聞いたら、どこにも行ったことはないと言う。
笑いながら、タクシーをつかまえて大使館に向かった。

パーティーはすぐに始まり、当然のように私の登山靴は非難の視線を浴びた。
しかし、主賓たちが帰り、大使たちの内輪だけの宴会になると、
「こんな国に赴任させられて、島流しも同然だ」
と偉い人がいきまいたりしていた。

酒の勢いとはいえ、いったいトルコのどこを見ているんだ、と内心憤慨したものである。

たぶん革靴で旅行できる大都市しか知らないのであろう。

進藤彦興著、   『世界民芸曼陀羅』   から抜粋

第一刷 一九九二年九月


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