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みなさんは最後に食べたいものを聞かれたら何と答えますか?特別なご馳走や大好物、普段通りの食事など人によって様々だと思います。歴史上に登場した有名人たちも、最後の食事に対する希望はあったのかも知れませんが、果たして彼らの希望通りの食事は取れていたのでしょうか?
そこで今回は、歴史に名を遺した人たちの人生と最後の食事について解説していきます。
クレオパトラとは古代エジプトの最後の女王で、世界三大美女の1人に上げられる女性です。クレオパトラは美しいだけでなく複数の言語を使いこなすほどの才女でもあり、カエサルとアントニウスという2人の英雄を魅了しました。
クレオパトラは美しさと健康を維持するために、野菜や果物、ビネガーなどを好んで食べたとされています。特に好きだったのは、「モロヘイヤのスープ」「デーツ(ナツメヤシの実)」「イチジク」「マスカット」などで、ときには美容のために真珠を粉にして飲んでいたという話も残っています。
クレオパトラは共同統治をしていた弟で夫のプトレマイオス13世と対立しエジプトから追放され、戦争まで起こすほどになっていましたが、恋仲になったカエサルの協力によってプトレマイオス13世を倒し、王位を奪還しました。
カエサルがローマで暗殺され、その後アントニウスと出会って結婚しますが、アントニウスはクレオパトラとの連合軍とギリシャとの戦いで負けたことが原因で毒を飲んで亡くなってしまいます。アントニウスを失い戦争にも負けたクレオパトラは、彼が亡くなった10日後に、毒蛇に自分の体を噛ませて亡くなりました。
毒蛇は、贈り物のイチジクを入れた籠に仕込ませていたといわれており、数々の絵画にも描かれています。そのため、クレオパトラが最後に口にしたのは「イチジク」だったのではないかといわれています。
マリーアントワネットは、フランスブルボン王朝最後の王ルイ16世の王妃であり、フランス革命で断頭台の露と消えた悲劇の女性です。当時、オーストリアを統治していたヨーロッパでも1・2を競う名家ハプスブルグ家に生まれたマリーアントワネットは、フランスとオーストリアの同盟を結ぶために太陽王と呼ばれたルイ14世の孫・ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と14歳で結婚しました。
マリーアントワネットの生活はとても華やかなもので、贅沢なドレスや大きな宝石を沢山使ったアクセサリーを身に付けて頻繁に行われる舞踏会や豪華なパーティーに出席したり、プチ・トリアノンと呼ばれた自分のためだけの別荘を作ってお気に入りのお友達と過ごしたりしていました。
食事も王家に相応しい贅沢なもので、スパイスやソースを使った子牛やウズラ、七面鳥などの肉料理やフォアグラ、新鮮な野菜や果物、当時高級品だったチョコレートやバターや砂糖をふんだんに使ったお菓子などが出されていたとされています。
しかし、マリーアントワネットは小食で濃い味付けのものを好まなかったので、実際は出された食事にはほとんど手を付けず、好物だった果物や鳥料理、チーズやクリームなどの乳製品、質素なスープなどの軽食を食べていたそうです。
しかし、贅沢な生活を送っていたマリーアントワネットは、「浪費家」として国民から非難を受けるようになってしまいます。「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」という有名な言葉は、実際にはマリーアントワネットがいった言葉ではないという説が強いですが、当時は彼女が発した言葉として広まり、王家に反感を持たせる要因の1つとなりました。
王家や貴族たちへの反感は強まっていき、ついには1789年にフランス革命が始まります。フランス革命によってマリーアントワネットの生活は一変し、国外へ逃亡しようとしたルイ16世一家は逃亡中に捕まってしまいます。マリーアントワネットは2か月間幽閉され、1793年10月16日に民衆の前で処刑されました。
彼女の最後の食事は処刑直前に取った「ブイヨンスープ」だったとされています。処刑日の朝食は何が食べたいか聞かれたマリーアントワネットは、「何もいりません、全て終わりました」と答えたといわれていますが、処刑直前にスープだけを口にしたのはなぜだったのでしょうか。
また、一説には処刑日前日に「サンセール」というワインを飲みたいと言ったとされています。
ちなみに、マリーアントワネットよりも早くに処刑された夫のルイ16世の最後の食事は、「子牛のカツレツ6枚、去勢鶏の半身肉のソース煮1皿、白ワイン2杯、カリカント・ワイン1杯、パン、サラダ、フルーツ」だったとされています。
マリーアントワネットと違い大食漢だったルイ16世は、普段の朝食でもこれくらいの量を食べていたようで、処刑日の朝もいつも通りの食事を摂ったのでしょう。このことから、ルイ16世はとても心の強い人だったことが伺えます。
彼は、自分が無罪でありながら処刑されることに疑問や不満を持っていたかもしれませんが、最後の日でも家族に落ち着いた国王たる姿を見せ、処刑されることでフランスの新たな歴史の礎となる誇りを持っていたのではないでしょうか。
エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国の第16代大統領で、南北戦争を指揮して南北を統一し、奴隷解放宣言を出した人物です。アメリカ史上最も優れた大統領として現在でも人気の高いリンカーンは、南北戦争が終結した5日後の1865年4月14日に、招待された劇場で観劇中に暗殺されました。
リンカーンは貧しい農家の子として生まれ育ち、独学で法律を学んで弁護士となった努力家で、とても謙虚で誠実な人物でした。食事も質素なものを好んでおり、特に好きだったのは「リンゴ、コーヒー、ジャガイモ料理」などだったといわれています。
リンカーンが最後に食べたとされる食事は、劇場に行く前に妻のメアリーと食べた夕食で、「ウミガメのスープ(実際はオックステールのスープ)、栗を添えたローストチキン(バージニア産野鳥)、ポテトの紙包み焼き、カリフラワーのチーズソース添え」だったといわれています。
南北戦争がリンカーンの支持していた北部の勝利で終結し夫婦での観劇を楽しんでいたところ、南部連合の支持者による暗殺だったので、アメリカ中に衝撃が走りました。その後犯人は逃亡の末10日後に発見され、その場で処刑されました。
ジョン・F・ケネディとは、アメリカ合衆国の第35代大統領です。実業家の父とボストン市長の娘であった母のもとに生まれたジョンは、第二次世界大戦中海軍の魚雷艇の艦長となり、日本の駆逐艦に舩を大破されたものの乗組員たちと無事生還します。戦後は新聞記者を経て政界に入り、1961年に43歳で歴代最年少のアメリカ大統領に就任しました。
ケネディ大統領は、当時冷戦中だったソ連との宇宙開発競争のためのアポロ計画やソ連がキューバに核ミサイル基地を作ったことによる核戦争勃発を阻止した「キューバ危機」、アフリカ系アメリカ人の人種差別問題など、数多くの歴史的問題を解消するべく奔走したことや、若く爽やかな見た目、スピーチの上手さなどから、歴代大統領の中でもアメリカ国民に人気の高い大統領でした。
一方で、マフィアと繋がっていたことやマリリン・モンローなど複数の女性との不倫騒動、ベトナム戦争の拡大などに対する批判も多く、良くも悪くも世界中の注目を集めていたのです。注目を集める中、数々の成果を上げたジョン・F・ケネディでしたが、任期2年目の1963年11月22日にテキサス州ダラスで行われたパレードの最中に暗殺されました。
美食家でフランス料理を好んでいたジョン・F・ケネディは、毎朝「ポーチドエッグやゆで卵にマーマレードトースト」というスタイルの朝食を食べており、暗殺された日の朝もホテル・テキサスの自室で「コーヒー、オレンジジュース、ゆで卵2個、マーマレードトースト」を食べたとされています。そしてこれが、彼の最後の食事となったのです。
マハトマ・ガンジーは、インドの宗教家で「インド独立の父」と呼ばれたインド独立運動の指導者です。インドの裕福な家庭で育ったガンジーは、イギリスで法律を学んで弁護士となり、南アフリカで弁護士として働くようになりますが、人種差別を受けているインド人の現状を知り、人種差別廃止運動に関わるようになります。
その後、イギリスの植民地だったインドの独立を目指して非暴力・非服従を掲げた独立運動を行い、第二次世界大戦後の1947年にインド独立を実現させました。しかし、独立後のインドはヒンドゥー教とイスラム教の国に分かれてしまったため、ガンジーは2つの宗教の教徒が打ち解けて仲良くすることに尽力しましたが、1948年1月30日にヒンドゥー教の過激派組織の青年によって暗殺されました。
ガンジーは菜食主義者で、主に「豆類、果物、ヤギの乳、ハチミツ、ヨーグルト」などを食べていました。中でも「ペタ」というナッツやカルダモン、ミルク、砂糖などを練り上げた甘いお菓子が好物だったそうです。
ガンジーの最後の食事は暗殺される直前の1948年1月30日の夕食で、「調理した野菜、オレンジ、ヤギのミルク、生姜、レモン、濾したバターとアロエジュースを混ぜた飲み物」だったといわれています。
ダイアナ妃は、現在のイギリス国王・チャールズ3世の前妃で、現イギリス皇太子のウィリアム王子とサセックス公ヘンリー王子の母親です。ダイアナ妃は、19歳でチャールズ皇太子(当時)と婚約し、20歳の年の1981年7月に結婚式を上げました。
結婚後は明るく美しい容姿と精力的に公務をこなす姿から、イギリス国民だけでなく世界各国でも人気の高かったダイアナ妃でしたが、ウィリアム王子とヘンリー王子が誕生した後、婚約時期から続いていたとされるチャールズ皇太子とカミラ夫人(現カミラ王妃)との不倫が原因で35歳の時に離婚しました。
離婚後も慈善活動などを積極的に行っており、イギリス国民の人気も高いままでしたが、36歳の時に交通事故で亡くなりました。
生前のダイアナ妃は、ストレスから摂食障害を患っていた時期があり、食事にはかなり気を遣っていたようで、専属シェフと相談しながら健康的な食事を摂っていたそうです。とくに好きだった食べ物は「パプリカの野菜詰め」「パンプディング」でした。
離婚後も何かと注目を集めていたダイアナ妃は、常にパパラッチに追われる状態にありました。亡くなった当日も、パパラッチたちを避けるため予約していたパリのレストランをキャンセルし、滞在していたリッツホテルの中にあるレストラン「エスパドン」で恋人と夕食を取っていました。
その時のメニューは、「マッシュルームとアスパラガスのオムレツ、野菜の天ぷらを添えたドーバーソール(舌平目)」で、これが世界中から注目を浴び続けた悲劇の王妃、最後の食事となったのです。
勝海舟は、幕末から明治初期にかけて活躍した武家出身の政治家です。貧しい旗本の家に生まれた勝海舟は、若いころに剣術と蘭学を学び、幕府が作った西洋式の海兵養成所「長崎海軍伝習所」で海軍の技術を研究しました。
その後「咸臨丸」の船長となって使節団とともにアメリカに渡り、帰国後は軍艦奉行として日本の海軍の基礎を作っていきます。また、戊辰戦争中に西郷隆盛と会見して江戸城の無血開城を実現させ、維新後も政府の要職について活躍しました。
勝海舟の好物は「ウナギのかば焼き」と「甘いもの」で、とくに渡米後は「パン、チョコレート、ケーキ、アイスクリーム」などを好んでいたそうです。
晩年の勝海舟は、「海軍歴史」や「陸軍歴史」などを執筆して静かに暮らしていましたが、1899年(明治32年)1月19日、風呂上がりにトイレに行った後に倒れてしまい、女中に生姜湯を頼みましたが、間に合わないと慌てた女中が持ってきたブランデーを一口飲んだ後、意識を失いそのまま帰らぬ人となったとされています。(服部敏良著「事典有名人の死亡診断近代編」)
また、勝海舟が亡くなった後まとめられた「海舟座談」では、入浴後「胸が苦しいからブランデーを持ってこい」と女中に命じ、一口飲んで気を失ったと伝えられています。享年76歳、脳溢血だったそうです。
当時ブランデーなどのアルコール度数の高い飲み物は、気を失った時の気付け薬や鎮静剤などとしても使われていました。そのため、倒れた勝海舟が最後に口にしたのは、薬としてのブランデーだったと思われます。
三島由紀夫は、戦後の日本を代表する作家で、ノーベル文学賞候補にも挙げられるなど海外でも認められるほどの才能を持った人物でした。代表作は「潮騒」や「金閣寺」などで、執筆以外にも映画に出演したり、写真集を出したりと多岐にわたって活躍しています。
また、三島由紀夫は独自の思想を持った人物でもあり、戦後の日本が経済的な成長を重視し、日本の伝統的な価値観(武士道や忠義など)や文化を軽視しつつあることに怒りや悲しみを感じていたといわれています。そのため、三島は作品や政治的行動などで自分の思想を訴え続けていました。
1967年(昭和42年)と1968年(昭和43年)の2度に渡り自衛隊に体験入隊した三島は、2度目の体験入隊で一緒に入隊し自衛隊の訓練で脱落しなかった学生たちを中心とした民間防衛組織「楯の会」を設立しました。
そして、1970年(昭和45年)11月25日に、「楯の会」のメンバーと共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において東部方面総督を監禁し、自衛隊を集めさせて憲法改正(第9条の破棄)のため自衛隊にクーデターを呼びかけた演説をした後、日本刀で割腹自殺をしたいわゆる「三島事件」を起こして亡くなりました。
壮絶な最期を遂げた三島由紀夫は、コンプレックスの強い完璧主義者だったといわれていますが、家族や若者に優しい人でもありました。鳥料理や甘いものが好きで、執筆中には煎餅やカボチャの種、ウイスキーボンボン、マドレーヌなどをつまんだり、執筆の合間に好物の豆かん食べに甘味処「梅むら」へ足を運んだりしていたそうです。
また、体を鍛えていた三島は鶏肉料理を積極的に食べており、三島事件前日も楯の会の隊員4人を連れて、新宿の鳥料理屋「末げん」に行き、「わのコース」という鳥鍋をメインとした鳥料理のコースを食べたという記録が残っています。
この日、末げんの女将が「またいらしてください」と声をかけると「また来いっていわれてもなあ…。でも、こんなきれいな女将がいるならあの世からでも来るかな」と答えたと言われており、三島由紀夫は「末げん」の鳥料理を最後の晩餐に選ぶほど好きだったと思われます。
ジミ・ヘンドリックスは、「ギターの神様」と呼ばれる1960年代に活躍したアメリカ出身のギタリストです。天才的なテクニックと音楽的センスを持った人で、彼の作った楽曲や演奏技術によってロックの歴史が変わったとも言われています。
エフェクターを使ったギター演奏やアーミング奏法(アームを使って音を変化させる奏法)など今では当たり前に行われているギター奏法を初めて行ったり、歯でギターを弾いたり背中で弾いたりギターを燃やしたりといった奇抜なパフォーマンスを行ったりして、当時の音楽業界に多大な影響を与えました。
ジミ・ヘンドリックスに影響を受けた有名アーティストも数多くいて、現在でも偉大なギタリストとして多くの人たちの愛されています。しかし、1970年に27歳の若さで突然死してしまい、活動期間はわずか4年間しかありませんでした。
死因は大量のワインと睡眠薬を飲んで寝た後、睡眠中に嘔吐物がのどに詰まったことによる窒息死とされています。ジミ・ヘンドリックスが最後に食べたのは、一緒にいた恋人のモニカ・ダネマンが作ったツナのサンドイッチでした。
マリリン・モンローは、1950年代から1960年代初頭にかけて映画やドラマなどで活躍したアメリカの女優です。
魅惑的な外見と確かな演技力で世界中から愛されていたマリリン・モンローでしたが、子どもの頃は孤児院や里親の元を転々としながら育った孤独な少女でした。16歳の時に結婚しますが、偶然始めたモデルの仕事で注目を集めるようになり、20歳の時に離婚して女優への道を歩み始めます。
俳優養成所に入ったり沢山の本を読んだりして演技力を身に付けていったマリリン・モンローは、セクシーな女性の役を数多く演じ、ハリウッドを代表する女優にまで上り詰めます。
しかし、スキャンダルも多く、複数の男性との交際やデビュー後2度の結婚と離婚、薬物の乱用などでも注目を浴びました。
絶大な人気を得ていたマリリン・モンローでしたが、うつ病や不安神経症などの心の病にかかっており、36歳の時の1962年8月4日、ロサンゼルスの自宅で大量の睡眠薬を飲んで亡くなりました。
生前のマリリン・モンローは、健康を維持するために毎朝「卵入りミルク」を飲んでいたそうです。また、生のニンジンが好物で、普段の夕食時はスーパーで買ったステーキ肉やレバーなどをオーブンで焼いたものと一緒に4~5本も食べていたのだとか。
ちなみに、彼女が1954年に来日した際、福岡県にあったロイヤルホストの「オニオングラタンスープ」をとても気に入ったというエピソードが残っています。
そんなマリリン・モンローの最後の食事は、「詰め物のマッシュルーム、ミートボール、ドン・ペリニヨン(シャンパン)」だったといわれています。
エルヴィス・プレスリーは、「キング・オブ・ロックンロール」と称される1950年代半ばから1970年代にかけて活躍したアメリカの歌手です。
貧しい家庭に生まれ、黒人労働者が多く住む地域の教会でゴスペルなどの黒人音楽に慣れ親しんだプレスリーは、高校卒業後、母親に贈った歌のテープがきっかけで歌手デビューしました。
黒人音楽であるブルースやリズム&ブルースと白人音楽であるカントリー&ウエスタンを融合したとされる「ロカビリー・スタイル」の音楽で人気を得たプレスリーは、ロックンロールの原型となるロカビリーを作ったことでロックンロール創始者の1人となりますが、白人至上主義者からの強いバッシングを受けるようになります。
プレスリーはバッシングに屈することなく自身の音楽を演奏し続け、独自のパフォーマンスを行い、多くの若者たちの支持を得るようになっていきます。その結果、世界中で6億万枚以上のレコードを売り上げ、「世界史上最も売れたソロアーティスト」の1人としても有名になりました。
プレスリーは、貧しい幼少期を過ごしたせいか、ドーナツやクッキーなど高カロリーなジャンクフードが大好きで、とくに彼の母親が時々作ってくれた「エルヴィスサンド」と呼ばれる「ピーナツバターとバナナとカリカリベーコンのホットサンドイッチ」が大好物で、よく食べていたそうです。
トップスターとなったプレスリーは過酷なスケジュールから体調を崩し、ストレスによる過食症や睡眠薬の過剰摂取によってさらに体調は悪化していきました。そして1977年8月16日、自宅でいつものようにアイスクリーム4スクープとチョコレートクッキー6枚を食べたプレスリーは、トイレで心臓発作を起こして倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
ジュリア・チャイルドは、第二次世界大戦後のアメリカにフランス料理を伝えた「フレンチの母」と呼ばれる料理研究家です。ジュリア・チャイルドは、1921年にカリフォルニアの裕福な家庭に生まれ、テニスやゴルフなどのスポーツを続けながら大学まで通いました。大学を卒業後はニューヨークに移り住み、コピーライターとして働いていました。裕福な家庭に育ったジュリア・チャイルドは、家に専属シェフがいたため、大人になるまで自分で料理をすることはありませんでした。
そんな彼女が料理を勉強するようになったのは、夫のポールと出会ってからです。ポールは食通で、ジュリアと付き合い始めてから彼女に料理の素晴らしさを伝えていきました。ジュリアとポールは戦争中に結婚し、戦後ポールの仕事の関係でフランスのパリに移り住みます。
パリでの生活の中でフランス料理の素晴らしさを知ったジュリアは、フランスの名門料理学校に入学し、ここで出会った仲間たちとフランス料理の神髄を伝えるための料理本を作りはじめ、1961年にジュリアのアレンジが加えられたフランス料理本「マスタリング・ジ・アート・オブ・フレンチ・クッキング」が刊行されました。
彼女の作ったレシピは、分かりやすくアメリカ人にも親しみやすくアレンジされたもので、アメリカ全土で人気となり、料理界でも高い評価を得ました。その後ジュリアは自身が司会を務める料理番組に出演し、アメリカでもっとも有名な料理人となります。
ジュリアの陽気で気さくなキャラクターで人気となった彼女の番組は10年間続き、アメリカの主婦たちに大きな影響を与えたといわれています。
その後も料理の関する本の出版や料理番組の出演を続けたジュリアは、2004年8月13日に腎不全のため91歳で亡くなりました。彼女が書いた最後の本「My Life in France」は「…今振り返れば、食卓と人生の喜びは無限であることを思い出す―toujours bon appetit!(いつだって、良い食事を!)」という言葉で締めくくられており、フランス料理を愛したジュリアが最後に食べたものは、「フレンチオニオンスープ」だったといわれています。
ソクラテスとは、紀元前5~4世紀にギリシャのアテナイで生きた西洋哲学の基礎を作ったとされる古代ギリシャの哲学者です。ソクラテスは、自分が何も知らないことを自覚して他人に質問することで真理を探究していく「無知の知」を教え、この思想は弟子のプラトンが記録したことによって後世へと伝えられました。
紀元前431年~404年にギリシャの2大都市であるアテナイとスパルタの対立から起こったペロポネソス戦争に40歳ごろに3度に渡ってアテナイ軍に従軍したソクラテスでしたが、アテナイ軍が敗戦して新スパルタ派の30人が貴族や富裕層、異なる意見を持った者たちの財産を奪ったり粛清したりしてアテナイを支配した「三十人政権」の内の1人がソクラテスの弟子であったため、アテナイ市民から不信感を持たれるようになります。
そして、70歳の時に「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を崇め、若者を堕落させた」という罪で告発され、死刑の審判が下されてしまいます。
牢獄に捕らえられたソクラテスは、友人に逃亡を提案されますがそれを拒否し、自ら毒をのんで亡くなりました。
ソクラテスの妻は彼が哲学者であったことを知らず、裁判の日もソクラテスが帰ってくると信じて彼の好物を作って待っていたといわれています。
ソクラテスは菜食主義だったとされ(貧しくて肉が買えなかったという説も)、主に野菜を食べていたので、妻が作ったご馳走は野菜料理が並んでいたのでしょう。
また、ソクラテスは葡萄酒が大好きだったため、葡萄酒も用意されていたかもしれません。しかし、そんな妻の作った食事を食べることなく、ソクラテスは獄中で弟子が見守る中、最後に毒ヘムロック(せり科植物の毒)の汁をお茶でも飲むように一気に飲み干したといわれています。
グレゴリー・ラスプーチンは、ロシアのロマノフ王朝末期にニコライ2世の皇后アレクサンドラの信頼を得て宮廷で権力をふるっていた修道僧です。シベリアの貧しい農家に生まれたラスプーチンは、他の村人と同じように学校に通わなかったため読み書きすらできずに育ちましたが、結婚後に修行僧となります。
修行僧として巡礼の旅に出たラスプーチンは、旅先で病気に苦しむ人たちに祈祷をするようになり、人々の病気を不思議な力で人々の病気を治すと評判になっていきます。ラスプーチンの噂は上流階級にまで広まり、ニコライ2世の皇后アレクサンドラが長男・アレクセイ皇太子が患っていた血友病の治療を依頼しました。
ラスプーチンがアレクセイの治療のために祈祷を捧げるとたちまちに症状が改善して、皇后アレクサンドラはラスプーチンに絶大な信頼を寄せるようになります。ラスプーチンは宮廷で重用され、政治にも介入するようになり、ロシアの国政は混乱していきました。
そんなラスプーチンですが、貴族や政治家たちはラスプーチンを宮廷から排除しようとし、1916年12月16日の夜、ラスプーチンはついに暗殺されてしまったのです。
一説によるとラスプーチンは暗殺される際に毒や銃で殺されず、水に投げ込まれて死亡したという伝説もあるのだとか。この伝説は現代でも彼の「不死身」エピソードとして知られています。
修行僧時代のラスプーチンは、禁酒をして肉も食べないようにしていましたが、宮廷で重用されるようになってからは贅沢な食事を摂っていたとされ、とくに辛いものが好きだったといわれています。
そんなラスプーチンが最後に食べたものは、暗殺を実行するために招待したフェリックス・ユスーポフ侯爵の宮殿で出された「蜂蜜ケーキ、黒パン、ロシア式オードブル、ワイン」だったとされています。
食事には、その人の人生観が表れるといわれています。それは、歴史上の有名人たちにも言えることだと思います。ダイアナ妃やマリリン・モンローは、美容や健康に気を使いながら美味しく食べられる食事、ガンジーは自分の考えに則った菜食主義の食事、ジュリア・チャイルドは自分が最も愛した食事など。
しかし、今回紹介した有名人たちは、前もって自分が亡くなることを知っていた人ばかりでなく、不幸にも突然命を失った人が多くいまいした。それでも、彼らの最後に食べたものの多くは、いつも通りのその時の自分が食べたいものだったような気がします。
私たちも毎日大好物を食べるわけにはいきませんが、毎回の食事を美味しく食べて生きていきたいものですね。
名言は偉人たちからのエール▼
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みなさんは最後に食べたいものを聞かれたら何と答えますか?
特別なご馳走や大好物、普段通りの食事など人によって様々だと思います。
歴史上に登場した有名人たちも、最後の食事に対する希望はあったのかも知れませんが、果たして彼らの希望通りの食事は取れていたのでしょうか?
そこで今回は、歴史に名を遺した人たちの人生と最後の食事について解説していきます。
目次
クレオパトラ
■クレオパトラとは?
クレオパトラとは古代エジプトの最後の女王で、世界三大美女の1人に上げられる女性です。
クレオパトラは美しいだけでなく複数の言語を使いこなすほどの才女でもあり、カエサルとアントニウスという2人の英雄を魅了しました。
クレオパトラは美しさと健康を維持するために、野菜や果物、ビネガーなどを好んで食べたとされています。
特に好きだったのは、「モロヘイヤのスープ」「デーツ(ナツメヤシの実)」「イチジク」「マスカット」などで、ときには美容のために真珠を粉にして飲んでいたという話も残っています。
■最後の食事は「イチジク」
クレオパトラは共同統治をしていた弟で夫のプトレマイオス13世と対立しエジプトから追放され、戦争まで起こすほどになっていましたが、恋仲になったカエサルの協力によってプトレマイオス13世を倒し、王位を奪還しました。
カエサルがローマで暗殺され、その後アントニウスと出会って結婚しますが、アントニウスはクレオパトラとの連合軍とギリシャとの戦いで負けたことが原因で毒を飲んで亡くなってしまいます。
アントニウスを失い戦争にも負けたクレオパトラは、彼が亡くなった10日後に、毒蛇に自分の体を噛ませて亡くなりました。
毒蛇は、贈り物のイチジクを入れた籠に仕込ませていたといわれており、数々の絵画にも描かれています。
そのため、クレオパトラが最後に口にしたのは「イチジク」だったのではないかといわれています。
マリーアントワネット
■マリーアントワネットとは?
マリーアントワネットは、フランスブルボン王朝最後の王ルイ16世の王妃であり、フランス革命で断頭台の露と消えた悲劇の女性です。
当時、オーストリアを統治していたヨーロッパでも1・2を競う名家ハプスブルグ家に生まれたマリーアントワネットは、フランスとオーストリアの同盟を結ぶために太陽王と呼ばれたルイ14世の孫・ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と14歳で結婚しました。
マリーアントワネットの生活はとても華やかなもので、贅沢なドレスや大きな宝石を沢山使ったアクセサリーを身に付けて頻繁に行われる舞踏会や豪華なパーティーに出席したり、プチ・トリアノンと呼ばれた自分のためだけの別荘を作ってお気に入りのお友達と過ごしたりしていました。
■生前は華やかな食事を楽しんだマリーアントワネット
食事も王家に相応しい贅沢なもので、スパイスやソースを使った子牛やウズラ、七面鳥などの肉料理やフォアグラ、新鮮な野菜や果物、当時高級品だったチョコレートやバターや砂糖をふんだんに使ったお菓子などが出されていたとされています。
しかし、マリーアントワネットは小食で濃い味付けのものを好まなかったので、実際は出された食事にはほとんど手を付けず、好物だった果物や鳥料理、チーズやクリームなどの乳製品、質素なスープなどの軽食を食べていたそうです。
しかし、贅沢な生活を送っていたマリーアントワネットは、「浪費家」として国民から非難を受けるようになってしまいます。
「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」という有名な言葉は、実際にはマリーアントワネットがいった言葉ではないという説が強いですが、当時は彼女が発した言葉として広まり、王家に反感を持たせる要因の1つとなりました。
■最後の食事は「ブイヨンスープ」
王家や貴族たちへの反感は強まっていき、ついには1789年にフランス革命が始まります。
フランス革命によってマリーアントワネットの生活は一変し、国外へ逃亡しようとしたルイ16世一家は逃亡中に捕まってしまいます。
マリーアントワネットは2か月間幽閉され、1793年10月16日に民衆の前で処刑されました。
彼女の最後の食事は処刑直前に取った「ブイヨンスープ」だったとされています。
処刑日の朝食は何が食べたいか聞かれたマリーアントワネットは、「何もいりません、全て終わりました」と答えたといわれていますが、処刑直前にスープだけを口にしたのはなぜだったのでしょうか。
また、一説には処刑日前日に「サンセール」というワインを飲みたいと言ったとされています。
■マリーアントワネットの夫は最後に何を食べた?
ちなみに、マリーアントワネットよりも早くに処刑された夫のルイ16世の最後の食事は、「子牛のカツレツ6枚、去勢鶏の半身肉のソース煮1皿、白ワイン2杯、カリカント・ワイン1杯、パン、サラダ、フルーツ」だったとされています。
マリーアントワネットと違い大食漢だったルイ16世は、普段の朝食でもこれくらいの量を食べていたようで、処刑日の朝もいつも通りの食事を摂ったのでしょう。
このことから、ルイ16世はとても心の強い人だったことが伺えます。
彼は、自分が無罪でありながら処刑されることに疑問や不満を持っていたかもしれませんが、最後の日でも家族に落ち着いた国王たる姿を見せ、処刑されることでフランスの新たな歴史の礎となる誇りを持っていたのではないでしょうか。
エイブラハム・リンカーン
■エイブラハム・リンカーンとは?
エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国の第16代大統領で、南北戦争を指揮して南北を統一し、奴隷解放宣言を出した人物です。
アメリカ史上最も優れた大統領として現在でも人気の高いリンカーンは、南北戦争が終結した5日後の1865年4月14日に、招待された劇場で観劇中に暗殺されました。
■妻と楽しんだ最後の食事
リンカーンは貧しい農家の子として生まれ育ち、独学で法律を学んで弁護士となった努力家で、とても謙虚で誠実な人物でした。
食事も質素なものを好んでおり、特に好きだったのは「リンゴ、コーヒー、ジャガイモ料理」などだったといわれています。
リンカーンが最後に食べたとされる食事は、劇場に行く前に妻のメアリーと食べた夕食で、「ウミガメのスープ(実際はオックステールのスープ)、栗を添えたローストチキン(バージニア産野鳥)、ポテトの紙包み焼き、カリフラワーのチーズソース添え」だったといわれています。
南北戦争がリンカーンの支持していた北部の勝利で終結し夫婦での観劇を楽しんでいたところ、南部連合の支持者による暗殺だったので、アメリカ中に衝撃が走りました。
その後犯人は逃亡の末10日後に発見され、その場で処刑されました。
ジョン・F・ケネディ
■ジョン・F・ケネディとは?
ジョン・F・ケネディとは、アメリカ合衆国の第35代大統領です。
実業家の父とボストン市長の娘であった母のもとに生まれたジョンは、第二次世界大戦中海軍の魚雷艇の艦長となり、日本の駆逐艦に舩を大破されたものの乗組員たちと無事生還します。
戦後は新聞記者を経て政界に入り、1961年に43歳で歴代最年少のアメリカ大統領に就任しました。
ケネディ大統領は、当時冷戦中だったソ連との宇宙開発競争のためのアポロ計画やソ連がキューバに核ミサイル基地を作ったことによる核戦争勃発を阻止した「キューバ危機」、アフリカ系アメリカ人の人種差別問題など、数多くの歴史的問題を解消するべく奔走したことや、若く爽やかな見た目、スピーチの上手さなどから、歴代大統領の中でもアメリカ国民に人気の高い大統領でした。
一方で、マフィアと繋がっていたことやマリリン・モンローなど複数の女性との不倫騒動、ベトナム戦争の拡大などに対する批判も多く、良くも悪くも世界中の注目を集めていたのです。
注目を集める中、数々の成果を上げたジョン・F・ケネディでしたが、任期2年目の1963年11月22日にテキサス州ダラスで行われたパレードの最中に暗殺されました。
■最後の食事は「マーマレードトースト」
美食家でフランス料理を好んでいたジョン・F・ケネディは、毎朝「ポーチドエッグやゆで卵にマーマレードトースト」というスタイルの朝食を食べており、暗殺された日の朝もホテル・テキサスの自室で「コーヒー、オレンジジュース、ゆで卵2個、マーマレードトースト」を食べたとされています。
そしてこれが、彼の最後の食事となったのです。
マハトマ・ガンジー
■マハトマ・ガンジーとは?
マハトマ・ガンジーは、インドの宗教家で「インド独立の父」と呼ばれたインド独立運動の指導者です。
インドの裕福な家庭で育ったガンジーは、イギリスで法律を学んで弁護士となり、南アフリカで弁護士として働くようになりますが、人種差別を受けているインド人の現状を知り、人種差別廃止運動に関わるようになります。
その後、イギリスの植民地だったインドの独立を目指して非暴力・非服従を掲げた独立運動を行い、第二次世界大戦後の1947年にインド独立を実現させました。
しかし、独立後のインドはヒンドゥー教とイスラム教の国に分かれてしまったため、ガンジーは2つの宗教の教徒が打ち解けて仲良くすることに尽力しましたが、1948年1月30日にヒンドゥー教の過激派組織の青年によって暗殺されました。
■最後の食事は「ヤギのミルク」
ガンジーは菜食主義者で、主に「豆類、果物、ヤギの乳、ハチミツ、ヨーグルト」などを食べていました。
中でも「ペタ」というナッツやカルダモン、ミルク、砂糖などを練り上げた甘いお菓子が好物だったそうです。
ガンジーの最後の食事は暗殺される直前の1948年1月30日の夕食で、「調理した野菜、オレンジ、ヤギのミルク、生姜、レモン、濾したバターとアロエジュースを混ぜた飲み物」だったといわれています。
ダイアナ妃
■ダイアナ妃とは?
ダイアナ妃は、現在のイギリス国王・チャールズ3世の前妃で、現イギリス皇太子のウィリアム王子とサセックス公ヘンリー王子の母親です。
ダイアナ妃は、19歳でチャールズ皇太子(当時)と婚約し、20歳の年の1981年7月に結婚式を上げました。
結婚後は明るく美しい容姿と精力的に公務をこなす姿から、イギリス国民だけでなく世界各国でも人気の高かったダイアナ妃でしたが、ウィリアム王子とヘンリー王子が誕生した後、婚約時期から続いていたとされるチャールズ皇太子とカミラ夫人(現カミラ王妃)との不倫が原因で35歳の時に離婚しました。
離婚後も慈善活動などを積極的に行っており、イギリス国民の人気も高いままでしたが、36歳の時に交通事故で亡くなりました。
■最後の食事はホテルの「オムレツ」
生前のダイアナ妃は、ストレスから摂食障害を患っていた時期があり、食事にはかなり気を遣っていたようで、専属シェフと相談しながら健康的な食事を摂っていたそうです。
とくに好きだった食べ物は「パプリカの野菜詰め」「パンプディング」でした。
離婚後も何かと注目を集めていたダイアナ妃は、常にパパラッチに追われる状態にありました。
亡くなった当日も、パパラッチたちを避けるため予約していたパリのレストランをキャンセルし、滞在していたリッツホテルの中にあるレストラン「エスパドン」で恋人と夕食を取っていました。
その時のメニューは、「マッシュルームとアスパラガスのオムレツ、野菜の天ぷらを添えたドーバーソール(舌平目)」で、これが世界中から注目を浴び続けた悲劇の王妃、最後の食事となったのです。
勝海舟
■勝海舟とは?
勝海舟は、幕末から明治初期にかけて活躍した武家出身の政治家です。
貧しい旗本の家に生まれた勝海舟は、若いころに剣術と蘭学を学び、幕府が作った西洋式の海兵養成所「長崎海軍伝習所」で海軍の技術を研究しました。
その後「咸臨丸」の船長となって使節団とともにアメリカに渡り、帰国後は軍艦奉行として日本の海軍の基礎を作っていきます。
また、戊辰戦争中に西郷隆盛と会見して江戸城の無血開城を実現させ、維新後も政府の要職について活躍しました。
■最後の食事は「ブランデー」
勝海舟の好物は「ウナギのかば焼き」と「甘いもの」で、とくに渡米後は「パン、チョコレート、ケーキ、アイスクリーム」などを好んでいたそうです。
晩年の勝海舟は、「海軍歴史」や「陸軍歴史」などを執筆して静かに暮らしていましたが、1899年(明治32年)1月19日、風呂上がりにトイレに行った後に倒れてしまい、女中に生姜湯を頼みましたが、間に合わないと慌てた女中が持ってきたブランデーを一口飲んだ後、意識を失いそのまま帰らぬ人となったとされています。(服部敏良著「事典有名人の死亡診断近代編」)
また、勝海舟が亡くなった後まとめられた「海舟座談」では、入浴後「胸が苦しいからブランデーを持ってこい」と女中に命じ、一口飲んで気を失ったと伝えられています。
享年76歳、脳溢血だったそうです。
当時ブランデーなどのアルコール度数の高い飲み物は、気を失った時の気付け薬や鎮静剤などとしても使われていました。
そのため、倒れた勝海舟が最後に口にしたのは、薬としてのブランデーだったと思われます。
三島由紀夫
■三島由紀夫とは?
三島由紀夫は、戦後の日本を代表する作家で、ノーベル文学賞候補にも挙げられるなど海外でも認められるほどの才能を持った人物でした。
代表作は「潮騒」や「金閣寺」などで、執筆以外にも映画に出演したり、写真集を出したりと多岐にわたって活躍しています。
また、三島由紀夫は独自の思想を持った人物でもあり、戦後の日本が経済的な成長を重視し、日本の伝統的な価値観(武士道や忠義など)や文化を軽視しつつあることに怒りや悲しみを感じていたといわれています。
そのため、三島は作品や政治的行動などで自分の思想を訴え続けていました。
1967年(昭和42年)と1968年(昭和43年)の2度に渡り自衛隊に体験入隊した三島は、2度目の体験入隊で一緒に入隊し自衛隊の訓練で脱落しなかった学生たちを中心とした民間防衛組織「楯の会」を設立しました。
そして、1970年(昭和45年)11月25日に、「楯の会」のメンバーと共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において東部方面総督を監禁し、自衛隊を集めさせて憲法改正(第9条の破棄)のため自衛隊にクーデターを呼びかけた演説をした後、日本刀で割腹自殺をしたいわゆる「三島事件」を起こして亡くなりました。
■最後の食事は「鳥鍋」
壮絶な最期を遂げた三島由紀夫は、コンプレックスの強い完璧主義者だったといわれていますが、家族や若者に優しい人でもありました。
鳥料理や甘いものが好きで、執筆中には煎餅やカボチャの種、ウイスキーボンボン、マドレーヌなどをつまんだり、執筆の合間に好物の豆かん食べに甘味処「梅むら」へ足を運んだりしていたそうです。
また、体を鍛えていた三島は鶏肉料理を積極的に食べており、三島事件前日も楯の会の隊員4人を連れて、新宿の鳥料理屋「末げん」に行き、「わのコース」という鳥鍋をメインとした鳥料理のコースを食べたという記録が残っています。
この日、末げんの女将が「またいらしてください」と声をかけると「また来いっていわれてもなあ…。でも、こんなきれいな女将がいるならあの世からでも来るかな」と答えたと言われており、三島由紀夫は「末げん」の鳥料理を最後の晩餐に選ぶほど好きだったと思われます。
ジミ・ヘンドリックス
■ジミ・ヘンドリックスとは?
ジミ・ヘンドリックスは、「ギターの神様」と呼ばれる1960年代に活躍したアメリカ出身のギタリストです。
天才的なテクニックと音楽的センスを持った人で、彼の作った楽曲や演奏技術によってロックの歴史が変わったとも言われています。
エフェクターを使ったギター演奏やアーミング奏法(アームを使って音を変化させる奏法)など今では当たり前に行われているギター奏法を初めて行ったり、歯でギターを弾いたり背中で弾いたりギターを燃やしたりといった奇抜なパフォーマンスを行ったりして、当時の音楽業界に多大な影響を与えました。
■最後の食事は恋人が作った「ツナサンド」
ジミ・ヘンドリックスに影響を受けた有名アーティストも数多くいて、現在でも偉大なギタリストとして多くの人たちの愛されています。
しかし、1970年に27歳の若さで突然死してしまい、活動期間はわずか4年間しかありませんでした。
死因は大量のワインと睡眠薬を飲んで寝た後、睡眠中に嘔吐物がのどに詰まったことによる窒息死とされています。
ジミ・ヘンドリックスが最後に食べたのは、一緒にいた恋人のモニカ・ダネマンが作ったツナのサンドイッチでした。
マリリン・モンロー
■マリリン・モンローとは?
マリリン・モンローは、1950年代から1960年代初頭にかけて映画やドラマなどで活躍したアメリカの女優です。
魅惑的な外見と確かな演技力で世界中から愛されていたマリリン・モンローでしたが、子どもの頃は孤児院や里親の元を転々としながら育った孤独な少女でした。
16歳の時に結婚しますが、偶然始めたモデルの仕事で注目を集めるようになり、20歳の時に離婚して女優への道を歩み始めます。
俳優養成所に入ったり沢山の本を読んだりして演技力を身に付けていったマリリン・モンローは、セクシーな女性の役を数多く演じ、ハリウッドを代表する女優にまで上り詰めます。
しかし、スキャンダルも多く、複数の男性との交際やデビュー後2度の結婚と離婚、薬物の乱用などでも注目を浴びました。
絶大な人気を得ていたマリリン・モンローでしたが、うつ病や不安神経症などの心の病にかかっており、36歳の時の1962年8月4日、ロサンゼルスの自宅で大量の睡眠薬を飲んで亡くなりました。
■最後の食事は「シャンパン」
生前のマリリン・モンローは、健康を維持するために毎朝「卵入りミルク」を飲んでいたそうです。
また、生のニンジンが好物で、普段の夕食時はスーパーで買ったステーキ肉やレバーなどをオーブンで焼いたものと一緒に4~5本も食べていたのだとか。
ちなみに、彼女が1954年に来日した際、福岡県にあったロイヤルホストの「オニオングラタンスープ」をとても気に入ったというエピソードが残っています。
そんなマリリン・モンローの最後の食事は、「詰め物のマッシュルーム、ミートボール、ドン・ペリニヨン(シャンパン)」だったといわれています。
エルヴィス・プレスリー
■エルヴィス・プレスリーとは?
エルヴィス・プレスリーは、「キング・オブ・ロックンロール」と称される1950年代半ばから1970年代にかけて活躍したアメリカの歌手です。
貧しい家庭に生まれ、黒人労働者が多く住む地域の教会でゴスペルなどの黒人音楽に慣れ親しんだプレスリーは、高校卒業後、母親に贈った歌のテープがきっかけで歌手デビューしました。
黒人音楽であるブルースやリズム&ブルースと白人音楽であるカントリー&ウエスタンを融合したとされる「ロカビリー・スタイル」の音楽で人気を得たプレスリーは、ロックンロールの原型となるロカビリーを作ったことでロックンロール創始者の1人となりますが、白人至上主義者からの強いバッシングを受けるようになります。
プレスリーはバッシングに屈することなく自身の音楽を演奏し続け、独自のパフォーマンスを行い、多くの若者たちの支持を得るようになっていきます。
その結果、世界中で6億万枚以上のレコードを売り上げ、「世界史上最も売れたソロアーティスト」の1人としても有名になりました。
■最後の食事は「アイスクリームとチョコレートクッキー」
プレスリーは、貧しい幼少期を過ごしたせいか、ドーナツやクッキーなど高カロリーなジャンクフードが大好きで、とくに彼の母親が時々作ってくれた「エルヴィスサンド」と呼ばれる「ピーナツバターとバナナとカリカリベーコンのホットサンドイッチ」が大好物で、よく食べていたそうです。
トップスターとなったプレスリーは過酷なスケジュールから体調を崩し、ストレスによる過食症や睡眠薬の過剰摂取によってさらに体調は悪化していきました。
そして1977年8月16日、自宅でいつものようにアイスクリーム4スクープとチョコレートクッキー6枚を食べたプレスリーは、トイレで心臓発作を起こして倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
ジュリア・チャイルド
■ジュリア・チャイルドとは?
ジュリア・チャイルドは、第二次世界大戦後のアメリカにフランス料理を伝えた「フレンチの母」と呼ばれる料理研究家です。
ジュリア・チャイルドは、1921年にカリフォルニアの裕福な家庭に生まれ、テニスやゴルフなどのスポーツを続けながら大学まで通いました。
大学を卒業後はニューヨークに移り住み、コピーライターとして働いていました。
裕福な家庭に育ったジュリア・チャイルドは、家に専属シェフがいたため、大人になるまで自分で料理をすることはありませんでした。
■フランス料理に多大な影響を与えた一人
そんな彼女が料理を勉強するようになったのは、夫のポールと出会ってからです。
ポールは食通で、ジュリアと付き合い始めてから彼女に料理の素晴らしさを伝えていきました。
ジュリアとポールは戦争中に結婚し、戦後ポールの仕事の関係でフランスのパリに移り住みます。
パリでの生活の中でフランス料理の素晴らしさを知ったジュリアは、フランスの名門料理学校に入学し、ここで出会った仲間たちとフランス料理の神髄を伝えるための料理本を作りはじめ、1961年にジュリアのアレンジが加えられたフランス料理本「マスタリング・ジ・アート・オブ・フレンチ・クッキング」が刊行されました。
彼女の作ったレシピは、分かりやすくアメリカ人にも親しみやすくアレンジされたもので、アメリカ全土で人気となり、料理界でも高い評価を得ました。
その後ジュリアは自身が司会を務める料理番組に出演し、アメリカでもっとも有名な料理人となります。
ジュリアの陽気で気さくなキャラクターで人気となった彼女の番組は10年間続き、アメリカの主婦たちに大きな影響を与えたといわれています。
■最後の食事は「オニオンスープ」
その後も料理の関する本の出版や料理番組の出演を続けたジュリアは、2004年8月13日に腎不全のため91歳で亡くなりました。
彼女が書いた最後の本「My Life in France」は「…今振り返れば、食卓と人生の喜びは無限であることを思い出す―toujours bon appetit!(いつだって、良い食事を!)」という言葉で締めくくられており、フランス料理を愛したジュリアが最後に食べたものは、「フレンチオニオンスープ」だったといわれています。
ソクラテス
■ソクラテスとは?
ソクラテスとは、紀元前5~4世紀にギリシャのアテナイで生きた西洋哲学の基礎を作ったとされる古代ギリシャの哲学者です。
ソクラテスは、自分が何も知らないことを自覚して他人に質問することで真理を探究していく「無知の知」を教え、この思想は弟子のプラトンが記録したことによって後世へと伝えられました。
紀元前431年~404年にギリシャの2大都市であるアテナイとスパルタの対立から起こったペロポネソス戦争に40歳ごろに3度に渡ってアテナイ軍に従軍したソクラテスでしたが、アテナイ軍が敗戦して新スパルタ派の30人が貴族や富裕層、異なる意見を持った者たちの財産を奪ったり粛清したりしてアテナイを支配した「三十人政権」の内の1人がソクラテスの弟子であったため、アテナイ市民から不信感を持たれるようになります。
そして、70歳の時に「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を崇め、若者を堕落させた」という罪で告発され、死刑の審判が下されてしまいます。
■最後の食事は「毒」
牢獄に捕らえられたソクラテスは、友人に逃亡を提案されますがそれを拒否し、自ら毒をのんで亡くなりました。
ソクラテスの妻は彼が哲学者であったことを知らず、裁判の日もソクラテスが帰ってくると信じて彼の好物を作って待っていたといわれています。
ソクラテスは菜食主義だったとされ(貧しくて肉が買えなかったという説も)、主に野菜を食べていたので、妻が作ったご馳走は野菜料理が並んでいたのでしょう。
また、ソクラテスは葡萄酒が大好きだったため、葡萄酒も用意されていたかもしれません。
しかし、そんな妻の作った食事を食べることなく、ソクラテスは獄中で弟子が見守る中、最後に毒ヘムロック(せり科植物の毒)の汁をお茶でも飲むように一気に飲み干したといわれています。
グレゴリー・ラスプーチン
■グレゴリー・ラスプーチンとは?
グレゴリー・ラスプーチンは、ロシアのロマノフ王朝末期にニコライ2世の皇后アレクサンドラの信頼を得て宮廷で権力をふるっていた修道僧です。
シベリアの貧しい農家に生まれたラスプーチンは、他の村人と同じように学校に通わなかったため読み書きすらできずに育ちましたが、結婚後に修行僧となります。
修行僧として巡礼の旅に出たラスプーチンは、旅先で病気に苦しむ人たちに祈祷をするようになり、人々の病気を不思議な力で人々の病気を治すと評判になっていきます。
ラスプーチンの噂は上流階級にまで広まり、ニコライ2世の皇后アレクサンドラが長男・アレクセイ皇太子が患っていた血友病の治療を依頼しました。
ラスプーチンがアレクセイの治療のために祈祷を捧げるとたちまちに症状が改善して、皇后アレクサンドラはラスプーチンに絶大な信頼を寄せるようになります。
ラスプーチンは宮廷で重用され、政治にも介入するようになり、ロシアの国政は混乱していきました。
■不死身と称される理由
そんなラスプーチンですが、貴族や政治家たちはラスプーチンを宮廷から排除しようとし、1916年12月16日の夜、ラスプーチンはついに暗殺されてしまったのです。
一説によるとラスプーチンは暗殺される際に毒や銃で殺されず、水に投げ込まれて死亡したという伝説もあるのだとか。
この伝説は現代でも彼の「不死身」エピソードとして知られています。
■最後の食事は「蜂蜜ケーキ」
修行僧時代のラスプーチンは、禁酒をして肉も食べないようにしていましたが、宮廷で重用されるようになってからは贅沢な食事を摂っていたとされ、とくに辛いものが好きだったといわれています。
そんなラスプーチンが最後に食べたものは、暗殺を実行するために招待したフェリックス・ユスーポフ侯爵の宮殿で出された「蜂蜜ケーキ、黒パン、ロシア式オードブル、ワイン」だったとされています。
最後の食事から垣間見える有名人たちの人生観
食事には、その人の人生観が表れるといわれています。
それは、歴史上の有名人たちにも言えることだと思います。
ダイアナ妃やマリリン・モンローは、美容や健康に気を使いながら美味しく食べられる食事、ガンジーは自分の考えに則った菜食主義の食事、ジュリア・チャイルドは自分が最も愛した食事など。
しかし、今回紹介した有名人たちは、前もって自分が亡くなることを知っていた人ばかりでなく、不幸にも突然命を失った人が多くいまいした。
それでも、彼らの最後に食べたものの多くは、いつも通りのその時の自分が食べたいものだったような気がします。
私たちも毎日大好物を食べるわけにはいきませんが、毎回の食事を美味しく食べて生きていきたいものですね。
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