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コロンブスといえば、冒険心と強い信念で大航海時代の先駆けとなった「偉大な探検家」というイメージがありませんか?
コロンブスが新航路を開拓し、世界の歴史が大きく発展したことは確かです。一方で植民地支配や奴隷制度など先住民に対する残虐な行為に注目が集まることもしばしば。
10月14日(10月第2月曜日)は「コロンブス・デー」。コロンブスの新大陸発見を記念する日です。
コロンブスについて賛否が分かれるアメリカでは、あえてこの日にアメリカ先住民について学ぶカリキュラムが組まれる学校も少なくないのだとか。
この記事では、英雄コロンブスの光と影について掘り下げてみようと思います。
好奇心旺盛で未踏の地への憧れを胸に、大西洋を越えて新大陸にたどり着いたコロンブス。強い信念と探求心を持ち続けたコロンブスはどのように育ったのでしょう?
クリストファー・コロンブスはイタリアの探検家。日本では「コロンブス」と呼ばれていますが、これはラテン語の読み方で、自国イタリアではコロンボ、スペイン語ではコロンといいます。
1451年イタリアのジェノヴァで、毛織物業の貧しい家庭の7人兄弟の3番目として生まれました。当時ジェノヴァは地中海貿易の中心地として栄え、多くの海洋探検家や商人が集う場所として賑わっていました。
コロンブスは10代の頃から父親の仕事を手伝い、商船に乗り込んで地中海や大西洋を旅するなど、海や航海に関わる環境の中で育ちました。
コロンブスは、『東方見聞録』※に出てくる「黄金の国ジパング」の存在に魅了され、しだいに西廻りによるアジア到達を夢見るようになります。
夢を叶えるため、未知の海に関する情報を集めながら、天文学や地理、航海術を学び、ラテン語やスペイン語などの語学の習得に務めたコロンブス。やがて彼は航海士・地図製作者としての地位を築いていきます。
1479年には貴族の娘フェリパ・モニス・ペレストレロと結婚。貧しかったコロンブスにとって貴族の娘との結婚は、上流階級への仲間入りを意味します。この結婚がきっかけでコロンブスは冒険家へと踏み出したといわれています。
アメリカ大陸発見という偉業を成し遂げ、大航海時代の先駆者となったコロンブス。彼のすごさはどこにあるのでしょう?
東方見聞録に影響を受けたコロンブスは、「地球は球体であり、西へ航海を続ければ、アジアの東端に行き着く」と信じ、新航路を開拓するのは自分だと情熱を燃やしていました。
当時は、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で構成されているという概念が一般的で、アメリカ大陸や太平洋の存在は知られていませんでした。そのためコロンブスは、アジアへの距離を今よりずっと近いものと見積もっていたようです。
この着想を実現するため、コロンブスは資金援助と一獲千金の成功報酬を得ようと、1484年ポルトガル王ジョアン2世に援助を求めました。
しかし当時ポルトガルは東回りの航路に力を注いでいたため、この交渉は失敗に終わりました。しかしコロンブスはあきらめません。この頃妻フェリパを亡くしたコロンブスは、8年間暮らしたポルトガルを離れる決意をします。
その後スペインへ移り住んだコロンブス。5歳の息子ディエゴのために訪れた修道院で修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父に出会い、カトリック両王を紹介されます。
カトリック両王とは、アラゴンの王フェルナンド2世とカスティーリャの女王イサベル1世のこと。2人は結婚しスペイン王国を統治していました。
両王に「アジアへの西廻り大航海の計画」を熱心に売り込んだところ、イサベル1世はこの計画に大変興味を示しました。
当時ヨーロッパでは、コショウなどの香辛料が高値で取引されていました。イサベル1世は、アジアから輸入していた高価な香辛料を手に入れ、さらにはアジアで植民地を増やしたいと常々考えていたからです。
しかし話はなかなか前に進みません。あきらめかけた頃、コロンブスの熱意と執念は、カトリック両王に届きました。ついにスペイン王室の援助を手に入れたのです。
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスはスペイン王室との間に「サンタ・フェ契約」を締結。
これにより、コロンブスは新たに発見した土地の総督となる権利と、発見した財宝の10%を得ることを約束されました。
【サンタ・フェ契約】
コロンブスは生涯で4回の航海を行いましたが、それぞれ異なる目的がありました。詳しく見ていきましょう。
スペイン王室から3隻の船(サンタ・マリア号、ニーニャ号、ピンタ号)を得たコロンブスは、1492年8月3日スペインのパロス港を出発しました。
彼の目標は、西廻りでインドに到達すること。航海は困難を極めたものの、10月12日ついにバハマ諸島にある未知の島に上陸し、この島をサンサルバドル島と命名したのです。
この時コロンブスは、インドの東側に上陸したと思い込んでいたため、現地の人を「インディオ」と呼んでいました。
またインドから遠く離れたバハマの島々が、今でも「西インド諸島」と呼ばれているのはこのためです。
彼らは黄金を探して島々を探索しましたが、見つかりません。コロンブスは約40人の乗組員をこの地に残し、パイナップル、タバコ、トウモロコシなどの農作物と先住民6人を奴隷として船に乗せスペインへ帰国しました。
1493年に行われた第2回航海では、17隻の船と1,500人の人員を伴い、新たな植民地を開拓すべく、エスパニョーラ島へ向かいました。
島に到着すると、現地に残してきた乗組員たちは、先住民の襲撃を受け全滅していました。 彼らが原住民に悪事を繰り替えしていたため反撃にあったのです。
コロンブスらは、行く先々で窃盗、殺人、強姦、放火拷問を繰り返し、先住民たちに黄金の在処を白状させようとしましたが、黄金どころか香辛料も発見できませんでした。
カリブ海域を探検していたコロンブスは、翌年1494年キューバが島であることを確認、ジャマイカ島を発見するなどし、1496年に帰国しました。
1498年5月、サンルーカル港を出港し8月にサンドミンゴに入港したコロンブス。現地では食糧不足により入植者たちの不満が爆発、コロンブス不在の間代理として残っていた弟バルトロメの力も及ばず反乱が起っていたのです。
この惨状はスペイン本国にも伝わりました。翌年1499年、スペイン王室は現地調査官としてポバディリャを現地に派遣しました。
ポバディリャは提督の館に乗り込みコロンブスらを逮捕。コロンブス兄弟は鎖に繋がれて本国に送り返され、提督の地位は剥奪されてしまったのです。
1502年、コロンブスは4回目にして最後の航海に出発。わずか140人でカディス港を出発した一行は、サンドミンゴへの入港を禁止されていたため、さらに西のルートを探りました。
この航海の目的は、まだ発見されていない航路を見つけること。しかし、嵐や食糧不足、船の損傷により航海は失敗に終わります。スペインに戻ったコロンブスは健康を害し、1506年に54歳で亡くなりました。
彼は生涯、これらの島々をインドの一部と信じて疑いませんでした。彼の功績により新大陸から新しい作物や動物、技術などの新しい文化がヨーロッパ諸国にもたらされました。
一方コロンブスは、富と権力を求めるあまり先住民を奴隷化し、虐殺するなど残虐な支配者であったといわれています。
「コロンブスの卵」という言葉をご存じですか?
これは、「一見、簡単で誰でもできそうなことも、最初に思いつき実行するのは至難の業である」という教訓です。ではこの言葉の由来となる逸話をご紹介しましょう。
新大陸を発見し帰国した後、貴族たちのパーティに出席した時のこと。彼の成功を妬む人々から「大洋を西へ西へと航海して、陸地に到達したのがそれ程の手柄か?」と批判されたコロンブス。
彼らに対して、コロンブスはテーブルの上で卵を立てるよう促します。当然その場にいた誰も卵を立てることはできません。
そこで、コロンブスは卵の先端をテーブルに打ち付け平らにつぶすことで、難なく卵を立てて見せたのです。そして彼らに「これも誰かがやって見せた後では、とても簡単なことです」と言い放ったのだとか。
クリストファー・コロンブスはイタリアの探検家。1492年に新大陸(アメリカ大陸)を発見した人物で、大航海時代の先駆者といわれています。
航海に懸ける情熱は誰よりも強く、高い実行力とリーダーシップで人類の歴史を切り開いた英雄であり、同時に、先住民に対し強奪や虐殺を繰り返し、奴隷化するなど残忍な支配者であったことでも知られています。
コロンブス・デーにちなんで、コロンブスの偉大な功績と、彼らがアメリカ先住民に与えた影響について、目を向ける機会になれば幸いです。
コロンブスといえば、冒険心と強い信念で大航海時代の先駆けとなった「偉大な探検家」というイメージがありませんか?
コロンブスが新航路を開拓し、世界の歴史が大きく発展したことは確かです。一方で植民地支配や奴隷制度など先住民に対する残虐な行為に注目が集まることもしばしば。
10月14日(10月第2月曜日)は「コロンブス・デー」。コロンブスの新大陸発見を記念する日です。
コロンブスについて賛否が分かれるアメリカでは、あえてこの日にアメリカ先住民について学ぶカリキュラムが組まれる学校も少なくないのだとか。
この記事では、英雄コロンブスの光と影について掘り下げてみようと思います。
目次
コロンブスってどんな人?
好奇心旺盛で未踏の地への憧れを胸に、大西洋を越えて新大陸にたどり着いたコロンブス。強い信念と探求心を持ち続けたコロンブスはどのように育ったのでしょう?
コロンブスの生い立ち
クリストファー・コロンブスはイタリアの探検家。日本では「コロンブス」と呼ばれていますが、これはラテン語の読み方で、自国イタリアではコロンボ、スペイン語ではコロンといいます。
1451年イタリアのジェノヴァで、毛織物業の貧しい家庭の7人兄弟の3番目として生まれました。当時ジェノヴァは地中海貿易の中心地として栄え、多くの海洋探検家や商人が集う場所として賑わっていました。
コロンブスは10代の頃から父親の仕事を手伝い、商船に乗り込んで地中海や大西洋を旅するなど、海や航海に関わる環境の中で育ちました。
冒険家へと駆り立てたもの
コロンブスは、『東方見聞録』※に出てくる「黄金の国ジパング」の存在に魅了され、しだいに西廻りによるアジア到達を夢見るようになります。
夢を叶えるため、未知の海に関する情報を集めながら、天文学や地理、航海術を学び、ラテン語やスペイン語などの語学の習得に務めたコロンブス。やがて彼は航海士・地図製作者としての地位を築いていきます。
1479年には貴族の娘フェリパ・モニス・ペレストレロと結婚。貧しかったコロンブスにとって貴族の娘との結婚は、上流階級への仲間入りを意味します。この結婚がきっかけでコロンブスは冒険家へと踏み出したといわれています。
※マルコポーロが1271年から1295年にかけての中央アジアや中国へ旅行した体験をルスティケロが記録したといわれる著書。日本のことを「黄金の国ジパング」として紹介しています。コロンブスの何がすごい?
アメリカ大陸発見という偉業を成し遂げ、大航海時代の先駆者となったコロンブス。彼のすごさはどこにあるのでしょう?
西廻りの航海の着想
東方見聞録に影響を受けたコロンブスは、「地球は球体であり、西へ航海を続ければ、アジアの東端に行き着く」と信じ、新航路を開拓するのは自分だと情熱を燃やしていました。
当時は、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で構成されているという概念が一般的で、アメリカ大陸や太平洋の存在は知られていませんでした。そのためコロンブスは、アジアへの距離を今よりずっと近いものと見積もっていたようです。
ポルトガル王室への提案
この着想を実現するため、コロンブスは資金援助と一獲千金の成功報酬を得ようと、1484年ポルトガル王ジョアン2世に援助を求めました。
しかし当時ポルトガルは東回りの航路に力を注いでいたため、この交渉は失敗に終わりました。しかしコロンブスはあきらめません。この頃妻フェリパを亡くしたコロンブスは、8年間暮らしたポルトガルを離れる決意をします。
カトリック両王への売り込み
その後スペインへ移り住んだコロンブス。5歳の息子ディエゴのために訪れた修道院で修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父に出会い、カトリック両王を紹介されます。
カトリック両王とは、アラゴンの王フェルナンド2世とカスティーリャの女王イサベル1世のこと。2人は結婚しスペイン王国を統治していました。
両王に「アジアへの西廻り大航海の計画」を熱心に売り込んだところ、イサベル1世はこの計画に大変興味を示しました。
当時ヨーロッパでは、コショウなどの香辛料が高値で取引されていました。イサベル1世は、アジアから輸入していた高価な香辛料を手に入れ、さらにはアジアで植民地を増やしたいと常々考えていたからです。
しかし話はなかなか前に進みません。あきらめかけた頃、コロンブスの熱意と執念は、カトリック両王に届きました。ついにスペイン王室の援助を手に入れたのです。
サンタ・フェ契約
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスはスペイン王室との間に「サンタ・フェ契約」を締結。
これにより、コロンブスは新たに発見した土地の総督となる権利と、発見した財宝の10%を得ることを約束されました。
【サンタ・フェ契約】
各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
コロンブスの航海について
コロンブスは生涯で4回の航海を行いましたが、それぞれ異なる目的がありました。詳しく見ていきましょう。
第1回航海
スペイン王室から3隻の船(サンタ・マリア号、ニーニャ号、ピンタ号)を得たコロンブスは、1492年8月3日スペインのパロス港を出発しました。
彼の目標は、西廻りでインドに到達すること。航海は困難を極めたものの、10月12日ついにバハマ諸島にある未知の島に上陸し、この島をサンサルバドル島と命名したのです。
この時コロンブスは、インドの東側に上陸したと思い込んでいたため、現地の人を「インディオ」と呼んでいました。
またインドから遠く離れたバハマの島々が、今でも「西インド諸島」と呼ばれているのはこのためです。
彼らは黄金を探して島々を探索しましたが、見つかりません。コロンブスは約40人の乗組員をこの地に残し、パイナップル、タバコ、トウモロコシなどの農作物と先住民6人を奴隷として船に乗せスペインへ帰国しました。
第2回航海
1493年に行われた第2回航海では、17隻の船と1,500人の人員を伴い、新たな植民地を開拓すべく、エスパニョーラ島へ向かいました。
島に到着すると、現地に残してきた乗組員たちは、先住民の襲撃を受け全滅していました。
彼らが原住民に悪事を繰り替えしていたため反撃にあったのです。
コロンブスらは、行く先々で窃盗、殺人、強姦、放火拷問を繰り返し、先住民たちに黄金の在処を白状させようとしましたが、黄金どころか香辛料も発見できませんでした。
カリブ海域を探検していたコロンブスは、翌年1494年キューバが島であることを確認、ジャマイカ島を発見するなどし、1496年に帰国しました。
第3回航海
1498年5月、サンルーカル港を出港し8月にサンドミンゴに入港したコロンブス。現地では食糧不足により入植者たちの不満が爆発、コロンブス不在の間代理として残っていた弟バルトロメの力も及ばず反乱が起っていたのです。
この惨状はスペイン本国にも伝わりました。翌年1499年、スペイン王室は現地調査官としてポバディリャを現地に派遣しました。
ポバディリャは提督の館に乗り込みコロンブスらを逮捕。コロンブス兄弟は鎖に繋がれて本国に送り返され、提督の地位は剥奪されてしまったのです。
第4回航海
1502年、コロンブスは4回目にして最後の航海に出発。わずか140人でカディス港を出発した一行は、サンドミンゴへの入港を禁止されていたため、さらに西のルートを探りました。
この航海の目的は、まだ発見されていない航路を見つけること。しかし、嵐や食糧不足、船の損傷により航海は失敗に終わります。スペインに戻ったコロンブスは健康を害し、1506年に54歳で亡くなりました。
彼は生涯、これらの島々をインドの一部と信じて疑いませんでした。彼の功績により新大陸から新しい作物や動物、技術などの新しい文化がヨーロッパ諸国にもたらされました。
一方コロンブスは、富と権力を求めるあまり先住民を奴隷化し、虐殺するなど残虐な支配者であったといわれています。
コロンブスの卵
「コロンブスの卵」という言葉をご存じですか?
これは、「一見、簡単で誰でもできそうなことも、最初に思いつき実行するのは至難の業である」という教訓です。ではこの言葉の由来となる逸話をご紹介しましょう。
新大陸を発見し帰国した後、貴族たちのパーティに出席した時のこと。彼の成功を妬む人々から「大洋を西へ西へと航海して、陸地に到達したのがそれ程の手柄か?」と批判されたコロンブス。
彼らに対して、コロンブスはテーブルの上で卵を立てるよう促します。当然その場にいた誰も卵を立てることはできません。
そこで、コロンブスは卵の先端をテーブルに打ち付け平らにつぶすことで、難なく卵を立てて見せたのです。そして彼らに「これも誰かがやって見せた後では、とても簡単なことです」と言い放ったのだとか。
コロンブス・デーに思うこと
クリストファー・コロンブスはイタリアの探検家。1492年に新大陸(アメリカ大陸)を発見した人物で、大航海時代の先駆者といわれています。
航海に懸ける情熱は誰よりも強く、高い実行力とリーダーシップで人類の歴史を切り開いた英雄であり、同時に、先住民に対し強奪や虐殺を繰り返し、奴隷化するなど残忍な支配者であったことでも知られています。
コロンブス・デーにちなんで、コロンブスの偉大な功績と、彼らがアメリカ先住民に与えた影響について、目を向ける機会になれば幸いです。