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この世に深い恨みを抱いたまま死んだ人たちの霊魂、「怨霊」。しかも日本三大怨霊となると、それはそれはおぞましい存在だと想像します。
ところが、その正体はというと、神様として広く知られるこの御三方。菅原道真、平将門、そして崇徳天皇。
なぜこの三人が怨霊と呼ばれるようになったのか、そして怨霊でありながらなぜ神様として崇められるようになったのか?さあ、古の時代から人々を震え上がらせ、今なお語り継がれる日本三大怨霊をめぐる物語です。
その響きだけで、十分に恐ろしいイメージが浮かぶ「怨霊」。幽霊?もののけ?それとはまた違うもの?いったいどんなものなのでしょうか?
強い憎しみや恨みといった思念を持って死んだ者たち。死後、その霊魂だけが残り彷徨い、あまりにも強いその怨念は、社会全体に天災や疫病などといった形で甚大な災いをもたらす力を持つとされてきました。
また、生きた人間であっても、強い怨念を持つ魂のみがその身体から抜け出て、いわゆる「生き霊」となることもあるのだとか。
怨霊、やはりなんと恐ろしい!
でも、日本三大怨霊の三人は、今では神様として人々に親しまれている存在ですよね。
そこには平安時代に広まった「御霊信仰(ごりょうしんこう)」があります。
この御霊信仰は、怨霊を「御霊(みたま)」として丁重に祀ることで、逆に強い力を持つ鎮護の神となり、守護されるという信仰。
この信仰が広まったことで、今の時代を生きる私たちはありがたいことに、三人のご神徳の方をいただいているということになるでしょうか。
それでは、いよいよ恐ろしい顔、怨霊の方を紹介しましょう。
日本三大怨霊とは伝説となるほどに強い力を持った怨霊のこと。
この三人はいずれも平安時代を生き、それぞれ非業の死を遂げたと伝わります。
菅原道真は学問の神様となるほど、天才の名をほしいままにした有能な政治家でもありました。また平将門は、貴族から武士へと政治の主導権が変わるきっかけを作ったともいえる人物。そして、崇徳院は和歌を愛し、その歌は百人一首にも収められています。
このような三人がいったいなぜ怨霊と成り果てたのか。その生涯、そして彼らに怨霊となるほどに強い憎しみを抱くことになったいきさつをみていきましょう。
人々に「学問の神様」として親しまれる菅原道真。この方が1人目の日本三大怨霊です。
菅原道真は、平安時代前期、学問を生業とする京都の中流貴族の家に生まれました。5歳で和歌を、11歳のころには漢詩を詠み、神童と呼ばれたと伝わります。
26歳、当時の最難関の国家試験とされる方略式(ほうりゃくしき)に史上最年少で合格。国の役人としてのキャリアをスタートさせました。
42歳で讃岐守(現在でいう香川県の知事)として赴きますが、そこでの善政が高く評価され、宇多天皇の下で蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されます。蔵人頭とは天皇の側近として、政務を補佐する役職。絶大な権力を誇っていた藤原氏の力を抑えるための登用でもありました。
宇多天皇に重用され、絶大な信頼を寄せられた道真。次の醍醐天皇の時代には、学者としては異例の右大臣にまで上り詰めたのでした。
このあまりの出世の早さ、要職を一手に引き受ける道真を妬むものも数多くいたようです。あまりの道真の勢いに恐れを抱いた者もいました。道真のライバル、時の左大臣藤原時平です。
藤原時平は、道真を追い落とす謀略を巡らせます。それは道真が謀反を企ているという讒言(ざんげん)、偽りの告げ口。醍醐天皇を廃して、その弟、道真の娘婿でもある斉世(ときよ)親王を立てる画策をしている、というものでした。
そしてそれを信じた醍醐天皇は、道真に太宰府への赴任、つまりは左遷を命じたのです。
旅立つ日、もう二度と目にすることのない京都・自邸の梅の花を愛でて詠んだのが、かの有名な歌。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ(梅の花よ、私がおらずとも春になったら必ず花を咲かせ、その香を私の元に届けておくれ)
太宰府での道真は、罪人の濡れ衣を着せられたまま、事欠く暮らしだったといいます。そして二年後、道真は失意のうちに太宰府の地で59年の生涯を閉じます。
道真が亡くなった903年以降、都ではさまざまな災難が続くようになります。
清涼殿の落雷事件は、この年に起きた干魃(かんばつ)についての会議が開かれている最中だったといいます。じつは、毎年のように日本各地で台風や洪水による被害、疫病の蔓延、そして干魃が起きるようになっていました。そして、これらは菅原道真の怨霊によるものだと囁かれていたのです。
道真の怨霊を鎮めるため、朝廷は道真を右大臣に復して名誉回復を図ります。それは道真が太宰府で亡くなった20年後のこと。
そしてその70年後、朝廷は左大臣、また最高位の官職太政大臣の位を追贈しました。
今では学問の神様として篤い信仰を集める道真。清涼殿落雷事件以来、道真は雷神と習合し「天満大自在天神」と呼ばれるようになります。
あの京都北野天満宮・太宰府天満宮は、道真の怨霊を鎮めるための社として建てられたのです。
942年、道真の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に立った道真。「われを北野右近の馬場に祀れ」との託宣を受けたと伝わります。
それが現在の北野天満宮。全国に1万2千社あるともいわれる、道真をご祭神とする天満宮・天神社の総本社です。
この北野は、御所を中心とした都の北西、「天門」を守る重要な地と考えられている場所。ここにはもともと火雷神を祀る社がありました。
才能に溢れ、天満大自在天神となった道真を祀る「天神信仰」はしだいに広まり、今の時代に受け継がれています。
福岡、太宰府天満宮。本殿は、菅原道真の墓所の上に建てられています。ここは、道真の遺骸を牛車で引く途中、牛がにわかに臥して動かなくなったとされる場所。亡くなる際、道真は「人に引かせず牛の行くところに止めよ」との言葉を残したとされています。
また、こんな伝説も。本殿向かって右側にあるのが、御神木「飛梅」。樹齢1000年を越えるともいわれる立派な梅の木で、極早咲きの色玉垣という品種です。この木は、境内に植えられたほかの梅の木に先駆けて花をほころばせ、春を告げるのだといいます。
じつはこの木、あの道真が京都で詠んだ自邸のあの木であるのだとか。あの歌を聴き、道真を慕って一夜にして大宰府まで飛んだとされているのです。
日本三大怨霊、2人目は平将門です。皇室の血筋を継ぐ家系で、やがて関東諸国を制圧し、新しい国家を樹立しようとした武将。その戦いの圧倒的な強さから、勝負事の神様としても知られています。
下総国(しもうさのくに)豊田郡を本拠地にもつ豪族として生まれた平将門。15歳で京に上り、藤原氏に仕えました。内裏の警護にあたる低い官位の「滝口の武士」でしたが、父親平良将(たいらのよしひら)が亡くなったことで、地元関東に戻ります。ここで、やがて「平将門の乱」へとつながっていく親族間の争いが起こりました。
父の領地が叔父の平国香、良兼、良正によって収奪されていると知り、争いとなったとされますが、じつはその裏には、こんな話もあるのだそう。将門が妻にと望んでいた、常陸国の国司源護(みなもとのまもる)の3人の娘、この3人が揃いも揃って叔父たちに嫁いでしまったのだとか。さらには、将門が良兼の娘を強奪する形で娶り、確執が生まれたとされています。
935年、国香・源護と戦った将門は、国香と源護の3人の息子を討ちます。さらに叔父たちの連合軍に完全勝利したことで、その武勇は広く知れ渡りました。
次第に朝廷に不満を持つ多くの武士が将門のもとに集結、やがて勢力は東日本に拡大していくと、やがて常陸(ひたち)・上総(かずさ)・下総・安房(あわ)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の坂東八箇国を支配下に治めます。国司を追放し、これまで圧政に苦しんでいた人々を味方につけました。
将門は「新皇」を名乗り、朝廷に独立、つまり新国家の樹立を宣言したのです。
これが朝廷への反逆とみなされ、将門の追討令が出されました。そして、それからわずか2ヶ月、将門は平貞盛、藤原秀郷に討ち取られます。
影武者が7人いたとか、じつは平将門の身体は鉄でできており、唯一生身であるこめかみを射抜かれたとか、神が放った矢が天から降ってきたとか。
伝説の武将、圧倒的に強かったという将門のあっけない死に、さまざまな伝説も残ります。
討ち取られた将門、戦いの地に残されたその胴体は、村人たちが密かに運び、茨城県坂東市神田に埋葬されたと伝わります。
そして首はというと、京に送られ七条河原に晒されました。一説によると、この将門が日本で初めての晒し首なのだとか。そしてこの首が、当時ばかりでなく今の時代も、人々を震え上がらせることになるのです。
この将門の晒し首、何ヶ月経っても腐らず、まるで生きているかのように目を閉じたり開いたり。歯軋りをして、夜な夜な「身体と繋いでもう一戦するぞ!」と叫んだと伝わります。そしてついには身体を求めて、東の空に飛び去ったというのです。
身体を求めて飛んだその首が力尽きて落ちた場所に、村人たちが塚を築いたとされています。
現在の東京都千代田区大手町。整然としたオフィス街の一角に、「将門塚」があります。将門の首が落ちたとされる場所です。
この首塚を巡っては、誰も手が出せない、そんな伝説が残ります。関東大震災後、全焼した大蔵省庁舎の仮設庁舎が、この場所に建てられることになり、首塚は取り壊されることになりました。
すると、当時の大蔵大臣をはじめとする関係者が次々と不審な死を遂げたといいます。2年間で14名。結局この仮庁舎は取り壊されることになり、さらに将門が亡くなって1000年の年には、大蔵省本庁舎に雷が直撃、炎上しました。
また、戦後になり、焼け野原となったこの地に、GHQが駐車場を造成しようとしたところ、重機が横転する事故が起き、運転手が亡くなっています。
将門の首塚は、移転や取り壊しの計画が持ち上がるたびに、不吉な出来事が起こるのだといわれます。将門の祟りを恐れ、現在の都市再開発でもこの首塚には手が付けられずにいるのです。
じつは将門の首が落ちた場所は、もともと神田明神の創建の地。江戸幕府が開かれると、江戸総鎮守とされ、江戸城の表鬼門とされる現在の場所に遷座します。
将門の祟りによるとされる災いがたびたび起きたことから、その霊を鎮めるため、将門は神田明神に合祀されました。
日本の第75代天皇、崇徳天皇。天皇が怨霊になる。この崇徳天皇こそ、日本史上最恐といわれる怨霊です。
平安時代後期、崇徳天皇は鳥羽天皇と藤原璋子(たまこ)の第一子として誕生しました。大いに喜ばれるはずのその誕生には、こんな噂がつきまといます。
鳥羽天皇の子ではない。じつは崇徳天皇は、その曽祖父にあたる白河法皇の子だというのです。父鳥羽天皇もそれを信じ、崇徳天皇を「叔父子(おじご)」と、嫌味を込めて呼び、忌み嫌いました。
その後、崇徳天皇はわずか3歳で即位。
白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は院政を開始。まだ若い崇徳天皇に強引に譲位を迫り、間違いなく自分の子である近衛天皇を3歳で即位させるのです。
崇徳上皇は実権を握ることはなく、和歌の世界に没頭。
病弱な近衛天皇が17歳で夭折すると、崇徳上皇は自らの子を即位させようとしますが、鳥羽上皇がこれを拒否。今度はこちらも確かに自分の子である崇徳上皇の実弟、後白河天皇を即位させ同時に後白河天皇の子を皇太子としました。
崇徳上皇が院政をしき、実権を握る可能性は鳥羽上皇によって消されたのでした。
鳥羽上皇は崩御の際も自分の遺体は崇徳上皇には見せないように、と言い残したと伝わります。
あまりのひどい仕打ちに耐えかねた崇徳上皇。鳥羽上皇の死後、実権を奪い返すために、弟後白河天皇に戦いを挑み、皇位継承争いが巻き起こりました。これに源氏平氏を巻き込んで、保元の乱・平治の乱へと発展していきます。
藤原摂関家も、源氏平氏もそれぞれに分かれ、朝廷は崇徳側と後白河側に分裂。
最後は後白河天皇側の夜襲で崇徳上皇側は壊滅し、崇徳上皇は出家することになります。そして、それで許されることなく、囚人同様に讃岐へと流されたのでした。
讃岐に幽閉された崇徳上皇は、仏教に深く傾倒します。3年がかりで五部大乗経の大作を書き写し、せめてそれを京都の寺に納めてほしいと朝廷に掛け合いますが、呪詛が込められているのでは、と疑われ、送り返されてしまいます。
その屈辱に、崇徳上皇は自らの舌の先を噛み切り写本に「我、日本国の大魔縁となり、皇をとって民とし民をとって皇となさん(日本の閻魔となって、大混乱を巻き起こしてみせよう)」と、呪いの言葉を記したとされています。
それ以来、崇徳上皇は髪と爪を伸ばし続け、まるで夜叉のような形相に変わったとも。
そして京の地を踏むことはできぬまま、1164年、讃岐の地で46歳という若さで崩御。
その死に際しても、国司による葬礼が行われたのみ、朝廷はその死に喪に服すこともなかったと伝えられます。
崇徳上皇が眠る墓所。
讃岐の地で荼毘に付された崇徳上皇ですが、その勅許が下りるまでの20日間、八十場の冷泉に浸されていたといいます。
そして、埋葬する白峯山に向かう途中、その麓で豪雨に見舞われた一行。崇徳上皇の棺を石の上に下ろすと、その石に血が滴り落ちたという伝説が残ります。
崇徳上皇の遺言により、墓所は白峯山の中腹、白峰寺に隣接した場所に営まれました。それが白峯御陵です。
崇徳上皇の死後10年ほどだったころ、都では後白河天皇の身内が次々と亡くなります。さらに平安京最大級の大火災、日照り・洪水からの大飢饉。
これはきっと崇徳上皇の怨霊によるものであると、人々は恐れました。
崇徳上皇の死後、喪に服すこともなかった朝廷ですが、祟りを鎮めるために讃岐の地で法要を営み、院号も「讃岐院」を「崇徳院」とあらためます。ただ、京の地にその御霊を帰すことはなかったのです。
それからも崇徳上皇の命日になると、節目ごとに災いが起こったといわれます。壇ノ浦の戦い、元寇、応仁の乱、明暦の大火、幕末の動乱。
崇徳上皇の帰還が叶ったのは、なんと明治天皇の時代。そう、長い歴史の中ではつい最近ともいえるお話です。
白峯神宮は、明治天皇によってその即位の前日、崇徳上皇の御霊を白峯御陵から迎え、創建されました。崇徳上皇はじつに700年ぶりに京都の地に戻ったのです。明治6年には、奈良時代、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、淡路国に配流されそのまま崩御した淳仁天皇の御霊も淡路島から迎え、合祀されました。
怨霊として恐れられた三人は、やがて神様として人々に信仰を寄せられ、親しまれる存在となっています。
ここには、先に紹介した「御霊信仰」が深く関わっています。奈良時代に始まり、平安時代に広まったと考えられる信仰です。
天災や疫病の発生は怨霊の仕業であると考えられていた時代、恐ろしい力を持った怨霊を「御霊(みたま)」として丁重に祀り、鎮護の神とすることで、社会の混乱を招く災いを鎮めてもらおうと考えられたのです。
これは国を挙げて行なわれることも多く、たとえば道真や崇徳天皇のように、政治的に抹殺された者の怨霊であるのなら、死んだのちであっても復位させたり、官位を贈ったりすることで鎮めようとしました。
また、今では世界に知られるほど有名になった京都の夏の風物詩、祇園祭。この祇園祭の起源は、天災や疫病をもたらしている怨霊を鎮めるために朝廷の指示で行われた「祇園御霊会」です。
怨霊の力は非常に強く恐ろしいと信じられており、この怨霊を鎮めることは朝廷としても非常に重要なことだったのです。
洪水や日照り、蔓延する疫病、人々を苦しませる天災の数々。私たちが生きるこの時代は、その原因がほぼ解明されているといってもよいかもしれません。
それでも、なぜか惹きつけられてやまないものがあるのではないでしょうか。
芥見下々(あくたみげげ)による『呪術廻戦』。2018年から24年まで、『週刊少年ジャンプ』に掲載された大人気漫画です。アニメや映画にもなり海外でも大ヒット、世界中の人々を虜にしました。
この漫画の登場人物、最強の呪術師とされる五条悟は、日本三大怨霊の一人、菅原道真の子孫という設定です。
人間の負の感情から生まれるという「呪霊」。その呪霊、呪いを祓う現代の呪術師たちの物語が描かれています。この呪霊は、平安の時代に人々が恐れていた怨霊。
呪術が全盛だった平安時代に思いを馳せるファンも多く、この『呪術廻戦』をきっかけに日本三大怨霊を知った、またそのゆかりの地を聖地巡礼で訪れた、という方も多いようです。
人々が震えた日本三大怨霊。
怨念によって災いが起きたのだと信じていた平安の人々は、どんなに恐ろしかっただろうかと、思わず同情してしまいそう。そして、この三人を怨霊になるまでに追い詰めた者、つまりそのときは勝者となった者たちがおそらく味わったであろう恐怖心とはいかばかりか。
怨霊は怖いけれど、あまりに強い思いはとてつもない力を持ちうる、とも信じたい。よい時代を切り開こうとする思い、苦しむ人々を助けたいという思い。叶えたい願いがあった。
これは、本当は恐ろしい話などではなく、今の時代にまでその強い思いを残す神様になった三人の男たちの物語、といえるのかもしれません。
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この世に深い恨みを抱いたまま死んだ人たちの霊魂、「怨霊」。
しかも日本三大怨霊となると、それはそれはおぞましい存在だと想像します。
ところが、その正体はというと、神様として広く知られるこの御三方。
菅原道真、平将門、そして崇徳天皇。
なぜこの三人が怨霊と呼ばれるようになったのか、そして怨霊でありながらなぜ神様として崇められるようになったのか?
さあ、古の時代から人々を震え上がらせ、今なお語り継がれる日本三大怨霊をめぐる物語です。
目次
そもそも“怨霊”とは何もの?
その響きだけで、十分に恐ろしいイメージが浮かぶ「怨霊」。
幽霊?もののけ?それとはまた違うもの?
いったいどんなものなのでしょうか?
生きた人間を脅かす強い怨念
強い憎しみや恨みといった思念を持って死んだ者たち。
死後、その霊魂だけが残り彷徨い、あまりにも強いその怨念は、社会全体に天災や疫病などといった形で甚大な災いをもたらす力を持つとされてきました。
また、生きた人間であっても、強い怨念を持つ魂のみがその身体から抜け出て、いわゆる「生き霊」となることもあるのだとか。
怨霊、やはりなんと恐ろしい!
でも、日本三大怨霊の三人は、今では神様として人々に親しまれている存在ですよね。
そこには平安時代に広まった「御霊信仰(ごりょうしんこう)」があります。
この御霊信仰は、怨霊を「御霊(みたま)」として丁重に祀ることで、逆に強い力を持つ鎮護の神となり、守護されるという信仰。
この信仰が広まったことで、今の時代を生きる私たちはありがたいことに、三人のご神徳の方をいただいているということになるでしょうか。
それでは、いよいよ恐ろしい顔、怨霊の方を紹介しましょう。
日本三大怨霊とは?
日本三大怨霊とは伝説となるほどに強い力を持った怨霊のこと。
この三人はいずれも平安時代を生き、それぞれ非業の死を遂げたと伝わります。
菅原道真は学問の神様となるほど、天才の名をほしいままにした有能な政治家でもありました。また平将門は、貴族から武士へと政治の主導権が変わるきっかけを作ったともいえる人物。そして、崇徳院は和歌を愛し、その歌は百人一首にも収められています。
このような三人がいったいなぜ怨霊と成り果てたのか。
その生涯、そして彼らに怨霊となるほどに強い憎しみを抱くことになったいきさつをみていきましょう。
雷神となった?菅原道真の怨霊伝説
画像引用:WIKIMEDIA COMMNS
人々に「学問の神様」として親しまれる菅原道真。
この方が1人目の日本三大怨霊です。
嫉妬されるほどに有能だった?菅原道真の歴史
菅原道真は、平安時代前期、学問を生業とする京都の中流貴族の家に生まれました。
5歳で和歌を、11歳のころには漢詩を詠み、神童と呼ばれたと伝わります。
26歳、当時の最難関の国家試験とされる方略式(ほうりゃくしき)に史上最年少で合格。国の役人としてのキャリアをスタートさせました。
42歳で讃岐守(現在でいう香川県の知事)として赴きますが、そこでの善政が高く評価され、宇多天皇の下で蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されます。
蔵人頭とは天皇の側近として、政務を補佐する役職。
絶大な権力を誇っていた藤原氏の力を抑えるための登用でもありました。
宇多天皇に重用され、絶大な信頼を寄せられた道真。
次の醍醐天皇の時代には、学者としては異例の右大臣にまで上り詰めたのでした。
このあまりの出世の早さ、要職を一手に引き受ける道真を妬むものも数多くいたようです。
あまりの道真の勢いに恐れを抱いた者もいました。
道真のライバル、時の左大臣藤原時平です。
陰謀により太宰府へ
藤原時平は、道真を追い落とす謀略を巡らせます。
それは道真が謀反を企ているという讒言(ざんげん)、偽りの告げ口。
醍醐天皇を廃して、その弟、道真の娘婿でもある斉世(ときよ)親王を立てる画策をしている、というものでした。
そしてそれを信じた醍醐天皇は、道真に太宰府への赴任、つまりは左遷を命じたのです。
旅立つ日、もう二度と目にすることのない京都・自邸の梅の花を愛でて詠んだのが、かの有名な歌。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
(梅の花よ、私がおらずとも春になったら必ず花を咲かせ、その香を私の元に届けておくれ)
太宰府での道真は、罪人の濡れ衣を着せられたまま、事欠く暮らしだったといいます。
そして二年後、道真は失意のうちに太宰府の地で59年の生涯を閉じます。
その死後、次々と起こる災難
道真が亡くなった903年以降、都ではさまざまな災難が続くようになります。
清涼殿の落雷事件は、この年に起きた干魃(かんばつ)についての会議が開かれている最中だったといいます。
じつは、毎年のように日本各地で台風や洪水による被害、疫病の蔓延、そして干魃が起きるようになっていました。
そして、これらは菅原道真の怨霊によるものだと囁かれていたのです。
道真の怨霊を鎮めるため、朝廷は道真を右大臣に復して名誉回復を図ります。
それは道真が太宰府で亡くなった20年後のこと。
そしてその70年後、朝廷は左大臣、また最高位の官職太政大臣の位を追贈しました。
天神さまとなった道真
画像引用:WIKIMEDIA COMMNS
今では学問の神様として篤い信仰を集める道真。
清涼殿落雷事件以来、道真は雷神と習合し「天満大自在天神」と呼ばれるようになります。
あの京都北野天満宮・太宰府天満宮は、道真の怨霊を鎮めるための社として建てられたのです。
●北野天満宮/京都
942年、道真の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に立った道真。
「われを北野右近の馬場に祀れ」との託宣を受けたと伝わります。
それが現在の北野天満宮。
全国に1万2千社あるともいわれる、道真をご祭神とする天満宮・天神社の総本社です。
この北野は、御所を中心とした都の北西、「天門」を守る重要な地と考えられている場所。ここにはもともと火雷神を祀る社がありました。
才能に溢れ、天満大自在天神となった道真を祀る「天神信仰」はしだいに広まり、今の時代に受け継がれています。
●太宰府天満宮/福岡
福岡、太宰府天満宮。
本殿は、菅原道真の墓所の上に建てられています。
ここは、道真の遺骸を牛車で引く途中、牛がにわかに臥して動かなくなったとされる場所。
亡くなる際、道真は「人に引かせず牛の行くところに止めよ」との言葉を残したとされています。
また、こんな伝説も。
本殿向かって右側にあるのが、御神木「飛梅」。
樹齢1000年を越えるともいわれる立派な梅の木で、極早咲きの色玉垣という品種です。
この木は、境内に植えられたほかの梅の木に先駆けて花をほころばせ、春を告げるのだといいます。
じつはこの木、あの道真が京都で詠んだ自邸のあの木であるのだとか。
あの歌を聴き、道真を慕って一夜にして大宰府まで飛んだとされているのです。
晒し首が飛んだ⁈平将門の怨霊伝説
画像引用:WIKIMEDIA COMMNS
日本三大怨霊、2人目は平将門です。
皇室の血筋を継ぐ家系で、やがて関東諸国を制圧し、新しい国家を樹立しようとした武将。
その戦いの圧倒的な強さから、勝負事の神様としても知られています。
朝廷の反逆者から「新皇」に
下総国(しもうさのくに)豊田郡を本拠地にもつ豪族として生まれた平将門。
15歳で京に上り、藤原氏に仕えました。内裏の警護にあたる低い官位の「滝口の武士」でしたが、父親平良将(たいらのよしひら)が亡くなったことで、地元関東に戻ります。
ここで、やがて「平将門の乱」へとつながっていく親族間の争いが起こりました。
父の領地が叔父の平国香、良兼、良正によって収奪されていると知り、争いとなったとされますが、じつはその裏には、こんな話もあるのだそう。
将門が妻にと望んでいた、常陸国の国司源護(みなもとのまもる)の3人の娘、この3人が揃いも揃って叔父たちに嫁いでしまったのだとか。
さらには、将門が良兼の娘を強奪する形で娶り、確執が生まれたとされています。
935年、国香・源護と戦った将門は、国香と源護の3人の息子を討ちます。さらに叔父たちの連合軍に完全勝利したことで、その武勇は広く知れ渡りました。
次第に朝廷に不満を持つ多くの武士が将門のもとに集結、やがて勢力は東日本に拡大していくと、やがて常陸(ひたち)・上総(かずさ)・下総・安房(あわ)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の坂東八箇国を支配下に治めます。
国司を追放し、これまで圧政に苦しんでいた人々を味方につけました。
将門は「新皇」を名乗り、朝廷に独立、つまり新国家の樹立を宣言したのです。
これが朝廷への反逆とみなされ、将門の追討令が出されました。
そして、それからわずか2ヶ月、将門は平貞盛、藤原秀郷に討ち取られます。
影武者が7人いたとか、じつは平将門の身体は鉄でできており、唯一生身であるこめかみを射抜かれたとか、神が放った矢が天から降ってきたとか。
伝説の武将、圧倒的に強かったという将門のあっけない死に、さまざまな伝説も残ります。
まるで生きているよう⁈将門の晒し首
画像引用:https://www.digital.archives.go.jp/img/3955643
討ち取られた将門、戦いの地に残されたその胴体は、村人たちが密かに運び、茨城県坂東市神田に埋葬されたと伝わります。
そして首はというと、京に送られ七条河原に晒されました。
一説によると、この将門が日本で初めての晒し首なのだとか。
そしてこの首が、当時ばかりでなく今の時代も、人々を震え上がらせることになるのです。
この将門の晒し首、何ヶ月経っても腐らず、まるで生きているかのように目を閉じたり開いたり。歯軋りをして、夜な夜な「身体と繋いでもう一戦するぞ!」と叫んだと伝わります。
そしてついには身体を求めて、東の空に飛び去ったというのです。
現代にまで続く祟り?将門の首塚
身体を求めて飛んだその首が力尽きて落ちた場所に、村人たちが塚を築いたとされています。
●将門塚/東京
現在の東京都千代田区大手町。
整然としたオフィス街の一角に、「将門塚」があります。将門の首が落ちたとされる場所です。
この首塚を巡っては、誰も手が出せない、そんな伝説が残ります。
関東大震災後、全焼した大蔵省庁舎の仮設庁舎が、この場所に建てられることになり、首塚は取り壊されることになりました。
すると、当時の大蔵大臣をはじめとする関係者が次々と不審な死を遂げたといいます。
2年間で14名。
結局この仮庁舎は取り壊されることになり、さらに将門が亡くなって1000年の年には、大蔵省本庁舎に雷が直撃、炎上しました。
また、戦後になり、焼け野原となったこの地に、GHQが駐車場を造成しようとしたところ、重機が横転する事故が起き、運転手が亡くなっています。
将門の首塚は、移転や取り壊しの計画が持ち上がるたびに、不吉な出来事が起こるのだといわれます。
将門の祟りを恐れ、現在の都市再開発でもこの首塚には手が付けられずにいるのです。
●神田明神/東京
じつは将門の首が落ちた場所は、もともと神田明神の創建の地。
江戸幕府が開かれると、江戸総鎮守とされ、江戸城の表鬼門とされる現在の場所に遷座します。
将門の祟りによるとされる災いがたびたび起きたことから、その霊を鎮めるため、将門は神田明神に合祀されました。
日本史上最恐⁈崇徳天皇の怨霊伝説
画像引用:WIKIMEDIA COMMNS
日本の第75代天皇、崇徳天皇。
天皇が怨霊になる。
この崇徳天皇こそ、日本史上最恐といわれる怨霊です。
誕生から始まった崇徳天皇の悲劇
平安時代後期、崇徳天皇は鳥羽天皇と藤原璋子(たまこ)の第一子として誕生しました。
大いに喜ばれるはずのその誕生には、こんな噂がつきまといます。
鳥羽天皇の子ではない。
じつは崇徳天皇は、その曽祖父にあたる白河法皇の子だというのです。
父鳥羽天皇もそれを信じ、崇徳天皇を「叔父子(おじご)」と、嫌味を込めて呼び、忌み嫌いました。
その後、崇徳天皇はわずか3歳で即位。
白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は院政を開始。
まだ若い崇徳天皇に強引に譲位を迫り、間違いなく自分の子である近衛天皇を3歳で即位させるのです。
崇徳上皇は実権を握ることはなく、和歌の世界に没頭。
病弱な近衛天皇が17歳で夭折すると、崇徳上皇は自らの子を即位させようとしますが、鳥羽上皇がこれを拒否。
今度はこちらも確かに自分の子である崇徳上皇の実弟、後白河天皇を即位させ同時に後白河天皇の子を皇太子としました。
崇徳上皇が院政をしき、実権を握る可能性は鳥羽上皇によって消されたのでした。
讃岐に流された崇徳天皇
鳥羽上皇は崩御の際も自分の遺体は崇徳上皇には見せないように、と言い残したと伝わります。
あまりのひどい仕打ちに耐えかねた崇徳上皇。
鳥羽上皇の死後、実権を奪い返すために、弟後白河天皇に戦いを挑み、皇位継承争いが巻き起こりました。
これに源氏平氏を巻き込んで、保元の乱・平治の乱へと発展していきます。
藤原摂関家も、源氏平氏もそれぞれに分かれ、朝廷は崇徳側と後白河側に分裂。
最後は後白河天皇側の夜襲で崇徳上皇側は壊滅し、崇徳上皇は出家することになります。
そして、それで許されることなく、囚人同様に讃岐へと流されたのでした。
讃岐に幽閉された崇徳上皇は、仏教に深く傾倒します。
3年がかりで五部大乗経の大作を書き写し、せめてそれを京都の寺に納めてほしいと朝廷に掛け合いますが、呪詛が込められているのでは、と疑われ、送り返されてしまいます。
その屈辱に、崇徳上皇は自らの舌の先を噛み切り写本に「我、日本国の大魔縁となり、皇をとって民とし民をとって皇となさん(日本の閻魔となって、大混乱を巻き起こしてみせよう)」と、呪いの言葉を記したとされています。
それ以来、崇徳上皇は髪と爪を伸ばし続け、まるで夜叉のような形相に変わったとも。
そして京の地を踏むことはできぬまま、1164年、讃岐の地で46歳という若さで崩御。
その死に際しても、国司による葬礼が行われたのみ、朝廷はその死に喪に服すこともなかったと伝えられます。
●白峯御陵/香川
崇徳上皇が眠る墓所。
讃岐の地で荼毘に付された崇徳上皇ですが、その勅許が下りるまでの20日間、八十場の冷泉に浸されていたといいます。
そして、埋葬する白峯山に向かう途中、その麓で豪雨に見舞われた一行。
崇徳上皇の棺を石の上に下ろすと、その石に血が滴り落ちたという伝説が残ります。
崇徳上皇の遺言により、墓所は白峯山の中腹、白峰寺に隣接した場所に営まれました。
それが白峯御陵です。
最恐の怨霊となった崇徳天皇
画像引用:WIKIMEDIA COMMNS
崇徳上皇の死後10年ほどだったころ、都では後白河天皇の身内が次々と亡くなります。
さらに平安京最大級の大火災、日照り・洪水からの大飢饉。
これはきっと崇徳上皇の怨霊によるものであると、人々は恐れました。
崇徳上皇の死後、喪に服すこともなかった朝廷ですが、祟りを鎮めるために讃岐の地で法要を営み、院号も「讃岐院」を「崇徳院」とあらためます。
ただ、京の地にその御霊を帰すことはなかったのです。
それからも崇徳上皇の命日になると、節目ごとに災いが起こったといわれます。
壇ノ浦の戦い、元寇、応仁の乱、明暦の大火、幕末の動乱。
崇徳上皇の帰還が叶ったのは、なんと明治天皇の時代。
そう、長い歴史の中ではつい最近ともいえるお話です。
●白峯神宮/京都
白峯神宮は、明治天皇によってその即位の前日、崇徳上皇の御霊を白峯御陵から迎え、創建されました。
崇徳上皇はじつに700年ぶりに京都の地に戻ったのです。
明治6年には、奈良時代、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、淡路国に配流されそのまま崩御した淳仁天皇の御霊も淡路島から迎え、合祀されました。
怨霊が神として祀られる理由とは?
怨霊として恐れられた三人は、やがて神様として人々に信仰を寄せられ、親しまれる存在となっています。
ここには、先に紹介した「御霊信仰」が深く関わっています。
奈良時代に始まり、平安時代に広まったと考えられる信仰です。
天災や疫病の発生は怨霊の仕業であると考えられていた時代、恐ろしい力を持った怨霊を「御霊(みたま)」として丁重に祀り、鎮護の神とすることで、社会の混乱を招く災いを鎮めてもらおうと考えられたのです。
これは国を挙げて行なわれることも多く、たとえば道真や崇徳天皇のように、政治的に抹殺された者の怨霊であるのなら、死んだのちであっても復位させたり、官位を贈ったりすることで鎮めようとしました。
また、今では世界に知られるほど有名になった京都の夏の風物詩、祇園祭。
この祇園祭の起源は、天災や疫病をもたらしている怨霊を鎮めるために朝廷の指示で行われた「祇園御霊会」です。
怨霊の力は非常に強く恐ろしいと信じられており、この怨霊を鎮めることは朝廷としても非常に重要なことだったのです。
現代における日本三大怨霊とは?
洪水や日照り、蔓延する疫病、人々を苦しませる天災の数々。
私たちが生きるこの時代は、その原因がほぼ解明されているといってもよいかもしれません。
それでも、なぜか惹きつけられてやまないものがあるのではないでしょうか。
芥見下々(あくたみげげ)による『呪術廻戦』。
2018年から24年まで、『週刊少年ジャンプ』に掲載された大人気漫画です。
アニメや映画にもなり海外でも大ヒット、世界中の人々を虜にしました。
この漫画の登場人物、最強の呪術師とされる五条悟は、日本三大怨霊の一人、菅原道真の子孫という設定です。
人間の負の感情から生まれるという「呪霊」。
その呪霊、呪いを祓う現代の呪術師たちの物語が描かれています。
この呪霊は、平安の時代に人々が恐れていた怨霊。
呪術が全盛だった平安時代に思いを馳せるファンも多く、この『呪術廻戦』をきっかけに日本三大怨霊を知った、またそのゆかりの地を聖地巡礼で訪れた、という方も多いようです。
神様になった三人
人々が震えた日本三大怨霊。
怨念によって災いが起きたのだと信じていた平安の人々は、どんなに恐ろしかっただろうかと、思わず同情してしまいそう。
そして、この三人を怨霊になるまでに追い詰めた者、つまりそのときは勝者となった者たちがおそらく味わったであろう恐怖心とはいかばかりか。
怨霊は怖いけれど、あまりに強い思いはとてつもない力を持ちうる、とも信じたい。
よい時代を切り開こうとする思い、苦しむ人々を助けたいという思い。叶えたい願いがあった。
これは、本当は恐ろしい話などではなく、今の時代にまでその強い思いを残す神様になった三人の男たちの物語、といえるのかもしれません。
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