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グアム島の遺書 厚生省グアム島元日本兵調査派遣団により発見された遺書より
海軍軍属 石田正夫命 昭和十九年八月八日 グアム島にて戦死 兵庫県加東郡中東条村出身 三十七歳
昨夜子供の夢を見て居た。 父として匠に何をして来たか。 このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。 おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。 強く生きてほしい。 そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。
内地の様子が知りたい。 聞きたい。 毎日、 勢の急迫を申し渡されるばかり。 自分達はすでに死を覚悟して来てゐる。 万策つきれば、いさぎよく死なう。
本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむ事が出来れば、母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。 遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。 なつかしい遠い母国の若き女達よ、清く美しく健康であれ。
8月15日の終戦の日がまたやってきました。
日本人として何か感じてますでしょうか? 個人主義がはびこってしまって、自身の砂粒程度の価値観こそすべてという風潮に生きておりますと、何も感じることができない方も多いのかもしれません。でも例え価値観がどうであったとしても、何も感じてないというのは、人間として構造的な欠落があるのでしょう。
自然に真っ直ぐと育ち、まともな人間感覚が息づいているならば、例えば人との約束を破ると気分が悪くなるもので、謝ったり償ったりすることで解消されていく相互作用が存在します。 誰かに恩義がある場合には、感謝や返礼といった気持ちや行動に繋げないとどうも収まっていかないものです。
つまり人は個人で独立して存在しているようで、他者との相互作用の中にこそ息づいているものでして、それは現代を生きる日本人同士の横軸の相互作用だけでなく、先人と今の世代をつなぐ歴史的な縦軸の相互作用でも同じことが言えるでしょう。
そういう相互作用を鑑みたときに、かつての大戦で命を投げ打って下さった先人たちに私たちはどのように向かいあうべきなのか。 その判断においてさまざまな価値観があっていいというのは相対主義の誤魔化しであって、人間として真っ直ぐな感受性とは何かが問われるべきものであります。
英霊に対して顕彰し、「よくやってくださった」「後世の私たちのために、ありがとうございました」という内からの気持ちを持てないのであれば、何か欠落や浅はかさ、歪みが入り混じっているのではないかと思うのです。
ロシアによるウクライナの侵攻を見ても分るように、話し合いで解決できないこともあります。ましてや幕末から昭和までは、牙を剥き出しあって獲るか獲られるかの帝国主義の時代であったわけです。 明治維新、日露戦争、大東亜戦争と、まさに多くの日本人が、世界中を植民地化して迫ってきた欧米列強の脅威に命を投げ出してきました。愛する郷土のために、後世のわたしたちのために。
日本人は長い歴史の中で、「身を投げ打って他者に尽くす」という人間としての美徳を見出してきました。 自身の損得ばかりを人生の中心に置いてる現代的価値観とは随分異なりますが、どちらが人間として自然で真っ直ぐであるか、人としての充実や誇らしさがあるかは、議論をするまでもないでしょう。そして、その究極とは命をすら投げ出すことです。
幕末から欧米列強の圧力が高まって以来、避けられぬ戦争のたびに多くの日本人が殉死していきましたが、大東亜戦争では終戦のその日まで多くの玉砕、特攻が繰り広げられました。 冒頭の遺書はグアムで玉砕した英霊のものですが、最後に二つ、特攻隊の遺書をご紹介しておきたいです。
終戦日を、かつての日本のために、これからの日本のために、そして自分自身のために、祈りを捧げる日としましょう。
最後の日記
海軍大尉 市島保男命 神風特別攻撃隊第五昭和隊 昭和二十年四月二十九日 沖縄県東南方海上にて戦死 早稲田大学第二高等学院生 東京都出身 二十三歳
ただ命を待つだけの軽い気持である。 隣の室で「誰か故郷を想はざる」をオルガンで弾いてゐる者がある。 平和な南国の雰囲気である。 徒然なるまゝにれんげ摘みに出かけたが、今は捧げる人もなし。 梨の花とともに包み、僅かに思ひ出をしのぶ。夕闇の中を入浴に行く。 隣の室では酒を飲んで騒いでゐるが、それもまたよし。 俺は死するまで静かな気持でゐたい。人間は死するまで精進しつゞけるべきだ。ましてや大和魂を代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持したい。 俺は、自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。 精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでゐた人びとの美しい愛情のおかげであつた。今かぎりなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。
訣別
陸軍大尉 米津 芳太郎 命 陸軍特別攻撃隊富嶽隊 昭和十九年十一月十三日 ルソン島東方海上にて戦死 静岡県磐田郡掛塚町出身 二十七歳
再び還らざる出撃命令が下りました。今に及び何等心残りは御座いません。吾々人間として最大なる修養、孜々として死に赴く境地も既に会得し、只軍人勅諭、戦陣訓の訓をそのまゝ実践躬行するのみです。 二十七年間の生涯をなんら子として弟としての道を守り行はざりしを深く恥づる次第です。 すべてを兄上に委ね、心置きなく悠久の大義に生きんとして居ります。 男子の本懐之にすぎず。 遺品の中にあるマニラ産の化粧石鹸は参謀長より賜った品です。 では呉々も母上をお願ひ致します。 向寒の折呉々も御自愛の程。 兄上
親に先だつ不孝をお許し下さい。 さりながら大君の御楯として靖國の守護神になる芳太郎のことゆえ母上もお欣び下さること存じます。只老後の母上に御心配をおかけするのが何よりの苦衷です。どうぞお許し下さい。 母上
米津大尉戦死状況 一、最后の電文 (西尾隊長ノ命ニヨリ米津大尉ノ発信セルモノ) 十七時十四分 全機無事攻撃セントス 十七時五十分 全員志氣旺盛 十七時五十八分 降下偵察 十八時二分 空母発見体当たり 一、 攻撃 (同行司偵確認-現地部隊ヨリノ電文) 十八時五分 敵グラマン戦闘機 攻撃ヲ受ケツツモ戦艦二命中大火柱上リ三十秒ニテ撃沈ス
「英霊の言乃葉」に注目してみる:連載一覧は こちら から
グアム島の遺書
厚生省グアム島元日本兵調査派遣団により発見された遺書より
海軍軍属 石田正夫命
昭和十九年八月八日
グアム島にて戦死
兵庫県加東郡中東条村出身 三十七歳
昨夜子供の夢を見て居た。 父として匠に何をして来たか。 このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。 おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。
強く生きてほしい。 そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。
内地の様子が知りたい。 聞きたい。 毎日、 勢の急迫を申し渡されるばかり。
自分達はすでに死を覚悟して来てゐる。 万策つきれば、いさぎよく死なう。
本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむ事が出来れば、母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。
遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き女達よ、清く美しく健康であれ。
8月15日の終戦の日がまたやってきました。
日本人として何か感じてますでしょうか?
個人主義がはびこってしまって、自身の砂粒程度の価値観こそすべてという風潮に生きておりますと、何も感じることができない方も多いのかもしれません。でも例え価値観がどうであったとしても、何も感じてないというのは、人間として構造的な欠落があるのでしょう。
自然に真っ直ぐと育ち、まともな人間感覚が息づいているならば、例えば人との約束を破ると気分が悪くなるもので、謝ったり償ったりすることで解消されていく相互作用が存在します。
誰かに恩義がある場合には、感謝や返礼といった気持ちや行動に繋げないとどうも収まっていかないものです。
つまり人は個人で独立して存在しているようで、他者との相互作用の中にこそ息づいているものでして、それは現代を生きる日本人同士の横軸の相互作用だけでなく、先人と今の世代をつなぐ歴史的な縦軸の相互作用でも同じことが言えるでしょう。
そういう相互作用を鑑みたときに、かつての大戦で命を投げ打って下さった先人たちに私たちはどのように向かいあうべきなのか。
その判断においてさまざまな価値観があっていいというのは相対主義の誤魔化しであって、人間として真っ直ぐな感受性とは何かが問われるべきものであります。
英霊に対して顕彰し、「よくやってくださった」「後世の私たちのために、ありがとうございました」という内からの気持ちを持てないのであれば、何か欠落や浅はかさ、歪みが入り混じっているのではないかと思うのです。
ロシアによるウクライナの侵攻を見ても分るように、話し合いで解決できないこともあります。ましてや幕末から昭和までは、牙を剥き出しあって獲るか獲られるかの帝国主義の時代であったわけです。
明治維新、日露戦争、大東亜戦争と、まさに多くの日本人が、世界中を植民地化して迫ってきた欧米列強の脅威に命を投げ出してきました。愛する郷土のために、後世のわたしたちのために。
日本人は長い歴史の中で、「身を投げ打って他者に尽くす」という人間としての美徳を見出してきました。
自身の損得ばかりを人生の中心に置いてる現代的価値観とは随分異なりますが、どちらが人間として自然で真っ直ぐであるか、人としての充実や誇らしさがあるかは、議論をするまでもないでしょう。そして、その究極とは命をすら投げ出すことです。
幕末から欧米列強の圧力が高まって以来、避けられぬ戦争のたびに多くの日本人が殉死していきましたが、大東亜戦争では終戦のその日まで多くの玉砕、特攻が繰り広げられました。
冒頭の遺書はグアムで玉砕した英霊のものですが、最後に二つ、特攻隊の遺書をご紹介しておきたいです。
終戦日を、かつての日本のために、これからの日本のために、そして自分自身のために、祈りを捧げる日としましょう。
最後の日記
海軍大尉 市島保男命
神風特別攻撃隊第五昭和隊
昭和二十年四月二十九日
沖縄県東南方海上にて戦死
早稲田大学第二高等学院生
東京都出身 二十三歳
ただ命を待つだけの軽い気持である。
隣の室で「誰か故郷を想はざる」をオルガンで弾いてゐる者がある。 平和な南国の雰囲気である。
徒然なるまゝにれんげ摘みに出かけたが、今は捧げる人もなし。
梨の花とともに包み、僅かに思ひ出をしのぶ。夕闇の中を入浴に行く。 隣の室では酒を飲んで騒いでゐるが、それもまたよし。 俺は死するまで静かな気持でゐたい。人間は死するまで精進しつゞけるべきだ。ましてや大和魂を代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持したい。
俺は、自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。
精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでゐた人びとの美しい愛情のおかげであつた。今かぎりなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。
訣別
陸軍大尉 米津 芳太郎 命
陸軍特別攻撃隊富嶽隊
昭和十九年十一月十三日
ルソン島東方海上にて戦死
静岡県磐田郡掛塚町出身 二十七歳
再び還らざる出撃命令が下りました。今に及び何等心残りは御座いません。吾々人間として最大なる修養、孜々として死に赴く境地も既に会得し、只軍人勅諭、戦陣訓の訓をそのまゝ実践躬行するのみです。 二十七年間の生涯をなんら子として弟としての道を守り行はざりしを深く恥づる次第です。
すべてを兄上に委ね、心置きなく悠久の大義に生きんとして居ります。 男子の本懐之にすぎず。
遺品の中にあるマニラ産の化粧石鹸は参謀長より賜った品です。 では呉々も母上をお願ひ致します。 向寒の折呉々も御自愛の程。
兄上
親に先だつ不孝をお許し下さい。 さりながら大君の御楯として靖國の守護神になる芳太郎のことゆえ母上もお欣び下さること存じます。只老後の母上に御心配をおかけするのが何よりの苦衷です。どうぞお許し下さい。
母上
米津大尉戦死状況
一、最后の電文 (西尾隊長ノ命ニヨリ米津大尉ノ発信セルモノ)
十七時十四分 全機無事攻撃セントス
十七時五十分 全員志氣旺盛
十七時五十八分 降下偵察
十八時二分 空母発見体当たり
一、 攻撃 (同行司偵確認-現地部隊ヨリノ電文)
十八時五分
敵グラマン戦闘機 攻撃ヲ受ケツツモ戦艦二命中大火柱上リ三十秒ニテ撃沈ス
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