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万里の長城といえば、世界でも桁違いのスケールの巨大建造物です。誰が何を考えてこんなすさまじい長さのものを建造したのでしょうか?本当に城として役に立ったのでしょうか?
この記事では、歴代王朝の思惑や建設の背景、そして現代まで続く歴史をひもときます。きっと、長城の物理的な大きさ以上に、込められた歴史や人々の思いの深さに圧倒されるはずです。
「万里の長城」とは、中国の北部にある世界遺産に登録された巨大な城壁で、英語では「Great Wall of China」と呼ばれます。
東は渤海に面した河北省から始まり、河北省や内モンゴル自治区を通って、西はシルクロードの要衝である甘粛省まで続いています。平均の高さは約7m、幅は約5~6mの城壁が、広大な中国の国土を文字通り横断しているのです。
万里の長城はいったいどれほどの長さがあるのでしょうか?
東端から西端まで、直線距離だとおよそ2,000kmです。この数字も十分に驚きですが、実際の万里の長城はそれをはるかに超える全長があり、世界でも類を見ない規模です。
万里の長城は一直線ではなく、起伏に富み、場所によって途切れたり、幾重にも並走したりしているのです。そのため、長さには諸説ありますが、2012年に中国政府が発表した数字によると、総延長は21,196.18kmとされます。
といっても、数字が大ききすぎて、どれほどの距離なのかイメージしづらいですね。東京から21,196.18km進むと、なんと南大西洋、つまり地球の裏側です!地球一周がおよそ40,000kmなので、万里の長城の長さは地球半周以上にも及ぶのです。
宗谷岬から与那国島までの距離は約2,900km。万里の長城の全長には、日本列島が7本もすっぽり収まってしまう計算になります。
この驚異的な長さの建造物は、人類がつくり上げた最大の建造物とされ、ギネス世界記録でも「最も長い人造構造物」として認定されています。
しかも現在も、中国各地からさらなる遺構が発見されており、長城の全容は未だに明らかではありません。少なくとも、過去には現存している長城よりもさらに長大だったと考えられています。
これほどの建造物を完成させるのには、どのくらいの期間がかかるのでしょうか?
実は、春秋時代の紀元前7世紀頃から明王朝の17世紀頃まで、なんと2,000年以上の歳月をかけて築かれたのです。その間には数々の王朝が勃興し、万里の長城はまさに中国の歴史そのものともいえる存在です。
1987年、ユネスコの世界文化遺産に初めて中国から複数の建造物が登録されました。このとき万里の長城も、人類史上最大の傑作の一つとして世界遺産に登録されたのです。これまでに登録された中国の世界遺産のなかでも、世界からの注目度において筆頭格といえるでしょう。
万里の長城は、何の目的で建造されたのでしょう?定説から新説まで、さまざまな説があります。
定説では、万里の長城は北方の異民族の侵攻を防ぐ目的で造られたとされます。古代中国は北方の匈奴(きょうど)という異民族に脅かされており、国境の砦として長城を建造したのです。その後、モンゴル高原の支配勢力は変遷しますが、中国にとって北方の騎馬民族は常に脅威の対象であり、長城の強化が続けられました。
一方で、万里の長城はところどころ途切れており、防衛機能は限定的だったとの指摘もあります。実際、中国は歴史のなかで、度々北方の民族の侵入をゆるし、支配を受けてきました。こうしたことから、万里の長城は物理的な障壁よりも境界を示す象徴的な役割が大きかったという意見も存在します。
皇帝の権力を示すために建造された、とする説も有力です。長城の建造には膨大な労働力が動員され、強大な権力によって初めて成し得た大事業でした。めまぐるしく王朝が入れ替わった中国の歴代皇帝は、威信を示す必要があったのでしょう。
近年では、一部の長城は街道沿いの監視所だったとの説も出ています。人や家畜の動きを把握し、交易への課税を効率化する目的があったのかもしれません。
万里の長城の歴史は、中国史そのものといえます。時代ごとにそれぞれの背景があり、長城が必要とされてきたのです。
万里の長城はよく「秦の始皇帝によって建造が始められた」と紹介されますが、実はもっと古い時代から壁の建造は始まっていました。
紀元前770年に始まった春秋時代とそれに続く戦国時代、中国にはいくつもの国が群雄割拠しました。これらの国々では、他国から自国を守るために城壁が築かれたのです。一説には、最古の城壁は紀元前650年頃、魯と斉の間に築かれたとされます。
紀元前221年、秦の始皇帝がついに中国全土を統一しました。
始皇帝は、北方からの外敵の侵入を防ぐために、すでに存在した各国の城壁を修復・拡大し、中国北部に連なる巨大な防壁を築いたのです。秦の時代には西は甘粛省から遼東半島まで長城が築かれ、すでに現存する領域の大部分をカバーしていました。
この工事には50万~100万人もの労働者が動員され、9年かけて完成させたと伝えられます。始皇帝の絶大な権力に加えて、もとからあった城壁を利用したことで、歴史からみれば短期間でこれほど壮大な大工事が達成されたのです。
なお、北の境界以外の城壁は、統一された中国のなかでやがて消滅していきました。
秦に続く漢の時代には長城はさらに延長され、西端は敦煌(とんこう)の玉門関(ぎょくもんかん)まで、東端は現在の北朝鮮の平壌近くまで達したとされます。
その後、金やモンゴルなど北の勢力の侵略を受けながらも、歴代王朝は長城の強化や修理を繰り返してきました。現在残る万里の長城の大部分は、14世紀から17世紀にかけて明の時代に建設されたものです。
長城の北から中国に侵入して王朝を築いた清の時代になると、長城は国境防衛線としての役割を終え、歴史と文化を象徴する存在へと変貌していったのです。
1957年、中国政府は八達嶺(はったつれい)エリアを中心とする万里の長城の一部を整備し、観光スポットとして公開しました。以後、観光整備エリアは徐々に拡大され続けています。世界遺産への登録や新・世界の七不思議への選出なども相次ぎ、世界からの注目度が衰える兆しはありません。
2017年には7,000万人の観光客が訪れ、世界で最も来場者が多い観光地に。2018年には八達嶺だけで1,000万人の観光客が訪問しました。2023年には大型連休中の訪問客数がコロナ禍前の1.2倍の勢いというデータもあります。
「中国と聞いて連想するもの」「中国で行くべき場所」といったランキングでは必ず上位に名前があがる、まさに中国の顔といえる重要な存在です。
世界の人々の関心を集め続ける万里の長城は、さまざまな伝説を生み出し、それがさらに魅力を高めています。いくつか興味深いものを紹介しましょう。
万里の長城には、「宇宙から見える唯一の建造物」という伝説があります。この話は世界の人々に強烈なインパクトを与えたことでしょう。中国では、教科書にもこの話が掲載されていたそうです。
ただし現在では、実際には宇宙から肉眼では見えないことが明らかになっています。それもそのはず、万里の長城は幅が約5m~6m程度。約38万km離れた月から見た場合、3km先の髪の毛を見分けるとの同様の大きさです。
この伝説は、1754年にウィリアム・ステュークリーというイギリス人考古学者が「万里の長城は月面から見ることができる」と手紙に書いたのが始まりとされます。
万里の長城は、2007年に新・世界の七不思議に選出されています。
世界の七不思議とは、古代ギリシャ時代以来語り継がれてきた、各地の驚嘆すべき建造物。しかし現代人が見ることのできる世界は、古代ギリシャ時代よりもはるかに広がっています。こうしたことから、現代版七不思議として選出されたのが新・世界の七不思議なのです。
なお、七不思議は各時代にも選出されており、大ピラミッドは古代から、万里の長城とローマのコロッセオは中世から七不思議の常連となっています。
ちなみに、日本では「不思議」という表現が定着していますが、もともとは「驚嘆の」とか「見ておくべき」といったニュアンスの言葉のようです。古代ギリシャ人も「一生に一度は見ておきたい7つの絶景」のような表現をしていたのかと思うと、妙に親近感が湧いてきますね!
「万里の長城」とは、なかなか詩的な表現ですね。この言葉の出どころは何でしょうか?
元ネタは、司馬遷(しばせん)が書いた文章とされます。司馬遷とは、紀元前2世紀~紀元前1世紀頃にかけて活躍した、前漢時代の歴史家。歴史書『史記』の著者として知られます。
彼はのちに万里の長城と呼ばれる城壁について、「臨洮を起点として遼東に至る。延袤万里」と書き、それが定着したのです。司馬遷の時代の1里は約400m。始皇帝の時代にはすでに長城は4000kmを超えていたとされ、「万里」という表現は正しいといえます。
孟姜女(もうきょうじょ)とは、中国人なら誰もが知る悲劇の主人公です。
秦の始皇帝の時代、新婚間もない孟姜女の夫は、万里の長城建造の労役で北方に駆り出されました。孟姜女は農作業をしながら冬着を作り、夫に渡すための旅にでます。しかし苦労の末たどりついた長城で、夫はすでに死んで長城に埋められたと知ります。
泣き崩れる孟姜女の前で城壁が崩れ、多くの人の骨が現われました。そして、孟姜女が指から流した血が、なぜか夫の骨にだけしみ込んでいったのです。孟姜女は夫の遺骨を集め、故郷で葬ったあと、夫の後を追ったとされます。
この話は中国の児童書や教科書では定番で、日本でいえば桃太郎クラスの国民的昔話です。孟姜女はものすごく大勢の人々の心に生き続けているのかもしれません。
中国には、「長城に至らずんば好漢にあらず」という名言があります。「志を貫いて大きな目標を達成しなければ、英雄ではない」という意味です。
1935年、歴史に残る大事業「長征」の最中だった毛沢東が、この言葉で詩を読んだエピソードが有名です。その後、毛沢東は自身の言葉通り長征を成し遂げ、中華人民共和国建国の礎を築いたのです。
現在、万里の長城の大部分は崩落の危機に瀕しています。整備が進んでいるごく一部以外は、風や砂塵で損傷が進むままになっているのです。
また、地元の人が建材を盗んだり、観光客が侵入したりといった人災も起きており、状態がよいのは全体の20%ほどとされます。こうした状況から、2006年に「万里の長城保護条例」が定められ、公開された場所以外は立ち入りが禁止になっています。
万里の長城をフルに体感できるとして人気のイベントがあります。その名も「万里の長城マラソン」!
起伏が激しく大きな段差もある万里の長城は、マラソンコースとしてはかなりの高難易度。しかし世界で最も有名な建造物を駆け抜け、その風景の一部になる感覚はほかでは味わえない爽快感です。
複数の団体が万里の長城マラソンを主催しており、なかでも「Great Wall of China Marathon」は日中友好のために始まったレース。毎年春と秋に開催され、全世界の参加者が集まります。設立の経緯から中国と日本に事務所があり、日本人スタッフが対応してくれるので、日本人も安心して参加できます。
万里の長城は、もちろん大人気の観光スポットです。基本的な情報や見どころを紹介しましょう。
万里の長城の観光スポットは広域に散らばっていますが、多くの場合、北京が拠点になります。日本から北京までは飛行機で3時間前後です。
特に多くの観光客が訪れるのが、北京郊外にある八達嶺(はったつれい)でしょう。北京市内から八達嶺駅までは、高速鉄道(30分前後)、S2トレイン(90分前後)、バス(90分前後)、タクシー(60分前後)など交通機関が充実しています。
北京近郊以外のスポットへは、北京から高速鉄道で最寄り駅まで移動するのが一般的です。
例えば、山海関(さんかいかん)に行く場合、北京から最寄りの山海関駅まで高速鉄道で2時間30分~3時間程度。山海関駅から山海関まではタクシーなら7分前後、徒歩なら30分前後です。北京から山海関までバス(5時間30分前後)も出ています。
万里の長城の西端にあたる嘉峪関(かよくかん)は、アクセスの拠点となる嘉峪関空港まで日本からの直行便はなく、北京や上海、西安などの大都市を経由して国内線でアクセスするのが一般的です。北京からの場合、嘉峪関空港まで国内線で3時間前後。本数は多くないので、乗り換え時間には注意しましょう。嘉峪関空港から嘉峪関まではタクシーやバスで30分~40分です。
万里の長城を観光するなら、ベストシーズンは、春(4月~5月)か秋(9月~11月)です。どちらも気候が快適で、春なら新緑、秋なら澄み渡った空気と紅葉に彩られた絶景を楽しめます。ちなみに夏は気温が37度以上、冬はなんと氷点下15度以下になることもあるので要注意です。
中国の大型連休である春節(1月下旬~2月中旬)や国慶節(10月初旬)、労働節(5月初旬)は、特に八達嶺などは非常に混雑するので注意が必要です。
万里の長城には数々な観光スポットがあります。そのうち、世界遺産に登録され、特に見どころとなっている3スポットを紹介しましょう。
万里の長城にある数ある名所のなかで最も有名なのが八達嶺(はったつれい)でしょう。北京から北西に約70kmの近場にあり、多くの観光客が訪れます。
明の時代の1505年に建造された、全長約3.7kmの長城です。緑の山を巨大な龍が走り抜けているかのような姿は、人々が万里の長城に抱くロマンそのもの!
観光ルートは2つあり、日本人の間ではそれぞれ「女坂」「男坂」という通称で知られます。
女坂は八達嶺の最高地点である北八楼(標高888m)に続いており、傾斜が緩やかなので、観光客はまず女坂を訪れるのが定番です。北八楼には麓からケーブルカーも通っており、頂上には売店などが並んで賑わっています。
男坂は急勾配ですが、ここから望む女坂の優美な姿と雄大な山々は圧巻です。
山海関(さんかいかん)は、1382年、明の洪武帝の時代に建造された城塞です。現存する万里の長城の最東端にあり、北は燕山、南は渤海に面していることからこの名が付きました。
東西南北の方向に門があり、城壁の上に堂々と楼がそびえる重厚感あふれる姿に圧倒されます。
最大の目玉スポットは、渤海に突き出た、老龍頭(ろうりゅうとう)と呼ばれる城壁。2万kmを超える長城の果てが海に向かう姿には、感慨を覚えずにはいられないでしょう。
近隣には万里の長城にゆかりのある孟姜女廟などもあり、ぜひあわせて観光したいところです。
嘉峪関(かよくかん)は、現在の万里の長城の最西端にある関所です。明の洪武帝の時代、1372年から建造が始まり、1540年に完成しました。11mの城壁で囲まれた城には多くの楼閣や門が残り、万里の長城でもかつての姿がよく保存された関所です。
万里の長城に数ある関所のうち、山海関、居庸関とこの嘉峪関は三大関とされ、特に山海関は「天下第一関」、嘉峪関は「天下第一雄関」と讃えられます。
砂塵舞うゴビ砂漠と雪をいただく祁連(きれん)山脈を望む、シルクロードのロマンにひたれるスポットです。
万里の長城は、単なる防壁にとどまらず、皇帝の威信の象徴や交易の場などさまざまな機能を果たしてきました。そしていまや、中国の深淵な歴史と文化、人々の夢を反映する存在になっています。
気が遠くなるほどの長い年月をかけて、万里の長城に結実した人々の思い――それを知ることで、訪れる意味も深まるはず。あなたも、歴史の重みにふれる旅に出かけてみませんか?
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万里の長城といえば、世界でも桁違いのスケールの巨大建造物です。
誰が何を考えてこんなすさまじい長さのものを建造したのでしょうか?本当に城として役に立ったのでしょうか?
この記事では、歴代王朝の思惑や建設の背景、そして現代まで続く歴史をひもときます。
きっと、長城の物理的な大きさ以上に、込められた歴史や人々の思いの深さに圧倒されるはずです。
目次
万里の長城とは?
「万里の長城」とは、中国の北部にある世界遺産に登録された巨大な城壁で、英語では「Great Wall of China」と呼ばれます。
東は渤海に面した河北省から始まり、河北省や内モンゴル自治区を通って、西はシルクロードの要衝である甘粛省まで続いています。
平均の高さは約7m、幅は約5~6mの城壁が、広大な中国の国土を文字通り横断しているのです。
想像を絶する長さ
万里の長城はいったいどれほどの長さがあるのでしょうか?
東端から西端まで、直線距離だとおよそ2,000kmです。
この数字も十分に驚きですが、実際の万里の長城はそれをはるかに超える全長があり、世界でも類を見ない規模です。
万里の長城は一直線ではなく、起伏に富み、場所によって途切れたり、幾重にも並走したりしているのです。
そのため、長さには諸説ありますが、2012年に中国政府が発表した数字によると、総延長は21,196.18kmとされます。
といっても、数字が大ききすぎて、どれほどの距離なのかイメージしづらいですね。
東京から21,196.18km進むと、なんと南大西洋、つまり地球の裏側です!
地球一周がおよそ40,000kmなので、万里の長城の長さは地球半周以上にも及ぶのです。
宗谷岬から与那国島までの距離は約2,900km。万里の長城の全長には、日本列島が7本もすっぽり収まってしまう計算になります。
この驚異的な長さの建造物は、人類がつくり上げた最大の建造物とされ、ギネス世界記録でも「最も長い人造構造物」として認定されています。
しかも現在も、中国各地からさらなる遺構が発見されており、長城の全容は未だに明らかではありません。
少なくとも、過去には現存している長城よりもさらに長大だったと考えられています。
時間的にも破格のスケール
これほどの建造物を完成させるのには、どのくらいの期間がかかるのでしょうか?
実は、春秋時代の紀元前7世紀頃から明王朝の17世紀頃まで、なんと2,000年以上の歳月をかけて築かれたのです。
その間には数々の王朝が勃興し、万里の長城はまさに中国の歴史そのものともいえる存在です。
1987年、ユネスコの世界文化遺産に初めて中国から複数の建造物が登録されました。
このとき万里の長城も、人類史上最大の傑作の一つとして世界遺産に登録されたのです。これまでに登録された中国の世界遺産のなかでも、世界からの注目度において筆頭格といえるでしょう。
万里の長城の建造目的をめぐるミステリー
万里の長城は、何の目的で建造されたのでしょう?
定説から新説まで、さまざまな説があります。
北方の異民族に対する防衛線説
定説では、万里の長城は北方の異民族の侵攻を防ぐ目的で造られたとされます。
古代中国は北方の匈奴(きょうど)という異民族に脅かされており、国境の砦として長城を建造したのです。
その後、モンゴル高原の支配勢力は変遷しますが、中国にとって北方の騎馬民族は常に脅威の対象であり、長城の強化が続けられました。
国境としての象徴説
一方で、万里の長城はところどころ途切れており、防衛機能は限定的だったとの指摘もあります。
実際、中国は歴史のなかで、度々北方の民族の侵入をゆるし、支配を受けてきました。
こうしたことから、万里の長城は物理的な障壁よりも境界を示す象徴的な役割が大きかったという意見も存在します。
権力の象徴説
皇帝の権力を示すために建造された、とする説も有力です。
長城の建造には膨大な労働力が動員され、強大な権力によって初めて成し得た大事業でした。
めまぐるしく王朝が入れ替わった中国の歴代皇帝は、威信を示す必要があったのでしょう。
国境の監視所説
近年では、一部の長城は街道沿いの監視所だったとの説も出ています。
人や家畜の動きを把握し、交易への課税を効率化する目的があったのかもしれません。
万里の長城の歴史
万里の長城の歴史は、中国史そのものといえます。
時代ごとにそれぞれの背景があり、長城が必要とされてきたのです。
黎明期の万里の長城
万里の長城はよく「秦の始皇帝によって建造が始められた」と紹介されますが、実はもっと古い時代から壁の建造は始まっていました。
紀元前770年に始まった春秋時代とそれに続く戦国時代、中国にはいくつもの国が群雄割拠しました。
これらの国々では、他国から自国を守るために城壁が築かれたのです。
一説には、最古の城壁は紀元前650年頃、魯と斉の間に築かれたとされます。
秦の始皇帝による長城建築
紀元前221年、秦の始皇帝がついに中国全土を統一しました。
始皇帝は、北方からの外敵の侵入を防ぐために、すでに存在した各国の城壁を修復・拡大し、中国北部に連なる巨大な防壁を築いたのです。
秦の時代には西は甘粛省から遼東半島まで長城が築かれ、すでに現存する領域の大部分をカバーしていました。
この工事には50万~100万人もの労働者が動員され、9年かけて完成させたと伝えられます。
始皇帝の絶大な権力に加えて、もとからあった城壁を利用したことで、歴史からみれば短期間でこれほど壮大な大工事が達成されたのです。
なお、北の境界以外の城壁は、統一された中国のなかでやがて消滅していきました。
歴代王朝が重視し続けた万里の長城
秦に続く漢の時代には長城はさらに延長され、西端は敦煌(とんこう)の玉門関(ぎょくもんかん)まで、東端は現在の北朝鮮の平壌近くまで達したとされます。
その後、金やモンゴルなど北の勢力の侵略を受けながらも、歴代王朝は長城の強化や修理を繰り返してきました。
現在残る万里の長城の大部分は、14世紀から17世紀にかけて明の時代に建設されたものです。
長城の北から中国に侵入して王朝を築いた清の時代になると、長城は国境防衛線としての役割を終え、歴史と文化を象徴する存在へと変貌していったのです。
現在の観光地としての万里の長城
1957年、中国政府は八達嶺(はったつれい)エリアを中心とする万里の長城の一部を整備し、観光スポットとして公開しました。以後、観光整備エリアは徐々に拡大され続けています。
世界遺産への登録や新・世界の七不思議への選出なども相次ぎ、世界からの注目度が衰える兆しはありません。
2017年には7,000万人の観光客が訪れ、世界で最も来場者が多い観光地に。
2018年には八達嶺だけで1,000万人の観光客が訪問しました。2023年には大型連休中の訪問客数がコロナ禍前の1.2倍の勢いというデータもあります。
「中国と聞いて連想するもの」「中国で行くべき場所」といったランキングでは必ず上位に名前があがる、まさに中国の顔といえる重要な存在です。
万里の長城の豆知識
世界の人々の関心を集め続ける万里の長城は、さまざまな伝説を生み出し、それがさらに魅力を高めています。
いくつか興味深いものを紹介しましょう。
万里の長城は宇宙から見える!?
万里の長城には、「宇宙から見える唯一の建造物」という伝説があります。
この話は世界の人々に強烈なインパクトを与えたことでしょう。中国では、教科書にもこの話が掲載されていたそうです。
ただし現在では、実際には宇宙から肉眼では見えないことが明らかになっています。
それもそのはず、万里の長城は幅が約5m~6m程度。約38万km離れた月から見た場合、3km先の髪の毛を見分けるとの同様の大きさです。
この伝説は、1754年にウィリアム・ステュークリーというイギリス人考古学者が「万里の長城は月面から見ることができる」と手紙に書いたのが始まりとされます。
新・世界七不思議の1つ
万里の長城は、2007年に新・世界の七不思議に選出されています。
世界の七不思議とは、古代ギリシャ時代以来語り継がれてきた、各地の驚嘆すべき建造物。
しかし現代人が見ることのできる世界は、古代ギリシャ時代よりもはるかに広がっています。こうしたことから、現代版七不思議として選出されたのが新・世界の七不思議なのです。
なお、七不思議は各時代にも選出されており、大ピラミッドは古代から、万里の長城とローマのコロッセオは中世から七不思議の常連となっています。
ちなみに、日本では「不思議」という表現が定着していますが、もともとは「驚嘆の」とか「見ておくべき」といったニュアンスの言葉のようです。
古代ギリシャ人も「一生に一度は見ておきたい7つの絶景」のような表現をしていたのかと思うと、妙に親近感が湧いてきますね!
「万里」の由来
「万里の長城」とは、なかなか詩的な表現ですね。この言葉の出どころは何でしょうか?
元ネタは、司馬遷(しばせん)が書いた文章とされます。
司馬遷とは、紀元前2世紀~紀元前1世紀頃にかけて活躍した、前漢時代の歴史家。
歴史書『史記』の著者として知られます。
彼はのちに万里の長城と呼ばれる城壁について、「臨洮を起点として遼東に至る。延袤万里」と書き、それが定着したのです。
司馬遷の時代の1里は約400m。始皇帝の時代にはすでに長城は4000kmを超えていたとされ、「万里」という表現は正しいといえます。
万里の長城を涙で崩した!?孟姜女伝説
孟姜女(もうきょうじょ)とは、中国人なら誰もが知る悲劇の主人公です。
秦の始皇帝の時代、新婚間もない孟姜女の夫は、万里の長城建造の労役で北方に駆り出されました。
孟姜女は農作業をしながら冬着を作り、夫に渡すための旅にでます。しかし苦労の末たどりついた長城で、夫はすでに死んで長城に埋められたと知ります。
泣き崩れる孟姜女の前で城壁が崩れ、多くの人の骨が現われました。
そして、孟姜女が指から流した血が、なぜか夫の骨にだけしみ込んでいったのです。
孟姜女は夫の遺骨を集め、故郷で葬ったあと、夫の後を追ったとされます。
この話は中国の児童書や教科書では定番で、日本でいえば桃太郎クラスの国民的昔話です。
孟姜女はものすごく大勢の人々の心に生き続けているのかもしれません。
万里の長城に行かなければ一人前じゃない?
中国には、「長城に至らずんば好漢にあらず」という名言があります。
「志を貫いて大きな目標を達成しなければ、英雄ではない」という意味です。
1935年、歴史に残る大事業「長征」の最中だった毛沢東が、この言葉で詩を読んだエピソードが有名です。
その後、毛沢東は自身の言葉通り長征を成し遂げ、中華人民共和国建国の礎を築いたのです。
2006年に「万里の長城保護条例」が制定
現在、万里の長城の大部分は崩落の危機に瀕しています。
整備が進んでいるごく一部以外は、風や砂塵で損傷が進むままになっているのです。
また、地元の人が建材を盗んだり、観光客が侵入したりといった人災も起きており、状態がよいのは全体の20%ほどとされます。
こうした状況から、2006年に「万里の長城保護条例」が定められ、公開された場所以外は立ち入りが禁止になっています。
万里の長城マラソン
万里の長城をフルに体感できるとして人気のイベントがあります。その名も「万里の長城マラソン」!
起伏が激しく大きな段差もある万里の長城は、マラソンコースとしてはかなりの高難易度。
しかし世界で最も有名な建造物を駆け抜け、その風景の一部になる感覚はほかでは味わえない爽快感です。
複数の団体が万里の長城マラソンを主催しており、なかでも「Great Wall of China Marathon」は日中友好のために始まったレース。
毎年春と秋に開催され、全世界の参加者が集まります。
設立の経緯から中国と日本に事務所があり、日本人スタッフが対応してくれるので、日本人も安心して参加できます。
万里の長城の観光情報
万里の長城は、もちろん大人気の観光スポットです。基本的な情報や見どころを紹介しましょう。
日本から万里の長城への行き方
万里の長城の観光スポットは広域に散らばっていますが、多くの場合、北京が拠点になります。
日本から北京までは飛行機で3時間前後です。
特に多くの観光客が訪れるのが、北京郊外にある八達嶺(はったつれい)でしょう。
北京市内から八達嶺駅までは、高速鉄道(30分前後)、S2トレイン(90分前後)、バス(90分前後)、タクシー(60分前後)など交通機関が充実しています。
北京近郊以外のスポットへは、北京から高速鉄道で最寄り駅まで移動するのが一般的です。
例えば、山海関(さんかいかん)に行く場合、北京から最寄りの山海関駅まで高速鉄道で2時間30分~3時間程度。
山海関駅から山海関まではタクシーなら7分前後、徒歩なら30分前後です。
北京から山海関までバス(5時間30分前後)も出ています。
万里の長城の西端にあたる嘉峪関(かよくかん)は、アクセスの拠点となる嘉峪関空港まで日本からの直行便はなく、北京や上海、西安などの大都市を経由して国内線でアクセスするのが一般的です。
北京からの場合、嘉峪関空港まで国内線で3時間前後。本数は多くないので、乗り換え時間には注意しましょう。
嘉峪関空港から嘉峪関まではタクシーやバスで30分~40分です。
観光のベストシーズンは?
万里の長城を観光するなら、ベストシーズンは、春(4月~5月)か秋(9月~11月)です。
どちらも気候が快適で、春なら新緑、秋なら澄み渡った空気と紅葉に彩られた絶景を楽しめます。
ちなみに夏は気温が37度以上、冬はなんと氷点下15度以下になることもあるので要注意です。
中国の大型連休である春節(1月下旬~2月中旬)や国慶節(10月初旬)、労働節(5月初旬)は、特に八達嶺などは非常に混雑するので注意が必要です。
万里の長城の見どころ
万里の長城には数々な観光スポットがあります。
そのうち、世界遺産に登録され、特に見どころとなっている3スポットを紹介しましょう。
八達嶺(はったつれい)
万里の長城にある数ある名所のなかで最も有名なのが八達嶺(はったつれい)でしょう。
北京から北西に約70kmの近場にあり、多くの観光客が訪れます。
明の時代の1505年に建造された、全長約3.7kmの長城です。
緑の山を巨大な龍が走り抜けているかのような姿は、人々が万里の長城に抱くロマンそのもの!
観光ルートは2つあり、日本人の間ではそれぞれ「女坂」「男坂」という通称で知られます。
女坂は八達嶺の最高地点である北八楼(標高888m)に続いており、傾斜が緩やかなので、観光客はまず女坂を訪れるのが定番です。
北八楼には麓からケーブルカーも通っており、頂上には売店などが並んで賑わっています。
男坂は急勾配ですが、ここから望む女坂の優美な姿と雄大な山々は圧巻です。
山海関(さんかいかん)
山海関(さんかいかん)は、1382年、明の洪武帝の時代に建造された城塞です。
現存する万里の長城の最東端にあり、北は燕山、南は渤海に面していることからこの名が付きました。
東西南北の方向に門があり、城壁の上に堂々と楼がそびえる重厚感あふれる姿に圧倒されます。
最大の目玉スポットは、渤海に突き出た、老龍頭(ろうりゅうとう)と呼ばれる城壁。
2万kmを超える長城の果てが海に向かう姿には、感慨を覚えずにはいられないでしょう。
近隣には万里の長城にゆかりのある孟姜女廟などもあり、ぜひあわせて観光したいところです。
嘉峪関(かよくかん)
嘉峪関(かよくかん)は、現在の万里の長城の最西端にある関所です。
明の洪武帝の時代、1372年から建造が始まり、1540年に完成しました。11mの城壁で囲まれた城には多くの楼閣や門が残り、万里の長城でもかつての姿がよく保存された関所です。
万里の長城に数ある関所のうち、山海関、居庸関とこの嘉峪関は三大関とされ、特に山海関は「天下第一関」、嘉峪関は「天下第一雄関」と讃えられます。
砂塵舞うゴビ砂漠と雪をいただく祁連(きれん)山脈を望む、シルクロードのロマンにひたれるスポットです。
歩いて感じる、2,000年の物語
万里の長城は、単なる防壁にとどまらず、皇帝の威信の象徴や交易の場などさまざまな機能を果たしてきました。
そしていまや、中国の深淵な歴史と文化、人々の夢を反映する存在になっています。
気が遠くなるほどの長い年月をかけて、万里の長城に結実した人々の思い――それを知ることで、訪れる意味も深まるはず。
あなたも、歴史の重みにふれる旅に出かけてみませんか?
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